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川中島の戦いで、4回目で武田信玄と上杉謙信の一騎打ちがあったって本当ですか。

A 回答 (8件)

歴史と歴史物語を一緒にしなさんな


そんな歴史書 何処にもない
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この回答へのお礼

2000冊ぐらい歴史書を
みなさい。

お礼日時:2017/06/22 11:11

あったとするのは歴史のロマン。



激戦ではありました。

(下剋上で新参の信長は、飛び道具使い。
 勇壮な武士の面影は微塵にもありません。)
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この回答へのお礼

コメントありがとうございました

お礼日時:2017/06/18 07:50

その昔、教育テレビで歴史探訪なる番組がありまして、武田信玄ー新田次郎、


天と地ー海音寺潮五郎の2人の著者が、この件で顔を真っ赤にして激論しました。
新田次郎は大将同志の一騎打ちなど有り得ない、海音寺潮五郎の方は通常は有り得ない
ですが、この2人の場合は特別な意識を双方が持っていたので、一騎打ちは有ったと、
持参した古文書を差し示しての各々の持論を展開した論争でした。
結論は現時点は出せないが、将来、新たなる古文書が発見されれば、解るかも
知れない、という事でまとめられました。
司会のアナウンサーが口を挟む間がない程の激論でしたが、相手が発言している間は、
口を挟まない真摯な姿に、時代小説家は違うの世界の人間なのか?と感銘しましたね。

国会の答弁で、はぐらかす事しかせず、まともに答弁しない、情けない安部総理大臣に、
2人の作家の爪の垢を煎じて飲ませたいものです。
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この回答へのお礼

コメントありがとうございました

お礼日時:2017/06/18 07:50

はじめまして



川中島合戦は都合5回行われ、そのなかで第4回目の合戦が一番激しかったといわれています。

一騎打ちがあったと書かれているのは武田方の「甲陽軍艦」です。武田方武田信繁と山本勘助が討死し、多数の死傷者が出たことは史実と甲陽軍艦は符合します。しかし、合戦の細部までどこまで甲陽軍艦が正しいか、多くの疑義が呈されているのです。

甲陽軍艦では「萌黄の胴肩衣きたる武者」が「白手巾にて、つふりをつつみ」、太刀を鞘から抜いて信玄の床几にむかって真一文字に進むと、太刀を振り上げ、「三刀伐奉る。信玄公たつて、軍配団扇にてうけなさる。後みれば、うちはに八刀瑕あり」とあります。総大将たる信玄がまさに危機的な状況だったということです。これを甲陽軍艦では合戦後に「「其武者、輝虎(謙信)なりと申候」 」としています。

一方、上杉家の「上杉家御年譜」をみると武田信玄に斬りかかった荒川伊豆守という武将のことが書かれています。「上杉家御年譜」はこう記しています。 「(伊豆守が信玄へ)三太刀マテ討共(うつとも)徹セズ、信玄太刀ヌキ合スル間モナク、團(うちわ)ヲ以テ受(うけ)ハツス」、伊豆守が三太刀、信玄へ斬りかかりますが、うまくかわされ、信玄は執拗な伊豆守の攻撃を何とか軍扇でかわしたというのです。

さあ、こうなるとどちらの記事を信用すべきだと思われますか? 武田方にすれば、総大将たる信玄が無名の武者にあわやというまで追い詰められたのではさまになりません。そこまでおいつめられたのは名将謙信だからこそだろうということしょう。上杉方にすればどうでしょう、もし謙信が信玄をおいつめたのならば、謙信の名声をいっそう高めるものなのですから、記載しないわけがありません。

甲陽軍艦は江戸時代にベストセラーになり、信玄、謙信の一騎打ちは広く流布しました。そりゃそうですよね、戦国時代の両雄が一騎打ちの方がドラマティックです。でも、どうやらそうではなさそうですね。

信玄と謙信の一騎討ちは史実か?
http://ironna.jp/article/998
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2017/06/13 03:42

No3の細かすぎるどうでも良い訂正



誤 信玄の戦術は
正 武田軍の戦術は
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その当時の戦況の変化を見ると、十分ありえると思います。




戦況の説明ですが、まずこの戦いは「霧の中の遭遇戦」は誤りで、両陣営とも予め戦場になる場所を予想して霧が晴れるのを待っていました。武田軍は数的有利を活かして、予め予想される上杉軍と挟撃できるように二手に部隊を分けます。

しかし霧が晴れたら、武田信玄の部隊の目の前に上杉軍主力部隊がいました。
信玄の戦術は常識的に考えるとまともで、秀でていましたが、その常識的な優秀な信玄だからこうするという事を謙信は見抜いていました。


この時点で信玄は、数的有利を無為にし、霧が晴れたら目の前に上杉軍がいるという事実に武田軍はパニックになり、信玄自身もあせって陣形を鶴翼の陣にします。おそらく、信玄はこの状況を見て謙信は大群で突っ込んでくると思ったのでしょう。

しかし謙信は、その対策も熟知していて、翼の先端を攻めます。普通の戦法では鶴翼の陣の両翼だけ都合よく削るなど出来ません。この方法は、いわゆる「車懸り」ではないだろうかいう研究者もいます。

(後出しじゃんけんですが、これは信玄の失敗です。しかし、霧が晴れた時点で信玄の目からは上杉軍は半円の陣に見えました。霧が濃いので後方の陣は見えなかったので、半円だろうと判断したのでしょう。半円の陣だと上杉軍は直進してくると理解するのは当然です。その戦術に強いのが鶴翼の陣ですので信玄の判断は間違いではありません。実際は半円ではなく円形の陣で、その陣を巨大なチェーンソーのようにぐるぐると回るように相手の両翼先端を削り取るように攻めたのが「車懸り」の正体ではないかと考える研究者もいます。こんな戦術は謙信しか使わないので謎が多いですが。)




両翼が削られると、信玄は謙信に包囲される形となります。
それの対策は、中央(信玄のいる部隊)の部隊を翼の先端に移動させます。これで謙信に包囲されるのを信玄は防ぎます。

並みの武将なら、一瞬で謙信が圧勝するような状況でしたが、信玄や勇敢な武田軍はこのようにして謙信の猛攻を耐えます。
そうしている間に、挟撃する予定のもう一つの部隊が上杉軍の後方に近づいてきます。


謙信もその事には気づいていますので、このままでは武田軍と挟撃され壊滅するという状況を理解します。


そして謙信は、敵中突破して撤退する。という選択をします。

先ほど説明したように、上杉軍の攻撃により武田軍の両翼先端が削られるのを防ぐために武田軍は両翼がもっとも厚い壁となり、中央が薄い状態です。その薄い中央めがけて、上杉軍が全軍で敵中突破を図ります。
中央には勿論、武田信玄がいます。


しかも謙信は戦国武将では珍しく、軍の先頭を走って戦っていたという説もあります。普通の戦国武将同士ならば、このような状況でも雑兵と敵武将が交わるならまだしも、武将同士が交わるのはありえません。しかし上杉謙信は、武将自ら先陣を切っている事も珍しくないという説が有力で、この敵中突破も先陣を切って軍を率いていれば、謙信と信玄が遭遇する事もありえる話です。

実際にあるかどうかは分かりませんが、このような状況を考えると一騎打ちがあってもなんら不思議ではありません。
(一騎打ちといっても、的中突破をする際の馬上のすれ違いざまに一太刀程度の話だとは思います。)






参考
『川中島合戦:戦略で分析する古戦史』
海上 知明 (著)
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2017/06/13 03:29

あったと書かれている書物があるということなので


その書物の信憑性がどうかというのがポイント

軍勢同士の正面衝突はあった
が、双方の大将が単騎で直接なんてあり得ない

側近や護衛の兵はどこに居たの?ということ

一方だけが混乱に紛れてというならまだしも、両方がという時点であり得ん
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この回答へのお礼

良いコメントありがとうございます

お礼日時:2017/06/11 21:09

私は一騎打ちが有ったと思っています。


信玄の啄木鳥戦法を読んで、謙信が信玄の本陣を急襲、武田信繁や山本勘助が討ち取られる程の激しい乱戦になっています。
さらに謙信は単騎で敵陣の前に出たり、部下が従わないと単独で出奔するような武将ですから…。
検証不能な部分が多いですが、一騎打ち、有ったというのを信じます。
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この回答へのお礼

自分もそう願いたいです。
良いコメントありがとうございました

お礼日時:2017/06/11 21:14

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