◆ (御義口伝巻下) ~~~~~~~~~~~~~~~
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日蓮所立自寿量品至開結二経

寿量品廿七箇の大事

第一 南無妙法蓮華経如来寿量品第十六の事

文句の九に云く

如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号なり
別しては本地三仏の別号なり、

寿量とは詮量なり、
十方三世・二仏・三仏の諸仏の功徳を詮量す
故に寿量品と云うと。



御義口伝に云く

此の品の題目は日蓮が身に当る大事なり 神力品の付属是なり、

如来とは釈尊・惣じては十方三世の諸仏なり
別しては本地無作の三身なり、

今日蓮等の類いの意は 惣じては如来とは一切衆生なり
別しては日蓮の弟子檀那なり、

されば無作の三身とは 末法の法華経の行者なり 

無作の三身の宝号を 南無妙法蓮華経と云うなり、

寿量品の事の三大事とは是なり、

六即の配立の時は 此の品の如来は 理即の凡夫なり
頭に南無妙法蓮華経を頂戴し奉る時 名字即なり、

其の故は 始めて聞く所の題目なるが故なり
聞き奉りて修行するは 観行即なり

此の観行即とは 事の一念三千の本尊を観ずるなり、

さて惑障を伏するを 相似即と云うなり
化他に出づるを 分真即と云うなり
無作の三身の仏なりと究竟したるを 究竟即の仏とは云うなり、

惣じて伏惑を以て 寿量品の極とせず 
唯凡夫の当体本有の儘を 此の品の極理と心得可きなり、

無作の三身の所作は何物ぞと云う時 南無妙法蓮華経なり云云。



第二如来秘密神通之力の事
  
御義口伝に云く

無作三身の依文なり、
此の文に於て重重の相伝之有り、
神通之力とは 我等衆生の作作発発と振舞う[・・・]
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


☆ (1) つまりは 本地無作(もしくは本有無作)の法報応の三身なる
存在がいると言う。日蓮のことらしい。

◆ ~~~~~~~~~~~~
無作の三身とは 末法の法華経の行者なり 

無作の三身の宝号を 南無妙法蓮華経と云うなり、
~~~~~~~~~~~~~~~

☆ (2) それにしても なんで日本語で表わさないのでしょう?

 
(3) そしてこの質問では前提としてすでに《南無妙法蓮華経》を 法身
のブッダとして 《真理にひとしい・真実の神》と名づけています。
 
つまり そのダルマの場ないしチカラを言うときに 神と呼んで捉えたほう
が うんと早いし 分かりやすいと考えます。

ブラフマニズムにおける梵我一如を ゴータマ・ブッダは 無梵無我一如と
して踏襲していると考えられるからです。

梵つまりブラフマン神を《無梵すなわち無い神》として捉え返したのであっ
て この神が普遍神のことであり それは《ダルマ(法身のブッダ)》のこ
とであり 普遍神を《有る神か無い神か》のいづれかに 互いに等しいかた
ちにおいて 言い換えたに過ぎないからです。いかに?

 

(4) すなわち本地が無作――つまり 自然法爾(じねんほうに)――で
あるゆえに 朽ちることのない真理としての神であると。
 
 
(5) そしてこれを《南無妙法蓮華経》とも ここでは 言いかえている
のですが 問題は:

◆ 無作の三身とは 末法の法華経の行者なり 
☆ というふうに日蓮その人を当てていることにあります。

確かに存在を生身の身につくっているからには 応身のブッダだとも見られ
うるでしょうが それにしても問題は 日蓮というひとりの人間が この法
身のブッダであり 真理であり神である。と言ったことになります。

ここだと考えられます 問題は。

つまり 一切衆生 悉有仏性として 無作の三身は――正法・像法・末法の
時代区分に関係なく―― 一人ひとりの人間であるはず。
◆ 惣じては如来とは一切衆生なり





(6) おそらく かんたんに済まそうとするなら ブッダと神とは違うと
言えばよいかに見えます。

だったら けっきょく《ブッダ》とは何か? の問いに哲学として答えなけ
ればならないでしょうね。

(7) 人間のことか? なら 法身のブッダに人間はなれない。

人間のことではないか? なら それ(ブッダ)は法身として真理であり神
であると定義して使ってもよいはず。

だけれども 人間である日蓮が この法身であり真理であり神であるブッダ
であるというのは くるしい。のではないでしょうか。

■ 無作の三身とは、久遠元初自受用身の“仏”を指す。
☆ ということだと聞きますが。
ずばり:

○ 日蓮は 法身のブッダであり 神ですか?



(8) すなわち 法身の――また本地無作の法報応の三身としての――ブ
ッダであるとすれば:

○ 理即や名字即から究竟即までの段階など関係なく
――あるいはまた 無明と明知との区分などはいっさい関係なく―― 
初めから 神としてのブッダである。

となります。そうなのですか?

  
(9) 神としてのブッダと人間とのあいだには もはやいかなる中間の存在
もいないはずです。(たとえば天使は 仮りの物語です。ボディサトワは 人
間です。時には 霊です)。

もし 人間であると同時に法身であり神としてのブッダでもあるとすれば そ
ういう想定は 人間イエスが神なるキリストであるという場合です。

もしそういう想定に踏み込もうということでしたら それ相応の――物語の中
の想定としてながら――理論としての整理をしておかねばならないでしょう。

(10) このように考えるなら 法身のブッダなる日蓮という命題は やは
りくるしい。のではないでしょうか?

もし《久遠元初自受用身の“仏”》として法身仏であり神であると想定している
のなら それは 普遍神の呼び換えであって ただひとりのみがそうであると
いう理屈は 哲学としてあり得ない。のではないでしょうか?

質問者からの補足コメント

  • ☆☆(№13お礼欄) ~~~
    わたしの考えではありますが 哲学としては ブラフマン神やアミター
    バ・ブッダやヤハヱーと名づけた神らについてそれぞれは 《「自受用
    身」「南無妙法蓮華経」という「絶対」》がそうであるように みな普
    遍神であると捉えています。

    そう見ますか? という問いです。
    ~~~
    ☆ この問いへの答えで こちらは煙に巻かれてしまったようです。

    ★ 自分の考えに合わないから、はねつけて「哲学的に問題がある」な
    んて言ってたら対話が進まないじゃないですか。
    ☆ と。《はねつけて》いませんよ。《そう見ますか?》と尋ねている
    のです。

    要するに同じ普遍神でありその名前が違うだけだという見方を同じくし
    ますか? しないとすれば・そして《普遍法・普遍仏》ではあると言う
    のならば どこで話が合わないのか 分からなくなります。

    法や仏の普遍性と神の普遍性とは 異なるのですか?

    No.14の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/04/23 08:13

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A 回答 (17件中11~17件)

東洋哲学には恐るべき深さを感じています。



古代インドでは、無著・天親らが「唯識論」において深層意識の研究がなされています。
フロイト・ユングらの2400年も前のことです。
釈尊の「法華経」にしても、天台の「摩訶止観」にしても、日蓮にしても、少し触れただ
けでも様々なイマジネーションが浮かんでくるほどです。

時代も古いですし、東洋ですから、例えば始めに結論をポンと説いて、あとは演繹的に理
論を展開してゆく、などのような特徴があると思います。
西洋の学問のやり方に慣れてしまった我々には、なかなか理解できないのではないかと思
うんです、東洋のものなのに。

そのあたりを私は未だ理解していないので、今回の質問には回答できない旨を申し上げた
のです。
無理解のために皮相的な議論になっては、もったいないと思ったからです。


日蓮が宇宙の根本の仏であるということ、そして、日本の安房の国の漁師の息子として生
まれてきたこと(示同凡夫といいます)、このこと自体が仏法の深い「生命観」を表現して
いると思います。

生命は様々であると思います。以下は私の我見です(仮説にもなってませんが)。

人間の細胞の一つ一つが独立した「生命体」であると思います。ある程度まとまった心臓
などの臓器も独立した生命体で、それらを束ねる一人の人間ももちろん独立した生命体、
地球も太陽系も銀河系もそして全宇宙、と。

仏というのはある程度大きな所領を持つ存在で、久遠元初の自受用身とは全宇宙を所領と
する仏なのではなかろうかと。

ちょっとSFチックな話ですが…
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

1. 問題は 御義口伝を引き合いにして問うていますが 実際には単純
なこと一点なんです ほんとは。

★ 日蓮が宇宙の根本の仏であるということ、そして、[・・・]示同凡夫
[・・・]このこと自体が仏法の深い「生命観」を表現していると思います。
☆ これも――想定において―― みとめられるはずです。

問題は 日蓮が〔いわゆる寿量品の文底の〕法身仏であるということ こ
のことが 哲学にとって普遍神に当たるはずであるとき 普遍神は もう
ほかにはいないと もし主張しているとしたら それは 哲学にとってア
ウトであるということです。

ほかにも普遍神にあたるブッダ(アミターバ やマハーワイローチャナ)や
神(ヤハヱーやアッラーフ)がいるとしている人びとがいるとき これを
否定するという行為 これが 問題です。

2. ★ 例えば始めに結論をポンと説いて、あとは演繹的に理論を展開
してゆく、などのような特徴があると思います。
☆ これは 想定を用いる仮説法(アブダクション)だと思うのですが・
ですからこの推論の方法に問題はないはずなのですが それを使用したと
言うのに 検証をおこたったという点において重大なあやまちがあります。

《この上なき知恵のさとり》を得たという仮説に関しては ついぞその中
身について明らかにされなかったことです。

仏界というのも 仮説であり 仮説のままに終わっています。

けっきょくこの仮説を少しでも経験合理性で説明しようと思えば このブ
ッダターが われわれの自然本性にやどる普遍神の霊(その分有)であっ
て アートマン(霊我)と同じであるとみとめることだと思います。

つまりは ゴータマ・ブッダの言った《無我(アン‐アートマン)》はこ
れもまさに――有る神と無い神とが 普遍神として同等であるように―― 
アートマンと同じであると認めることだと。

そうでないと 《さとり》は いつまでも宙ぶらりんの状態なのでは?
永遠に《大化城》のままに終わると見ます。マジックだということです。
わるく言えば ペテンです。

なぜなら いわゆる宗教は 自分のところの《本尊》が唯一最高の神だと
――どの宗教でも――言っているからです。イスラームもその気がありま
すね。

けっきょく この(2)も 日蓮の唯一無二性がうたがわれます。

お礼日時:2017/04/20 00:24

「法報応の三身」ということについて



法身=生命、報身=智慧、応身=肉体となり、十如是に訳せば、法身=体、報身=性、応身=相となる。
生命には必ず三身が備わっている、と。

爾前教には種々の仏が説かれているといいます。法身のみであったり、報身のみであったり、応身仏であったり。
法華経本門にいたり、三身即一身の仏(釈尊)が説かれた、ということです。日蓮仏法では三身が備わっていることは言うまでもない、と。


次に、「仏」とは何か?これが難しい。

日蓮仏法の信仰の目的は「一生成仏」です。つまり、仏になることです。
仏の反対語を「凡夫」といいます。我々凡夫が仏になるとはどういうことなのか?

日蓮は「久遠元初 自受用身」つまり、大宇宙に常住の根本の仏であり、釈尊はこの
力により仏になったのであり、我々末法の衆生は、この根本の仏の力により仏にな
りうる、と、このような関係にあるということです。

もう少し分かりやすく言うと、我々末法の衆生は長い長い間にいろいろなことをし
てきて、せっかくの「仏性」が曇ってしまっていて、これを自力で発揮させること
ができないから、仏の名号を唱え「仏性」を輝かせる必要がある。そして、その修
行を真摯に続けることによって「仏界を定業化」できる、と。これが仏になる、と
いうことのようです。

尤もあなたは、こういう話ではなく、経験合理性に基づく理論的な話を聞きたいの
でしょうが、やはり今の私には難しい。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ~~~~~~
「法報応の三身」

法身=生命、報身=智慧、応身=肉体となり、

十如是に訳せば、法身=体、報身=性、応身=相となる。

生命には必ず三身が備わっている
~~~~~
☆ だとしますと 我田引水になりますが 次の図式だとは思います。

○ カミと《わたし》 ~~~

【?(非知)】:非経験の場(絶対):生命なる力:カミ・・・・・・【法身】
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
【わたし】:経験存在(相対):いのちなる自然本性:カミの分有・・【応身】


○ 《わたし》は 人間であり 信じ・考え・感じる主体である。 

【信じる】:非思考の庭:クレド( I believe. ):〔生命力の源泉〕
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
【考える】:思考の緑野:コギト( I think. )・・・・・・・・・・・【報身】
【感じる】:感性の原野:センスス・コムニス

~~~~~~~~~~~~~~~
☆ つまり げんみつに言えば【法身】は つねに《絶対》――ゆえに《非知》
――であり 【応身】と【報身】は 法身の分有として人間について言うと。

つまり 一切衆生が本有無作の三身であると。例外なく。無条件にて。

つまり 日蓮も 無間地獄に行くとされる親鸞もほかの誰々もまったく互いに
同じ生命の当体である。

▲(凡夫成仏・即身成仏)
http://www.sokanet.jp/pr/kyougakunyuumon/nichire …
即身成仏とは、衆生が、死んで生まれ変わって現実の凡夫の身を改めることな
く、仏の境涯を得ること
☆ すなわち:
★ 日蓮は「久遠元初 自受用身」つまり、大宇宙に常住の根本の仏であり
☆ というとき ひとり日蓮に限ることなく みながそれぞれこの生命神――
普遍神――の恩恵に浴している。ということではないのですか?

《日蓮は この神の恩恵に浴するひとりの人間であるというだけではなく 神
そのものである》という捉え方については さらに説明をお聞きする必要があ
ると思います。

《即身成仏》の方法については 結論から行けば 自由である。のでは?

お礼日時:2017/04/19 06:43

御義口伝は、日蓮仏法だけでなく釈迦仏法をも説き尽くされている極説中の極説


といわれているもので、それだけに難解であります。
そして、如来寿量品第十六は肝要の部分であると思いますので尚更です。

仏教哲学においても西洋哲学においても初級者である私にとって回答する資格のな
い質問ですが、他の質問において私の投稿した回答がきっかけとなってなされた質
問であると思いますので、無視するわけにもゆかず、投稿させていただきました。
いずれ、きちんとお応えできると思いますが、今回は思うところを述べさせた頂き
ます。

(1)

(2)南無妙法蓮華経は、南無がサンスクリット語、妙法蓮華経が漢語の組み合わせです。
これを全部サンスクリット語あるいは日本語としたならば、長ったらしくなって語呂も
リズムも悪いということになるからだと思います。
信者に唱えさせるという前提だったはずですから、この組み合わせがばっちりだったの
でしょう。

(3)仏教哲学には独自の言葉の使い方があります。日蓮も釈尊も南無妙法蓮華経も「仏」
です。
また、「神」といった場合、法華経の行者を守護する働きである、「諸天善神」のこと
になります。
あなたの哲学のなかの「普遍神」は「仏」同じことを言おうとしているのだと思います。

(4)

(5)ご存知かどうか分かりませんが、仏教哲学上重要な原理である「総別の二義」という
ものがあります。
総じて(惣じて)とは、一往の表面的立場であり、別してとは、再往のさらに深く突っ込ん
で考えた立場ということです。

この場合、一切衆生は仏性をもってはいるものの、「迷っている状態である」ということ
が仏とは違うという意味で、「総じては」という事になるのだと思います。

つづく
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。誘い出したようになりましたが ご寛恕
のほどを。

★ (3) あなたの哲学のなかの「普遍神」は「仏」同じことを言おう
としているのだと思います。
☆ これが 知りたいことのキモになると思います。そこから 日蓮がブ
ッダであるというとき 普遍神であるのかどうかが はっきりしたかたち
を採ると思われるからです。

おそらく 普遍神であることになると思われます。このあとのご回答に俟
たなければなりませんが そうだとしますと:

(11) 神キリストが人間イエスに成ったといった物語と同じようにそ
の説明を用意する必要があると思われます。

三身常住でもよいでしょうし 基本は 法身と応身との一致のことをしっ
かりと――想定じょうの――理論として示すことが肝要かと思います。

(12) そして 普遍神であるからには ほかの――ブラフマンやヤハ
ヱーやアッラーフなどの――神とそれぞれ同じひとつであって ただ名づ
けが異なるだけだという見方を必然的に採るものと考えます。

日蓮ないし南無妙法蓮華経のみが 普遍神であるというのは 飲めません。


★(5) 「総別の二義」
☆ これは 詳しくはどうなんでしょう? つまり 《別して》日蓮が 
本有無作のブッダであるというとき それは《総じて》一切衆生がやはり
同じブッダであると言うのと どう違うのか? だと考えます。

つまり 一念三千の当体であることに まったく違いはない・・・のでは
ないでしょうか?

境地の違いはあるのでしょうが だからと言ってそれは 《人 間 と 
し て は》程度問題でしょう。名字即・即・究竟即であることに 誰に
ついても変わりないはずです。

ということは 問題は イエス(人間)=キリスト(神)という想定にま
さしく比定されるかたちで 日蓮(人間)=法身のブッダ(神)という想
定をどのように説明するかにあるのでしょう。

ちなみに――想定じょう――どちらの神も 普遍神として同じです。

おそらく それほどかんたんに理論的に その違いと共通性とが分かると
いうものでもないかも知れません。

問題は 《ただ日蓮のみが 唯一の普遍神である》と言っていたとしたら 
これを人びとはどう扱うか。ここにあるかと考えます。とうぜん嫌がりま
す。

お礼日時:2017/04/17 23:57

ちゃんと答えなさい。

」←ちゃんと答えてるが あなたが理解出来ないだけ・・

理解出来る要に もっと勉強しましょう・・
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あなたは 神ですか?



ならば そう証明してから 神の言葉を述べてください」←人間は全員 神の子ですよ・・


そして 神は 人間同士が話をし お互いが納得すればイイ様にしてる・・

けれど こういったQ&Aサイトは 質問者の独断で 回答の良し悪しを決める・・

そんなサイトは 神の意向に反してるだけ・・
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。(しぶしぶ!)。

★ 人間は全員 神の子ですよ・・
☆ だから その《神の子》であることは 《神である》か?

★ 質問者の独断で 回答の良し悪しを決める
☆ わけには行かないので 訊いています。

ちゃんと答えなさい。



★ そんなサイトは 神の意向に反してるだけ・・
☆ この裁定が 回答者の独断ではないのか?

ちゃんと 証明しなさい。あなたが神であり 神の意向を知って
いるのだということについて。

お礼日時:2017/04/17 11:22

本来の仏教に神はおりません。



神がいないから、人間が修行によって
神に近づこう、ということになります。

神に近づくとは、どういうことか。

悟りです。

それで悟った人を仏陀、というのです。

だから、日蓮は人間です。

日蓮が悟った人間であれば、仏陀です。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

次のことに留意してくれますか?

1. ここは 哲学カテです。したがって 哲学から見てどうであるか
を問い求めます。

2. 宗教のオシヘがどう言っていようと 普遍的な内容を――と言っ
てもむろん経験合理性のおよぶ範囲でということになりますが を――
もって 答えとします。



☆ そこでですが:
★ 人間が修行によって神に近づこう、ということになります。
☆ ならば 《本来の》であろうとなかろうと《仏教》では 実質的に
見て神を意識している・・・となります。

その神を 哲学が定義することから始める・・・はずなのです。



★ それで悟った人を仏陀、というのです。
☆ いいえ。そのように《人間》について言う場合もあれば 《法身仏》
と規定する場合もあります。

《ダルマ・カーヤ(法・身)》が ふつう一般に神です。非経験の場の
ことを――ブラフマニズムにおけるブラフマン神と同じく―― 指して
言っています。

《応身仏》というのがあってこれは いまの法身仏――つまり神――が
あたかもキリストなる神が人間イエスに成ったというかのごとく 生身
の人間に成った姿を言います。

《日蓮》は どうか? です。どうでしょう。

お礼日時:2017/04/17 07:32

あなたの好きな様に・・



神は 干渉していません・・
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この回答へのお礼

あなたは 神ですか?

ならば そう証明してから 神の言葉を述べてください。




つねに――つねに です――質問に答えることなく 自分の
話を勝手に書き込むようですから あとは お相手しません。

あなたが神〔の心が分かるの〕なら 他人の迷惑になるよう
なことは 一切つつしむようになさい。

というより ほろびなさい。古い人がほろんで あたらしい
人を着るようにしなさい。

お礼日時:2017/04/17 07:46

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太鼓を打ち鳴らし南無妙法蓮華経と唱える者の形相が畜生に近くなるのは何故か
 

Aベストアンサー

もともと、開祖に至る起源の違いではないでしょうか。
浄土宗の開祖である法然のいた時代(平安から鎌倉)は、平穏な時期で
仏教はどちらかというと、位の高い人間の宗教でした。
それを、法然は庶民にも広めるためにわかりやすい言葉をえらんで、
布教していたためだと推測されます。
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布教したためで、邪気を払うための鬼の形相になったと考えられます。

Q南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経

 
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Aベストアンサー

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大声でとなるモノじゃないんです。

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目的なので、大声でリズムをとって唱えるんです。

その辺が、両宗派の違いだと考えられます。

Q《南無妙法蓮華経》は 真実の神ではないのか?

 特には創価学会としての見解をたずねます。

 次の日蓮氏の著わした文章の中から ふたつの主題を取り上げます。

  (ε)と(η)のひとまとまり および(κ)です。

 ◆(日蓮:当体義抄) ~~~~~
   http://www.sokanet.jp/kaiin/gosho_search/page.php?n=512

 (α) 南岳釈して云く

    「一切衆生・法身の蔵を具足して仏と一にして異り有ること無し」、

 (β) 是の故に法華経に云く

    「父母所生 清浄 常 眼耳鼻舌身意 亦復如是」

 (γ) 文、又云く

   「問うて云く 
    仏・何れの経の中に眼等の諸根を説いて名けて如来と為や、
   答えて云く
   (γ‐a) 大強精進経の中に衆生と如来と同じく共に一法身にして
    清浄妙無比なるを 妙法蓮華経と称す」

 (δ) 文、他経に有りと雖も 下文顕れ已れば 通じて引用することを得るなり、
   大強精進経の同共の二字に習い相伝するなり 

 (ε) 法華経に同共して信ずる者は 妙経の体なり
 
 (η) 不同共の念仏者等は 既に仏性法身如来に背くが故に 妙経の体に非ざるなり、

 (ι) 所詮妙法蓮華の当体とは 法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身 是なり、

 (κ) 正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は 煩悩業・苦の三道〔が〕・法身・般若・解脱の三徳と転じて 三観・三諦・即一心に顕われ 其の人の所住の処は常寂光土なり、

 (λ) 能居所居・身土・色心・倶体倶用・無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは 日蓮が弟子檀那等の中の事なり

 (μ) 是れ即ち法華の当体・自在神力の顕わす所の功能なり 敢て之を疑う可からず 之を疑う可からず、
 ~~~~~~~~~~~~~~~

 (1) まづ(α)から順に説き進むその内容は

    ○ 一切衆生 悉有仏性

 ということだと理解します。《ひとは誰にあってもブッダター(仏性)がやどる》と。


 (2) ところが その《任意の或る人》が ここではふたつの種類に分かれます。

   (ε)  法華経に同共して信ずる者
   (η)  不同共の念仏者等

 すなわち 前者は《仏性を宿すひと》であるが 後者は

 ◆ (η) 既に仏性法身如来に背くが故に妙経の体に非ざるなり

 と言います。この一文の意味を問います。


 (3) 《妙経の体に非ず》というのは
 
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 (5) この疑問は (κ)の文章につながります。
 
 ◆(κ) 正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人


 (6) ひとつに確かにここで《正直に方便を捨て》とあります。つまり 先ほどの念仏者等は《方便のオシエを捨てていない》。
 けれどもそれにもかかわらず 当人は《真実の神》だと信じている。
 《方便を捨てていない》のではなく 《方便をとおして――そのオシエは〔特に親鸞にあっては〕どうでもよいとして捨てており――真実の神に就いている》。のだとしたら その真実の神である南無妙法蓮華経なるチカラは 念仏者等の仏性の発現を押さえて いぢわるをするといった気遣いはない。のではないであろうか?


 (7) ◆(κ) 但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる
 ☆ とは どういうことか?
 
 (7‐a) 《法華経を信じ》というのは そのオシエを信じることは出来ない(オシエなる教理は 考えるものである)。ならば 南無妙法蓮華経なる神――(μ) 《自在神力》――を信じるということにほかならない。

 (7‐b) ならば 念仏者等が――名はアミターバやマハーワイロ―チャナなどなどとして違っていても―― 真実の神〔(μ) 《自在神力》〕を心にいだくのであるゆえ 《妙経の体》と同じであり 仏性の発現も何ら妨げられることはない。

 (7‐c) 《南無妙法蓮華経を唱える》こととは どういうことか? 次項につぎます。


 (8) ◆(κ) 南無妙法蓮華経と唱うる人は 煩悩・業・苦の三道〔=三障 が〕 法身・般若・解脱の三徳と転じて・・・
 ☆ つまりこのように 《題目を唱える》ゆえに 《妙法の当体》となる。のであろうか? ほんとうにそうであろうか?

 つまり――唱題が 称名念仏と同じように わるいと言おうとするのではなく―― 仏性の発現は 人間の努力によって 実現するのものなのか? という問い。

 親鸞の言うには 念仏は 《非行非善》であるらしく これだと 念仏をおこなったから浄土に往生するとはさらさら言っていない。


 (9) すなわち
  ◆ ~~~~
    (γ‐a) 大強精進経の中に衆生と如来と同じく共に一法身にして
        清浄妙無比なるを 妙法蓮華経と称す」
   ~~~~~
  ☆  この仏性ないし《自性清浄心》なるわれわれの身と心とは 自然本性として生まれたときからそなわった仏性の発現を――わづかに《信じる》ことをとおして・という意味は 人間の能力も及ばざるがごとく一切の努力を超越して――自然史過程として・自然史過程において(具体的にはヒラメキなどをとおして) ありがたいことに 見ることになる。のではないであろうか?

 (10) 《南無妙法蓮華経》なる場ないしチカラは 真実の神ではないのか?

 特には創価学会としての見解をたずねます。

 次の日蓮氏の著わした文章の中から ふたつの主題を取り上げます。

  (ε)と(η)のひとまとまり および(κ)です。

 ◆(日蓮:当体義抄) ~~~~~
   http://www.sokanet.jp/kaiin/gosho_search/page.php?n=512

 (α) 南岳釈して云く

    「一切衆生・法身の蔵を具足して仏と一にして異り有ること無し」、

 (β) 是の故に法華経に云く

    「父母所生 清浄 常 眼耳鼻舌身意 亦復如是」

 (γ) 文、又云く

   「問うて...続きを読む

Aベストアンサー

(1) まづ(α)から順に説き進むその内容は

    ○ 一切衆生 悉有仏性

 ということだと理解します。《ひとは誰にあってもブッダター(仏性)がやどる》と。

■その通り。


 (2) ところが その《任意の或る人》が ここではふたつの種類に分かれます。

   (ε)  法華経に同共して信ずる者
   (η)  不同共の念仏者等

 すなわち 前者は《仏性を宿すひと》であるが 後者は

 ◆ (η) 既に仏性法身如来に背くが故に妙経の体に非ざるなり

 と言います。この一文の意味を問います。

■後者は、法華誹謗の者。
前者、後者共に、仏性を有する。⇒《仏性を宿すひと》


 (3) 《妙経の体に非ず》というのは
 
   (3-a)  《仏性を宿すひと》一般であり続けているが 《その仏性の発現が妨げられているだけ》というのか? それとも

   (3-b)  人と生まれて宿していた仏性が真実のブッダ(ないしダルマ)に背くがゆえに 《腐った種や煎られた種のように》  もはや芽を出し得ないというのか?

■法華誹謗の者。⇒地獄の業因を積む、ということ。


 (4) もし後者=(3-b)だとした場合  それでも 法華経・如来寿量品第十六の《文底における独一なる本門》としての南無妙法蓮華経なるチカラは 真実の神――(μ) 《自在神力》――であって 普遍であり遍在であり 一方で依怙贔屓をすることはあっても 他方で基本的に言って 人にやどった仏性の発現をわざわざ抑えることはしない。のではないだろうか?

■真実の神――(μ) 《自在神力》との、解釈が違います。

神力と神を一緒に考えることはない。これは、質問者様の既成概念から出てくる言葉かもしれない。


 (5) この疑問は (κ)の文章につながります。
 
 ◆(κ) 正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人

■?????

※質問内容と番号の振り方に疑問を感じます。この質問は、、、、??




 (6) ひとつに確かにここで《正直に方便を捨て》とあります。つまり 先ほどの念仏者等は《方便のオシエを捨てていない》。
 けれどもそれにもかかわらず 当人は《真実の神》だと信じている。
 《方便を捨てていない》のではなく 《方便をとおして――そのオシエは〔特に親鸞にあっては〕どうでもよいとして捨てており――真実の神に就いている》。のだとしたら その真実の神である南無妙法蓮華経なるチカラは 念仏者等の仏性の発現を押さえて いぢわるをするといった気遣いはない。のではないであろうか?

■浄土真宗は、何を本尊とするのか??
親鸞が、法然を師として浄土真宗を展開するならば、先ずは、浄土宗をもって正邪を判ずるべき。
それとも、親鸞は法然に背く弟子なのか。伝教に背いた慈覚のように。恐らく親鸞は、宗祖の器を持ちえない、いい加減な人間なのだと思う。個人的見解ですが。


 (7) ◆(κ) 但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる
 ☆ とは どういうことか?
 
 (7‐a) 《法華経を信じ》というのは そのオシエを信じることは出来ない(オシエなる教理は 考えるものである)。ならば 南無妙法蓮華経なる神――(μ) 《自在神力》――を信じるということにほかならない。

■南無妙法蓮華経は、神ではない。⇒(4)回答参照。


 (7‐b) ならば 念仏者等が――名はアミターバやマハーワイロ―チャナなどなどとして違っていても―― 真実の神〔(μ) 《自在神力》〕を心にいだくのであるゆえ 《妙経の体》と同じであり 仏性の発現も何ら妨げられることはない。

■論法がメチャクチャである。
名はアミターバやマハーワイロ―チャナなどなどとして違っていても⇒この時点で、法華誹謗になります。


 (7‐c) 《南無妙法蓮華経を唱える》こととは どういうことか? 次項につぎます。

■御本尊を信じ、御本尊に対して(御本尊に向かい合って)、『南無妙法蓮華経』と題目を唱える事。

※次項につぎます。⇒これは、いらないと思います。番号も振り方に疑問が生じる。


 (8) ◆(κ) 南無妙法蓮華経と唱うる人は 煩悩・業・苦の三道〔=三障 が〕 法身・般若・解脱の三徳と転じて・・・
 ☆ つまりこのように 《題目を唱える》ゆえに 《妙法の当体》となる。のであろうか? ほんとうにそうであろうか?

 つまり――唱題が 称名念仏と同じように わるいと言おうとするのではなく―― 仏性の発現は 人間の努力によって 実現するのものなのか? という問い。

 親鸞の言うには 念仏は 《非行非善》であるらしく これだと 念仏をおこなったから浄土に往生するとはさらさら言っていない。

■親鸞と日蓮の教義は違います。違う教義を話し合っても、時間の無駄。結論は出ない。

■人間の努力だけでは、実現はしない。⇒前回の質問。『われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか』参照。


 (9) すなわち
  ◆ ~~~~
    (γ‐a) 大強精進経の中に衆生と如来と同じく共に一法身にして
        清浄妙無比なるを 妙法蓮華経と称す」
   ~~~~~
  ☆  この仏性ないし《自性清浄心》なるわれわれの身と心とは 自然本性として生まれたときからそなわった仏性の発現を――わづかに《信じる》ことをとおして・という意味は 人間の能力も及ばざるがごとく一切の努力を超越して――自然史過程として・自然史過程において(具体的にはヒラメキなどをとおして) ありがたいことに 見ることになる。のではないであろうか?

■それが、御本尊がもたらす縁である。


 (10) 《南無妙法蓮華経》なる場ないしチカラは 真実の神ではないのか?

■神ではない。仏である。

【御義口伝 下 P.752】

『第一南無妙法蓮華経如来寿量品第十六の事』
「無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり」

無作の三身とは、久遠元初自受用身の“仏”を指す。

(1) まづ(α)から順に説き進むその内容は

    ○ 一切衆生 悉有仏性

 ということだと理解します。《ひとは誰にあってもブッダター(仏性)がやどる》と。

■その通り。


 (2) ところが その《任意の或る人》が ここではふたつの種類に分かれます。

   (ε)  法華経に同共して信ずる者
   (η)  不同共の念仏者等

 すなわち 前者は《仏性を宿すひと》であるが 後者は

 ◆ (η) 既に仏性法身如来に背くが故に妙経の体に非ざるなり

 と言います。この一文の意味を問いま...続きを読む

Qもし10万人の人が一斉に南妙法蓮華経を唱えたなら

 
 

もし10万人の人が一同に集まり、一斉に南妙法蓮華経を唱えたなら、
それはオーケストラをも遙かに凌ぐ大音響を生み出すはずである。

しかし果たしてそれは勝利に向けて大躍進をしたといえるであろーか。
 
 

Aベストアンサー

まず千人で神を称えた例を考えてみたらどうでしょうか。ご存知かもしれませんが、マーラーの「千人の交響曲」など、参考になると思います。以下のラトルの指揮の動画には、日本語の歌詞がついていますので、歌が神を讃えるものであることがすぐに分かるでしょう。
http://www.youtube.com/watch?v=-Wi1j-rpcEw

いろいろな指揮者を聞き比べると、まとめることがものすごく難しい曲であるようです。千人でこれだけ大変なのですから、十万人となると、どうなってしまうことやら。しかし卓越した指揮者がいれば、十万人でやることもできるかもしれません。

勝利に向けての躍進かとお尋ねですが、それは、人それぞれの感じ方次第だと思います。マーラーは「神」といったところで、ユダヤ教でもキリスト教でもない、普遍的な神を想定していたようです。私はこの第八交響曲を聴いて、十分に感動しました。すると、十万人のお経が成功したら、勝利への躍進と私は感じるかもしれませんね。何教であるかが問題ではなく、十万人が見事に声を合わせられたということが問題なのですけれども。

ちなみに、千人ですでに、普通のオーケストラの音量は凌駕していると思います。動画で確認できますが、オーケストラも普通の数倍の数がそろっているでしょう。

まず千人で神を称えた例を考えてみたらどうでしょうか。ご存知かもしれませんが、マーラーの「千人の交響曲」など、参考になると思います。以下のラトルの指揮の動画には、日本語の歌詞がついていますので、歌が神を讃えるものであることがすぐに分かるでしょう。
http://www.youtube.com/watch?v=-Wi1j-rpcEw

いろいろな指揮者を聞き比べると、まとめることがものすごく難しい曲であるようです。千人でこれだけ大変なのですから、十万人となると、どうなってしまうことやら。しかし卓越した指揮者がいれば、十万...続きを読む

Q創価学会に入信しなくても南無妙法蓮華経を唱えれば・

創価学会に入信しなくても、仏壇を買わなくても、南無妙法蓮華経を唱えれば

状況が好転するのでしょうか?

回数(時間)は皆さん、どの位されるのですか?

沢山唱えれば唱えるほど、御利益があるのでしょうか?

その人は多い日は毎日何時間もやっているそうですが、

確かにやっている知り合いを見ていると、びっくりするような方法で悩み解決が起こっているが・・・

Aベストアンサー

創価学会 壮年部の者です。

>創価学会に入信しなくても、仏壇を買わなくても、南無妙法蓮華経を唱えれば
状況が好転するのでしょうか?

何らかの状況の変化は出るでしょうね。しかし、それが好転かどうかは分かりません。

要は貴方の心の問題なのです。創価学会を肯定するか否定するか。これにより、同じ題目を唱えたとしても、全く違った結果になります。今すぐ御本尊を御安置出来ない場合もあれば、ただ単に創価学会が嫌で入信したくない場合もあるのですから。

どちらですか??

それともう一つ【ここが大事】、『創価学会員にしか出来ない事。』があります。それは、折伏といって『法を広める事』です。実は題目も大事ですが、この『他人に法を広める』事こそ創価学会員にしか出ないことであり、これこそが仏のお手伝いをすることでより多くの功徳を積むことになるのです。



>回数(時間)は皆さん、どの位されるのですか?

私は、1日30分くらいですよ。
多い時で、1時間~3時間くらいです。

>沢山唱えれば唱えるほど、御利益があるのでしょうか?

ありますよ。


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