dポイントプレゼントキャンペーン実施中!

タイトルのままです。

指揮官が優秀だったり、とてもすごい作戦だったり、兵士が勇猛だったりしたのに、結局は戦略で優勢を作れなかったがために敗れてしまった例を教えてください。

武力衝突に限らず、政治、経済なんでもよいです。

親戚の子供に教えてあげたいので、「強いていえば・・・」的なものではなく典型例をお願いします。

A 回答 (14件中1~10件)

 第二次ポエニ戦争(B.C.219~201)とかどうでしょう。



 ハンニバルに率いられたカルタゴ軍はアルプス越え、トレビアの戦い、トラシメヌスの戦い、カンナエの戦いと戦勝を重ねながら、徹底的に戦いを避けつつ焦土戦術に討って出たローマ軍ファビウス・マクシムスの作戦にしてやられ、ローマの同盟都市も離反させられなかったことから追いつめられ、最終的にはザマの戦いで敗北を喫し、戦争自体がカルタゴの敗戦に終わりました。

 特にカンナエの戦いでは、当時地中海世界で最強とうたわれていたローマ市民軍八万を相手に五万の兵力で包囲し、ほとんど全滅させてしまったにもかかわらず、これで戦の帰趨が決しなかったのは驚きです。上段ではもっともらしく書きましたが、わたし自身いまだに得心してません。
 つまるところが将軍だけ優秀でも戦には勝てない、戦場で強いだけではダメだという典型かと思います。
    • good
    • 0

私はポエニ戦争一択なんですが、帝国陸軍の分進合撃の模範として名高い大陸打通作戦を挙げます あとは有名なとこでエピロス王ピュロスのヘ

ラクレアの戦い、アスクルムの戦い(ピュロスの勝利)などどうでしょう 何れも大勝利したのに結局負けた残念な戦いです
    • good
    • 0

  幾多の戦いの中でもガルフウォーですね、旧ソ連製戦闘機が優れたFCSを持っていたのに



  E2C,プラウラーのECM等により制空権がなかなか取れず、イラクより極秘に参加していた

  MIG29 SU27 など最新鋭にかかわらす取れていた制空権を早期に引き渡す格好に

  なってしまいました、だから実際に多国籍軍に先手を奪わられてしまったのは

  電子戦機の活躍によるものでしょう

  ソ連本国からはMIG25Kが中東をマッハ3.5で空撮出来たのが関の山でした

  実際仏軍より参加した私などは高高度MG25には全く追いつけなかったですね、

  SR71より速い25は何処の戦闘機もまるで追いつけなかったですが、一方で重要な作戦で

  イラク戦闘機温存出来たのが唯一の戦果だったのではないでしょうか。

  地上戦ではイギリス軍がZSUシルカ、スティンガーによりかなりの被害を出しましたが。
    • good
    • 0

第二次大戦におけるドイツとソ連の戦い、いわゆる独ソ戦がそれにあたるんじゃないですかね。

1944年のドイツ軍最後の大攻勢「クルスクの戦い」以前でソ連軍がまともに勝利したなんてのは最初の冬のレニングラード攻防戦とモスクワ攻防戦、あと転換点になったスターリングラードの戦いくらいで、ソ連軍はあとはせいぜい引き分けか勝ち負けでいうなら負けみたいな戦いばかりでしたよ。

前線の指揮官の質は上級将校から下士官に至るまですべてドイツ軍が上。なにしろ、ソ連軍は優秀な将校はみんなといっていいほどスターリンの粛清にあっています。ジューコフ将軍とか一部だけですね、ソ連軍で有能な将校が生き残ったのは。
もちろん末端の兵士に至ってもドイツ軍が上です。ソ連軍ときた日にゃ、「おーい、イワン。お前トラクターが運転できるんだってな」「へえ。兵隊になる前は運転していましただ」「そっか、じゃあお前今日から戦車兵な。今から乗り込め。使い方はだいたい分かるな?」「へえ。まあこれならだいたい分かりますが」「んじゃ今から出撃ね。いってらっしゃい」ってこんな感じ。ソ連軍のタンク・デサント戦術の兵士の平均寿命は「2週間」なんですって!

戦車の質も、確かにソ連のT-34戦車は大戦中最も成功した戦車で、最もバランスに優れていましたが、個別の性能ならドイツ軍のタイガー戦車やパンター戦車のほうが優れていました。ただ、生産量があまりに違いすぎたので圧倒できましたけどね。「空前にして絶後の大戦車戦」になったクルスクの戦いではドイツ軍はソ連軍戦車をちぎっては投げ、ちぎっては投げたんですけど、それを乗り越えて前進することはできませんでした。


あとは、有名どころでいえば三国志の蜀と魏の戦いでしょうね。
諸葛孔明は都合7度の「北伐」と呼ばれる魏への攻勢作戦を行いました。蜀と魏の国力の差は圧倒的で、なにもしないと国力の差がモノをいって蜀は滅亡してしまいます。蜀は国力がないのに魏に攻め込むのですからその度に国力を消耗しジリ貧になっていくのですが、「攻めないと満を持して攻め込まれたら防げない。攻めても国力が消耗する」というジレンマに陥ります。名軍師として有名な諸葛孔明でさえ状況を打開できなかったのですね。
対する魏の司馬懿はそれを見抜いていましたから、孔明に攻められても無理をせず「国力の差から来る豊富な戦力を頼りにひたすら防衛して現状を維持する」ことに専念しました。「どのみちいつまでも続くものではない」と分かっていたのです。かくして、諸葛孔明が陣没すると司馬懿は満を持して蜀に攻め入り、蜀は姜維の善戦があったものの滅亡します。
    • good
    • 0

よく言われるのは小牧・長久手の戦いですね。


局地戦で家康は勝利し、池田恒興などの有力武将を討ち取りましたが、大勢は覆らず同盟者の織田信雄が秀吉と講和し、自らも講和せざるを得なくなります。
それと秀吉の九州攻めでしょうか。
先発の四国勢を島津勢は破り、長宗我部信親を討死させていますが、結局はその後の大規模な軍勢投入によって各地で敗北し、降伏を余儀なくされています。
    • good
    • 0

 ベトナム戦争におけるアメリカ、そして近くはイラク・アフガン戦争におけるアメリカ。

共に「大義なき戦争」は真実の前に敗れ去った。
    • good
    • 0

>何がどうだったのかを詳しく教えていただけるとありがたいです。



「陸軍大学教官当時、日本の軍人から関ヶ原の戦いの東西両軍の布陣図を見せられ、「どちらが勝ったと思われますか?」と質問された際、「この戦いは西軍の勝ちである」と答えたという。布陣図から見ると東軍を包囲する様、鶴翼の陣に布陣した西軍が有利であると判断したメッケルの分析は正しいものであったが、東軍側が西軍諸大名に対して盛んに調略を行い、離反や裏切りを惹き起こした事実を聞くと、改めて戦争で勝利するには調略と情報収集・分析が必要であるかという事を強く指導する様になったと言われている」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AC% …


まだ出ていない例ではビデオでソニーのベータ対VHS戦争
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%87% …

技術的に優れたベータ勢であったが、アダルトレンタルビデオの普及が
一気にVHSの普及を後押しして一敗地にまみれた。子供向きじゃないね(笑)
    • good
    • 0

関ヶ原の戦い



大阪夏の陣
    • good
    • 0

 中国史で良ければ、項羽と劉邦の関係が好例かと思います。


   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%9A%E6%BC%A2% …

 項羽は、彭城の戦いで劉邦等が率いる56万の敵を、たった3万!!の兵で打ち破るほどの猛将でした。
   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%AD%E5%9F%8E% …

 ですが、劉邦は優れた家臣の支えの元、項羽のいない後方での勝利を積み重ねる事(直接戦うと負けてしまう…。)で、継戦能力を奪い、垓下の戦いで項羽に対する唯一の完全勝利を達成し、楚漢戦争を終結に導きました。
   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9E%93%E4%B8%8B% …
    • good
    • 0

戦国時代


武田信玄と上杉謙信の川中島の合戦。

数で勝る武田軍に対して上杉軍は、敵の夜襲を読んで、少数の手勢で武田の夜襲部隊をを迎え撃ち足止めをする。
その間に上杉軍の本隊が手薄になった武田の本陣に総攻撃を掛ける事で、兵士数の不利を戦略で補い五分五分の戦いに持ち込む事に成功。

上杉軍の勇猛な武将(一説には謙信本人)が武田の本陣に切り込み信玄に一太刀、二太刀を浴びせたとも言われている。
しかし、少数の手勢で守っていた山腹の砦が陥落すると武田の夜襲隊が上杉軍の後方から攻め寄せて来た。

前後から挟み撃ちにされる形となった上杉軍は敗走を余儀なくされる事となる。
戦略的には上杉軍の勝ちではあったが数のハンデを完全に跳ね返すまでには至らず上杉軍は苦敗を喫した。
上杉軍の数のハンデがもう少し少なくて、夜襲を迎え撃つ防衛隊の数を多くする事が出来たなら゛歴史は変わっていたかもしれません。

第二次世界大戦
硫黄島防衛作戦。

日本軍は空からも海からも支援を受けられない孤立無援の状態。
硫黄島の守備隊は2万3千(諸説有り)、対するアメリカ軍の部隊は無尽蔵と言ってもよいくらい大勢。

日本軍には強力な火器は少数しかなく、水も食料も弾薬も医薬品も無い、無い無いづくしの状態。
凄まじい艦砲射撃と激しい空爆の後に、アメリカ軍は日本軍の2倍以上の5万人の兵力で上陸を開始した。

アメリカの参謀本部の見込みでは早ければ数日、遅くても一週間以内には硫黄島を完全制圧出来る筈だった。
しかし、日本軍の激しい抵抗にあったアメリカ軍は海岸線に釘付けとなり、多くの犠牲者を出して一時退却を余儀なくされた。

作戦の甘さと日本軍の底知れぬ強さを知ったアメリカ軍は再度体勢を立て直し、兵力を6万に増強して再上陸を慣行。
しかし、アメリカ軍の武器を奪って戦ったり、燃料の無い戦車を地中に埋めて堅固なトーチカとして抵抗するなど、限られた物資と戦力を最大限に活用して抵抗する日本軍。

一週間どころか、硫黄島守備隊は約一ヶ月間もの長期に渡ってアメリカ軍と死闘を繰り広げた。
近代戦争における上陸作戦で、上陸する側の死傷者の数が、上陸される側の死傷者の数を上回ったのは、この硫黄島上陸作戦だけです。
(日本軍の死傷者数約2万1千、アメリカ軍の死傷者数約2万3千。ただし、死者数のみでは日本軍のほうが圧倒的に多い。)

数の優劣を加味して考えれば、日本軍の守備隊の大勝利とも言えるほどの戦いぶりであったが、圧倒的な兵力と物量の前に硫黄島は陥落する事になる。
(アメリカも日本も混乱していた時期なので、戦闘の状況や死傷者の数などさまざまな情報には諸説有りますので、ご参考までに)

ご親戚のお子さんに話しをしてあげるつもりなら、ご自分でも少しネット検索などで調べて知識を深めてからお話をされた方が良いと思います。
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!