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◆ (御義口伝巻下) ~~~~~~~~~~~~~~~
  http://www.sokanet.jp/kaiin/gosho_search/page.ph …

日蓮所立自寿量品至開結二経

寿量品廿七箇の大事

第一 南無妙法蓮華経如来寿量品第十六の事

文句の九に云く

如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号なり
別しては本地三仏の別号なり、

寿量とは詮量なり、
十方三世・二仏・三仏の諸仏の功徳を詮量す
故に寿量品と云うと。



御義口伝に云く

此の品の題目は日蓮が身に当る大事なり 神力品の付属是なり、

如来とは釈尊・惣じては十方三世の諸仏なり
別しては本地無作の三身なり、

今日蓮等の類いの意は 惣じては如来とは一切衆生なり
別しては日蓮の弟子檀那なり、

されば無作の三身とは 末法の法華経の行者なり 

無作の三身の宝号を 南無妙法蓮華経と云うなり、

寿量品の事の三大事とは是なり、

六即の配立の時は 此の品の如来は 理即の凡夫なり
頭に南無妙法蓮華経を頂戴し奉る時 名字即なり、

其の故は 始めて聞く所の題目なるが故なり
聞き奉りて修行するは 観行即なり

此の観行即とは 事の一念三千の本尊を観ずるなり、

さて惑障を伏するを 相似即と云うなり
化他に出づるを 分真即と云うなり
無作の三身の仏なりと究竟したるを 究竟即の仏とは云うなり、

惣じて伏惑を以て 寿量品の極とせず 
唯凡夫の当体本有の儘を 此の品の極理と心得可きなり、

無作の三身の所作は何物ぞと云う時 南無妙法蓮華経なり云云。



第二如来秘密神通之力の事
  
御義口伝に云く

無作三身の依文なり、
此の文に於て重重の相伝之有り、
神通之力とは 我等衆生の作作発発と振舞う[・・・]
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


☆ (1) つまりは 本地無作(もしくは本有無作)の法報応の三身なる
存在がいると言う。日蓮のことらしい。

◆ ~~~~~~~~~~~~
無作の三身とは 末法の法華経の行者なり 

無作の三身の宝号を 南無妙法蓮華経と云うなり、
~~~~~~~~~~~~~~~

☆ (2) それにしても なんで日本語で表わさないのでしょう?

 
(3) そしてこの質問では前提としてすでに《南無妙法蓮華経》を 法身
のブッダとして 《真理にひとしい・真実の神》と名づけています。
 
つまり そのダルマの場ないしチカラを言うときに 神と呼んで捉えたほう
が うんと早いし 分かりやすいと考えます。

ブラフマニズムにおける梵我一如を ゴータマ・ブッダは 無梵無我一如と
して踏襲していると考えられるからです。

梵つまりブラフマン神を《無梵すなわち無い神》として捉え返したのであっ
て この神が普遍神のことであり それは《ダルマ(法身のブッダ)》のこ
とであり 普遍神を《有る神か無い神か》のいづれかに 互いに等しいかた
ちにおいて 言い換えたに過ぎないからです。いかに?

 

(4) すなわち本地が無作――つまり 自然法爾(じねんほうに)――で
あるゆえに 朽ちることのない真理としての神であると。
 
 
(5) そしてこれを《南無妙法蓮華経》とも ここでは 言いかえている
のですが 問題は:

◆ 無作の三身とは 末法の法華経の行者なり 
☆ というふうに日蓮その人を当てていることにあります。

確かに存在を生身の身につくっているからには 応身のブッダだとも見られ
うるでしょうが それにしても問題は 日蓮というひとりの人間が この法
身のブッダであり 真理であり神である。と言ったことになります。

ここだと考えられます 問題は。

つまり 一切衆生 悉有仏性として 無作の三身は――正法・像法・末法の
時代区分に関係なく―― 一人ひとりの人間であるはず。
◆ 惣じては如来とは一切衆生なり





(6) おそらく かんたんに済まそうとするなら ブッダと神とは違うと
言えばよいかに見えます。

だったら けっきょく《ブッダ》とは何か? の問いに哲学として答えなけ
ればならないでしょうね。

(7) 人間のことか? なら 法身のブッダに人間はなれない。

人間のことではないか? なら それ(ブッダ)は法身として真理であり神
であると定義して使ってもよいはず。

だけれども 人間である日蓮が この法身であり真理であり神であるブッダ
であるというのは くるしい。のではないでしょうか。

■ 無作の三身とは、久遠元初自受用身の“仏”を指す。
☆ ということだと聞きますが。
ずばり:

○ 日蓮は 法身のブッダであり 神ですか?



(8) すなわち 法身の――また本地無作の法報応の三身としての――ブ
ッダであるとすれば:

○ 理即や名字即から究竟即までの段階など関係なく
――あるいはまた 無明と明知との区分などはいっさい関係なく―― 
初めから 神としてのブッダである。

となります。そうなのですか?

  
(9) 神としてのブッダと人間とのあいだには もはやいかなる中間の存在
もいないはずです。(たとえば天使は 仮りの物語です。ボディサトワは 人
間です。時には 霊です)。

もし 人間であると同時に法身であり神としてのブッダでもあるとすれば そ
ういう想定は 人間イエスが神なるキリストであるという場合です。

もしそういう想定に踏み込もうということでしたら それ相応の――物語の中
の想定としてながら――理論としての整理をしておかねばならないでしょう。

(10) このように考えるなら 法身のブッダなる日蓮という命題は やは
りくるしい。のではないでしょうか?

もし《久遠元初自受用身の“仏”》として法身仏であり神であると想定している
のなら それは 普遍神の呼び換えであって ただひとりのみがそうであると
いう理屈は 哲学としてあり得ない。のではないでしょうか?

質問者からの補足コメント

  • 問題は何か?

    それを分かりやすいようにまとめて書いてくれ。

    いつまでも あいまいな言葉を並べ続けるのではなく。

    No.12の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/04/22 15:59
  • ☆☆(№13お礼欄) ~~~
    わたしの考えではありますが 哲学としては ブラフマン神やアミター
    バ・ブッダやヤハヱーと名づけた神らについてそれぞれは 《「自受用
    身」「南無妙法蓮華経」という「絶対」》がそうであるように みな普
    遍神であると捉えています。

    そう見ますか? という問いです。
    ~~~
    ☆ この問いへの答えで こちらは煙に巻かれてしまったようです。

    ★ 自分の考えに合わないから、はねつけて「哲学的に問題がある」な
    んて言ってたら対話が進まないじゃないですか。
    ☆ と。《はねつけて》いませんよ。《そう見ますか?》と尋ねている
    のです。

    要するに同じ普遍神でありその名前が違うだけだという見方を同じくし
    ますか? しないとすれば・そして《普遍法・普遍仏》ではあると言う
    のならば どこで話が合わないのか 分からなくなります。

    法や仏の普遍性と神の普遍性とは 異なるのですか?

    No.14の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/04/23 08:13

A 回答 (23件中11~20件)

なんだか、全然通じていないようですね。


まあ、私が初級者であるということもあるのかも知れませんが。

もう一度端的に言いますね、私の理解しているところを。

日蓮仏法では、はじめに「自受用身」「南無妙法蓮華経」という「絶対」を立てます。
そして、「五重の相対」などで他の「宗教・哲学」と相対させます。
仮にこの世に10の宗教・哲学があったとして、すべて相対させ日蓮仏法が極説であると
いう結論になったとしても、主観的には「絶対」であったとしても、論理的にはあくま
で「相対」なのです。
他のどんな宗教・哲学が新たに生まれてくるか分からないからです。

我々凡夫は「相対」の中で生きています。だから「絶対」をおそらく永久に分からない
と思います。ですから、我々凡夫は「仏」を完全に理解することはできない。相対的な
理解にとどまるであろうということです。

だから、信ずる以外になく、信ずることを重要視しているのです。


これで、少しは分かっていただけるでしょうか?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

いやいや。視点なり切り口なりを 別のかたちにして述べていますが
話はしっかりと絡まっていますよ。

★ 日蓮仏法では、はじめに「自受用身」「南無妙法蓮華経」という
「絶対」を立てます。
☆ ここが すべてなんです。いまのやり取りとしては。

《絶対》は 次の図式で《神》のことです。


  神          神          神
  |          |          |     タテ
 (非思考)      (非思考)      (非思考): の   :(信仰)
  |          |          |     関係
  |          |          |
 われー(思考・感覚)ーなんぢー(思考・感覚)ーかれ : ヨコの関係:(オシヘなど)

☆ そして この《神》が 何か都合のわるいことがない限り 普遍神
であって あとはこれを何と呼ぼうが それとして成り立ちます。信教・
良心の自由ゆえです。

また 信仰は 図における《タテの関係》ですから ほかの人びとやそ
の思想とは 直接のカカハリを持ちません。

そして:
★ 「五重の相対」などで他の「宗教・哲学」と相対させます。
☆ という作業は あくまで《われ‐なんぢ‐かれ》といったヨコの関係
の問題です。

それゆえにも:
★ 我々凡夫は「相対」の中で生きています。
☆ というのは 当然のことであり それは 基本的には取り扱ってい
ないのです。

相対の世界において 優劣を決めるのは自由ですが 普遍神の問題――
基本的にすべての信仰の神は 普遍神であること――にとっては いま
は どうでもよいことなんです。

わたしの考えではありますが 哲学としては ブラフマン神やアミター
バ・ブッダやヤハヱーと名づけた神らについてそれぞれは 《「自受用
身」「南無妙法蓮華経」という「絶対」》がそうであるように みな普
遍神であると捉えています。

そう見ますか? という問いです。

オシヘの相互批判は いま 関係ありません。タテの関係という領域で
の問題のみを扱っています。

お礼日時:2017/04/22 23:15

ぐたぐた


騙す❗嘘をつき
逃げるものがいまさら
くどい
人を利用する❗くだらん
人間
サイトばかりに頼り
それが人を利用する❗
自己満属ばかり
負け犬が
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

負け組かもしれないが 負け犬ではないなあ。


しかし はっきりしたことを伝えなさい。

お礼日時:2017/04/22 13:35

「普遍神」という概念は西洋哲学のものですよね。


仏教哲学にはないものです。その点に食い違いがあるのかも知れません。

「普遍的真理」という言葉を使ったほうが食い違いが少なくて済みそうに思います。
仏教哲学では「法」と説いているからです。

この宇宙は「普遍的真理」といえる「法」そのものであるということです。
その「法」が「南無妙法蓮華経」であり、日蓮であるということです。
「普遍神」という概念はないんです。
ですから、一般の神論には当てはまらないということだと思います。

「法」が日蓮であるとはどういうことか?
これは正直私もよく理解できていません。
「色心不二」という原理をご存知でしょうか?
肉体と心は独立したものではなく本質的には一体不二のものであるという原理のことです。
十如是に訳せば、「相」「性」は「体」として一体のものである、となります。
一往は理解しているつもりですが、再往の深い理解はどうもあやしい。
これが理解できれば、腑に落ちてくると思います。


>パラレル・ワールドのごとくに 一方の世界にブラフマンや
らヤハヱーやらアミターバなるブッダやらから成る普遍神のグループが
あって 他方にそれとは別に 南無妙法蓮華経なる本仏としての普遍神
がある・・・というようなことは――普遍神と言うからには――論理的
に無理だと思います。

キリスト教の神も、バラモン教の神も、阿弥陀如来も、大日如来も、間違った哲学による
間違った生命観が作り上げたものなので、真理を正しく表現していない、だから、これら
を信じても「ご利益」はない。(それぞれの根拠はここでは省略しますが)

こういうことなのですが…
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

つまり 南無妙法蓮華経なるダルマだけが 絶対の真理である。
――こういうことのようです。

イスラームもそうですね。その原理主義派がそうであるだけではなく
ふつうの穏健派も アッラーフのみが 絶対の神であると思っているよ
うです。

自己が相対的な経験世界の中に《イリ(入り)》していない。まだ入り
していない。状態なのだと思います。





つまり こういうことです。《われ》にとって わが神あるいはブッダ
は 絶対唯一の神だ・真理だ・ダルマだと 一般に信仰にあっては思っ
ている。

と同時に その《われ》は 誰もに当てはまる。つまり 神観やブッダ
観やダルマ観は それぞれに絶対性を持っている。ならば 互いに同等
である。

こういうふうに絶対性が 互いに相対性のもとにあると見る。これが 
哲学の立ち場です。



そして じつは 信仰にとっても 《再応》は 哲学と同じ見方になり
ます。というのは どの神・どのブッダの信仰も その対象は 絶対で
あるなら 普遍のものだとなり 実際人はそう思うのが普通だからです。

誰にとっても例外なく信じるべき対象であると思う。絶対性は 普遍性
である。つまり 普遍神であり 普遍仏であり 普遍法であるとなりま
す。

つまり この普遍性が 人類共通の信じるべき対象である。

その普遍神(普遍仏・普遍法)が 具体的に人によってそれぞれの名前
をつけられている。こうなわけです。また それだけなわけです。


まさか この普遍性は 自分たちだけの普遍性であり 自分たちの信奉
する普遍法だけが その普遍性を持つとは思っていないでしょうね?

自分たちのでないほかの名前をつけている場合には 普遍性には当ては
まらないと思っているのではないでしょうね?





《五重の相対》は あくまでオシヘです。因果論等にちなんでオシヘの
内容を判断したものです。思考の問題です。

もしこの判断を最高のものだと言うのならば 人智を超えている普遍法
よりも 人間の思考としての判断を優先させている。ことになります。

信仰よりも 思想のほうが 人間にとってその存在・その生命のあり方
において 根源的であると言っていることになります。そうなんですか?

お礼日時:2017/04/22 06:25

>すなわち 《南無妙法蓮華経》は 誰にとっても神であると受け留めてい


 るからには 普遍神であると言ってよいが この神は ほかの名の神とは
 別なのである。

 つまり ほかの名の神は 《南無妙法蓮華経》が人類の誰にとっても普遍
 の神であるようには 普遍的ではない。と主張していないだろうか?


話すほどに分かりにくくなっています、私には。

つまり、人間に分かる訳はないだろう、ということのようですね。
人間にとって「非経験」の領域であるものを、なぜ人間が分かるのか、と。

以前もお話ししましたが、いわゆる「スピリチュアルな能力」というものは広く世間で認められています。
私自身にも経験がありますし、仕事などにおいて努力の末に「何かをつかむ」ということはよくあります。
落語家が「化ける」なんてことも言われていますが、これも何かコツをつかんだというか「悟った」と言え
るでしょう。
これと同様に、釈尊・日蓮も努力の末に(日蓮は12歳から20年間にわたり、比叡山・高野山などで仏教を学
んだ)末に、宇宙の根本の「法」が「南無妙法蓮華経」であると悟った、ということで、これが仏教哲学の
始まりでここから理論展開されてゆくということです。

この「仏の悟り」があるのかないのかは、少なくとも現在の人間の認識方法では、「ある」とすることはで
きず、また、「ない」と証明することもできないはずです。

ですから、これを「あり」とすれば「宇宙の真理」は人間にとって「非経験事象」とは言えなくなります。
あなた自身も「非経験の庭」との交流はある、と述べていますから、完全な「非経験事象」とは言えないと
いうことになり、論理的矛盾が発生すると思います。

あなたの哲学への批判はここではさておいて、日蓮が自身のことを「本仏」であるとしたことも、仏法哲学
の結論を始めに説いたということで、そこからさまざまな「生命論」が展開されます。

一つは「生命観」の違いに原因があろうかと思いますが、お互いの哲学に対する理解が不十分ということは
あると思います。その状態で、いきなりキモの部分が「どうなの?」とやっても、平行線になるのではない
でしょうか?
やめろ、と言いたいのではないですよ。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

質問者として言っている疑問は 単純なことなんですけれどねぇ。

★ 日蓮が自身のことを「本仏」であるとしたことも、仏法哲学の結論
を始めに説いたということで、そこからさまざまな「生命論」が展開さ
れます。
☆ この《本仏》が 普遍神であるとされていると 受け取るわけです。

そのあと ただし日蓮の場合には この《本仏》こそが 人類にとって
の普遍神であり しかもほかにはない唯一のものだ・・・と言っていな
いですか? これです。


普遍神の生命力なる恩恵を享(う)けることができるのは 日蓮の《南
無妙法蓮華経》以外にはない・・・と言っているのではないですか?


それは 哲学としては 受け容れられないというひとつの議論をおこな
っています。

良心・信教の自由にあって 普遍神はそれをどんな名で呼ぼうと 普遍
神に変わりはないというのが 一般的な神論になるかと思います。


あるいは パラレル・ワールドのごとくに 一方の世界にブラフマンや
らヤハヱーやらアミターバなるブッダやらから成る普遍神のグループが
あって 他方にそれとは別に 南無妙法蓮華経なる本仏としての普遍神
がある・・・というようなことは――普遍神と言うからには――論理的
に無理だと思います。

こういう疑問点なんですけど。

お礼日時:2017/04/21 23:22

日蓮を「本仏」とし、日蓮仏法を「極理」であると定めつつ、先に述べた「五重の相対」


という宗教批判の原理を示し、他の宗教・哲学を根拠を持って批判をし、この五つの相対
をして立つところの日蓮仏法を極理であるとしています。

更に、「他の哲学に論破されない限り私はこの法門を捨てない」という意味の言葉が他の
遺文の中にあります。
あくまで「相対」ということです。
この言葉は勿論絶対の自信の表れであると思いますが、独善的でなく、実に論理的かつ道
徳的であると思いますが、どうでしょうか?


「文底秘沈」これが怪しいというのでしょうか?

釈尊の仏法は「妙法蓮華経」です。「南無妙法蓮華経」を説かなかったのです。それは、
釈尊に縁のある衆生は「南無妙法蓮華経」は必要なかったからだということです。だから
寿量品の中で「示唆をしただけ」ということのようです。

このあたりは、どういう意味なのかが未だよくつかめませんので、このくらいでご勘弁を。
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この回答へのお礼

いろんな説明をありがとうございます。

この質問の前提と疑問をあらためて述べます。

前提:《久遠元初自受用身の“仏”》もしくは《南無妙法蓮華経》という名の
 普遍神が 信じられている。

 それは 普遍神をほかの名で呼ぶ場合と――信仰として――まったく同じ
 である。

 信仰をオシヘとして伝える宗教については 取りあえず問わない。
 
疑問:オシヘに踏み入る恐れがあるにはあるのですが この日蓮の抱いた普
 遍神について それが ほかの名の普遍神と――重ねて言えば 信仰とし
 ては――同じであると哲学が見るとき そうではないと言う声が出されて
 いる。のではないか?

 すなわち 《南無妙法蓮華経》は 誰にとっても神であると受け留めてい
 るからには 普遍神であると言ってよいが この神は ほかの名の神とは
 別なのである。

 つまり ほかの名の神は 《南無妙法蓮華経》が人類の誰にとっても普遍
 の神であるようには 普遍的ではない。と主張していないだろうか?

☆ こういうものです。

すなわち 神は 非経験の場であり それを受け容れた信仰は 非思考の庭
であるからには 《普遍神》のいくつかの異なった名前のあいだで 信仰と
して区別や優劣の差があると〔思考すること〕は 考えられない。

神について考えて ヤハヱ―は アッラーフより優るとか劣るとかといった
裁定は 人間に出来っこない。ということ。

出来たらそれは 人間の頭で考えた思考と想像の産物であり 観念となった
神であるしかない。おもちゃの神であるに過ぎない。


こういったところです。



《文底秘沈》は すべての名の普遍神にとって当てはまると言っています。

どんな名がつけられているとしても――ましてや いかなるオシヘが付け加
えられているにしても―― その名やオシヘは 普遍神を指し示すシルシで
あって 《文上》なわけです。指(つまり 文上)を見るのではなく 指の
指し示すその先を――つまりは 文底を――見ようとするのでなければなら
ない。

こういった意味だと考えています。

お礼日時:2017/04/21 00:13

他の宗教・哲学の立てる普遍神・本尊・結論を否定することが哲学的にアウトである、


これがどういうことなのか私には分かりません。

宗教・哲学の目的は結局「真理」は何かを追及することであって、それをいかに正確に
表現することと言えると思います。
正確でないといえる時は理由とともに否定をするのが、むしろ当然といえるのではない
でしょうか?それが、哲学の態度ではないでしょうか?

キリスト教の普遍神は、「五重の相対」という日蓮の批判原理によって否定されるので
すが、因果律を無視した生命観によって立てられた神だからという理由です。

また、阿弥陀如来は、数種あるようですが、例えば観経に説かれた阿弥陀であれば釈尊
自身も、天台も否定しています。日蓮はやはり「五重の相対」のなかの「大小相対」ー
つまり小乗教は大乗経に劣るという理由で否定しています。

大日如来も釈尊の説いた「大日経」を依経としているわけですから、同じ理由が立てら
れると思います。

まずは、この点を。


それからもう一つ、あなたの言う「普遍神」という概念が、仏法の説く「自受用身」(本
仏)とひょったしたらかなり食い違っているのではないかという杞憂があります。今後は
これを踏まえていこうと思います。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 他の宗教・哲学の立てる普遍神・本尊・結論を否定することが哲学的に
アウトである
☆ 舌足らずであった部分があります。

要は 個人の信仰とオシヘを奉じる組織宗教とを区別しなければなりません。
(いくらかやり取りをしたかとも思います)。

つまり 個人にとってのそれぞれの抱く神(無い神をふくめて)は あくま
で(無条件に) 信教・良心の自由にしたがいます。批判のしようがありま
せん。

つまり早い話が 宗教のオシヘについては とことん・フルボッコで批判し
あってよいし そうしましょうとなります。思考の緑野に《降りて来て》思
考の対象になっているものだからです。

(哲学は 欲張りで迂回作戦に自信があって 信仰についても理論づけよう
としますが)。

それだけです。


★ 因果律を無視した生命観によって立てられた神
☆ 因果律――ほんとうは人間の知り得るのは 因果関係の或る程度の法則
化であって 絶対の規律ではないと思いますが――は 経験事象です。神は
経験世界を超えています。

因果関係から自由なナゾとして 神が想定されています。そこで 経験事象
については 摂理という観点が派生的にみちびかれたりあるいは因果応報と
いう仮説が打ち出されたりします。

ところが 摂理観も因果応報説も 決して人間とその歴史について説明し得
たかと言えば 決して成功しているとは言えません。必ず見落としや説明不
能な事件が起きて来るからです。

キリストの神は あくまで非知なるナゾとして・その意味で《生命のちから》
として立てられたものでしかありません。つまり 個人の信仰――非思考の
庭――に限っての神です。

あとのオシヘは 思考の緑野に降りて来たあとのお話です。

アミターバやマハーワイローチャナについても 個人の信仰にあっては 普
遍神を自分が自由にそう名づけただけのものです。そして オシヘは別です。
批判の対象です。

普遍神については 文上・文底という見方が 《文字は〔それに固執すれば
人を〕ころし 霊(文底)は生かす》という捉え方にそっくりです。

ただ文底観で《独一本門》というとき《他を寄せ付けない唯一無二》だと言
っているとすれば それは普遍神説の異種にはなります。

この異種の正当性かつ正統性についてご説明を俟ちたいと思います。

お礼日時:2017/04/20 08:56

東洋哲学には恐るべき深さを感じています。



古代インドでは、無著・天親らが「唯識論」において深層意識の研究がなされています。
フロイト・ユングらの2400年も前のことです。
釈尊の「法華経」にしても、天台の「摩訶止観」にしても、日蓮にしても、少し触れただ
けでも様々なイマジネーションが浮かんでくるほどです。

時代も古いですし、東洋ですから、例えば始めに結論をポンと説いて、あとは演繹的に理
論を展開してゆく、などのような特徴があると思います。
西洋の学問のやり方に慣れてしまった我々には、なかなか理解できないのではないかと思
うんです、東洋のものなのに。

そのあたりを私は未だ理解していないので、今回の質問には回答できない旨を申し上げた
のです。
無理解のために皮相的な議論になっては、もったいないと思ったからです。


日蓮が宇宙の根本の仏であるということ、そして、日本の安房の国の漁師の息子として生
まれてきたこと(示同凡夫といいます)、このこと自体が仏法の深い「生命観」を表現して
いると思います。

生命は様々であると思います。以下は私の我見です(仮説にもなってませんが)。

人間の細胞の一つ一つが独立した「生命体」であると思います。ある程度まとまった心臓
などの臓器も独立した生命体で、それらを束ねる一人の人間ももちろん独立した生命体、
地球も太陽系も銀河系もそして全宇宙、と。

仏というのはある程度大きな所領を持つ存在で、久遠元初の自受用身とは全宇宙を所領と
する仏なのではなかろうかと。

ちょっとSFチックな話ですが…
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

1. 問題は 御義口伝を引き合いにして問うていますが 実際には単純
なこと一点なんです ほんとは。

★ 日蓮が宇宙の根本の仏であるということ、そして、[・・・]示同凡夫
[・・・]このこと自体が仏法の深い「生命観」を表現していると思います。
☆ これも――想定において―― みとめられるはずです。

問題は 日蓮が〔いわゆる寿量品の文底の〕法身仏であるということ こ
のことが 哲学にとって普遍神に当たるはずであるとき 普遍神は もう
ほかにはいないと もし主張しているとしたら それは 哲学にとってア
ウトであるということです。

ほかにも普遍神にあたるブッダ(アミターバ やマハーワイローチャナ)や
神(ヤハヱーやアッラーフ)がいるとしている人びとがいるとき これを
否定するという行為 これが 問題です。

2. ★ 例えば始めに結論をポンと説いて、あとは演繹的に理論を展開
してゆく、などのような特徴があると思います。
☆ これは 想定を用いる仮説法(アブダクション)だと思うのですが・
ですからこの推論の方法に問題はないはずなのですが それを使用したと
言うのに 検証をおこたったという点において重大なあやまちがあります。

《この上なき知恵のさとり》を得たという仮説に関しては ついぞその中
身について明らかにされなかったことです。

仏界というのも 仮説であり 仮説のままに終わっています。

けっきょくこの仮説を少しでも経験合理性で説明しようと思えば このブ
ッダターが われわれの自然本性にやどる普遍神の霊(その分有)であっ
て アートマン(霊我)と同じであるとみとめることだと思います。

つまりは ゴータマ・ブッダの言った《無我(アン‐アートマン)》はこ
れもまさに――有る神と無い神とが 普遍神として同等であるように―― 
アートマンと同じであると認めることだと。

そうでないと 《さとり》は いつまでも宙ぶらりんの状態なのでは?
永遠に《大化城》のままに終わると見ます。マジックだということです。
わるく言えば ペテンです。

なぜなら いわゆる宗教は 自分のところの《本尊》が唯一最高の神だと
――どの宗教でも――言っているからです。イスラームもその気がありま
すね。

けっきょく この(2)も 日蓮の唯一無二性がうたがわれます。

お礼日時:2017/04/20 00:24

「法報応の三身」ということについて



法身=生命、報身=智慧、応身=肉体となり、十如是に訳せば、法身=体、報身=性、応身=相となる。
生命には必ず三身が備わっている、と。

爾前教には種々の仏が説かれているといいます。法身のみであったり、報身のみであったり、応身仏であったり。
法華経本門にいたり、三身即一身の仏(釈尊)が説かれた、ということです。日蓮仏法では三身が備わっていることは言うまでもない、と。


次に、「仏」とは何か?これが難しい。

日蓮仏法の信仰の目的は「一生成仏」です。つまり、仏になることです。
仏の反対語を「凡夫」といいます。我々凡夫が仏になるとはどういうことなのか?

日蓮は「久遠元初 自受用身」つまり、大宇宙に常住の根本の仏であり、釈尊はこの
力により仏になったのであり、我々末法の衆生は、この根本の仏の力により仏にな
りうる、と、このような関係にあるということです。

もう少し分かりやすく言うと、我々末法の衆生は長い長い間にいろいろなことをし
てきて、せっかくの「仏性」が曇ってしまっていて、これを自力で発揮させること
ができないから、仏の名号を唱え「仏性」を輝かせる必要がある。そして、その修
行を真摯に続けることによって「仏界を定業化」できる、と。これが仏になる、と
いうことのようです。

尤もあなたは、こういう話ではなく、経験合理性に基づく理論的な話を聞きたいの
でしょうが、やはり今の私には難しい。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ~~~~~~
「法報応の三身」

法身=生命、報身=智慧、応身=肉体となり、

十如是に訳せば、法身=体、報身=性、応身=相となる。

生命には必ず三身が備わっている
~~~~~
☆ だとしますと 我田引水になりますが 次の図式だとは思います。

○ カミと《わたし》 ~~~

【?(非知)】:非経験の場(絶対):生命なる力:カミ・・・・・・【法身】
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
【わたし】:経験存在(相対):いのちなる自然本性:カミの分有・・【応身】


○ 《わたし》は 人間であり 信じ・考え・感じる主体である。 

【信じる】:非思考の庭:クレド( I believe. ):〔生命力の源泉〕
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
【考える】:思考の緑野:コギト( I think. )・・・・・・・・・・・【報身】
【感じる】:感性の原野:センスス・コムニス

~~~~~~~~~~~~~~~
☆ つまり げんみつに言えば【法身】は つねに《絶対》――ゆえに《非知》
――であり 【応身】と【報身】は 法身の分有として人間について言うと。

つまり 一切衆生が本有無作の三身であると。例外なく。無条件にて。

つまり 日蓮も 無間地獄に行くとされる親鸞もほかの誰々もまったく互いに
同じ生命の当体である。

▲(凡夫成仏・即身成仏)
http://www.sokanet.jp/pr/kyougakunyuumon/nichire …
即身成仏とは、衆生が、死んで生まれ変わって現実の凡夫の身を改めることな
く、仏の境涯を得ること
☆ すなわち:
★ 日蓮は「久遠元初 自受用身」つまり、大宇宙に常住の根本の仏であり
☆ というとき ひとり日蓮に限ることなく みながそれぞれこの生命神――
普遍神――の恩恵に浴している。ということではないのですか?

《日蓮は この神の恩恵に浴するひとりの人間であるというだけではなく 神
そのものである》という捉え方については さらに説明をお聞きする必要があ
ると思います。

《即身成仏》の方法については 結論から行けば 自由である。のでは?

お礼日時:2017/04/19 06:43

御義口伝は、日蓮仏法だけでなく釈迦仏法をも説き尽くされている極説中の極説


といわれているもので、それだけに難解であります。
そして、如来寿量品第十六は肝要の部分であると思いますので尚更です。

仏教哲学においても西洋哲学においても初級者である私にとって回答する資格のな
い質問ですが、他の質問において私の投稿した回答がきっかけとなってなされた質
問であると思いますので、無視するわけにもゆかず、投稿させていただきました。
いずれ、きちんとお応えできると思いますが、今回は思うところを述べさせた頂き
ます。

(1)

(2)南無妙法蓮華経は、南無がサンスクリット語、妙法蓮華経が漢語の組み合わせです。
これを全部サンスクリット語あるいは日本語としたならば、長ったらしくなって語呂も
リズムも悪いということになるからだと思います。
信者に唱えさせるという前提だったはずですから、この組み合わせがばっちりだったの
でしょう。

(3)仏教哲学には独自の言葉の使い方があります。日蓮も釈尊も南無妙法蓮華経も「仏」
です。
また、「神」といった場合、法華経の行者を守護する働きである、「諸天善神」のこと
になります。
あなたの哲学のなかの「普遍神」は「仏」同じことを言おうとしているのだと思います。

(4)

(5)ご存知かどうか分かりませんが、仏教哲学上重要な原理である「総別の二義」という
ものがあります。
総じて(惣じて)とは、一往の表面的立場であり、別してとは、再往のさらに深く突っ込ん
で考えた立場ということです。

この場合、一切衆生は仏性をもってはいるものの、「迷っている状態である」ということ
が仏とは違うという意味で、「総じては」という事になるのだと思います。

つづく
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。誘い出したようになりましたが ご寛恕
のほどを。

★ (3) あなたの哲学のなかの「普遍神」は「仏」同じことを言おう
としているのだと思います。
☆ これが 知りたいことのキモになると思います。そこから 日蓮がブ
ッダであるというとき 普遍神であるのかどうかが はっきりしたかたち
を採ると思われるからです。

おそらく 普遍神であることになると思われます。このあとのご回答に俟
たなければなりませんが そうだとしますと:

(11) 神キリストが人間イエスに成ったといった物語と同じようにそ
の説明を用意する必要があると思われます。

三身常住でもよいでしょうし 基本は 法身と応身との一致のことをしっ
かりと――想定じょうの――理論として示すことが肝要かと思います。

(12) そして 普遍神であるからには ほかの――ブラフマンやヤハ
ヱーやアッラーフなどの――神とそれぞれ同じひとつであって ただ名づ
けが異なるだけだという見方を必然的に採るものと考えます。

日蓮ないし南無妙法蓮華経のみが 普遍神であるというのは 飲めません。


★(5) 「総別の二義」
☆ これは 詳しくはどうなんでしょう? つまり 《別して》日蓮が 
本有無作のブッダであるというとき それは《総じて》一切衆生がやはり
同じブッダであると言うのと どう違うのか? だと考えます。

つまり 一念三千の当体であることに まったく違いはない・・・のでは
ないでしょうか?

境地の違いはあるのでしょうが だからと言ってそれは 《人 間 と 
し て は》程度問題でしょう。名字即・即・究竟即であることに 誰に
ついても変わりないはずです。

ということは 問題は イエス(人間)=キリスト(神)という想定にま
さしく比定されるかたちで 日蓮(人間)=法身のブッダ(神)という想
定をどのように説明するかにあるのでしょう。

ちなみに――想定じょう――どちらの神も 普遍神として同じです。

おそらく それほどかんたんに理論的に その違いと共通性とが分かると
いうものでもないかも知れません。

問題は 《ただ日蓮のみが 唯一の普遍神である》と言っていたとしたら 
これを人びとはどう扱うか。ここにあるかと考えます。とうぜん嫌がりま
す。

お礼日時:2017/04/17 23:57

ちゃんと答えなさい。

」←ちゃんと答えてるが あなたが理解出来ないだけ・・

理解出来る要に もっと勉強しましょう・・
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