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悪口とは何か?

何らかの理由で相手を憎んだ時に、その人の非を責める言葉である。
それを、私なりに以下のごとく分類してみます。

1 相手から何らかの理不尽なあるいは侮辱的な言動を受けた時に、反射的に
相手を責める言葉を発すること。
これを「喧嘩」と言い、悪口ではあるけれども許されるものとする。

2 相手の言動を、自分の価値観に照らし、著しく悪いと判断できたときに、「
それは間違っている」と指摘すること。人の価値観を否定することにもなるわ
けですから悪口といえると思いますが、「善意」の発露であるので、これも許
されるものとする。
善意での指摘は、相手に良い影響を与えることもあるでしょう。

3 自分の利益が損なわれるという理由から相手を憎み、なきものにしようとす
る意図から行われる、策略的な悪口。
あるいは、自身の自信のなさ、心の虚しさを紛らわせるために行われる悪口。即
ち現代的「いじめ」です。
これこそが、人を追い詰め、苦しめる、ある意味物理的なもの以上の「暴力」で
あると思います。

もちろん「3」が問題なのですが、これはやっている本人さえも、何らかの理由
をつけて、「だからこの人が悪いのだ」という意識でいるでしょうから、気が付
くことさえないし、法で裁くこともまず無理でしょうから、実に由々しき問題と
いえると思います。

さて、皆さんはどのようなものが本当の「悪口」だとお考えでしょうか?
そして、悪質な策略的で狡猾な悪口である「いじめ」に対処するにはどうしたらよ
いかとお考えでしょうか?

A 回答 (25件中1~10件)

起きている問題の当事者の一人です。

単純なことだと思います。

1.まず加害者たちへ思うこと。
・被害者が嫌がっている。それは事実である。
・加害者が何と言おうと、反証できないことである。
・その「事実」に基づいて、まず、嫌がらせはやめるべきだ。

・加害者が、嫌がらせをする正当性を縷々と述べたりしているのを見かけた。
・四の五の言っているが、要は「自分は◯◯◯の理由で正当な攻撃をしています」というものだ。
・あるいは、「自分は裏でこっそり言っているので自由にさせてください」というものだ。
・しかし甚だ身勝手な開き直りだ。
・まず加害者は「警察」ではない。それは出過ぎというものだ。問題があるなら、管理者に言うべきだ。
・次に裏でこっそりではなかった。個人の公開ブログで晒し者にした。これを「いじめ」と言う。

・哲学的に言って、この問題は規範的な悟性ではなく、実践理性の範疇だ。
・場に応じて、他人の痛みに配慮できる力も哲学的だと思う。
・「嫌な思いをさせてごめんなさい」以外に何を口にできるのか。

2.次に被害者へ思うこと。
・こういうおかしい連中は放っておくしかない。
・加害者たちの振る舞いを見れば、もうどちらが悪いのかが直に分かると思う。
・加害者も十分にもう自分たちの信用力を無くしたと思う。
・それで溜飲を下げ、被害者もしっかりして欲しい。

以上です。後は静観していようと思います。
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この回答へのお礼

ああ、サイコロさんですね。

少し接点があります。cyototuさんが「奴の理論は精緻だよ」と言っていたことを
思い出します。

いやあ、なんともはや明快な文章をお書きになる。加害者と被害者が決定されてい
るところが面白いですね。

お礼日時:2016/10/06 01:36

★★(№24お礼欄) ~~~~~~~~~


不用意に放った言葉が相手を傷つけてしまうことは良くあること
ですね。

しかし、「誤解」であることのほうが多いと思うのです。
~~~~~~~~~~~~~~
☆ よくぞ言ってくれました。


あと
★ 無私
☆ よりも 大私や高私がよいのではないかとも思います。

おのれを愛さずに どうして他人を愛せるかと。




やり取りをありがとうございました。
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この回答へのお礼

こちらこそ、ありがとうございました。

お礼日時:2016/10/09 21:33

言葉は時に刃になる


と祖父に教えてもらいました。
それか悪口なんではないかと。
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この回答へのお礼

不用意に放った言葉が相手を傷つけてしまうことは良くあることですね。

しかし、「誤解」であることのほうが多いと思うのです。

ですから、言う方も、また受ける方も、気を付けるべきかと思います。

お礼日時:2016/10/09 20:42

>ネコパンチを食らえ!おまえの母ちゃんで・べ・そっ



ニャンポコリンの「社会的に正しい態度」として認め、また、お教えに従います。
優しく優雅で感銘深い。清書して座右の銘とします。いや、フッターに使おう。

------------------------------------------------------★
ネコパンチを食らえ!おまえの母ちゃんで・べ・そっ powered by ニャンポコリン
---------------------------------------------------------------------★
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この回答へのお礼

お疲れ様でした。

お礼日時:2016/10/09 20:39

哲学は 希求を述べればよいというものではありません。



いかにじんるい共通ののぞみであり願いであるとしても
何も考えることなく感情にうったえるというだけでは

その悲願じたいが安っぽく見えるようになり
そのような無思慮のうったえを続けるとなると
そのバカさ加減を笑われるだけのこととなります。


哲学は 理性と心とにうったえます。
いかに非力とは言え われらが知恵のチカラの源泉となるところを
明るみに出して まづ思惟のあり方を分析し明らかにします。

《暴力》とは ひとの意志を無視し 人の心を踏みにじる人間の意
志行為です。

チカラで存在を否定するなら 存在もろとも意志も心も削除されて
しまいます。





この質問は 《悪口は 暴力であるか?》です。
悪口が 暴力となるのは どういう場合か? 

つまり 力づくで口封じをする場合は 論じるまでもないとすれば

相手の意志をあたかも合法的に――つまり 表現の自由を表面的に
は 保障しつつ それでも――何らかの圧力(クウキ)によってす
でに〔暗黙の内に〕用意されている結論へと誘導する。といった場
合。

――これも それに従わねば生活の糧を得る道が閉ざされるといっ
た圧力をともなって 意志を踏みにじる暴力でしょう。

〔初めに取り上げた《じんるいの悲願のうったえ》というのは こ
のようなクウキのうわさとしての普及に頼ろうとする巧妙な手をね
らったのかも分かりません。皮肉ですが〕。




相手の意志を踏みにじるには クウキを問題にするかぎりでは そ
こに何らかのゆるく広い意味でのチカラ関係(権限関係)がないと
なかなか有力とはなりません。

いかにおのれの無力や情けなさを噛みしめなければならなくなるよ
うな強力なパンチをもった悪口であったとしても――権力や権限の
関係がなければ―― せいぜい《負けて悔しい 花一匁》とうたっ
っておしまいとするのが落ちです。

欺かれるなら・騙されるなら・あやまつなら われあり。というホ
コリを保つのならば 勝ち負けにはこだわりません。

ですから 表現の自由は こういった一人ひとりの人間の・おのれ
がおのれであるその《固有の時》を保つという努力に根ざして 保
障されて行きます。

悪口が いつ・どのように暴力となるか? どうでしょう。
成るわけがないのです。


ヤケのやんぱちは 自分の負けをすらみとめたがらない幼児のクセ
であり 暴力論以前・表現の自由以前のもんだいです。

精神分析のムイシキ論は この原始心性〔の亡霊のごとき生き残り〕
に市民権をあたえたと言うのでしょうか。
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この回答へのお礼

哲学は、希求を述べれば良いというものではもちろんないと思います。
仰るように、人類の悲願をペラペラなものにしてしまってはなりません。

また、哲学は実践され証明されなければならないと思います。

人間の知恵は、良いものも悪いものもどんどん発達しているのでしょう。

ストレートな悪口は「ハラスメント」としてたちまち問題視されてしまう
ので、これをする人はあまりいないでしょう。

ですから、そう見えないように、何らかの理由をつけて、特定の相手を「少数派」
にし、自分は「多数派」に入り込み、相手の人間性を攻撃するという「狡猾な悪口」
が、社会のいたるところでなされていると私は見ています。人々は、「何らかの理由」
をつけられないように気をつけて生きているのです。嫌な世の中です。

また、「あるべき人間」像から見れば、取るに足らない「悪口」も、現代人の精神面
の脆弱さから(賛同していただけるかどうか)とんでもない暴力になりうるということを
考えなければならないでしょう。

お礼日時:2016/10/09 20:37

アメリカにもロシアにも言い分がある。

揉めるのは仕方が無かったのだろう

要は核を打ち合う前に 戦争をやめてシリアの人達を救うことだろう

ぶっ壊しといて救うもないものだが 少なくとも戦争が如何に人々を害してるかを

悟るべきだろう。(分かってやってるんだったら救いがないが)
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この回答へのお礼

少なくとも上層部はすべてわかってやっていると思う。

お礼日時:2016/10/07 22:02

>売り言葉に買い言葉だったといいたいのよ。



何も売ったつもりはないが、勝手に何を買ってしまったのか。

  >>どのようなものが本当の「悪口」だとお考えでしょうか?
   アホかお前は。
  >>悪質な策略的で狡猾な悪口である「いじめ」に対処するにはどうしたらよいか?
   猿と思え。

実に端的に回答している。ニャンポコリンの気分に合わなかっただけか。

ニャンポコリンとって「合わない人間」の存在は、ニャンポコリンの精神的バランスを崩すもの。
精神的障害を持った自我とは、大変に危険性を含んだもの。暴力に発展するか。

>それから、ネコパンチは痛くないから、脅迫にも暴力にもならんでしょ。

ニャンポコリンがくらわすパンチがリアルな猫のパンチである訳がなかろ。
ニャンポコリンと名乗っておけば、人にパンチをくらわしても暴力にはならんか。

それでもなお、ニャンポコリンは、「我儘」してでもニャンポコリンに合わせることが社会的には正しい態度である教えておられる。

意味深い名言だと思う。
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この回答へのお礼

ネコパンチを食らえ!

おまえの母ちゃんで・べ・そっ

お礼日時:2016/10/07 07:13

>好きじゃない~策略的に思う~。

だから、悪意ともいえない。

 自分が、好きじゃなくて、策略的に思えば、ウソをつくことに悪意はないんですね。
 なるほど。なるほど。

>あんまり理屈こねると、ネコパンチ食らわすわよ。

 そして、脅迫したり、暴力を振るっても悪意はないってことか。

この質問の答えとして、ニャンポコリンにとっては、悪口くらいは暴力じゃないだろ。
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この回答へのお礼

>自分が好きじゃなくて、策略的に思えば、ウソをつくことに悪意はない

そういう方程式があると言いたいのじゃないですよ。
つまり、売り言葉に買い言葉だったといいたいのよ。

それから、ネコパンチは痛くないから、脅迫にも暴力にもならんでしょ。

お礼日時:2016/10/06 22:11

再考しました。



★(№9お礼欄) ~~~~~~~~~~~~
( a ) 彼にとって「合わない人間」の存在は、彼の精神的バランスを崩
すものであると述べます。

( b ) このことは、他人には分からないことです。一般的には「我儘」
なのですが、

( c ) これは、彼に合わせることが社会的には正しい態度であると思い
ます。

( d ) 精神的障害を持った自我とは、大変に危険性を含んだものである
からです。
~~~~~~~~~~~~
☆ ( e ) この( d )なる命題は――素人ながら 推測するに―― 
必ずしも事実認識として妥当であるわけではない。全面的に・つねに た
だしいとは言えない。のではないか。

( f ) つまり社会的な《危険性》は いわゆる健常者におけるそれとど
れほど違うであろうか。――ただしこのことは 措いておきます。

( g ) ( c )のご見解は やはり専門的な基礎が問題になりますから
それが妥当であり得ると認めて 措いておきます。それとは別の筋で考え
てみるという意味です。

( h ) ( a )は 本人とは別に第三者から見て違った見方が成り立つ
のではないか?

( i ) 《「合わない人間」の存在は、彼の精神的バランスを崩す》と言
っているということは 《接した相手について人間が合わないと感じた》
場合には 《いやがる・嫌だと思う》ということが事実であるはずだ。

( j ) すなわち 《〈いやな人間に出会った〉と思うこと》を 本人は
《精神的バランスを崩す》という言葉で表現している。に過ぎないのでは
ないか?

( k ) もし《障害》が起きたとするのならそれは 《嫌だという感覚》
から来るモヤモヤや心の塞がりが高じて行くことにほかならず 精神が
《われはわれなり》という自己をなおまだかたちづくっていないところへ 
閉じこもるに到った。というに過ぎないのではないか?

( l ) 精神の障害なのではなく 精神がまだ形成されていず確立されて
いなかった。と言うに過ぎないのではないのか?



( m ) 精神ないし心が そうた易く傷ついてもらっては困るというも
のです。

( n ) 精神は 海であって 《傷や差し障り》というのは 表面に波
風が立つというかたちに譬えられる〔一時的・局所的に起きる〕心理的な
交通渋滞であるに過ぎぬ。

( o ) 本人が《精神的バランスを崩した》と言うのなら これだけの
事実認識と事情説明を まづおこなってやるべきです。

( p ) ★ ( b ) このことは、他人には分からないことです。
☆ が 推測してその結果を提出しても バチは当たらない。

( q ) すなわち:
★ 一般的には「我儘」なのですが、
☆ と言える側面があることは間違いないことでしょう。

( r ) しかも その《我がまま》というのは その中身が《心の上っ
面に起きる心理的なゆらめきや戸惑い》をすでに 《おのれの人格を否
定されたと言うまでに思いこんでパニくる》ところから出た自暴自棄で
ある。

( s ) 海のおもてに 確かに台風が発生したということなのかも知れ
ない。だけれども それは心なる海の問題としては ただのうわっつら
を掠める一時的・局所的なうごめきに過ぎない。

( t ) ならば 精神科医こそ 《さわぐな。心動かされるな。わたし
だ。波よ静まれ》という心の声を聞きなさいと言ってやるのが ふつう・
一般そして自然であるのではないか?


☆ にゃんぽこりんクンよ 不偏不党の道がなおあるのではないのか。
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この回答へのお礼

お礼が追いついていませんが。

(e)十人十色ですから、その通りでしょう。
仮に妥当性が10%だとしても、全員に対して配慮すべきでは?

(f)素人が関知することは構わないけれども、判断材料には決してしてはならないことです。

(h)もちろんです。

(i)そうでしょう。

(j/k/l)そう「かも」知れません。

(m)「困る」って、冷たくないですか?

(n)理論的にはそうであっても、実感として一大事である場合があるのが人間では?

(o)医者のやることです。

(p)バチはあたらないでしょう。

(q)yes

(r)そうだと思います。

(s)そうだろうと思います。

(t)それは精神科医に聞かないと分かりません。

この対応のし方、楽だわ~

不偏不党ってあまりしっくりこないですね。似たような言葉で「無私無偏」のほうが
好きです。

お礼日時:2016/10/07 21:58

★(№9お礼欄) ~~~~~~~~~~~~


彼にとって「合わない人間」の存在は、彼の精神的バランスを崩すものであると
述べます。
このことは、他人には分からないことです。一般的には「我儘」なのですが、こ
れは、彼に合わせることが社会的には正しい態度であると思います。
精神的障害を持った自我とは、大変に危険性を含んだものであるからです。
~~~~~~~~~~~~
☆ われわれは すべからく・しかるべき相手に対してしかるべき時には 出来
るだけ《精神科医》になるのがよいと。

そういう道もあるのでしょうか。

と同時に思われることは すべからく無条件に・たとえ相手が人間以前の状態に
あるとしても つねにわれらは人間である人間として 相手をも人間である人間
として接する。という行き方も おおいにまっとうな道としてあるのでは?

つまり:
★ 大変に危険性を含んだ
☆ 精神の状態というのは 当人がすすんで演じる瀬戸際外交なのだとお考えに
なりませんか? つまり そういう事実をしっかりとおしえてやるのが 少なく
とも哲学の手法であると。つまり ここは 哲学カテであると。
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この回答へのお礼

精神科医ではなくて「友人」になるべきでしょう。
「生兵法は大怪我の基」との言葉があるように、生半可な知識に頼るのは
よろしくないでしょうから。

>つねにわれらは人間である人間として、相手をも人間である人間として接するという行き方

自分も相手も「人間である人間」に相応しくないことが多いのが、現実ですから
それがあらわになった時にどうするかであると思います。相手を責めるのか、あるいは励ますのか?

>当人がすすんで演じる瀬戸際外交

人間が生きてゆくには、この瀬戸際外交が不可欠であると思います。それが、明らかに自分のみの
利益にとらわれ、社会に迷惑をかけると思われるのであれば、指摘してやればよいでしょう。

いずれにしても、責めれば、まず素直にハイとは言わず、責め返し、相手を恨み、自分を誤魔化し
うわべを飾り、自己矛盾の度合いを深めていってしまいがちなのが、残念ながら私も含めた人間の
傾向です。
ですから、人間、況や精神的疾病を持った人については「励ます」という接し方で行くということ
であれば、ご意見に賛同します。

お礼日時:2016/10/06 21:37

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