人に聞けない痔の悩み、これでスッキリ >>

私たちは日々様々な選択を行いますが、共通して言えることはもっとも良いと思われる選択を常に行うという事です。
昼食のメニュー、商品の購入、進路の選択、他人の相談に対する回答、日々のありとあらゆる行動の基準が最善を選択しようとしています。
最善とは今持っている選択肢の中で最も良いと思われる選択肢です。
時間の経過に伴いこの選択は必ずしも最善ではなかったと思われる場合も出てきますが、その時点では最善を選んだはずです。
もっと言えば最善以外を選択することはできません。

この「最善を選択しようとする人の性質(物理現象と言ってもいいくらい)」を絶対善と呼べないでしょうか。

・絶対とは逆らえないという意味です。どんな場合も最善以外は選択できません。
・善とは最も良いと思われる選択です。

道徳的善悪にはその判断となる対象ががあります、人助けは善、人の物を盗むのは悪など。
しかし、絶対善には特定の対象はありません。最善と思われるものを選択するという原理だけです。
他人を傷つけることが最善と思われればそれを選択します。
この単純な原理は道徳的善悪の基礎になっています。
善行も悪行もその基礎に絶対善が含まれています。

ではすべての選択が絶対善に基づいているとすると悪とはなんでしょうか。
「地獄への道は善意によって舗装されている」なんて言葉が示すとおり、本質的に善には独善としての側面を持っています。
この『善』の暴走を阻止するため、リミッターの役割として『悪』という概念があるのではないでしょうか。
本人は最善を選んではいますが、他者から見ればそれは行き過ぎた善、他者の存在を考慮しない善です。
いい変えれば『悪』とは独善という名の『善』なわけです。
ゆえに悪の役割とは善に対するブレーキではないでしょうか。

ちなみに絶対悪はこの世界にはありません。
理由は簡単でコインの表のどこを探してもコインの裏がないのと同じです。
絶対善が支配するこの世界のどこを探しても絶対悪は存在しません。

お暇な方、お付き合いください

A 回答 (4件)

暇なので、つきあいます。



1> 合理的な選択ではなく、最善と思われる選択をしているということです。非合理であっても最善であれば良いのです。 後に後悔したとしてもその時には最善と思ったはずです。

そもそも選択という言葉をこのような例に使用することに問題があります。日常行動であれ、特異といえる行動であれ、意識的な選択はほとんどの場合行われません。 たまには意識的選択をすることがありますが、それも「これが善」「これがより善」という選択をすることはまれで、うまい、好き、面白そう、楽そう、楽しそう、安い、危なくなさそうというものが多く、「善悪」のような基準を使うことはないです。 重大な特異行動を決する場合も「決意する」のであってoff⇒onで、選択ではないし、善悪でもないです。
「昼食のメニュー、商品の購入、進路の選択、他人の相談に対する回答、日々のありとあらゆる行動の基準が最善を選択しようとしています。最善とは今持っている選択肢の中で最も良いと思われる選択肢です」と言うのは、用語の使用から間違っています。
この質問に対して、暇だからつきあっていますが、他の行動や無行動と比較選択したのでもないし、義務と考えたのでも、好きだ興味があったという訳でもないです。これらのことをとりまとめて「最善を選択しようとしている」というのは、判定ではなくて、ただそのように言っているだけです。

2> 本質的に善には独善としての側面を持っています。

「昼食のメニュー、商品の購入、進路の選択、他人の相談に対する回答、日々のありとあらゆる行動の基準が最善を選択しようとしています。最善とは今持っている選択肢の中で最も良いと思われる選択肢です」と言うおかしな定義の仕方をすれば、独善もへったくれもないです。 
人の行動を選択の結果と見なし、その行動選択を最善の選択だと見なす以上は、どのような行為だろうが、最善であり、独善であるのは当たり前です。 本質とか側面とかとは関係ないことです。

3> 絶対善には特定の対象はありません。最善と思われるものを選択するという原理だけです。

「最善と思われるものを選択するという原理」のことを「絶対善」と称するということでしょうか。そして「(誰でもいつでも例外なく)最善と思われるものを選択する」のであれば、「絶対善」という用語を定義する有用性はどこにあるのでしょう。 無意味な行為をしているようにしか私には思えませんが、そうした行為をすることが質問文投稿時には最善であったということでしょうか。
そして《絶対善という原理》が《独善》を作ることになるのは当たり前です。 しかしそのような用語の使い方をする必要性が私には理解できません

4> この単純な原理は道徳的善悪の基礎になっています。
5> 善行も悪行もその基礎に絶対善が含まれています。

「(誰でもいつでも例外なく)最善と思われるものを選択する」のであれば、悪行でも、惰眠でも、最善な選択という定義内で解釈すべきことはわかりますが、道徳的善悪という中の道徳的悪も「絶対善」を基礎になされるというのは、わかりにくいというか、一般受けしにくいでしょう。 

6> 「地獄への道は善意によって舗装されている」なんて言葉が示すとおり、本質的に善には独善としての側面を持っています。

「地獄への道は善意によって舗装されている」という言葉とは全く関係がなく、質問者の言葉の定義が善をすべての行動の原理としていることから発生するのが、善と独善の不可分一体の関係です。
「地獄への道は善意が敷き詰められている/怠け者だったら友達を作れ・友達がなければ怠けるな」のような警句や箴言に善・善意があっても、道徳教育に善意や善悪という文字があっても、それらは、質問者が定義使用している用語の最善や絶対善とは関係がないです。

7> この『善』の暴走を阻止するため、リミッターの役割として『悪』という概念があるのではないでしょうか。

何を言っているのか本人はわかっているのだろうかと疑問に思います。 絶対善という名の最善の選択の原理でやっているのが、すべての行為だと言っていたのです。 危険だろうが、殺意だろうが、盗みだろうが、詐欺だろうが、過食暴食拒食だろうが、社会や他人に対する暴力行為だろうが、何でも最善の選択なのですから、悪というリミッターとか、危険というリミッターとか、恐怖というリミッター、道徳や法令・慣習というリミッターの存在理由や概念の役割を新たに持ち込む有用性はないです。 そんなリミッター・ブレーキがないとうまく働かない最善や絶対善なんてのを考えているのがおかしさの源だとは思わないのですね。 言い出したときには、そのような絶対善や最善の選択という概念定義がまともだと思っちゃったので、あとで、それを修正したくて、悪の役割などを考えたくなったということでしょうか。

ばかげたおつきあいをしてしまった。 暇って、ろくでもないことに走らせるものです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>たまには意識的選択をすることがありますが・・・「善悪」のような基準を使うことはないです。

意識的かどうかも問題ではありません。無意識だろうと感覚的だろうと自暴自棄だろうと持ちうる選択肢の中で最善の選択および行動を取ると言うことです。

******最善以外の選択や行動は出来ません******

これは法則といってもいいくらいなので人間の意思の問題ではないでしょう
実際にご自身でやってみれば分かります。意識的であろうと無意識であろうと最善じゃない選択が出来るかどうか。

ここが理解できないと質問内容が全く理解できないと思いますのでこれだけお答えしておきます。
非常識なことを文字数が限られている中で書いていますので言葉足らずなのは自覚しております
<(_ _)>

お礼日時:2018/03/17 22:54

質問者さんの絶対善は思考ですよね。


心理は、最も良いと思われる選択は、常ではないですね。

欲望に任せたり、経験に委ねたり、咄嗟に、というような瞬発的な感覚に疑問を抱く間も無くで、その瞬間は、選択している意識はありません。

その後、終わった時間を振り返った時に我(われ)が出てくる、というあり方です。

その瞬間は、いわゆる「空っぽ」である。

「私は選択します」いう、意識があるとしたら、思考ですね。
絶対に逆らえないという意味でしたら、純粋経験という時点で、意識以前だと思うのです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

思考であろうと無かろうと絶対性に変わりはないとは思います

お礼日時:2018/03/15 21:18

私たちは日々様々な選択を行いますが、共通して言えることは


もっとも良いと思われる選択を常に行うという事です。
 ↑
これ、間違っていると思います。
現実の人間は、そんな合理に従った行動など
していません。
だから、行動経済学なるモノも出てきたのです。

人間が常に合理的に行動するなら、犯罪など
消滅するでしょう。
得る利益よりも受ける不利益が大きければ、誰も
犯罪を犯さないはずです。





ちなみに絶対悪はこの世界にはありません。
  ↑
破滅を願っている人間は存在しませんか。
破滅を願っている人間は、最悪の選択をするかも
しれません。
それは絶対悪と言えないでしょうか。




この『善』の暴走を阻止するため、リミッターの役割として
『悪』という概念があるのではないでしょうか。
  ↑
この部分は賛同です。
封建時代、民主制は悪でした。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとございます。

>そんな合理に従った行動などしていません。

はい、合理的な選択ではなく、最善と思われる選択をしているということです。
非合理であっても最善であれば良いのです。
後に後悔したとしてもその時には最善と思ったはずです。

>破滅を願っている人間は存在しませんか。

はい、その人にとっては破滅こそが最善なのです。
エコテロリストにとっては人類の破滅こそが最善でしょうね
他者にとってはただただ迷惑なだけですが。
逆に他者から見て破滅して欲しいと思える様な人もいますよね。
その人にとっては人生は素晴らしくまだまだ生きたいと思っているかもしれません。
立場が変われば破滅を望んでいる悪人も変わるわけです。

お礼日時:2018/03/13 19:38

「どんなに悪しき結果に終わったことでも、そもそもの動機は善意に基づくものであった」


というユリウス=カエサルの言葉を彷彿とさせます。

つまり善悪というのは結果につくものであって、
動機の善悪を論じても意味はないということです。

ニュースなどを見れば分かるとおり人間は結果で判断するのですから。

そのことを仏教では、
「行為自体に善悪はない。人の心が後から付けるものである」
と言います。

私もこれに賛成です。
善悪というのは、あくまでその人の立場から見た相対的なものです。
したがって「絶対」というのもないと思います。

人殺し?
「一人殺せば殺人だが百万人殺せば英雄になる」
です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました

お礼日時:2018/03/13 18:51

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「本当に信じていれば、全財産や命さえも懸けられる」というフレーズは色んな難しい社会的問題を解決できる魔法の言葉なのです。
例えば 従軍慰安婦問題も「本当に韓国政府が従軍慰安婦問題(少女二十万人拉致、性奴隷)があったと心から信じているなら、もし間違っていたら竹島を無条件で返してもらうぞ」と言えばそれで片が付くのです。何故なら韓国政府は本当は慰安婦の証言など信じていないのですからです。

このようにこのフレーズで多くの難問は解決できるのです。皆さんも「本当に、心から信じていれば命さえ懸けられるだろう」という言葉に嫌悪感を示さずにどんどん使いましよう。あらゆる難しい問題もすぐに解決できるのですから。

「本当に、心から信じていると言うことは、命さえも懸けられると言うことなのだ」というこの言葉は普通に使っても何らおかしくはないと思いますが皆さんどう思いますか? 私間違っていますか?

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>「本当に、心から信じていると言うことは、命さえも懸けられると言うことなのだ」というこの言葉は普通に使っても何らおかしくはないと思いますが皆さんどう思いますか? 私間違っていますか?

真木さんの今回の論旨の流れにいろいろ突込みどころがあるのですが、外国人を相手にする時には日本人とは違った価値観を彼らが持っていることを理解する必要があると思います。文化が違うのです。文化とは価値観の総称のことです。だから文化が違うとは、価値観が違うということです。

日本は日本海という越すに越されね荒海のおかげで、他の文化とは遮断され、縄文時代から現在に至るまで数千年かけて世界的にも類を見ない特異で独特な文化、すなわち価値観を築き上げてきました。外国で生活してみるとへーって思うことばかり。日本人の考え方ってこの国の人とそんなに違うのかって思い知らされることばかりです。例えば、日本人てこの地球上で性善説を信じている唯一の文化を持った国民なんですよ。そして、話し合えば解ってもらえると信じている人が態勢を占めている。

でも、日本以外の国では陸続きだったために互いに侵略しあい、戦に負ければ男どもは殺され、女どもとその子供は奴隷にされてきた。長い歴史の中でそんなことを繰り返してきた人々に性善説を信じよといっても無理です。

もちろん、日本人の作り上げてきた価値観の中には、外国の一部の世界で作り上げてきた価値観と共通した部分がないわけではなく、その共通項の部分のために、日本人が尊敬されている部分もあります。例えば正直であるとか、約束を守るとか、名誉を重んじ恥づべきことをするなという価値観です。このような価値観は、昔のギリシャや中世の西欧や日本のように、常態が群雄割拠で、いつも小国同士が小競り合いの戦さをしていた歴史を持った国に共通した価値観です。そしてこれは、基本的に武人たちが国を支配してきた世界に生じた価値観です。武人は基本的に理系人間で、技術と合理性を重んじる文化を作り上げてきた。しかしこのような小国による群雄割拠が常態であった地域は世界史的には例外に属しています。

世界史的には、圧倒的に大多数の民族は常態が群雄割拠ではなくて、強大な力を持つ政府による中央集権でした。中央集権国家では、小国同士ような小競り合いもほとんどなく長期にわたって安定して平和が保たれていました。そしてこの安定した中央集権国家の支配者は官僚と呼ばれる文系人間でした。戦さもなく社会が安定しているゆえに官僚が世襲化されるようになる。この世襲化された官僚のことを貴族とも呼んでいました。このような安定した社会の支配層を維持するために必要なのは、技術でも合理性でもなく、前例という伝統を重んじる固定化された価値観です。そのように合理的な根拠もなく支配されている一般民衆の中に、性善説など生じる余地がない。

しかし、安定した社会の内部の発展による富の蓄積や外部の予期せぬ環境の変化によって、この伝統による支配の説得力は徐々に失われて行きます。だから、歴史的に見て腐敗しなかった官僚は存在していません。時代と共に官僚は必ず腐敗します。その腐敗に我慢ができなくなった時に短期間の大混乱が起こって、新たな連中によってまた新しい長期の中央集権の安定期に移行して、そのうちにまた腐敗して短期の混乱が起こって、、、とこれを繰り返してきたのが、上記の古代のギリシャ、西欧、日本という群雄割拠地域を除いた地球上の圧倒的に大多数の民族の歴史です。

上に述べたように、このような文民支配による中央集権制度では、合理性よりも前例に基づいた伝統が重んじられる。もちろん、その伝統は偶然の成り行きで出来てきたために、各民族で全然違っています。そのようなそれぞれ違った根拠で出来上がってきた彼らのそれぞれ違った価値観を、合理的な論拠に基づいて話し合えば解り合えて一つの価値観に統一できるはずがありません。唯一できることは、互いに価値観の違いがあることを認識し、それを認め合って、一方の価値観を相手に押し付けずに、それぞれのやり方に任せることです。

真木さんの言う、死の覚悟を持って、とか、名誉を重んじ恥じた行為をしない、とか、公に尽くす、と言う価値観は古代のギリシャ人や群雄割拠で戦争に明け暮れた西洋人や源平以降戦国時代を経験した日本人には理解できるでしょう。しかし、このような武人支配を長年続けてこず、文系の官僚支配を続けてきたにこの地球上のほとんどの国の人には理解できない価値観だと思います。そのような国とうまくやってゆくためには、日本人独特な価値観を相手に強要するのではなくて、某元防衛省大臣がおっしゃったように「丁寧に無視」しながらお付き合いが最善の方法だと思いあますが、どうでしょうか。

>「本当に、心から信じていると言うことは、命さえも懸けられると言うことなのだ」というこの言葉は普通に使っても何らおかしくはないと思いますが皆さんどう思いますか? 私間違っていますか?

真木さんの今回の論旨の流れにいろいろ突込みどころがあるのですが、外国人を相手にする時には日本人とは違った価値観を彼らが持っていることを理解する必要があると思います。文化が違うのです。文化とは価値観の総称のことです。だから文化が違うとは、価値観が違うということです。

日本は日本海という越すに越...続きを読む

Q哲学カテ界隈で話が噛み合わない現象が起きるのは何故だと思いますか?

タイトル通りです
自分で色々考えてますがたまには
他人の意見聞いてみたくなったので質問しました

私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

「話が噛み合わない現象なんて起きてないよ!」
って思う人はこの質問スルーしてください
尚、この質問は哲学的な問答を求めていません
アンケートみたいなものです

Aベストアンサー

>私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

顕著ですね。
基本的に素人の集まりにすぎないので、質疑を交わすこと自体が問題を次第に掘り下げていく形になる場合が多いと思います。
持論を述べるのはむしろたたき台として必要なわけですが、しかし、賛同者を求めるのが目的の人は、その過程を重視せずに、相手を持論に引きずり込むことだけを考えている。
最初から質問が目的じゃないので噛み合うはずがない。

そういった輩と、真摯に何かを探求しようとする人との違いは、論理的な根拠を示しつつ持論を展開しているかどうか、という点。
賛同を求める乞食の輩は、論理的な根拠が提示できなくなると、強引にかぶせてきますからすぐに判別できる。
どうでも良い箇所では物分かりの良い顔して猫なで声を出すのが得意ですが、いざ本丸に攻め込まれると見境も無く髪を振り乱してあたふた大声で怒鳴り散らす。
おだてられての木登りも大得意。

それでも論理を辿ることさえお互いできれば、そんなに大きな齟齬は生じないものです。
で、そういう輩に限って、自分の質問に回答がひとつもつかなかったりすると、自分の頭が良すぎて他人には理解できないのだ、などと妄想に浸りつつ、ひとり悦にいったりする。
ダダを捏ねる赤ん坊みたいなもので、誰か面倒を見てくれる人がいると世の中は平和で助かる。
見解の相違だね、とお互いに質疑を保留できる余裕があるうちは、可能性がまだある。

>私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

顕著ですね。
基本的に素人の集まりにすぎないので、質疑を交わすこと自体が問題を次第に掘り下げていく形になる場合が多いと思います。
持論を述べるのはむしろたたき台として必要なわけですが、しかし、賛同者を求めるのが目的の人は、その過程を重視せずに、相手を持論に引きずり込むことだけを考えている。
最初から質問が目的じゃな...続きを読む

Aベストアンサー

>ケ・セラ・セラと言っていてよい確率は ふつうの人間のけんかだとか社
会的対立の場合に 50%を超えるのですか? それとも もっと少ない
のですか?
あるいは ケースバイケースの多様性があり過ぎますか?

質問の意味が、もう一つしっくりと判らないんだけど、ケ・セラ・セラ(What will be, will be、なるようになる)から来る、私の反応を書いておきます。

我々が複雑な構造と言うときにその言葉で表されているものに、その出現の根拠が全く違った2種類のものがある。その一つは、精密で巨大な振り子時計や昔のゼンマイ仕掛けの腕時計(ルビーの石が入っていて、何ルビーの腕時計なんて言ってたあの懐かしい腕時計)の内部や、からくり人形の内部のような複雑な機械の構造。もう一つは、生物の体の内部の複雑な構造だ。

この二つの間の決定的な違いは、時計など前者の構造の出現には、まずそれが何故作られたかの目的が前もって与えられており、さらにその目的を追考するために、その機械の外部にある者が目的や設計図に沿って作り出された複雑な構造であるのに対して、後者には、そんな目的もそれを作る外部の者も、そして前もって与えられたシナリオもなく、外界のと成り行きに任せて、擦った揉んだしながら、すなわちケ・セラ・セラってな具合に自発的に発生した複雑な構造だ。この成り行き任せで自発的に創出された複雑な構造のことを物理学では「散逸構造」って呼んでいる。

前者と後者の際立った違いは、前者は外部からのいろいろな障害や状況の変化に大変脆いのに対して、後者はそれらに対して頑強な抵抗力があることだ。何故なら、後者は外部との予期せぬ(従って確率的に起こる制御不可能な)いろいろな状況との相互作用で、成り行きに任せながらケ・セラ・セラてな具合に収まるところに収まるようにして、自発的に出来上がってくる。ケ・セラ・セラとその状態に留まっているのが(少なくとも局所的に)一番安定していることが理由で出来上がってきた構造だから、その状態を外部の者が無理やりズラしてしまっても、再びその安定状態に自発的に戻ってしまう。すなわち、自己修復の機構を持っているんだ。さらに、元々その構造が何のためにそこにあったのかなんてな目的が始めから無いんで、なんとなくそんな目的でも有ったつもりでいたのに、状況が変わって、その目的がなんだかわからなくなってしまっても意に介せずに存在し続けられる。ところが、前者には自己修復の機構もなく、また状況が変わって目的がなくなったら存在している意味すらなくなってしまうから、外部からのいろいろな障害や状況の変化に対して大変脆いんだ。

んで、さらに制御不可能な環境から、どのような仕掛けでそんな複雑で無目的な構造が自発的に創出できるのか、その条件は何かってな問題が当然浮かび上がってくる。それには3つあって、1)開放系であること、2)非線形効果が無視できなくなってしまうぐらい熱平衡状態から十分離れている「非平衡状態」にいること、3)一旦偶然に出来上がった構造を破壊するように制御不可能な形で外部から飛び込んできた要素をいつまでも覚えているんじゃなくて、その要素を「散逸」させて忘れさせてしあう仕掛けがあること、この3つだ。

あたしゃ、この文脈で「非平衡」って言葉使っているんで、ブラブラさんのこの言葉の用法とは違っているいみたいだね。

この3つの条件の中で数学的に一番面白いのは2)の非線形性だ。でも、物理的にもっと面白いのは3)だ。情報の散逸が起こるということは時間の向きの対称性が破れているってことだ。さらにその現象を数学的な方程式で書く場合、決定論的な微分方程式ではなくて、確率変数の従う非決定論的確率論的微分方程式になってしまう。だから、この宇宙って決定論的にできているのか、それとも非決定論的にできているのかという、物理学の最も基本的な問題に絡むからだ。

要するにケ・セラ・セラってえのは、神様がいるのかいないのかってな問題に絡み出す。だから、ケ・セラ・セラで出来てくる複雑な構造という最も本質的な部分を強調して「散逸構造」って名付けられたんだ。ここでの会話の成り行きだったら、「ケ・セラ・セラ構造」って呼んでも良いね。

今回は、ブラブラさんが、あたしの得意なケ・セラ・セラってな言葉を的を射て使ってたんで、今回はあんたを揶揄うのをやめて、あたしからぬ真面目な反応をしたんだ。いつもと違って、気持ち悪かっただろう。

>ケ・セラ・セラと言っていてよい確率は ふつうの人間のけんかだとか社
会的対立の場合に 50%を超えるのですか? それとも もっと少ない
のですか?
あるいは ケースバイケースの多様性があり過ぎますか?

質問の意味が、もう一つしっくりと判らないんだけど、ケ・セラ・セラ(What will be, will be、なるようになる)から来る、私の反応を書いておきます。

我々が複雑な構造と言うときにその言葉で表されているものに、その出現の根拠が全く違った2種類のものがある。その一つは、精密で巨大な振り...続きを読む

Q公理って何?

再び初歩的質問です。

「公理」を辞典で調べますと、

・数学で、論証がなくても自明の真理として承認され、他の命題の前提となる根本命題。

・論理学で、演繹的理論の出発点として、証明なしに採用される命題。

・現代においては、自明な命題ではなく、理論の前提となる仮定。

等の記述があります。

1.学問がないので、いまいちピンとこないのですが、具体的にはどのようなものがあるの
でしょうか?そして、どう理解したらいいのでしょうか?

2.「理論の前提となる仮定」から組み立てられた理論というものが、自然科学においても
検証されるとはいえ、何故、事実・真実と言えるのでしょうか?

Aベストアンサー

公理で一番有名なのは、平行線公理(平行線公準とも呼ばれる)でしょう。

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この命題を証明することはできません。以前はこれを証明しようと多くの数学の天才たちが試みました。しかし誰にも証明できなかった。ロバチェフスキーが1829年に『幾何学の新原理並びに平行線の完全な理論』を発表して、彼が1826年に発見した新しい幾何学を提示して、上記の命題が証明不可能な公理であることが明らかになったのです。

ロバチェフスキーは、上記の命題の代わりに

(1)「一つの直線上にない一点を通ってその直線は何本でも引ける」

としても、数学的に無矛盾で閉じた論理体系を構築できることを明らかにしました。それがいわゆる非ユークリッド幾何学の始まりでした。この幾何学で表現されている空間は曲がった空間なのです。

その後に、リーマンが

(2)「一つの直線上にない一点を通ってその直線は一本も引けない」

としても、数学的に無矛盾で閉じた論理体系を構築できることを明らかにしました。この公理(2)が成り立つものとして構築された幾何学をリーマン幾何学と呼びます。一方、上記の公理(1)が成り立つものとして構築された幾何学をロバチェフスキー幾何学と呼びます。

さらに、リーマン幾何学の一つの具体的な例が球面状の幾何学であることもわかるようになりました。その場合この非ユークリッド幾何学を球面幾何学と呼ぶこともあります。

上記の事実の発見は、人類に多大な知的進展をもたらしました。なぜなら、自分の主張の論理的矛盾性をいかに証明しても、それでこの世界が解ったわけではないことが明らかになったからです。例えば、我々が埋め込まれている宇宙が上記のどの幾何学によって記述されている世界なのかは、論述の無矛盾性や整合性をいくら明らかにしても、判定できないことが明らかになったからです。

その判定には必ず実験や観測が必要である。すなわち論理的な理念の整合性に加え、事実はどうなのかを実験や観測で判定しなくてはならない。その判定をするのが自然科学なのです。そして数学は、命題の間の無矛盾性を論じる言語学であり、すなわち人文科学の一つであり、事実を論じる自然科学ではないことが明らかになったのです。

公理で一番有名なのは、平行線公理(平行線公準とも呼ばれる)でしょう。

「一つの直線上にない一点を通ってその直線は一つしかない」

この命題を証明することはできません。以前はこれを証明しようと多くの数学の天才たちが試みました。しかし誰にも証明できなかった。ロバチェフスキーが1829年に『幾何学の新原理並びに平行線の完全な理論』を発表して、彼が1826年に発見した新しい幾何学を提示して、上記の命題が証明不可能な公理であることが明らかになったのです。

ロバチェフスキーは、上記の命題の代わ...続きを読む

Q優生学 あなたはどっち?

私は自分なりの哲学を大系化しようとすると 必ずこの問題が引っ掛かります

心情としては人間は皆平等で皆が幸せになってほしいと念じて考えるのですが

日本の場合少子高齢化があまりに行き過ぎていて これから高齢者介護や

障碍者社会参加等はお金も手間もかかり過ぎます

勿論私自身が障碍者ですから 蔑視するつもりはないのですが

実際社会のお荷物になっており 国は1150兆円の借金を作り

消費税を10%にしても返せるものではありません。

こんな事を書くのは忍びないのですが もっとお金のかからない方針・方法で

介護・社旗参加をやれないものかと思います。

一面日本人がもっとレベルを下げればいいのですが つまりサービスとかの競争も

程々にしてコンビニもあんなに沢山作らずに。もうちょっと安く生きて

贅沢を程々にした方が良いのではと思います。

景気はいい方が良いですが 借金も返さない 贅沢はする 働けない人が増える

ではやって行けなくなるでしょう。私も責任を感じます。

具体的には福祉の質を落とすかお金で大きく差をつけるか。極端に言えば 延命治療は

出来るだけやらない方向に行くとか。障碍者に極端にお金を掛けないとか。

その辺の日本の福祉、優生学をどう思いますか?本音で?

私は自分なりの哲学を大系化しようとすると 必ずこの問題が引っ掛かります

心情としては人間は皆平等で皆が幸せになってほしいと念じて考えるのですが

日本の場合少子高齢化があまりに行き過ぎていて これから高齢者介護や

障碍者社会参加等はお金も手間もかかり過ぎます

勿論私自身が障碍者ですから 蔑視するつもりはないのですが

実際社会のお荷物になっており 国は1150兆円の借金を作り

消費税を10%にしても返せるものではありません。

こんな事を書くのは忍びないのですが ...続きを読む

Aベストアンサー

優生学は豊かで寛容な時代には悪とされ、貧しくゆとりのない時代には善とされるものです。
そして現在優生学が支持されるようになったということは、残念ながらつまりはそういう言うことになります。
この貧しさには経済的な面も心理的な面も大きく影響しています。

現代の優生学はかつての障碍者の不妊手術強制や、姥捨て山とは異なり「やむおえなし」に欠けています。
このような優生学が蔓延る原因は近代的自由競争経済による弱肉強食や淘汰思想が原因として考えられます。

Q人間が人間を超えるものをつくること

たとえば、情報工学の先端でAIの研究に携わっているとしましょう。
すべてにおいて人間を超える可能性を秘めているものを対象として目の前におくとき、主観は常に対象を客観視できるでしょうか。
人間が人間を超えるものをつくる、ということは、あえて極論を言いますと、人間が人間を滅ぼすというポテンシャルを含み持つことです。
IT化による効率性、利便性は今や否定できません。
ITシステムが修正を繰り返し生き延びる様は人間のようであり、自ら学習を重ねて賢くなる人工知能AIはいつか人間を超える存在になると言われます。
そのようになると想定される場合に、果たして人間は冷静に客観である対象に向き合えるものでしょうか。それとも、専門家のあいだでは人間を超えることはないという根拠があるから、冷静に研究開発を続けられるのでしょうか。
もしそうならば、それを開示して世の中の不安も同時に払拭していく責任も同時にあると思うのですが、皆様はどのように思われますか?

Aベストアンサー

#14です。お礼ありがとうございます。

>ああ、私たちはいつになったら悟るのだろう
人間を失ったことを

頭のいい人たちはすでに19世紀初頭に警鐘を鳴らしていますよ。
たとえばJ・J・トールキンは「人間らしさ」を「自然(精霊や斎もの)との交流と恐れが人間の本質である」としてそれが失われる前に指輪物語を書きました。指輪物語で人間以外が西の国に行ってしまうのは、まさに19世紀が「機械に人間が乗っ取られ、人間性を失う時期」だったからです。

同様にラフカディオ・ハーンは日本に来て「まだ人間性が残っている今のうちに記録を残そう」と小泉八雲として様々な小説を著作しました。

「メトロポリス」なんていうデストピアを描いた映画もありましたね。

どれも19世紀末から20世紀初頭の作品で、この辺りが機械を発明した第一世代から、機械と共存する第二世代に変わった時期なのでしょう。それから先はコンピューターでもAIでも機械化の延長にすぎないわけです。

人間のほとんどは「科学文明と共に生きること」を選んだのです。そのほうが「犠牲はあるかもしれないが、少なくとも自然の中で恐れて生きているよりは幸せである」と考えたからです。

実際、20世紀の科学進歩はすさまじく、それ以前の不治の病とされた天然痘は撲滅、ペストなどは激減、結核は治るようになり、飛行機を使えば1日で世界一周できるようになりました。機械を使うことによる犠牲者はあるものの、全体で見れば「機械のおかげで人は死ななくなった」のです。

ですから、今後もAI化などは「ほとんどの人が疑問を持たずに」進んでいくのだと思います。でも結局人間はそれで幸せなんだと思いますよ。

私には子供が居ますが、20世紀初頭の乳幼児の死亡率は50%以上だったわけです。つまり10人産んでも5人しか残らない社会で、ほとんどの人が「長生きできなかった兄弟」を背負って生きていたわけです。父母の、特に母親が自分でお腹を痛めた子を失う辛さと残酷さは悲劇以上のものだったでしょうが、たった100年前はそれが普通だったわけです。

今は乳幼児の死亡率は先進国なら数パーセントしかありません。

私は「人類が科学技術を捨てて『人間性を取り戻す』ことを望むのか?」と聞かれればNOだと思います。その代り人間は「機械とうまく付き合っていく」しか道はないのだと思います。

>人間はAIの奴隷。モルモット。

人間は自分で機械・技術の檻の中を選んだのです。アマゾンや砂漠地帯など一部の人間たちは拒否しています。ああ、インドに「文明を受け付けない島」があるようですが、そういう人たちはまだ「人間」なのでしょう。

でもほとんどの人間は自分たちで望んで、機械・技術に守られることを選んだのです。

#14です。お礼ありがとうございます。

>ああ、私たちはいつになったら悟るのだろう
人間を失ったことを

頭のいい人たちはすでに19世紀初頭に警鐘を鳴らしていますよ。
たとえばJ・J・トールキンは「人間らしさ」を「自然(精霊や斎もの)との交流と恐れが人間の本質である」としてそれが失われる前に指輪物語を書きました。指輪物語で人間以外が西の国に行ってしまうのは、まさに19世紀が「機械に人間が乗っ取られ、人間性を失う時期」だったからです。

同様にラフカディオ・ハーンは日本に来て「まだ人...続きを読む

Qテオーリア

観想が人にもたらすものとは。

Aベストアンサー

>観想は、想いの起こる未然のところと言いますか、、、観る働きと言うのは、想いや言葉を司る機能のより深いところより世界を照射し、識知していると言う事なのかなと。

なるほど、もしそれが観想というなら、これって自然科学でも社会科学でも、科学の営みで日常行なっている行為そのもののことですね。科学者は、漫然と外部から「照射されて」いる情報を眺めて、その中に有意義な秩序のあり方を探り出そうとしているのではありません。一見乱雑に存在する森羅万象の中に、今までのその人の経験に基づいて、物事の生起に主観的な軽重をつけ、その軽重の仮説に基づいて世界を整理しようとする。要するに、主観に基づいた自分の世界観を観測している事象に「照射して」、それに基づいて世界を再構築しようとします。

もちろん、その主観は今までのその人の個人的な経験を外挿したものですので、そが正しいという保証はありません。要するに、まだ答えが解っていないのに、世界はそうできているのだと決めつけてみるのです。それを皆さん、「直感」とか「神憑り」と呼んでいます。そして、その神憑りで得られた仮説を現実と付き合わせてその仮説の整合性を探ってみる。そうすると、必ずぞの仮説と現実の間に齟齬ができていることを発見する。そこでその齟齬の大きさを具体的に認識できるようになったら、その認識に基づいて、今までの仮説をまた直感、すなわち神憑りに基づいて修正した新たな仮説を立てる。

この新たな仮説にもまた現実との齟齬がありますが、願わくはその齟齬の大きさは、前の仮説よりも小さくなっていることを望む。これをぐるぐる繰り返して行くうちに、自分の進化させた仮説が最終的に正しいんだという確信を持てるときが、私の経験では、突然にやってきます。そんな時、私は

「そう、そうなんだよ」

という感覚が爆発現象のようにやってきて、私自身、宣伝に見る「使用前と使用後」ぐらい変わっている自分を見つけます。

このように、科学による発見の営みは決して外部から「照射されて」いるものを漫然と眺めているのではなく、こちらから自分の主観に基づいた世界観を対象物に「照射して」世界を認識する行為なのです。そしてこのぐるぐる回る行為は、数学でいう典型的な非線形現象と呼ばれているものです。それに対して、相手から照射されたものからそれで認識できてしまう単純な場合は、数学では線形現象と呼ばれています。科学の発見に至る行為は典型的な非線形現象なのです。ですから、

>照射することによって世界を認識すると言うのは、現代の常識とは真逆になりますので、?が浮かぶかもしれません。現代では、光を目で受けて、つまり照射されることで世界を認識していると考えられています。

というようには少なくとも科学の世界では、そうはなっていません。

要するに、科学の営みの真髄はキサラギXさんの言う「観想」そのものの営みです。

>観想は、想いの起こる未然のところと言いますか、、、観る働きと言うのは、想いや言葉を司る機能のより深いところより世界を照射し、識知していると言う事なのかなと。

なるほど、もしそれが観想というなら、これって自然科学でも社会科学でも、科学の営みで日常行なっている行為そのもののことですね。科学者は、漫然と外部から「照射されて」いる情報を眺めて、その中に有意義な秩序のあり方を探り出そうとしているのではありません。一見乱雑に存在する森羅万象の中に、今までのその人の経験に基づいて、物...続きを読む

Q(  ̄▽ ̄)槍槍 素朴な疑問なんですが お知恵を貸して頂けると さいわいです 『自己責任の範囲』 な

(  ̄▽ ̄)槍槍

素朴な疑問なんですが
お知恵を貸して頂けると
さいわいです

『自己責任の範囲』

なんて事を考え初めて
私は、森羅万象すべて
自己責任なのかな?

なんてな事をつねづね思ってるんですが

( ̄▽ ̄;)他の人は、もしかしたら
責任に範囲とか、あるのかな?
なんてね

浮気をされた、とか
騙された、とか
傷つけられた、とか

私は悪くない!
みたいな、話がチラホラと( ̄▽ ̄;)

浮気をされるのも、何かしらの原因があり、責任もある

騙されるのも、信用しすぎた責任もある

傷つけられるのも、その人と関係をもつから傷つけられる

極端な話、交通事故ですら
巻き込まれた責任があるからね
巻き込まれたくて、巻き込まれた訳じゃないのは
重々承知なんやけど
その日、寝坊して電車を一本乗り遅れたら
事故に巻き込まれないとかね
よく聞く話だとは思いますけど

運や不運も突き詰めれば
自己責任かとね(  ̄▽ ̄)ニヤリ

そんな私でも
ひとつだけ、確実に自己責任じゃないと
思えることもあってね

この世に産まれてきた事と
この世から、旅立つ事は

人の生き死に、命ですね
自己責任の範囲外だと
思ってます
じゃあ、森羅万象すべてじゃねえじゃないだろうが
なんて、突込み(゜゜;)\(--;)は
御愛敬ですね


gooに居られる、賢者の皆様
どうか、御助言を宜しくお願い致します

m(._.)m
自分自身はこう思うよみたいな
軽い回答でも、よろしくお願い致しますね

(  ̄▽ ̄)にっこり

(  ̄▽ ̄)槍槍

素朴な疑問なんですが
お知恵を貸して頂けると
さいわいです

『自己責任の範囲』

なんて事を考え初めて
私は、森羅万象すべて
自己責任なのかな?

なんてな事をつねづね思ってるんですが

( ̄▽ ̄;)他の人は、もしかしたら
責任に範囲とか、あるのかな?
なんてね

浮気をされた、とか
騙された、とか
傷つけられた、とか

私は悪くない!
みたいな、話がチラホラと( ̄▽ ̄;)

浮気をされるのも、何かしらの原因があり、責任もある

騙されるのも、信用しすぎた責任も...続きを読む

Aベストアンサー

話の流れで、自分が生まれてきたことに自己責任があるかに関して、家内との次の会話を思い出しました。彼女は私と一緒になっちまったおかげで、自分に意に反してうん十年もアメリカに住む羽目になっちまった。あたしは初めからそのつもりで居たんだが、家内はあたしと一緒に渡米した時はあたしと反対で、ほんの数年で日本に帰れると思っていたそうだ。そして、あたしがバリバリ仕事をしていた頃に、自分が日本に帰れない悲哀をあたしにも友人にも嘆いていた。そんな時、あたしは

「それは俺の責任じゃないよ。お前は前世によっぽど悪いことしていたんだろう。だから恨むなら自分の前世を恨め。」

って言っていた。

ところが、年取ってひょんな事情から、あたしと家内が日本に年に合計半年近くいられるようになった。そんな生活がもう10年以上も続いている。そして、家内はアメリカに住む日本人の友人から、それを大変羨ましがられている。んで、彼女曰く、

「あたしゃ、あんたに感謝なんかしていないよ。これだけ大好きな日本に行き来できるようになったのは、あたしが前世でよっぽど良いことをしてきたご褒美なんだから。」

ね、人間に生まれてきたのは本人の自己責任なんだよ。

話の流れで、自分が生まれてきたことに自己責任があるかに関して、家内との次の会話を思い出しました。彼女は私と一緒になっちまったおかげで、自分に意に反してうん十年もアメリカに住む羽目になっちまった。あたしは初めからそのつもりで居たんだが、家内はあたしと一緒に渡米した時はあたしと反対で、ほんの数年で日本に帰れると思っていたそうだ。そして、あたしがバリバリ仕事をしていた頃に、自分が日本に帰れない悲哀をあたしにも友人にも嘆いていた。そんな時、あたしは

「それは俺の責任じゃないよ。お...続きを読む

Q足りないのは頭

だから、あなたと私は同じ。
なんか意見ある?

(削除されたので訂正再投稿)

Aベストアンサー

No.4です。

そっか、もし本当に知らなかったのならd_y_nさんは、ここの哲学欄を切っ掛けに好奇心をエンジンにして、いろいろ検索したり勉強すればこれから見違えるように伸びるよ。d_y_nさんはソクラテス並みに優れてるってことです。無知の知で検索してね。だから、あなたは皆さんと同じじゃない。


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