イエスは神の摂理を説きました。釈迦は宇宙の摂理を説いたと言えるでしょうか

カントやハイデッカーや科学哲学・・・

宇宙の摂理を説明した人はいるでしょうか? それもかなり言い当てた人はいるでしょうか?

教えて下さい どうかよろしく。

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A 回答 (13件中11~13件)

№2で 修正があります。




既述: (有神論か無神論)
修正: (有神論=無神論)
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この回答へのお礼

これは意外ですねえ。

お礼日時:2017/04/16 19:33

こんにちは。



かんたんですよ。

○ 《かみ》と《わたしたち》 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ワタシたち・・・・・・・・・・・・・カミーーーーーーーーーーー→ワタシたちの思わく
_______________________________________________________
経験存在・・・・・・・・・・・・・・非経験の場ーーーーーーーー→梵我一如を想定
経験事象・・・・・・・・・・・・・・超経験ーーーーーーーーーー→一切衆生悉有仏性を想定

相対・有限・可変性・・・・・・・・・絶対・無限・不可変性ーーー→われは 《無限‐有限》の構造的存在だ
可知(既知か未知)&不可知・・・・・非知ーーーーーーーーーーー→神は 霊。われは霊我として神を分有しているのだ

有るか無いか・・・・・・・・・・・・有無を超えているーーーーー→神は 絶対有ないし絶対無だ(有神論か無神論)
因果関係・・・・・・・・・・・・・・縁起を超えているーーーーー→神のごとく宇宙の法則を知りたい

善悪・・・・・・・・・・・・・・・・善悪の彼岸ーーーーーーーー→神は至高の善だ。慈愛だ
生死・・・・・・・・・・・・・・・・生死を超えているーーーーー→不老不死でいたい

偶然・必然・・・・・・・・・・・・・因果関係から自由ーーーーー→世界には摂理があるのだ

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



☆ 誰が説いたかですって? 世界のすべてが 神からのメールである

と想定されているので これを読みなさいと――わたしの場合――イエ

ス・キリストが言ったと聞いています。

ほかの人たちも おおむね同じようなことを言ったんではないでしょう
か。
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この回答へのお礼

Thank you

随分色々と研究されている様ですねえ。

世界の全て つまり現実に真理は働いていますね

その通りだと思います。しかし同じ世界を見ても人の思想はそれぞれですね。

勉強になります ありがとうございます。

お礼日時:2017/04/16 19:33

まだです。


そんなのがいれば、一生かけて追及したりしなかった。
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この回答へのお礼

Thank you

イエス・キリストでもお釈迦様でも足りないわけですね

私もそう思います。

宇宙の摂理を説く人がいてくれたら、僕は結婚して働いていました。

お礼日時:2017/04/16 19:25

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Aベストアンサー

その「ほら つかまえてみなさいよ おほほほ」と逃げ回る女神を「こいつー まてー あははは」とあなたは追いかけて、二人で追いかけっこをしているシーンを空想して にやにやして楽しんでいるわけですよね。


別にそれ 哲学じゃなく、娯楽だと思うんですけど。

ソープで金出して夢を買う人もいれば、妄想プレイを提供する風俗でお金を払って痴漢プレイをしようと、お金が無いから自宅でおかっけっこをすることを想像してニヤニヤしていようと、個人の趣味なので、どーでもいいと思う。


今回のことは ごくごく個人的な娯楽の話なわけですよね。
哲学ってのは、個人的な趣味の話は命題にしないんです。

誰もが共通する倫理とか人としての生き方とか、そういうのを命題にする。


「ここで痴漢プレイを空想して楽しんだ」とか、聖書を朗読しながら他の聖書を朗読している女性信者を頭の中で裸にして楽しんだ とかそんなことは、哲学じゃなくて娯楽のジャンル。

他の女性信者を視姦して、賛美歌の音色が高らかになるにつけ、エクスタシーを感じて思わずズボンの中に射精して、「聖書ってほんと快楽だよな」とすっきりした表情で教会を出ようと、それは個人的な自慰行為なわけで、その個人的な自慰行為を公開ネットで書いたところで、それは哲学じゃなくて 公開オナニー(自慰)


シンジが病院のベッドで生きる意志を失ったアスカの胸がはだけたのをみて、シコシコ シコシコと自慰した。
一方的にアスカをさけのつまみにして抜いたわけです。

普段 やりてー と思っているが、意識のあるアスカだとぶっとばされるので、身動きできず死んだようになっているアスカを犯したわけです。
死姦と一緒。
何も反応できず一方的にやりたい放題のことができるものとしか一方的にセックスできない。
生きている相手だと、不能になってしまう。

幼児しかレイプしない人もそう。
大人の文句が言える女性に対してはインポになるが、丸め込める幼児には性欲を感じるわけで。

よく アスカとかレイのなまめかしいポーズのフィギュアが売ってある。
すごいエロイポーズのフィギュア。

気持ち悪い と思う。
普通の女性は相手できず、物言わぬ一方的にできるフィギュアにエロいポーズをさせて、支配したかのようになる。
しかもフィギュアがそういうポーズを望んでいたかのようにして、自分がエロいからじゃあないと自分の猥褻さを無視できるとでも思わせるようなもの。


シンジがアスカの首を絞めたとき、アスカが首を絞めるシンジの頬を優しくなでるシーンがあった。
そのあと、アスカが言う  「 気持ち悪い 」

どんなことをしても許してもらえるんだと妄想する男を見て、気持ち悪さを感じない女性がいるだろうか。

自慰なわけで、その一方的な自慰をやっている男をみて「気持ち悪い」と思わない女性がいるだろうか。

で、私とあなたとでここで会話しているが、多くの人は参加できないのは 「気持ち悪い」という感情から、遠巻きにたって近づけないのではないかと。

私はクリミナル・マインドとか大好きで見ているので、気持ち悪さも結構許容しているというか、誰もが気持ち悪いと思うのを恍惚をもってやる犯人のクリミナルマインドに興味があるので、見つめてしまうというか。

なんせ自分はサイコさんだと自負しているので、結局のところサイコさんに見つめられる程度のワールドでしかないと思う。

というわけで、サイコさんが集まるサイトだと、みんな向き合って語るのではなく、礼拝のように一方をみんなが見つめながら、自慰するというワールドを構築できると思う。

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自己満足のオナニーワールド。
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だから、あなたの妄想は ごくごくありふれた妄想であって、特別なものじゃあないと思うよ。
残念 普通の人でした。

その「ほら つかまえてみなさいよ おほほほ」と逃げ回る女神を「こいつー まてー あははは」とあなたは追いかけて、二人で追いかけっこをしているシーンを空想して にやにやして楽しんでいるわけですよね。


別にそれ 哲学じゃなく、娯楽だと思うんですけど。

ソープで金出して夢を買う人もいれば、妄想プレイを提供する風俗でお金を払って痴漢プレイをしようと、お金が無いから自宅でおかっけっこをすることを想像してニヤニヤしていようと、個人の趣味なので、どーでもいいと思う。


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>私たちの主観は対象の「量」「質」「様態」「関係」さらに「時間」と言った、種類の違う概念を総合して一つの概念(価値)の量的評価を行う能力を持っていると考えますが、この能力は、全て、経験から得るものでしょうか?

という部分がよくわかりません。
まず、「価値」というのは「関係」の概念ですよね。
Aに価値がある、というのは、絶対的な概念としてはありえません。
つねにBにとって、あるいは、Cに対して、という、関係としての概念として立ち現れてくるもの、と考えることができると思います。
となると、こうしたことは経験的認識の範疇である、と考えられるのではないでしょうか。
カントの扱う「先天的総合判断」の範疇にはないような気がします。

それに対して前半の「量」「質」「関係」「様相」というのは、「カテゴリー」のことを、「時間」(そして「空間」)は、人間の感性に与えられた「直観」のことを言っておられるのだと思いますが、こうしたことによって下される判断、というのは、先天的総合判断と呼ばれるものです。
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いまひとつ質問者さんがどういった意味で価値、あるいは比較考量ということばを使っておられるのか、おそらく経済学との関係があるのではないか、と想像するのですが、私にはわかりません。
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カントは、経験論者ヒュームのあとを受けて、あらゆる認識は経験と共に始まる、とします。
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経験したことのないことがらについて、判断できるのはなぜか。
あるいはまた数学の命題、たとえば「直線は2点間の最短距離である」が真である、といえるのはなぜか。
それは、私たちのうちに先天的な認識形式が存在するからだ。

それでは、なぜこの認識形式が客観性を持っている、といえるのでしょうか。
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対象というものは、私たちから独立した存在ではない。
対象は、私たちの主観の先天的形式が構成したものである。

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私たちが「対象」として認識できるのは、私たちの主観が、そのものを対象として取り上げ、意識の俎上にのぼらせているからだ、と。

私たちの認識は感性によって、対象の直観が与えられる。
それを悟性が思惟することによって、認識が成り立つ、とカントは考えます。
こうした判断は「先天的総合判断」であって、単に「わたし」のみが主観的に下した判断ではなく、普遍的・必然的な判断であり、あらゆる学問の基礎となるべきものである。
と、これがカントのいう「先天的総合判断」です。

>例の難解な「形式」は、経験に関わらずに普遍的に全ての人間が持っているものでしょうか?
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ただ、今日から考えると、煩雑でいささか無理のある先験的判断のプロセスを理解する必要はないと思います。
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ご質問はこの間から気になっていました。

>私たちの主観は対象の「量」「質」「様態」「関係」さらに「時間」と言った、種類の違う概念を総合して一つの概念(価値)の量的評価を行う能力を持っていると考えますが、この能力は、全て、経験から得るものでしょうか?

という部分がよくわかりません。
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Aベストアンサー

支離滅裂な文章は、観念の純化に取り組む過程である。

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哲学を学ぶということは、人文科学の諸分野を支える根幹的な思想を学ぶということに等しいですか?
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もう一つだけ追加でお願いします。自然科学において真理の扉を開けるということは、その当該分野のフロンティアをまた一つ新しく開拓したと言えると思うのですが、哲学におけるそれは何をもってそれ(学問分野のフロンティアを開拓するという事象)を定義付けるのでしょうか?また、フロンティアの開拓ということ自体、哲学の学問分野にとってはさほど重要度は高くないものですか?

よろしくお願いします・

Aベストアンサー

時間があるので脱線しないように 真面目に答えてみようと思います。

まず前提として
日本では学ぶということが真剣に語られていません。

「真面目に学ぶ」が強調されすぎ、それ以外が 疎かになっています。

非効率的学習プロセスが主流になっているということです。

今 定年になろうとしている人たちは
 
勉強しなければいけなかった総量=絶対量が 圧倒的に少なかった。

日常的にそのことついては 自覚がありますが 

いざ他人の評価となると 
勉強をしなくても基本ができればいいのだとか 
いい大学を出たのはいいやつだ とかと
いうことをいいだし

 「いい加減=適正ということは=俺に従うことである」 を 基準として持ち出してきます。 

学の基準が その担当者の主観のみに左右されるということです。

つまり 質問者様の述べる 根拠 が 老人中心の身勝手な根拠 と なっていることに 問題があるのです。

本題に入ります。

科学の諸分野を支えているのは ひとです。

2000年に入ってからこの方、序文に掲げた理由で、著しく信頼関係という大事なものが破壊され続けています。

しかしそのすきを見て蔓延している害毒があります。 

『科学の諸分野の根幹をなしているのは思想であり、 
根幹的思想とは 「哲学的経済学である」 という 迷信』です。

まさに はびこっています。

たとえば 日本の哲学は 哲学学である と えらそうに いうひとがいますが、 

その根幹をなす思想は、 (学)は経済学が根幹でありその根幹は 哲学であり 
その根幹が わたくし である 

という 刹那的・唯物論的 部分意識です。匿名キリスト教の「論理的・間接的」布教です。

究極的には 学問は俺よりバカである 俺のほうが偉いという理論です。

唯一絶対の神のまえでは どんぐりの背比べである みんな馬鹿だ
という 傲慢です。

底に横たわっているのは キリスト教的 物質論=燃料資源 と 言語論理=ivGotです。

あたまのわるいおれさまも iGotをおさえていれば 基本をおさえている
どうだ!
もってるか? という のが 

基本として ひつようとされる 行動だ というわけです。

つまり 数学・哲学の素養がない人間の それでも俺様は偉い といいたいがための 言い逃れが

「(アカウントの)所有」である

という現状です。

(布教が失敗した例として セカンドライフ を あげると 
日本人はそこまで馬鹿ではなかった ということもできましょうが・・・)

つまり 簡単に表現するとすれば、

所属と思想 という 中世的思考が 今の世の中では 所有と偶像崇拝 に とってかわられたのです。

書面としては ドグマが 神学から 情報科学 へと移りました。

そういう意味で 質問者様が感じ取った 他人を弾圧し、加害者側となって阻害されないための教義
そして
その根本はどこにあるか という 点では 的を射ているということができるでしょう。

しかし その数学は 情報科学としての 数学 であり

哲学も 情報科学としての 哲学です。

中世では 1教会 2キリスト教 3聖書(神学) であったものが
形を変えて 存在し続け
現状としては
1 SNS 2 端末教 3 WIKIぺ
(情報科学 別しては自然=数学/人文=哲学/社会=経済学) に 変化しました。

新たな真理とは いまでいうと
表現的焼き直しです。

馬が車に 書物がデータに 変わった というだけの 言語的・論理的修正です。

忘れてはならないこととしては
支えているのが「底辺」であり、
上記IT三学
(情報工学としての数学・
ネットオントロジーとしての哲学・
社畜管理のための経営学)を修めているのは

WASPシンパの指導者たちです。

なにも支えてはいません。

「B層には なるな」ということだけが最低限の教訓として存在します。

時間があるので脱線しないように 真面目に答えてみようと思います。

まず前提として
日本では学ぶということが真剣に語られていません。

「真面目に学ぶ」が強調されすぎ、それ以外が 疎かになっています。

非効率的学習プロセスが主流になっているということです。

今 定年になろうとしている人たちは
 
勉強しなければいけなかった総量=絶対量が 圧倒的に少なかった。

日常的にそのことついては 自覚がありますが 

いざ他人の評価となると 
勉強をしなくても基本ができればいいのだとか 
いい大...続きを読む


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