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このような質問をしたのは、そもそも現在、わたし自身が健康ではないからです。
「わたしは健康ではない」では、そもそも「健康」とはなにか?
「健康」イコール「病気でないこと」ではないはずです。

例えば確定死刑囚が刑務所の中で病気になり、「死刑にするまでは絶対に死なせるわけにはいかない」と、医師らの手厚い治療の結果、「健康状態」といえるまで回復したとします。しかし、彼は本当の意味で「健康」であると言えるのでしょうか?
或いは動物園の檻の中の生き物たちが、定期的な検診で「異常なし」と言われても、果たして彼らは「健康」でしょうか?

「健康」とは、それぞれの個体単体のみを以て判断することはできないのではないかと思います。

彼を取り巻く様々な環境との融和・調和なくして健康(広義の意味での)というものは成り立たないと思います。

また「健康な障害者」ということについても考えます。
「健康な障害者」、たとえば「健康な盲人」「健康な聾唖者」これは形容矛盾でしょうか?
ヘレン・ケラーは健康ではなかったと言えるでしょうか?

「健康」のシノニムとしては「健全」「健常」「常識的」「バランス感覚」などが思いつきますが、
いったいどこまでを「健康」という概念の中に含めるべきなのでしょうか?

質問は「健康の定義とは?」
というところですが、初めに述べたように、わたしは現在健康ではありません。具体的に言えば中程度の鬱状態です。ですからこのように質問はしたものの、きちんとしたレスポンスができないかもしれません。そのような状態で質問すること自体がそもそも非常識と言われても仕方がありません。こんな質問だが、と削除要請をされても結構です。

こちらが反応できないことをご理解いただいた上で、尚ご意見を聞かせてくれる方のみ、ご記入ください。お返事が無理でも、すべての回答はきちんと読ませていただきます。

A 回答 (9件)

やっぱりここでは肉体的な健康の事ではなく、心の健康の事に付いてだと思います。



心の健康とはどんな状態なのか?

肉体の健康とは、肉体としての生命が正常に機能している状態をいう、とするならば心の健康もその機能が正常に働いている状態をいうのだと云えます。

ならば、心の正常な働きとはどんな状態なのでしょう。

感情・理性・意志(意思)の能力のバランスが取れている状態をいうのだと思います。
そうだとするならば、判定は神に頼るしかないのでしょうが、それでも敢えていうならばバランスが崩れて偏った状態の心は不健康、と云う事になるのではないでしょうか。

ただし判定する人の心(本人も)自体が健康であるかどうか。
これも、無視できません。
でも、大抵はこの事は無視されていますね。

気付きにくいから。

※ 内緒話です。「境界って、あの世とこの世。そして人間と動植物との境界、の事を思っての事でした。あの本にはその境界が無いような感じがしたのです」
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この回答へのお礼

こんばんは、y・・・汽笛さん。

心の状態が正常であるか否か、それは神のみぞ知る。
これは全く同感です。
では逆に言えば、神の声が聞こえない場合、誰かが健康か不健康かはどのように見極めるのでしょう?

社会の見えない圧力が普通の人を突然狂気に追いやることはまったく「自然なこと」でしょう。
その場合「狂った状態」こそが「真っ当な」生体反応で、「狂わないでいられる」のは単に「鈍い」だけとも言えるのではないでしょうか?

自殺は不健康の象徴でしょうか?寧ろ逆ではないかとも思うのですが・・・

健康と不健康(健康の対概念が不健康だとしたら)そのボーダーラインはどこにあるのでしょう?
無論国境のように目に見えるものとして存在しているものではありません。
各々が異なったボーダーを持つのでしょう。

そして現代社会では、その「境界」がどんどん曖昧になっている、むしろ無くなりつつあるとも思うのです。

久し振りでしたね(笑)

お答えをありがとうございました。

お礼日時:2018/06/15 03:08

今回は一点に付いて突っ込んでみます。



“社会の見えない圧力が普通の人を突然狂気に追いやることはまったく「自然なこと」”

文面からは二通りに読めます。
社会の圧力が普通の人を狂わすのは自然なことだ。
社会の圧力を受ければ、普通の人が狂うのは自然だ。

多分、後者の意味だと思いますが、どちらにしても「普通の人」はそう簡単には狂わないのではないでしょうか。鈍感か、さもなくばしぶといから。

人の性格は、育つ環境で相当な影響を受けますが、この環境も圧力となりうるのではないかと、私に言われたらどんな感想を持ちますか。

☆ ここでは社会の圧力ではなく、人間関係を念頭に置いて考えてみました。
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この回答へのお礼

こんばんは。

>多分、後者の意味だと思いますが、どちらにしても「普通の人」はそう簡単には狂わないのではないでしょうか。鈍感か、さもなくばしぶといから。

そういえばそうかもしれませんね。

>人の性格は、育つ環境で相当な影響を受けますが、この環境も圧力となりうるのではないかと、私に言われたらどんな感想を持ちますか。

もちろんです。人は先ず親、家族、地域の住人、そして子供のころから集団生活に放り込まれます。
人の性格の半分以上は生育環境に因るのではないでしょうか?
そして親の資質や教育方針によって、彼らは容易に圧力になり得ます。

わたしの言った社会とはにんげんの集団です。
ただ、社会とは、それを構成している頭数ではなく、ゲシュタルト的存在ですから、
それを構成している個々人と、社会というものは特に全く別の顔を持ちます。

現在は(言葉の本来の意味で)健康な人は不健康にならざるを得ないという、パラドクスを孕んだ社会のように思うのですが・・・

yy8さんもよい週末を。

お答えをありがとうございました。

お礼日時:2018/06/16 01:47

他の方もご回答されているかもしれませんが、この質問で問われている健康と言うものは、生き方の事であり、健全に近いものだと思います。


人間、生きていれば誰しも、大なり小なり障害や傷病を抱えているものですが、その中で何を志向して生きているのかによって、健全なのかそうでないかが定まってくると思います。逆に言えば、健全なものを志向していれば、それは悪い人生とは言えないと思うのです。
で、その健全なものとは何かという事ですが、一例ですが、善とか、清さとか、潔さ、正しさ、などが短絡すると思い浮かびます。これらは人が人として生きていく上でとても大切なものです。これらがなぜ健全であるのかと言われるかと言うと、これらが人生を全うするために一役買ってくれるからです。人を損なわないどころか、全うさせてくれるものであるからです。心身に障害があっても、人として何を目指すのかと言うそこに障害や曇りがない時、人は健全であるのではないでしょうか。

また、環境との調和が健康の前提ではないかという提起ですが、例えば人間に飼われている動物は軒並み健全ではない、本来のあるべき姿ではないと思います。しかし、共生している動物は健全であり得るでしょう。
家畜などは人間に都合よく利用される代わりに、日々の糧+天敵からの庇護を得られますから、別に悪いことばかりではないように思われますが、何時、肉や皮にされるかもわからない中での平穏な牧場暮らしは健全とは言え無いと思います。天敵と闘わなければならないかもしれないが、野生で生きることの方が、健全なように思います。しかし、種の繁栄と言う観点でみれば、家畜は勝利者であると言えるでしょう。
 繁栄すればいい、生きられればそれでいいという考えが不健全さの温床であり、如何に生きるのかという事に注目することが、健全さの依り代となっているように思います。
そして、基本的に人間は、健全さを志向するよりも生存の本能に偏った生き物であり、繁栄を目指して生きようとするもののようです。覚悟の定まった人はそうは居ないのが実情でしょう。

 病気、怪我になれば誰しも健康になりたいと思う。だけれど、健康の本質とは何かを考えたなら、光も見えると思います。
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この回答へのお礼

こんばんは。

多分キサラギさんのいわんとしていることと齟齬があると思いますが、わたしはどうも「健全」という言葉(?)が苦手です。「公序良俗」という言葉が、官製のもののように感じられて肌に合わないのと同じです。
官製でないにせよ、清く・正しく・美しくといったスローガンが苦手です。

これはあくまで私見ですが、上記のようなものと、所謂「文学」「映画」を含めた「芸術」とは水と油のような気がするのです。文学とより親和性を持つのは悪であったり、背徳であったり、悲しみ、苦悩、後悔、喪失、(人の)醜さ、弱さ、卑劣さ・・・そんなものたちではないかと。

善人というのはいます。けれども、けれども、「親切であろう」とか「ひとに優しくしよう」と決意する人って・・・う~ん。ちょっと合わないかなと思います。

>種の繁栄と言う観点でみれば、家畜は勝利者であると言えるでしょう。

それって、なんだか昨今の日本人の姿に似ていませんか?

>繁栄すればいい、生きられればそれでいいという考えが不健全さの温床であり、如何に生きるのかという事に注目することが、健全さの依り代となっているように思います。
そして、基本的に人間は、健全さを志向するよりも生存の本能に偏った生き物であり、繁栄を目指して生きようとするもののようです。

これはまったく同感です。

> 病気、怪我になれば誰しも健康になりたいと思う。だけれど、健康の本質とは何かを考えたなら、光も見えると思います。

これも仰る通りですが、自分を振り返ってなかなか生き方の質まで問えるほどの人間かと考えるとどうもそうではなさそうです。

お答えをどうもありがとうございました。

お礼日時:2018/06/16 01:35

お礼をありがとうございました。



これからの医学の目指す方向性、それについての抱負を語った本だったんでしょうか。お医者さまなら、そりゃ、めいっぱい語ることが、たくさんあるでしょうね~。

そうですか。私は、ハンドルネームを変えてしまわれると、全然わからなくなってしまいます。勘が悪いんですね。こちらは、相変わらず、思いつきの返答ばかりです。それをご存じなら、安心です。

私は、”健康”と言うのは、ひとつの方向性を示す目標のようなもので、現在の医学では、完全に健康な人間など、存在しないと思っています。(北という場所は存在しませんが、北を目指して旅行することができるのと同じかなぁ、と。)遺伝子レベルで、将来、かかるべき病気を予測できるんですから、希望と絶望が隣り合わせです。たとえば、アンジェリナ・ジョリーが、乳房を切ったのが、良い例で、あの人は、あの時点では、健康体だったのに、自分は乳癌予備軍である、と、判断したわけですから。また、それが、勇気のある行動であると、女性からの賛同を得ていました。

メンタル方面も同じようなものです。仰るように、痛みのない人間などいません。フロイトの精神分析を読むと、あの人は、人間はすべからく、美味しそうに見えても、内面は腐ったリンゴだと、思っていたんじゃないでしょうか。どうでしょう。ラカンは、読んだことがないのですが、ドストエフスキーやトルストイは、人間の内面の取り散らかった様子を憐みながら、愛して、それを、名作に残したように思います。

痛みを抱えていない人間はいませんが、ただ、その痛みを軽減する方法は、存在すると思うのです。同じように痛みを抱えている人に、手を差し伸べて、その痛みを和らげてあげることで、自分の痛みも、少し軽くなります。それが、一番良い方法である、と私には、感じられるのです。

そして、悲しみや苦しみを通り抜けてきたからこそ、他人の痛みがわかるので、自分の苦労も無駄ではなかった、と、自分を慰めます。ほかに、できることが、あるでしょうか。

以上、相変わらず、思いつきばかりでした。
回答になっていなかったら、お許しください。
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この回答へのお礼

こんばんは。

チャオポルポさんは1号2号といらっしゃるんでしたっけ?以前枝雀師匠のお話をしました。

みながアンジェリーナ・ジョリーのようになったら、世の中から病気は無くなるのでしょうか?
無論その検査だけでも莫大な費用が掛かるのでしょうけれど。
でも病気の存在しない誰もが、少なくとも身体的には健康(?)であるなら、ちょっと「文学」や広い意味での「芸術」って存在の基盤が危うくなりますね。

つまり「生・老・病・死」や悩むこと、悲しむこと、喪うこと、痛みを感じることのない人間ばかりなら、
文藝の沁みこんでゆく余地はないのではないでしょうか?

チャオポルポさんの言われる、苦しみ悩み、悲しんでいる人に手を差し伸べること。それは何にも勝るケアであり薬だと思います。

わたしは同じように心の病を持っている人たちのブログをよく読みますが、直接の触れ合いが無くても、同じように苦しんでいる人の言葉を読むことで随分気が楽になります。

逆に「苦しいのはお前だけじゃない」などと「健康な人から」言われると反発を覚えます(苦笑)

「北」のお話し、遺伝子医療のお話し、とても参考になりました。

再度のお答え、ありがとうございました。

よい週末を。

お礼日時:2018/06/16 01:10

ご質問のテーマからいえば、健康な状態とは



「自分に与えられている社会環境において、自分が持ちえる権利と義務を全うできるだけの心身および精神状態を保っていること」だと思います。

死刑囚の場合でいえば、その人物が死刑囚として収監され一般市民と同等の自由を奪われていることは「健康」と何の関係もありません。したがって、その人物が置かれた環境=収監された状態のなかで受け得る権利と義務が全うできるかどうかが「健康」ということになるでしょう。

その人物が正しく死刑を受けるべき人物であり、自分自身も死刑になることを当然と考えているなら刑の執行まで万全の健康を維持することが必要であるし、逆に刑を執行する側は「刑の執行前に健康を失わせるわけには行かない」から、なにかあれば治療することになります。

逆にその人物が「死刑は不当であり冤罪だ」というのなら、自分の無実を晴らすために様々な活動をおこなうために「健康」を維持する必要があるでしょうし、刑の前に獄中死したなら無念以外のなにものでもないでしょう。

したがって「健康」とその個人が与えられている外的な環境は区別して考えるべきだと思いますので「その個人がもっている意志を実行し、それに対する責任を負える肉体と精神を維持するのが健康」だと考えます。

ヘレン・ケラーは幼少時に高熱で聾唖と全盲になり、その点については生来の健康を損なったわけですが、その点についてはヘレン自身の責に帰すことはできないので、聾唖・全盲の状態で可能な社会生活においてヘレンが望む活動を十全に行えたならそれは「(少なくとも晩年などにさらなる病気などで死に至るまでは)健康であった」といえるでしょう。
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この回答へのお礼

はじめまして。

その人が「現在与えられている状態」で、その「制約の中で」、健康か否かは計られる、ということかと思いますが、冤罪であろうと、明らかな犯罪者であろうと、「檻の中での健康」というのはわたしには考えられません。言い換えれば「健康」であることと「幸福」であることは切り離して考えることはできないように思うのです。

お答えを突き詰めて行けば、生きている以上は健康であるということにはなりませんか?

そもそも「不自由」と「健康」という二つの状態は背馳するものではありませんか?

>自分に与えられている社会環境において、自分が持ちえる権利と義務を全うできる

現在自分に与えられている社会環境が、劣悪、或いは違法、であるケースにおいては、そもそも本来保証されているはずの「権利」を行使することができません。
ですからブラック企業で働かざるを得ない人たちは、そもそも健康ではありえない。

第一義的には、「自由であること」が「健康」であることの条件だと思います。ですから、檻の中での、刑務所の中での、劣悪な労働環境の中での「健康」とは語義矛盾、といいますか、成り立ちえないものだと考えるのです。

お答えをありがとうございました。

お礼日時:2018/06/16 00:52

米国在住です。



社会的に認められていて、愛する家族もいるし、経済的にも恵まれてい中年男女が、突然、自殺をする事件が立て続けに起きており、問題視されています。また、痛み止めやドラッグの過剰摂取による、事故も後を絶ちません。

貧困にあえぐ社会では、医者にかからず、五体満足であれば、それだけで健康である、と言えます。けれども、豊かで、成熟したアメリカ社会では、身体的・精神的両面共に、”痛みのない”状態でなければ、健康とは認識されません。さらに言えば、生活習慣病を併発するであろう原因…肥満・喫煙・過度の飲酒・不健康な食習慣なども、不健康とみなされています。病気予防社会です。

その一方で、障がい者や病人に対する、差別がないよう、メディアが先頭に立って、メッセージを送り続けています。病気を持っていても、障害を持っていても、それが、社会参加ができなくなる原因とならないように。何度も、何度も、繰り返しているうちに、それが、本当になることもあります。

現在では、“病”とは、”克服するもの”になりつつあります。麻薬中毒もそうですし、精神疾患もそうです。癌や心臓病も、恢復不可能ではなくなりつつあります。ただ、一度、重篤な病にかかると、完全に昔通りには、戻りません。残りの人生を、病と共生してゆくことになります。

その状態が健康と言えるかどうか。私は、ノー、だと思います。私も、内臓疾患があり、注意深く生きています。食べてはいけないものを、うっかり食べてしまうと、ベッドから出られなくなるからです。とても、健康だとは言えません。

健康とは、まるで、なくしてしまうまではわからない、貴重な宝物のような存在であると思います。
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この回答へのお礼

こんばんは、チャオポルポさん。

心身ともに「痛みのない状態」=健康ということでしょうか?
ではこの場合の「痛み」とはなんでしょう?自意識のある人間として生きている以上、そもそも「痛みのない状態」というものが存在するでしょうか?
身体的な痛みはともかく、心のいたみ、精神的な痛みのない「無痛状態」の人間て、わたしには想像しにくいのです。

今日図書館で、このテーマを扱った文献を紹介してもらおうとレファレンスをお願いしたら、紹介されたのが、齋藤環医師の「人間にとって健康とは何か?」という本でした。かれは確かCure から Care へ、と言っていました。まだその本は読んでいませんが、わたしはもっと哲学的なアプローチの本がよかったのですが。(苦笑)
いや、哲学でなくてもいいんです。
フロイトは人間の健康についてなんといっているか?ラカンは?或いはパスカルは?トルストイやドストエフスキーは?実存主義者たちは?

わたしも実際、質問しながらも、何を知りたいのか要点を得ません。

「不健康」=「健康でない」とは「ナニカ」の欠如なのか?

物を食べておいしいと感じる。これは健康でしょう。では何故それを「おいしいと感じる」のか?
単に寿司が、ピザが好きだから。ではなく、ものが美味しく食べられる条件を身体的理由に限定せずに探ってみたいと思っているのです。

ちょっとお答えからズレてしまいましたが、チャオポルポさんとはかつて随分やり取りをしたことがあるという事で、大目に見て頂ければ幸いです。

どうもありがとうございました。

お礼日時:2018/06/15 01:43

私が考えるところの健康の定義はとても単純です。


「欲があること」です。

様々な欲が人間にはあります。
中にはとんでもないような欲望…人を殺したいとか、そういうのもありますよね?。
食欲はないんだけど、殺人欲はある…一般的に考えればそれは「不健康極まりない」わけです。

しかし「それでバランスが取れている」ならば、それは健康なのだと私は思います。
もちろん、それを社会が「ああ、そうですよね?」と肯定するわけにはいかない。
人は「個人」のみに非ず「他人と関わりあう」ことで、生活を維持しています。
もっと言えば、生命を維持していますので、いかな「明るい殺人鬼」が「健康である」と言ったところで、それは通ることはありません。
しかしそれでも、個人レベルのみで言うならば「健康体」なのだと思うのです。

健康だからこそ欲望が高まるし、健康だからこそ、他人が無理解であるという事実に腹立たしさを覚えるのです。
お前らはおかしい、正しくない!と、彼らは憤るのです。

鬱状態も同じだと思うのです。
脳内変化が起き、そのバランスをとるために、脳が下した判断が「鬱」。
病気というものはみな、身体に起きたアクシデントを補正するために、脳をはじめとしたさまざまな「命令機関」が連携して判断を下した「結果」です。

そう考えるならば、病気というものも一つの事象であり、それは「健康ではない」ということでは「無い」のではないか。
老化も、精神の病も…認知症ですら「健康」なのだと。
その場その場での「健康」なのだと思うのです。

これを言うと、特に医療機関関係者から総スカンを食うのですけど、多分皆、きっと個人個人レベルで「健康体」なのだと思います。
私自身が難病経験者なので、病気が苦しみを生むのは知っています。
しかし、苦しみを「病気にかかったから」という理由としてしまうと、ずっと救われないんですよね。
「こういう俺も、俺なのだ」と認めることができて初めて、苦しみが一つ遠ざかる。
私を救ったのは「薬」じゃなく、他人が認めてくれたことでの「嬉しさ」でした。
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この回答へのお礼

はじめまして。

質問文中に
「「健康」のシノニムとしては「健全」「健常」「常識的」「バランス感覚」などが思いつきますが、
いったいどこまでを「健康」という概念の中に含めるべきなのでしょうか?」

と書きました。

お答えを読んでいると、「健康」と「健全」或いは「健常」「正常」・・・といった要素が混然一体になっているように感じられます。つまりそれらはみな同義なんだよ。「健康」という概念の「外延」なんだよというお答えでしょうか?


しかし、またお答えには、一般的には「不健康な健康」というものもあるのだと言われているようにも聞こえます。

おそらくわたしの理解力不足、乃至ミスリーディングのせいでしょうけれど、うかがっていると、特に「健康」という概念が無くても構わないような気がします。

冒頭の、「健康」の尺度は「欲」である。

最後の
>私を救ったのは「薬」じゃなく、他人が認めてくれたことでの「嬉しさ」でした。

という部分はとても共感できるのですが、ほかはちょっとわたしには難解でした。

お答えをどうもありがとうございました。

お礼日時:2018/06/15 01:18

みずからの生をよりよく生きると考えて、できることと、できないことと、両方味わいながら、それでも前に進んでいこうとするとき、あなたがなにかしらの信仰をもっているのかどうかわかりませんが、これは信仰のようなものに思われませんか。

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この回答へのお礼

はじめまして。

「健康」とは、「ある状態」ではなく、生き方である。それは信仰にも似ているというお考えでよろしいでしょうか?

「健康」という概念が「不健康」と「対」になっている相対的な概念だとすると、「健康ではない状態」「不健康」と呼ばれる状態はどのように解釈したらよいのか?

ちょっとそんなことを思いました。

お答えをありがとうございました。

お礼日時:2018/06/15 00:59

「いったいどこまでを「健康」という概念の中に含めるべきなのでしょうか?」



そんなこと定められる訳ないでしょう。
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この回答へのお礼

早速のお答えをありがとうございます。

>そんなこと定められる訳ないでしょう。

よかったら、その理由をご説明くださいますか?

お礼日時:2018/06/14 19:54

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