プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

1. 人知を超えているなら その内容は われわれ人間に分かるか
分からないかは分からない。

2. なら そのように《想定》するよりほかにない。というだけの
ことではないのか?

3. 無限は 二で割っても三で割っても その商は もとの無限の
ままであって いっさい変化しない。つまり 絶対である。

4. この絶対・無限なる神を 人間はどうやってつくったと言うの
か。

5. 人間にできることは この《神とわれとの関係》を 《〈無い
神〉とわれとの関係》として捉えることだけだ。

6. むろん《〈有る神〉とわれとの関係》として おのが信教・良
心のあり方をえらび決めることも ひとしく出来る。




7. いづれにせよ 《絶対とわれとの関係》は――感覚やいかなる
思考をも超えて――成り立っている。人間の生まれつきなる自然本性
において成り立っている。

8. したがってこの関係は 《考えるや 感じる》を超えて《信じ
る(つまり 無条件・無根拠にて心に受け容れる)》と呼ばれる。

9. 信教・良心の自由は この《分かるか分からないかが分からな
いナゾ》との関係ゆえに 成っている。

10. 言いかえると どの名のついた神をえらぼうが まったくそ
の人の自由である。《有る神》だけではなく 《無い神》をえらぶの
も まったく同等に自由だ。

11. これが 人間の条件である。ひとのあたえられた絶対的な条
件である。


12. 少しでも《考える》の入った・つまり思想としてのオシヘを
人間は《信じる》ことはない。あり得ない。考えは 信じるのではな
く 考えるのである。

13. 倫理思想などのオシヘを信じるならそれは 人間の条件およ
び信教良心の自由に反する。

14. つまり オシヘを信じなさいと説く宗教は 人間性に悖る。
それは 非人道的な人間のおこないである。人道・平和の罪を犯しつ
づけている。

☆ 質問でないところは 質問の趣旨をおぎなう説明として受け取っ
てください。

15. 宗教の説く神は 思想――いかに神秘的であろうと経験思想
であるオシヘ――におけるものとして 人間のこしらえたものである。

16. わたしたちは 《ふるい人間》を脱ぎ捨てなければいけない。

質問者からの補足コメント

  • №2お礼欄よりつづく。

    いちばん分かりやすい説明用語は 《補助線》です。つまり神なる
    ナゾ――それは 人知を超えているからには――を知るに到る道を
    探し求めたときに見つけた〔と思った〕一つひとつの まだなお
    補助線なのです。里程標です。

    《かみ》という言葉が シルシであり 神なる内実を知ろうとする
    ときの補助線なのです。

    《窓枠》論からさえも自由なのです。神なるナゾは。
    (補助線であることは 窓であると見られるかも知れませんが)。

    ★ ~~~~~
    窓から差し込んでくる光は、外からのともし火なのか、あるいは自
    らの生命のともし火がハーフミラーに反射したものかも知れない。。。

    「ともし火に我もむかはず燈(ともしび)もわれにむかはず己がま
    にまに」(光厳院)
    ~~~~~~~
    ☆ つまり《ともしび》も なおまだ補助線だということが 神論
    におけるキモだと考えます。

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/08/20 10:44
  • №3お礼欄よりつづく。

    先験的というとき その先験的な何かは すでに経験存在としての人間に
    ――先天的に――そなわっているというような見方も出て来ます。

    フッサールの純粋意識ないし本質直観などは これも むしろわれわれ人
    間の精神の極みといったように 経験事象としてそなわっているかに見ら
    れます。

    ダメ。これらの理論は いけません。

    指とナゾ本体とが 勝手に(人間の理論づけにおいて)つながっている。
    こんな神は いません。


    もし神〔の霊 あるいは ブッダター(仏性)〕が 人間にやどるという
    ではないかと反論されるなら それは そういう《想定》だと答えます。

    《非知》だから 想定が活きますし 有効です。

    《指とナゾ本体とがつながっている》と捉えるのなら 《非知》ではなく
    人知にとって《可知》だと言っているのです。

    そんな神は ただ人間がこしらえただけのものです。

    No.3の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/08/20 13:34
  • 39. 浅田彰の文章は 全体としてよく分かりません。

    40. ▲(浅田彰) ~~~
    「分有(分割=共有)」 partage ・・・。
    人間はばらばらに分割されているが、まさしくそのように分割されている
    ということを共有する、というわけだ。これはいわば不在の共同体/共同
    体の不在をもって実質的な共同体に代える、共同体の否定神学とでも言う
    べきものではないか。
    ~~~~~~
    ☆ 《人間はばらばらに分割されている》 これがわたしには はっきり
    しません。

    41. あとで 《共同性》を打ち出そうとするのなら もともと《人間
    は 何らかのつながり・絆があるのだ》といった前提をすでに持っていて
    それを みちびくことが出来た。――と言って喜んでいる。

    42. 否定神学――つまり 神を前提とした議論――であるなら そう
    いった邪推を招きかねません。

    43. それを《超える》も何もないと思います。

    No.6の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/08/21 02:34
  • ★ (回答№2) ~~~~
    窓から差し込んでくる光は、外からのともし火なのか、あるいは自らの
    生命のともし火がハーフミラーに反射したものかも知れない。。。

    「ともし火に我もむかはず燈(ともしび)もわれにむかはず己がまにま
    に」(光厳院)
    ~~~~~~~~~~
    ☆ 《生命》は 神であるかも分かりません。神を指し示すシルシであ
    るかと思います。――見落としてすみません。

    《外からのともしび》は その時その場の心理的なウゴキに影響します。
    相手の発言などで こちらが快活になったり悲しんだり。

    医療をほどこすことも そのともし火ですね。

    生命のともし火となれば 心の奥の芯に火がともされることではないか。

    そのともし火のもとにあれば 喜怒哀楽など相手との心理的な相互作用
    をすべてそのまま受け留め処理して行ける。

    これは 個人の主観としての神観だと見たほうがよいかも知れませんが。

      補足日時:2017/08/21 09:18
  • ☆☆ (四つ目の補足欄) 個人の主観としての神観
    ☆ この場合の――つまり 個人個人にとっての《神とわれとの関係
    (つまり 信仰)》において持たれる場合の――神は あくまでそれ
    ぞれの主観の内面にとどまります。

    主観の外には出かけません。

    その神観ないし神体験を他人(ひと)に話してもよいのですが それ
    は やはり非知の状態にとどまります。

    仮りに相手が あぁそうだったのか じつはわたしも同じ神を体験し
    たんだよと言ったとしても それは 確かな事実とはなりません。
    (成るか成らないか分かりません)。

    つまり もし二人の主観における神が同じものだったとします。とす
    れば その神を人知が知り得たことになります。知ったから 互いに
    同じだと分かったのですから。

    ですが 知り得た神は すでに既知でありそれは 非知ではなく ふ
    つうの経験事象に属することになります。非知をつらぬくべきです。

      補足日時:2017/08/21 09:32
  • K-じねんさん ガラスの靴さん ご投稿をありがとうございます。

    趣旨説明をかんたんにしたあたらしい質問に引き継ごうと思います。

    よろしくどうぞ。

      補足日時:2017/08/25 13:02

A 回答 (13件中11~13件)

#3です



「超越的であろうと超越論的であろうと非知であろうと可知であろうと」という概念に関わらずということです。それらは窓ガラスに写し出される景色の一場面に過ぎません。

線や面は、そういった概念よりも単純化され、分かりやすくするという側面を持つだろうと思うからこそ持ち出すものです。でも、単純化されると誤解も産みやすいということも確かです。

「神」という言葉・概念にも同様のことが言えるでしょう。子供にも分かりやすく教えることができる様な言葉・概念であることが、自ずから、そのことを物語っています。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 「超越的であろうと超越論的であろうと非知であろうと可知で
あろうと」という概念に関わらずということです。それらは窓ガラ
スに写し出される景色の一場面に過ぎません。
☆ 《超越的》は 超経験として神にかかわり得ますし 《超越論
的》もいわゆる形而上のものとして神のことを扱い得ます。という
但し書きを添えつつ ここでは 《非知》だけは 別です。と言っ
たほうがよいでしょう。

《非知――非経験の場――》は 《窓枠》などはあり得ないのです。
仮りに補助線としてあるとしても 《窓》であるのかどうか どう
いう写像が得られるか そういうことは分からないのです。

分かるか分からないかが わかりません。



★ 線や面は、そういった概念よりも単純化され、分かりやすくす
るという側面を持つだろうと思うからこそ持ち出すものです。でも、
単純化されると誤解も産みやすいということも確かです。
☆ 微妙ですが そういう問題ではありません。《誤解を生む》か
どうかにかかわる《かたち または 像》が 非知には馴染まない
のです。

非知は いっさいのかたち(経験事象)を超えているのですから。

むろん かたちあるもの(=言葉≒概念)をシルシとして用います
が その形は 非知なるナゾ本体とはイコールではありません。補
助線です。



★ 「神」という言葉・概念にも同様のことが言えるでしょう。子
供にも分かりやすく教えることができる様な言葉・概念であること
が、自ずから、そのことを物語っています。
☆ たとえば《ナゾ》と言えると言えば 言えます。ですが この
ナゾという言葉は 経験的なものごとについても普通に使います。

ナゾが 既知か未知かもしくは不可知かであるとき そのナゾは
経験事象です。

けれども 《非知 すなわち 知り得るか知り得ないかが知り得な
い》たぐいのナゾであるならそれは たしかに神の問題になります。

そのあと (10)に示したように この非知なる神は――けっき
ょくいわゆる普遍神のことであって―― 《有る神》派と《無い神》
派とに 自由に分かれ 前者では いろんな名前がやはり自由にそ
れぞれの神につけられます。

そういう問題です。

(3)の無限が 特殊であって 経験事象を超えているということ
に留意してください。

お礼日時:2017/08/20 15:35

#2です。


油を売る時間、あれば良いですね。。。

さて、言葉・概念が、超えているであろうもの(哲学的には「超越論的[1]」とされる神概念)を表現しようとすれば、自ずから分かりやすいであろう喩えにならざるを得ないでしょう。
1次元であれば、仰られるところの線でしょうし、2次元であれば、窓の様な面でしょう。

でも少なくとも人間は3次元空間、そうしてプラス時間軸を含めれば時空連続体という4次元内にいるので、少なくとも、そういった次元を超える様な概念を扱う場合、認識しやすい3次元以下の線とか面が扱いやすいのだろうと思います。

[1]:https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/questio …
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。お忙しそうですね。

★ 哲学的には「超越論的」とされる神概念
☆ ここがすでに――と言っても これまでの定説のようなものですから
無理もないのですが―― 間違いをふくみます。

カントもフッサールも 絶対なる次元の神と相対なる世界〔の人間〕との
関係を 捉え損ねています。

超越論と言おうと先験的と言おうと 問題は 神が経験世界を《超えてい
る》と〔言ってよいと〕いうことです。



別の説明の仕方を導入します。認識のあり方にもとづき分類したものです。

 経験事象 (四次元の経験世界)
   可知 (人間がその能力で認識しうるとみなされている)
    既知(知り得たもの。間違っていたとあとで分かることがある)
    未知(いづれ知り得るだろうと見なされている)

   不可知(未知であって 知り得ないと証明されたもの)

 非経験の場 (経験世界を超えた場・チカラを想定)
   非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)

☆ 非知なる非経験の場が 《超経験》であり 神のことです。



カントらの場合は ひとつに論じ方を問題にしており もうひとつにけっ
きょく《経験世界 と 非経験の場》との関係についての説明があいまい
です。

言ってみれば プラトンのイデアのごとく 両者のあいだが――人間の理
性などの能力において――互いに通じていると見られています。そこから
間違いの起きることがあります。

人知を超えているのか・いないのか これが はっきりしません。


《神・絶対・無限》は シルシ=補助線としてつねに そのナゾ本体を指
し示すだけのものです。指の先にナゾがあるというとき その指(つまり
シルシとしての概念)を見ていては 間違います。

カントらにあっては この指とナゾ本体とが そのへだたりについて あ
いまいです。つながっている場合さえ見られます。

補足欄につづく。

お礼日時:2017/08/20 13:31

いや、おひさしぶりですね。



人が操ることのできる言葉・概念は、窓枠の形と方向性のみでしょう。十字の窓、丸窓、鍵十字の窓、三角を二つ重ねた様な星型の窓。。。

そうしてはめ込まれた様々な種類のガラスが、反射率や屈折率の差異に応じハーフミラーとして、自らの姿をあたかも窓の外の景色の様に重ね合わせる。。。

窓の向こう側に、言葉・概念の実態があるにしても、無いにしても、人類が知的に共有可能なのは「言葉・概念」という窓枠のみなのでは無いでしょうか?

窓から差し込んでくる光は、外からのともし火なのか、あるいは自らの生命のともし火がハーフミラーに反射したものかも知れない。。。

「ともし火に我もむかはず燈(ともしび)もわれにむかはず己がまにまに」(光厳院)
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

いやあ どこで油を売っていたんですか。
ともかく ご回答をありがとうございます。

★ 人が操ることのできる言葉・概念は、窓枠の形と方向性のみで
しょう。十字の窓、丸窓、鍵十字の窓、三角を二つ重ねた様な星型
の窓。。。
☆ ううーん。ちょっと簡単すぎませんか。

《相対・経験・有限》と言えば わが感性と思考とで知覚し認識し
得る――その意味での――現実世界のことを・つまりはそのような
内実のことを しっかりと表わし伝えようとします。

むしろ内実を窓枠で区切ったのであって そこからさらに主体たる
人間が――生きているからには―― ベクトルとして持つ方向性も
が持たれ得ますが あくまで意味内容としての内実が 重要でしょ
う。

しかも・特に この質問の主題のように《経験を超えた場(または 
チカラ)》について 概念整理するときには 最重要な論点でもあ
ります。


つまり 《分かるか分からないかが人間には分からないナゾ》につ
いては じつは・じつにその窓が《丸いか四角か三角かなど》はつ
いぞ分からないシロモノであると来ています。

つまりは 窓のかたちは どうでもよいものにすら なっています。

つまり 神は 概念としては操れても その内実は じつは 一向
に人間には分かって来ないのです。




★ そうしてはめ込まれた様々な種類のガラスが、反射率や屈折率
の差異に応じハーフミラーとして、自らの姿をあたかも窓の外の景
色の様に重ね合わせる。。。
☆ ですから こういう事情のもとにあるのは 言葉≒概念が 経
験事象を扱っている場合に限ります。


★ 窓の向こう側に、言葉・概念の実態があるにしても、無いにし
ても、人類が知的に共有可能なのは「言葉・概念」という窓枠のみ
なのでは無いでしょうか?
☆ ところが 超経験なる神に関しては 特殊なのです。《特異点》
を形成しているとすら考えられます。

なぜなら 《神・絶対・無限etc.》なることばは――《ナゾ》を扱
うからには――あくまで シルシなのです。《依り代》とも言いま
すし 誤解をおそれずに言えば《偶像》のことでもあります。

補足欄へつづく。

お礼日時:2017/08/20 10:39

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