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21世紀の今日においてはキリスト教を信じる欧米社会においても、聖書の中にある記述の多くはタトエであるとみなす考え方が定着しています。
キリスト教ではタトエのことをparableと言います。
聖書の中にあるイエス・キリストが行ったとされる様々な奇跡についての物語も、21世紀の今日では全てタトエであって文字通りに受け取るべきではないと考えることが普通になっています。
もちろん一部には例外がいて、聖書の記述をタトエではなく文字通りに受け取る人が今でも存在するそうですが、彼らはいわゆる原理主義者ということで一般社会では敬遠されているみたいです。
同じことは仏教でも言えることで、極楽浄土についての浄土真宗の親鸞上人の教えなども全てタトエで語ったものであって、21世紀の今日ではそのまま受け入れる類の話ではないのではないでしょうか。
しかし一方において、そもそも信仰をタトエで語ってよいのかという素朴な疑問も生じるわけです。
果たして初めからタトエばなしということで信仰が成り立つものでしょうか。

A 回答 (14件中11~14件)

誘導線だっつーの。



イワシの頭も信仰だっつーの。

都合よく我が内の世界に取り込もうという魂胆、なの。

幼子の道路に遊ぶ姿を見て、危ないからと「飴をあげるからこっちにおいで」と言ってるの。
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補助線だっつーの。

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この回答へのお礼

で、ぜんぶタトエだったらどーなるのっつーの。

お礼日時:2016/07/22 22:47

釈尊仏教は理的な世界と情的な世界を含んでいると思います。


観音経などは情的なもので、四諦八正道は理的なものと言えます。

そこえゆくと、キリスト教は情に訴える教え、という色合いが強いように思います。
理的な面がないとは言えないとは思いますが。

宗教発生の当時は情的社会であったので、喩えを用いることが有効だったのでしょう。
でも現代は、理的・知的な社会に成りました。

だからこうした疑問が生まれるのです。
正常な"人の道"の心の働きですね。

これからの信仰は理的であるという事が必須かと思います。

アルケーの法則にはその"出所ろ"が有る、と云うことに気づかなければなりません。
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この回答へのお礼

イエス・キリストとアルケーでは何が違うかってゆーと、アルケーはタトエばなしでもって逃げも隠れもいたしませんってこと。

お礼日時:2016/07/22 22:59

信仰における真理はロジックで表現できません。


よって、ロジック以外のもので表現せざるを得ず、
そのひとつの表現方法が寓話(parable)です。

仮に寓話であっても、
「何かを理解させるために、寓話で表現する」わけです。
その「何か」が信仰の真理に相当する部分です。

寓話そのものを伝えたいわけではありませんし、
寓話そのものが信仰対象でもありませんから、
特に問題はないと思いますがいかがでしょうか。
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この回答へのお礼

もしも信仰においてタトエで語ることが許されたならば、果たしてどこまでがタトエで語られていて、どこまでが真実なのか全く分からなくなるという問題が生じるのです。
もしかするとキリスト教においてはイエス・キリストという人物自体が既にタトエであって、そもそもそのような人物はもとより存在したものではないことになるかもしれないのです。
それでもキリスト教は信仰として成りたつのかという問題を問うています。

お礼日時:2016/07/22 19:50

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