アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

最近(といっても数日)、私の精神状態は、静かです。そして、この哲学カテゴリも、多くの回答者、質問者により、充実をみていると感じます。
このよい機を逃さず、確かにある、私の悔い痕を果たそうと思います。それが、この質問です。
  
       自然はどこから来たのか?
 
私は、更に旅立ちたい。そのための、質問です。
どんな回答でも、みたいとおもいます。
よろしくお願いします。 

質問本体以外の文章は、私の気持ちです。ですから、あまり気になさらないでください。

A 回答 (23件中1~10件)

●自然を説明し切ることはできません。


 自然は自分で見るしかないのです。
 自然を見るための入り口までは案内できます。
 しかし 扉を開けるのは自分なのです。

 以前も申しあげましたが 現在無垢の自然は
 この地球上にもう無いのかもしれません。
 そうです環境ホルモンです。
 自然界には存在しない 人間が作り出した
 分子が そこここに存在し 影響しています。
 また 自然の組成のバランスも崩しました。

 わたしが今 一番関心があるのは
 この時の芸術とも言える 地球上の生命の
 「存続に関わる選択」です。
 それは ミームをリロードするのか?
 リロードしないで 部分的な修正で
 変革可能なのか という考察です。
 ミームに繋がれ ミームに首まで浸かった人々に
 はたして「自然を見る能力」が残っているか?
 こちらのスレッドを拝見して感じる
 わたしの不安です。
 現実と区別できない夢が決して覚めないとしたら
 なにが現実なのかわからないのも 無理はありません。
 人々に罪はないのです。
 質問者様は わたしの言う意味がわかりますか?
 あなたが 高い位置にいるのなら 人々の文言に
 惑わされてはいけません。自然がどこからきたのか
 それを見るためにも・・・。

この回答への補足

>高い位置にいるのなら 人々の文言に
 惑わされてはいけません。自然がどこからきたのか
 それを見るためにも・・・。
 
さよけ(笑。
わかったよ。

補足日時:2003/04/01 21:52
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この回答へのお礼

ありがとう。
おれは、半醒めだ。半分、醒めている。こう言うことそもそもが、醒め切ってない証拠だ。
はっきり言えば、まだ眠たい。ここ数年、瀬戸際なのです。
高い位置にいるところは高いし、ぜんぜん低い部分もある。
見て分かるとおりだ。そういうのがおれの実状だ。
それを、全部高くするのが今のおれの思考の過程であり、自然を感じる事は、それに欠かせない。あなたの回答も、それに使ってる。
>質問者様は わたしの言う意味がわかりますか?
半分分かる。今はな。高みから見れば、余裕だ。俯瞰できるよ。
低いところから見れば、しんどい。今は、おれは、低い意識だ。
だけれども、現実を見たいので、そうする。おれは、現実生きてるからな。
現実というのは、無限の入り口であり、無限そのものであり、大切な事だ。
何が大切かって、現実が大切なのよ。当たり前だけど。
>そうです環境ホルモンです。
がーん、。やな。その現実を知ると、少しよろめく。

>こちらのスレッドを拝見して感じる
 わたしの不安です。
 
おれだって思った。でも、言わなかった。いくらでも裏道はあると思うからだ。ミームの実態は実はスカスカで、自然の網目はぎっしり詰まってる。
自然にアクセスする道は、無数にある。だから、言わなかった。
 
>わたしが今 一番関心があるのは
 この時の芸術とも言える 地球上の生命の
 「存続に関わる選択」です。
 それは ミームをリロードするのか?
 リロードしないで 部分的な修正で
 変革可能なのか という考察です。  
 ミームに繋がれ ミームに首まで浸かった人々に
 はたして「自然を見る能力」が残っているか?

残っている。誰しも、雨が降っていることに気づく。
体がぬれるからな。傘を差すか、差さないか、それを考えないというときは、誰しもにある。雨を見て、傘を思いつかないときが、誰しもにある。
それは、容易な発見だ。 
>あなたが 高い位置にいるのなら 人々の文言に
 惑わされてはいけません。自然がどこからきたのか
 それを見るためにも・・・。
 
それは難しい。言ったように、高いところばかりではないから。
人の文言に惑わされることは結構ある。おれには隙が多い。
だけれども、自然を見れば、それが揺るがぬ拠点になる。環境ホルモンが荒れ狂っても、風は起こせない。
風は自然の産物だから。
光と、水と、風と、土と、透明と、自他。
土と自他は、ミームの影響を受ける。それ以外は一切受けない。
自他の無きを知っている場合、ミームの牙城を一つ崩せる。
だけれども、こういう思考を使うと、いくらでもいけるのだが、おれの脚が地から離れるから、いけない。現実離れしすぎる。解決できても、おれだけじゃあな。話にならん。ここに来た意味がない。おれは、歩きたいからな。
 
大事なのは、常に、自然を見ること、感じること、常に、自然体であることだ。
常にだ。隙を出してはいけない。おれには難しい。今は、町(ミーム)に住んでるからだ。
そのためには、自分で、ミームを脳内淘汰で、自然の石っころやら水やら光やらもまぜて、鍛え上げない限り、隙がなくなることは無い。
なぜなら、人間の隙、過ちは、ミームから生まれるから。
おれのミームを全力で自然体にする。それしか道は無い。
ミームの再装填をするにしても、修正するにしても。俺的には、ミーム全体に、何かを吹き付けることで、全体を変異させる。ミームリロードというより、ミーム新生、生まれ変わらせる。ミームの脱皮?だ。
もしくは、ミーム分解することで、その性質を変化させる。
同じ構成物でできていても、大集団と、小集団では、違う振る舞い、性質を示すことがよくある。経済、国をばらばらに。地域に拡散させる。
部分的にというのは、どうだろう。
たとえばどうするんですか?部分的というのは。
>人々に罪はないのです。
自然としての人にはな。つまり、ホントの人、マトリックス的には、栽培されている人には罪は無い。
だけれど、幻想の人にはある。幻想の人は、ミームでできている。
自然の人は、幻想の人を使って生きてきた。
使わされて生きてきたといってもいい。
罪は無いといえるか?
そりゃずるい。幻想は、人を殺しながら生かしてきた。完全に生かすことは無かった。だけれど、それを、淘汰の中で選択したのは人だ。
自然と、ミームがあって、ミームを選択したのは人だ。
いつの間にか、ミームを使う側から、ミームに使われる側になった。
カップラーメンだ。カップラーメンに、お湯を注げ、三分待て、とかいわれて、そして、環境ホルモンを食う。えげつない言い方だけど。
いつの間にか、ミームは人の幸せという目的に対し、合目的的でなくなってた。それはなぜか?ミームにも歴史があるはずだ。
いつからか、ミームとしての幸せを追求するようになった。
ミーム人の幸せが、自然人の幸せに合致しなくなった。
ミームの立場を明らかにしないといけない。
ミームは、自然、現実としての人に、使われるのです。
人は、ミームによって、自然を虐げてはいけない。
現実が、幻想を、使うのです。それが、正しい形だ。

お礼日時:2003/03/24 16:53

わぁりました。



「他の力によるのではなく
自らのうちに始源をもち生成変化するものの意。
ここから人為・作為から区別されたありのまま
のものの意にもなり、事物に内在する固有の
本性ないしは本性的な力の意ともなる。」 ……(#8)

でいいんですね。
こう定義して意味を狭めてくださらないと、「自然」では意味が広すぎて、話がかみ合わないですよ。

そりゃ確かに、わたしたちはパソコンではミーム(初めて聞いたよ)ってやつを介在してやりとりしてるんでしょうけど、そうでもしなかったらこんな場での縁なんてないんでしょ?
もっとも、定義をつきつめるとこれまた何にもなくなる、なんて話も聞きますが。

遺伝子を介さないで伝達されるものの総称……(#9)
としてもいずれどっかで行き違いが出そうですが。「遺伝子」なんてまだ哲学上の言葉と解釈しにくいですから。

> 是非、もう少し話していただきたい。

あら、やっぱりお見通しですね。「もう少し」で尽きますよ。ほんと。
また気が向いたら来ます。昼間に差し支えますし。おじゃま様です。
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この回答へのお礼

>あら、やっぱりお見通しですね。「もう少し」で尽きますよ。ほんと。
 
面白い人だな。
>また気が向いたら来ます。昼間に差し支えますし。おじゃま様です。
 
では、気が向いたときにでも、お頼みします。
パジャマ様。
 

お礼日時:2003/03/28 01:13

●だんだん自然というものが見えてきたようですから


 お話を進めましょう。

 では クローンは自然でしょうか?
 品種改良された農産物は自然でしょうか?
 養殖されるお魚は 自然でしょうか?
 ペットは自然でしょうか?
 家畜は自然でしょうか?

 このような↑ものはすべて非自然です。
 養殖されたお魚は お魚自体は自然ですが
 存在する形態が非自然(ミームによる)です。
 他のものは DNAのなかの遺伝情報を
 ミームで直接操作したもと選別交配という
 ミームにより間接的に遺伝情報を選択した
 結果で非自然であるのです。
 遺伝子にその存在の性質が備わっていますから
 自然と勘違いしてしまいがちですが
 その根拠がミームですから 正確にはそのものの
 性質はそのものに備わっていないことになります。
 つまり自然ではないと言う事になるのです。

 さて 日本の湖沼・河川を考察してみましょう。
 ブラックバスをはじめとする外来魚が繁殖して
 従来そこに棲んでいたお魚が 死滅しています。
 また 微生物レベルでは ウズムシという
 外来種が 従来種を駆逐しております。
 雑草のレベルでも このような人間の活動に
 伴う自然破壊がいたるところで起きております。

 あなたがおっしゃるように 農薬をやめて雑草を
 手で抜くのもひとつの方法でしょう。
 でも わたしは考えるのです。
 大切なのは 例えば日本古来の生き物をそのままに生きさせること。
 世界中に多様な命の和の永続性を実現させることです。
 なにもむずかしいことを申しあげているのではありません。
 営々と続いてきた命たちを人間の浅はかな知恵で
 死滅させるのは「かわいそうだ」と感じているだけなのです。
 人間もこの地球上の生命の一員ですから
 その存在を否定するつもりはありません。
 ただ ミームを使いさまざまな弊害を起こしている
 問題児なのです。このことを理解すること。
 次に無垢の自然を愛すること。
 そうすればおのずと 人間は無垢の自然を守りたく
 なるはずです。ミームを自然に拡散させないような
 工夫をすればよいのです。
 水と空気に分解する農薬の開発。
 人間が立ち入ってはいけない区域の選定と管理。
 微生物・動植物の徹底した地域別自然管理と
 真に自然を理解した環境アセスメント。
 このような地球規模の約束事を実現させるためには
 国家という利権の枠をこえた世界統一理念に
 基づく「ちから」が必要になるのです。
 そのちからのみなもととなるのが
 世界統一サイバーマネーなのです。
 ひとが余り 物が余る グローバル化の弊害を
 駆逐するには マネーを世界統一理念に基づき
 サプライすることで あまっている人を
 たとえばゴミ拾いに使うこともできるように
 なるのです。あまっている物を 何ももてないで
 いる人々に差し出すこともできるのです。
 わたしたちのこころが健やかに機能するためには
 無垢の自然のなかで 生き生きと輝く多くの
 命たちの輝きが必要なのです。
 なぜなら いのちあるものは すべて46億年の
 時をともに過ごした兄弟だからなのです。
 兄弟の幸せをみて 初めて自分の幸せを感じる・・・
 ごくあたりまえのことなのです。
 あたりまえのことをあたりまえにできるようになった
 その日 ミームは自然に帰るのです。
 自然とはどこから来たものでもなく
 誰かが作ったものでもなく
 その所以を 思索するほどむずかしいものでもなく。
 自然とはありのままです。
 見たままです。ただそこに在るということなのです。
 
 

この回答への補足

かぁぁーーーって伸びをしてな、
うれしい。
微笑みや、近頃。
 
、いこかな。
季節の行くままに。
季節の、ある場所に。 
 
なんか、詩とか、楽しかったなぁ。
生き返るわ。
何故生きるのかってな、、
それは、生きれてないからだ。
できてない。
生きれていないから生きるんだって、
な( 笑

補足日時:2003/04/01 21:38
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この回答へのお礼

>このような↑ものはすべて非自然です。
たしかに。彼らはsurvivorには見えない。
ねずみやはと、カラス、いたちなどは、都会に生きるサヴァイヴァーとも言えそうだ。野良犬、野良猫は、半野生かな。ルンペンも、半野生?
>人間が立ち入ってはいけない区域の選定と管理。
 微生物・動植物の徹底した地域別自然管理と
 真に自然を理解した環境アセスメント。
 
今よりは、そうする方がいいな。 
>このような地球規模の約束事を実現させるためには
 国家という利権の枠をこえた世界統一理念に
 基づく「ちから」が必要になるのです。
 そのちからのみなもととなるのが
 世界統一サイバーマネーなのです。
 
そうか。
>ひとが余り 物が余る グローバル化の弊害を
 駆逐するには マネーを世界統一理念に基づき
 サプライすることで あまっている人を
 たとえばゴミ拾いに使うこともできるように
 なるのです。あまっている物を 何ももてないで
 いる人々に差し出すこともできるのです。

それもいいな。
>わたしたちのこころが健やかに機能するためには
 無垢の自然のなかで 生き生きと輝く多くの
 命たちの輝きが必要なのです。
 
私たちの中の、自然が甦るのには、無垢の自然が必要だ。
もう、ないかもしれない。
だけれども、輝きは。
>兄弟の幸せをみて 初めて自分の幸せを感じる・・・
 ごくあたりまえのことなのです。
 あたりまえのことをあたりまえにできるようになった
 その日 ミームは自然に帰るのです。
 
輝きと幸せは同義か?
サヴァイヴァー達には、平穏なときも、そうでないときもある。
幸せも、そうだな。
生き抜くのが幸せか。
生き切るのも幸せか。
生き倒すのも幸せか。
 
これらは皆、輝きだし、世界だし、いわゆる自然だ。
自然は、幸せを超えているか。
自然は、真の幸福であるか。
>自然とはどこから来たものでもなく
 誰かが作ったものでもなく
 その所以を 思索するほどむずかしいものでもなく。
 自然とはありのままです。
 見たままです。ただそこに在るということなのです。
 
幸せとは何処から来たものでもなく
誰かが作ったものでもなく
その所為を 思索するほどむずかしいものでもなく。
幸福とはありのまま。
見たままです。ただそこに在るということ。
うまくいかない。
  
自然は、幸せを、超えてもいないし、さげすみもしない。自然は、幸せではないし、幸せも呼ばない。
だけれども、もし、人間の生きる意味が、その幸福に見出されるなら、自然とは、人間にとってどういう意味であるのか?
 
 自然に、生まれたということか。
 
養殖魚の出生が非自然なら、現代人間の多くの出生も非自然だ。クローンの出生も非自然だ。とするなら、彼らに真の幸福は見出すことはできないのか?
そうじゃないだろ?
 
人は、仮に、生きているような場合じゃない。多くの人間は仮生状態か?
社会という共同幻想によって生きていると思い、本当には自然に生きていることを忘れる。だから、仮生状態、真に生きるなどと、あえて言わなければならない。 
 
真の幸福が、真に生きることに見出されるならば、そこに、自然あり。
や。
真の幸福が、真に自分を生きることに見出されるのならば、私(自分)の中に、自然あり。そこに、私は、自然である。
私は自然であるというところに、私という意味はなんであるか?
自然とはあり方だ。
私とはあり方であるなら。
真の私とは、私の中の自然か。
 
自然が見たまま、ただそこに在るならば、私とは見たままか?
ただ中(そこ)に在るのか?私が。
自分を意識するとき、私を見ているのは、私ではなく、在り方という自然か?在り方によって、私を見る。いいね。哲学的表現(笑。
その在り方が、自然で否いと、真に生きれないということだ。
真に幸せではないということだ。
見たままの私。見ているままの私。
自らを、「私」と言わない、在るがままの私だ。在るがままの私を、成らせる者だ。
そうならば、それは私という自然の本質か?
私の本質とは在り方であり、真の私とは自然という在り方だ。  
これからある思考に、私という言葉は無い。私という意識は無い。
ままの意識が、ただ在るだけだ。
なぜならそれは、あり方だから。
あらゆる私(あり方)が、自然に帰る。
でーきたっ。
 
私の過程はこれで終わりだ(笑。一応。宿題、上がりや。
70っ点?ぐらいかな?
 
次は、私で否いもののあり方だ。
ペットボトルが、ただそこに在る。
それは、ただあるのではない、確かにミームの出生だ。生まれはな。
というよりも、物質を組んでるのはミームだ。
だけど、今あるあり方がミームであるからといって、その存在は否定できない。あるんだから。だから、それが、ただ在る。だから、その中に、海に落ちてたらエビとかが入ったりする。
後は、気を揉まずに、淡々と、自然浄化力の手伝いをさせてもらうことやな。人類にできるのは。すんまへん、すんまへん、って、なるなぁ。
いらん事ばっか、たくさんして、できること少ししかしない。
それは、やらないからだ。そういう意思が欠けてるからだ。
 
自然浄化力って、「浄化」してるわけでも何でもないんやけどな。汚れたミームに浸かりながら見れば、その変化が、清くなってるように見えるだけだ。自然が、元来清いわけじゃない。我々が、汚れた幻想を夢見たことによって、汚れただけだ。
自然というあり方から、汚れたあり方になっただけだ。
 
自然は、本来的になろうとするだけだ。自然に。だから、何処から来たものでもなく、。元から、来てた。元って言うのは、あり方だ。
自然というあり方から、自然という目の前の現象が、来ている(現れている)んやな。だから、俺の、じゃないな、、俺という意識のない意識(自然)はゆくんやな。それは、俺のじゃない。俺だ。来た。行く俺は俺という意識じゃない。来たのは俺だ。いいね。
この宿題、提出した後も、襲ってくるな(笑。いつか、近いうちに、百点やね。
 

俺も行きたい。俺という意識のないことが、真の俺、在るがままということなのに、。
ま、いずれなったるわ(笑。それも、近いうちにな。
俺は砕けない。俺が消えるまで。消えてシマウマ、でな。。。
行ってしまうまで。
消えつつも、在るために。
砕けたらどうしよ(笑。
そのほうが、消えやすいかいな?(笑。
 
だから結局、自然の本質というのはあり方なので、何処から来たものでもなく、って、なるんか。君は、えらいな。あいかわらず。褒める気はなかったのに、私という意識がそうした。今の俺の本心やな。今の意識が自然かどうかはしらんけど(笑。
ペットボトルが亡骸になったとき、はじめて彼(ボトル)は、自然に帰ると、思う。ペットボトルの亡骸は、ペットボトルというミームの亡骸だ。
ペットボトルが亡骸になるためには、人類がいなくなるか、人類が、ミームをもと来た場所に返すのか、どちらかだ。他の方法は、ミームが自主的に帰る様に、なることかな。そんなことは、ないとは言い切れないと思う。
何かのきっかけで、ミームが人類を見捨てたなら、彼らは行くのでは?
経済が、人を見捨てる。
あるかな?
 
どうもありがとう。

お礼日時:2003/03/28 01:08

●まず情報について


 >本物は、情報と、事物が、一体化しているんだろう思う。
 その情報だけをまるまる移植することはできないのでは?
 それをするのは、時空を移植することにもなる。
 あたりまえだけど。
 ↑これは あなたの言葉です。わたしが伝えたい
 ことは まさにこのことなのです。
 この宇宙にある存在を真の意味で情報に置き換えると
 「そのもの自体」になるのです。
 だから情報は 存在していると言えるし
 無ければ無くてもいいものとも言えるのです。
 わたしたちは その存在から部分的に情報を
 抜き取って「情報」としているだけです。
 それが「言葉」であり「物理」であったり「音楽の楽譜」で
 あったりするだけなのです。

●なぜ 高みをめざすか?
 問題意識があるから・・・より幸せになりたいから
 哲学するわけです。火のみやぐらがそうであるように
 危険を見つけたり 全体の成り立ちを見たり
 敵を発見したり いち早く不具合を知り
 仲間に知らせるために「高み」に上るのです。
 暮らすときは地に足をつければそれでいい・・・。

●ビーバーの巣を哲学する・・・。
 ビーバーが木を切って川を塞き止めて巣をつくるのは
 たぶんはじめは 塞き止めることをしないで木の枝で
 巣を作っていたのだと推測する。川を塞き止めない
 同種の動物が存在するからです。枝を切り集める
 習性が 歯の大きなビーバーへと淘汰をすすめる。
 そのうちに更に太い枝を噛み切れるビーバーが
 出現するようになる。川のまわりの太い枝を
 きり始めると そこに太陽光が差し込むようになる
 すると 植物プランクトンが多く発生し
 食物連鎖により 魚が多く生息できるようになる
 たまたま おおきな木を倒すビーバーが
 川を塞き止めるくらいの巣を作ってしまう。
 するとそこは 日が差す魚がよく育つ環境になる。
 そこは ビーバーが採食して安定して繁殖できる
 環境に合致する。この段階でビーバーのDNAには
 長い年月を経て行動を選択した証拠として
 その巣作りのすべてが遺伝情報として
 書き込まれている自然なのです。
 さて 人間の場合はどうでしょう?
 アラル海にまつわるダムを考察してみましょう。
 人間のつくるダムは費用対効果という経済指標と
 政治的ベクトルにより作られる社会資本と呼ばれる
 構造物です。これはDNAとは関係なくその成り立ちは
 経済・政治・構築手法と全てミームにより
 構成されるものです。農業に於いても経済の原則は
 残酷に働きます。同じものであればより安いものが
 消費されるのです。したがってアフリカの奥地の
 農業であっても現在は農薬と科学肥料の使用
 ダムを用いた灌がいが売れる商品の価格にする
 必須条件なわけです。アラル海という中央アジアで
 あればなおさらその経済の洗礼を受けるのです。
 人々は幸せに暮らそうとダムをつくり灌がい用水を
 農地に引きました。その結果 アラル海の水位は
 下がりほとんどの既存生物は死滅したのです。
 干上がった海は塩を風に乗って撒き散らし
 周辺の農地に塩害をもたらしました。
 アラル海に生活の糧を求めていた人々の暮らしは
 崩壊し 農業を糧としていた人々の暮らしも
 崩壊し工業に生活の糧を求めた結果 また新たな
 環境破壊の種を生み出してしました。

●自然とミームについて・・・。
 ミームについていろいろ考察をすすめているようですから
 さらにはっきりとミームの問題点を明らかにするために
 あらたな着眼点を提示いたしましょう。
 自然が自然破壊をすることを考えたことはございますか?
 たとえば恐竜を死滅させた メキシコ湾沖に落ちた
 といわれる巨大隕石です。なにが大切なものなのか?
 それを際立たせる必要があります。大切なのは
 地球上にあるありとあらゆる「命あるものたち」
 なのです。宇宙を探しても地球のような惑星は
 見つかっていないのです。かならずあるでしょうけれども
 現時点で見つけれないくらい希少な存在であるのが
 地球なのです。そして「いのち」なのです。
 だから 火山が爆発して絶えてしまう命なら
 それも自然だから自然のままでいいとするのではなく
 助けてあげようとするのが普通の心の動きなのです。
 小動物にいたるまで全て助ける必要はありません。
 こころの動くままにでいいのです。
 山火事のように頻繁に起こる破壊は それ自体が
 自然のサイクルを構成している場合もあります。
 自然をよく見聞きして よく考えていれば
 おのずと人間のなすべき道は見えるものです。
 自然を破壊する自然もあるのです。
 自然を破壊するミームを排除しなければならないのは
 自然を破壊する自然を排除することと
 なんら変わりないのです。人間がミームの中で
 生活しているため ミームの害に気付けないのです。
 人々に罪はないと言うのは
 ごみをポイ捨てするのも 殺人を犯すのも
 社会が戦争に向かうのも すべて巨大なミームの
 中でその方向に向かわざるを得ない状況に
 よるものだからです。
 希望はあります。かぎりないやさしさと
 フェアーな精神をあらゆるミームに機能させる
 ことです。世界統一サイバーマネーの構想は
 そのさきがけなのです。

 ねむ~ では・・・
 この場を借りて 死神博士のご冥福をお祈り申し上げます。

参考URL:http://www.sipeb.aoyama.ac.jp/~kse-home/class/ar …

この回答への補足

>人間がミームの中で
 生活しているため ミームの害に気付けないのです。
 
ミームで自然を見ると、こう、目にうろこがある状態で見ることになる。
人間は、ミーム人としても、自然人としても生きてるわけで、ミーム人になりきってしまうと、害に気づけない。ミームを監視できない。
だから、自然人としての自分を意識しよう。こんな感じでいいかな?
自然人として、自然を見ましょう。ミームを見ましょう。という具合に。
現代、人は、ミームとして生き過ぎている。そのため、自分が元来からミーム人であったかのような錯覚を起こす。本来はみんな名無しですよと、言いたい。自分という名前は、名前とはいえない。

>なにが大切なものなのか?
 それを際立たせる必要があります。大切なのは
 地球上にあるありとあらゆる「命あるものたち」
 なのです。宇宙を探しても地球のような惑星は
 見つかっていないのです。かならずあるでしょうけれども
 現時点で見つけれないくらい希少な存在であるのが
 地球なのです。そして「いのち」なのです。
 
絡み合ったいのちたち。無元展開の織物だ。メビウスの輪もとおに織り込まれてる。それらは、解けながら織れてゆく。そして、世界に織り込まれてる。
  
そうかそうか。銀河宇宙の結晶だからな。俺たち、この星は。
クレイジーダイヤモンドは砕けない。
この命、砕くことは誰にもできない。それができれば銀河も砕けるわ(笑。

、、でも、銀河も結晶だからな。宇宙の。
自然は不思議やな。結晶、それそのものの、粋しかない(笑。
粋が、それそのものだ。
不思議やね。
いのちも、あまた超えた結晶たちのうちの、一つかもな。
いいね。最高だ。
世界は無限だ。
 
地球のいのちたち、ミームに屈したら、名折れだぞ。
絶対に負けられんな。誇りがある。っていうか、負けない自信がある。

http://www.sun-inet.or.jp/~yuto/vol40.htm
読んで面白かったな。よかった。風水家の話だ。ここまで、お礼です。
==============================
 
 
地球上にあるありとあらゆるいのちあるものたちがだいじ。
今の都会には、命がない。希薄だ。だめだね。豊かじゃない。多様もない。
雑多だ。
だけれども、畑の雑草と戦う苦しみも、豊かなのかといえば、難あり。
農薬をまくのも難ありなことがわかった。
じゃあどうしよう。
いままで、農家は農家ばっかりする。専門的なために、専門的な労苦もその人に集中する。
専門的労苦の分かち合い。それで、労苦が楽しみに変わる。でも、専門能力が欠けては何もならない。雑草の抜く時期、抜き方一つにもテクニックがある。
大きなパターン化した労苦も、細かく、みんなですれば楽しくなる。やってることは同じ。仕事に飽きない、仕事は進んで楽しくなるばかり。休みも合理的に確保できてます。みたいな。が、専門能力は?
皆が、あらゆる分野の、嫌がられる労苦(余剰ストレス)を分かち合い、全体で仕事するということはいかに実現できるかというと、これまた考える価値ありかなと、おもう。おれは、地位の廃止、にかけたい。地があるだけ。みんなそれぞれ、地に立ってるだけ。
自分という立場だな。足の裏がその人の国土(権利、人権の依拠する場所)だ。この時点では、専門能力は失われるどころか、むしろ高まる。
これを全体としてどうやって実現させるか。
ミームを、ヒューマンスケールにする。圧縮、結晶化する。
具体的にはどうなるんだろう?
脳には容量はまだまだあるらしいから(数%から20%ぐらいしか使ってないらしい)、脳を哲学するのはキーだな。
これをなすのは集中力がポイントらしく、集中力というのは時間的に限られてくる。時間、。脳内時間。しかし、多様な景色があれば、飽きることがない。つまり、集中が続く。休みに集中したり。つまり、合理的になるってことだ。ミームの背景、景色をぐるぐる回す。
もうあかんわ。また今度。。。。。

でも、もうあかんとなるところが、思考法を誤っている証拠だ。
景色だ。思考の背景が、動いてないといけない。
思考が、思考内部に展開していてはいけない。
思考が、思考外部に展開し、出て、その風景を翔ける状態であるのがいい。
思考が、常に解放されてないといけない。
思考に、風や光を感じないといけない。
思考に、痛み、喜びを感じなければならない。
それが、生きた思考じゃないの?
この思考法を体現するのを、今の、一つの目標にしよう。 
思考外部に思考を展開するとはどういうことか?
ありのままをみるということか?
ちょっと表現が的確でないな。
心の空と、宇宙の空を、、、一体化するというのではなく、、
森の中にいれば、俺の中は森になる。海の中にいれば、俺の中は海になる。雪の砂漠にいれば同じ。空の中にいれば俺の中は空になる。
だけれども、俺の前に人がいると、これは別、か?
俺一人の話じゃない。 
 
森を、森とせず、あまたを超えるものとしたらどうだろう?。森は自然。
俺の中も自然。いいね。うまくいきそうだ。
あるがままになる。
空も自然。俺の心の中も自然。でも、いましゃべってるのはミーム。
行儀のよい、おとなしいミームだ。証拠に、おれは疲れてない。

俺の前の人も自然。俺も自然。周りの世界も自然。
でも、暮らしているのはミームの中。
(笑。
だからいけない。ミームを、手に持てるサイズにしないと。道具が、でかすぎる。手に持てる道具で、生活が成り立つような、コンセプトで、新しい道具を開発できるかもな。
むろん、使うのは活性化した脳。
言葉でもなく、都会でもなく、ただの持ち物でもない。
金か?経済がそれか?
「経国済民、国を使い民を救う。
足の裏が国。」やばい、疲れてきた(笑。
ミームに捕まったと、今、瞬間感じたな。「」内がその瞬間か。
目も疲れてきた。文字(ミーム)を見てるからだ。
これもよくない。
文学は体によくない(笑。
よくしゃべるの体によくない。
色々分かったところで、ミームを書くのをやめよう。
脳で済まそう。
 
ところで、余剰生産が、余剰ストレスをもたらしてる気がするが、どうだろう?蓄財も、適度があるだろう。余剰蓄財をすると、腐ってしまう。
金もあまれば腐るわな。実際、現実に、腐ってるし。ほんとかな?
マイナス金利、赤字などは、腐った、食えない金だな。

補足日時:2003/03/25 19:21
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この回答へのお礼

俺のお礼は詰めが甘いが、君の回答は詰めもきちっと詰まってるな。
立派なもんだ。ビーバーの話も、しっかりできている。やるな。
>だから情報は 存在していると言えるし
 無ければ無くてもいいものとも言えるのです。
 
そうだな。
>わたしたちは その存在から部分的に情報を
 抜き取って「情報」としているだけです。
 それが「言葉」であり「物理」であったり「音楽の楽譜」で
 あったりするだけなのです。
 
ほんまそうやで。ほんまに。
>問題意識があるから・・・より幸せになりたいから
 哲学するわけです。火のみやぐらがそうであるように
 危険を見つけたり 全体の成り立ちを見たり
 敵を発見したり いち早く不具合を知り
 仲間に知らせるために「高み」に上るのです。
 暮らすときは地に足をつければそれでいい・・・。
 
俺は馬鹿だから、高いところが好きで、そこから見える景色や、吹く風が好きで、なんせ高いところに行きたがる。結果、問題が目にはいっちゃったって感じかな。高いところに行けば、遠方下に見える、巨大な歪(問題)、不自然、が見えちゃったってわけだ。下に下りて、どうにかしないとならんのに、地図が読めないように、上から見た景色が、地上の風景とうまくリンクしない。だから、まずはそこから。下と、上を、つなげる。上下同化、一緒に考え、見れたら、しめたもんだ。そのためには、頭の中に、空間が必要になってくる。馬鹿もよく働く。馬鹿が知ってるってのは、おもろいね。
 
>自然をよく見聞きして よく考えていれば
 おのずと人間のなすべき道は見えるものです。
 
そうだな。緻密な文章だな。
 
>自然を破壊する自然もあるのです。
 自然を破壊するミームを排除しなければならないのは
 自然を破壊する自然を排除することと
 なんら変わりないのです。
 
自然と自然の激突。
自然として生きるのか、ミームとして振舞うのか。
人間の幸せは、前者にしかない。

>人々に罪はないと言うのは
 ごみをポイ捨てするのも 殺人を犯すのも
 社会が戦争に向かうのも すべて巨大なミームの
 中でその方向に向かわざるを得ない状況に
 よるものだからです。
 
ああ、なるほどね。なんか、分かってきたよ。おれのヴェクトル思考も、あながち外れじゃないな。
>希望はあります。かぎりないやさしさと
 フェアーな精神をあらゆるミームに機能させる
 ことです。世界統一サイバーマネーの構想は
 そのさきがけなのです。
 
世界統一サイバーマネーは、フェアだな。君の構想には可能性があるな。
しっかりとした。感心する。毎度だけど。
限りない優しさ。これは、人の苦悩の深さだな。俺が思うに。
>ねむ~ では・・・
ほんとにありがとう(笑。
 
>この場を借りて 死神博士のご冥福をお祈り申し上げます。
 
ちぃーーーーんんんん、、、、。。。。。
 
君は芸が細かいな(笑。よく気のつく人だ。気持ちがいい。

お礼日時:2003/03/25 18:46

#17から


> 自然が何を指すかって、その言葉自体としては、自然を指しているのです。他にありません。

「その言葉自体としては」って、質問者にそんな他人事のようなことを言われたら、答えようがありません。ご質問の意図がないことになります。
もしA=Aを否定されたら、こんなやりとり成り立ちません。

> 自然とは何か?も含め、自然は何処から来たのか?が、質問です。

「自然」という単語すらご質問内容となるなら、質問文の主語がなくなるじゃないですか。漠然と、「どこから来たのか?」という問でしたら、私にはやはり答えようがありません。
それならば、場を改めて(質問し直して)ください。
それとも、この文言は、あなたの言葉ではなく、どこからかの引用ですか。

> あなたは何をさして自然と呼びますか?任意でお答えくださって結構です。

巷で「自然」と呼ばれているものです。私は日本に生まれ、日本語を聞き慣れ、日本語での「自然」を「自然」だと思ってきました。
ですから、もし私に「自然とは何か?」を問われても、巷の人々に聞き返すしかありません。

   多重なるやりとり恐れ入ります。「哲学」の目的を知らないゆえにぶっきらぼうですけど。
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この回答へのお礼

>巷で「自然」と呼ばれているものです。私は日本に生まれ、日本語を聞き慣れ、日本語での「自然」を「自然」だと思ってきました。
ですから、もし私に「自然とは何か?」を問われても、巷の人々に聞き返すしかありません。
 
では、巷の人々としてお答えください。あなたも、誰もが、巷の人々から言葉を習っているのです。それとも、あなたは巷の人々ではないのですか?
巷で育ったのなら、できるはずです。
>多重なるやりとり恐れ入ります。「哲学」の目的を知らないゆえにぶっきらぼうですけど。
 
気にしないでください。わたしは、考えたいから考えてるだけです。それが哲学なのかどうかも知りません。ただ、巷で言うところ、哲学的なのかもしれません。私的には、思いをめぐらすことです。
以前の、私のお礼は、予想外のやぶからぼうだったでしょうか?(あんまりうまくないですね(笑)
 
>もしA=Aを否定されたら、こんなやりとり成り立ちません。
 
いつしましたか?わたしは、単にA(自然)だといっているのに、あなたは、Aとは何か?どんなAか?absoluteのaなのか、ビッグAなのか、「あ」なのか、ABCのAか、図形か、言語設定の背景がいろいろあるでしょうと、言うのです。
質問の背景を明らかにして欲しいというのなら、質問の背景とは、現実です。現実問題、自然とは何処から来たのですか?ということを、仮現実で、思考しようという試みです。
ですが、この二元論的な思考、背景と、対象物、見る側と、見られる側以外の思考方法を、あなたが持っているのなら、それを使って答えてくださっても、私はききます。
あらゆる回答を、望みます。
>多重なるやりとり恐れ入ります。
あなたの思ったとおりに答えてくれれば、うれしいです。恐れなくてもいいです。背景を、もっと設定すると、質問にわたしの意図が多く含まれることになり、私の考えが、回答者に影響し、今のあなたの考えが分かりにくくなります。得れる回答が、狭く限られます。
また、自然の背景を限定せずに大規模に語るというのは、非常に高位な思考を要するのであり、私には、それであなたと話す自信がありません。私の思考が、無理をすると不安定になります。
困難です。ですから、それは、あなたの設定でお願いしているのです。巷の人なら、巷の人的な自然で、お答えいただければいい。あなたも、巷で育ったのでしょう?私も、巷で育ったのです。受動の自然や、能動の自然など、あなたが言うところには、興味を感じています。
言語が整然としているのを感じます。
是非、もう少し話していただきたい。
もしよければ、お願いします。
ありがとうございました。

お礼日時:2003/03/24 00:36

貴方は不自然の代表に白熊やワニを持ち出していますね。


そもそもそれが主観だと言っているのですよ。
白熊は何処に居るのが自然でしょうか?、北極に居るのが自然だと貴方は思い込んでいる、大体体温が40度近い生き物が零下3~40度にも成る北極に居る事自体不自然だとは思いませんか。
数百万年前に何かの拍子で北極へ追いやられて仕方なくそこに順応しただけとは思いませんか。
その証拠が横浜の帷子川に居るタマちゃんです。
アザラシは北極海に居るのが自然でしょう。
でもタマちゃんは日本に迷い込んでもとても元気です。
あたかも最初からそこに居た様に・・・
他のアザラシに比べて痩せていると誰かが云って居ましたが、日本は北極よりも温かいので、あれで十分なのだと思います。
例えば、貴方の足元に小さな川が有ります。
そこに鮒が泳いで居ます。
それは自然な事でしょうか?
鮒は昔海で生まれて、陸封された淡水魚です。
だから貴方の論理では鮒も本来は海に居るのが自然では無いでしょうか?
でも海に放てば直ぐに死んでしまうでしょう。
それでも自然なのでしょうか?
自然とは有るがままと言う事で、それが人によって作られた環境でもです。
つまり何人も自然から外へ出る事は出来ない。
故に自然は何処から来たか等と云う質問自体成り立たないのです。
最後にビーバーのダムですが、あれは本当にダムなのですよ。
ビーバーはあそこを生簀にして魚が迷い込むのを待ち食べて居るのです。
巣を作るのが目的では無いのです。
動物園では餌は与えられるのでダムは作りません。
総ての生き物は温帯に居るのが一番すごし易いと思います。
でも空間は限られているので、あえて過ごしにくい極点を目指すのです。
それを自然だと一言で言われては、それらの生物がかわいそうだと思いませんか。
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この回答へのお礼

牙のあるような口で物を言っているように思われるかもしれませんが、そうではなく、できるだけ正直に思ったことを返答としていいます。
よろしくお願いします。自然の外には出れないから考えれないという思考法は分かります。そのうえで、あなたが言った、主観についての私の態度も話そうと思います。
 
はじめに、別のたとえをしましょう。
かごの中の鳥はどうですか?
かごの中で、その鳥は飛べないのです。
それが自然ですか?
本来、飛べるものも、飛べなくする。
それは、人の業です。
人間自身も、かごの鳥に象徴されるような、不自由を、受けているとも見ることができます。
>最後にビーバーのダムですが、あれは本当にダムなのですよ。
ビーバーはあそこを生簀にして魚が迷い込むのを待ち食べて居るのです。
 
では、ビーバーのあれが、魚を採るダムだとしましょう。
あなた(人)はダムで魚をとって食べるんですか?
北米産のバスでも釣って。そのためにダムを作ったんですか?それがあなたの、あやまった主観と、私は思います。人は何故ダムをつくったか。魚を採るためではなかったはずです。アスワンのダムと、ビーバーのダムは、同じとは思えない。アスワンダムは電気(エネルギー)を採るためですが、人は、電気を食っているわけじゃない。電気を使って、様々なことをなすのです。
谷川に、小さな堰を作っただけで、鮎や岩魚、はやなどの、魚の溯上、ゆききが阻害され、魚の生息数が減少します。生物の多様性が損なわれます。
ビーバーのダムが、魚を減らしますか?
そんなことでは、ビーバーの生活はなりゆかんでしょう?
魚が減ったら、ビーバーもいなくなる、生活を変えざるを得ないだけです。

こういうのはずるい言い方なので、避けたいのですが、
あなたは、主観主観といいますが、主観が何であるかをよく考えていっているのですか?多くの主観は、ただ観ているのではないのです。意図を持ってみているのであり、魚がいたらうまそうだとか、きれいだとか、気持ちわるい、?、おおー!、など、そういう人にある様々な見方、感じ方を主観というのであり、一人の人にも、様々な主観が存在するのです。そういう多様な観方が、個人においてまとめて、主な観方といえる理由は、見ている本人は同一の主体だ、という認識からなっています。主体の成り立ちは、現代では、大脳生理学、つまり、科学が公共的にしています。それを用いれば、完全な普遍的自我は存在しないということが言えるはずです。普遍的絶対的主体の振る舞いをする機能があるということだけです。
そのとき、私とは何か?という問いが、一般的に、さらに深いものになるでしょう。
================ 
前お礼で、私は、たとえば、といって話しています。
こういう観方では、それは不自然だと、言いいます。これはどうですか?
あれはどうですか?という、話の仕方です。
それをうけいれられないのであれば、あなたが、あなたの主観という籠に、入れられているからです。それは、自由な思考ではないと、私は言います。
あなたのおっしゃることは分かりますし、それに関して、理解を示す言葉も用意したつもりですが、伝わっていないようですので確認しましょう。
 
籠に入れられて飛ばない鳥も、あなた的には自然だというのですね?
人は自然から出てきたのだから、それの起こす事象も、自然以外にありえない。
そういう考え方も、あるということで、私は受け取っています。
つまり、人のつくるダムが、自然だとする観方も、不自然だとする観方も、両方できるし、それ以外、また、それらを超えた観方もあるでしょう。
>自然とは有るがままと言う事で、それが人によって作られた環境でもです。つまり何人も自然から外へ出る事は出来ない。
故に自然は何処から来たか等と云う質問自体成り立たないのです。
 
昨日、無かったビルが、今日、建って、現われ、今も有ります。
今無いビルが、明日、立つ予定です。
今は、無い、ビルが、明日、立つ予定です。
無いものが、明日になれば、有るだろう。人の手によって。
こういう見方をすると、自然の外に、仮にも出ているといえます。
そのものが無いところから、有る物を観ています。
 
ですが、何人も、人の犯した過ちを越えて、行くのです。
行かない人はほぼいません。
人は、明日の自然に関わっているのであり、その意識はもっと強く持っていもいいと思います。自然の外には出られない。
だから、この質問は成り立たない。のではなく、
「自然の外には出られない、だから、何処から来たのかといえば、わからない」
と、なるのです。
分からないことを、考えずして、何を考えるんですか?この考え方なら、ゆえに、私たちは、個人においても、自然を内包しているといえる。内包しているものなら、考えれそうでしょう?
答えの用意された哲学などつまらない。役に立たない。
疑問には、答えを凌ぐ意味があるのです。 
======================== 
>鮒は昔海で生まれて、陸封された淡水魚です。
だから貴方の論理では鮒も本来は海に居るのが自然では無いでしょうか?
 
フナを陸封したのは人ですか?
人と関わることで、姿を変えた生物はいっぱいいます。犬とか、農作物はそうでしょう。
そういうことがおっしゃりたいのですか?
>総ての生き物は温帯に居るのが一番すごし易いと思います。
でも空間は限られているので、あえて過ごしにくい極点を目指すのです。
 
そこを目指したのは、熊自身でしょう。熊が、選択したのです。そして、そこで生き残った者が、白熊になって、今、生息しているのです
こういうこともある。
白熊は、暑さを感じたときは、氷の海に入るのです。
あの北極で、白熊は暑さを感じるのです。
あなたにとっては、あなたの主観では、寒い寒い北極ですが、白熊にとっては暑い日もあるのです。
私が極地地方に行ったときは、無論、寒かった、というより、衣服が冷たくなっていくのを感じたとしかいえません。自分の着ている服に内側で肌が触れると、寒い、冷たいのです。そういう世界です。これも、あなたの主観では分からないでしょう。私も、そういう寒さだとは知らなかったのですから。
そこに暮らすおばあさんが、春も近い-15℃の日に、「今日はあったかいね」というのです。あなたの言う主観はそういう主観の類です。
そういうことを言っているのではなく、本来的かどうかを問うているのです。
質問文が歪に見えるようでしたら、
「自然の本来は何か?」
とも、言い換えれます。
「本来、自然とは何か?」
でもいいです。
 
>アザラシは北極海に居るのが自然でしょう。
でもタマちゃんは日本に迷い込んでもとても元気です。
あたかも最初からそこに居た様に・・・
 
アザラシは、日本近海にも住んでいます。しかし、私は、申し訳ないと、あれを見て思いました。
あなたはどう思われたのでしょうか?
扇なんとか大臣は、あれは自然ですからね、勝手にきたんだから、ほっときましょう。のようなことを言っていました。
彼女は、あの光景から何も学ばなかったのかもしれません。
あれを観て、川をきれいに、豊かに戻そう、自然により近づけようと思う人が、いっぱい居るでしょう。
殺風景なビル群、動物の死体ひとつ無い風景が、清潔できれいだという人もおれば、そんなのは味気ない、もっと風の抜けのいい、豊かな町がすみよく美しいのだ、という人もいるでしょう。
 
自然に対しての意識は、あなたなりに、わたしなりに、存在してるので、その言うところの自然を、語っていただき、ありがたく思っています。
「人は、いつ、自然から出たのか?」
という問いにあなたが持っていったのは、私にしたら、そういう考えもできるな。
という見直しなのです。

お礼日時:2003/03/23 23:48

このカテゴリ初見です。



こういう問答って、読むのめんどくさいから苦手なんですけど(じゃぁ来るなよ)、なんとなく。

ご質問の、「自然」とは、次のいずれですか。
  自然「環境」のことですか?
  自然「行動」のことですか?

それともべつな言い方すれば、
  私たちの「受動」性ですか?
  私たちの「能動」性ですか?
  それとも私たちの存在すら含めたものですか?(No.5に近い)

一般に哲学で「自然」といったら何を指すのか知らないもので、つまらない要求ですが。

この下半分も見てないんで判断し切れませんが、見た限りでは前者でしょうか。

一言で質問を提示されるのは結構なんですが、ちょっと理解しかねてるところです。

この回答への補足

どんな回答でも、みたいとおもいます。
>ご質問の、「自然」とは、次のいずれですか。
どんな自然でもいいです。あなたが出した全ての例に類似する自然について、あなたの考える自然を語っていただければありがたい。
どんな自然か?という質問は、この質問に含まれています。
あなたの考える自然でよいのです。
自然とは何か?も含め、自然は何処から来たのか?が、質問です。
あなたの考えるところの自然について、お答えいただければうれしいです。
>一般に哲学で「自然」といったら何を指すのか知らないもので、つまらない要求ですが。
 
つまらないことはないですよ。ありがたく思っています。
あなたの指す自然です。
自然が何を指すかって、その言葉自体としては、自然を指しているのです。他にありません。
あなたは何をさして自然と呼びますか?任意でお答えくださって結構です。
あらゆる回答を、望みます。
よろしくお願いします。

補足日時:2003/03/22 19:08
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●情報の本質とは何なのか 考察してみましょう。


 そもそも情報とは 事象の状態を形容したり
 内容を示していたり 命令だったり また
 情報の処理自体は 演算やフィルタリングという
 物質とエネルギーの性質を利用した作業で
 エネルギーの事象に分類されます。しかし
 情報処理の処理命令自体は 情報です。
 ビッグバン以前も以降も 宇宙のどの状態でも
 情報は存在しています。それは事象の状態の
 形容です。XYZ軸のどの部位に何時に存在したか?
 これは情報です。人間が言葉を獲得しようがしまいが
 あらゆる事象の情報は 事象とともに存在しているのです。
 たまたま 人間が言葉を使うようになり 情報を
 その人間の言葉なりに表現・記憶・記録したりしたものが
 ミームとなったわけです。
 情報とは 質量もエネルギーも持ちません。
 なぜでしょうか?
 それは たまたま人間が表現したものであり
 表現しなければ しないままでも変わりない
 ものだからです。例えば音楽は空気の振動で
 エネルギーの事象です。しかしその情報は例えば
 音符です。音符があろうがなかろうが
 音楽は存在するのです。DNAの遺伝情報も
 人間がそのように言葉に置き換えているだけで
 その本質は 自らを複製する物質の事象でしか
 ありません。ミームが問題なのは情報を
 現実の物質やエネルギーに対応させる命令機能を
 持ち合わせているからなのです。
 たとえば 音楽でありば この音符を演奏しなさい。
 という命令に編集できてしまうことです。
 音符を示して「演奏しなさい。」で
 エネルギー事象が(音楽)発露してしまうのです。
 ここに自然があるがままで
 非自然がミームにより構築される事象である
 根本的な仕組みが隠れているのです。
 情報は 紙に書くのはもちろん
 あらゆる形態に変換できます。
 なぜなら 宇宙はそもそもあらゆる部面で情報を
 内包しているからです。認識できるということは
 情報を内包している証拠なのです。
 繰り返しますが 情報とはそもそも言葉で
 表記する必要のないものなのです。

 さて それにつけ ミームの悪態を見るにつけ
 その反面 愛しいミームのなんと多いことか・・・。
 コロッケというミーム
 うちのベストメニュー10にはいる人気者。
 ひき肉とタマネギとじゃがいもに塩コショウ
 小麦粉をまぶして卵をくぐらせてパン粉でくるんで
 油で揚げる。そうして大好物のコロッケは
 出来上がる。食べることも自然。コロッケを
 好きになるのも自然。でもコロッケはミーム。
 非自然です。人間が食べるものは非自然な
 ミームによるお料理ばかり・・・。
 人間が幸せになるためには いかにミームの質を
 「自然の在りよう」に近づけるかにかかってくる
 ことはこのコロッケが語っております。
 コロッケが自然の延長線上に存在できる日を
 目指して わたしの哲学は続きます・・・。
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この回答へのお礼

>●情報の本質とは何なのか 考察してみましょう。
いこういこう。
音符が無くても音楽はある。それはわかる。楽譜を見たときに、脳内に瞬間移動しているように思ったが、やはり神経を通ってきているのであり、情報の性質で活動してる。
しかし、脳内にミームがある場合、やはり、何かのあり方であるだろう?
ファミコンのカセットだって、帯電している。
>情報の処理自体は 演算やフィルタリングという
 物質とエネルギーの性質を利用した作業で
 エネルギーの事象に分類されます。しかし
 情報処理の処理命令自体は 情報です。

処理命令とはなんだろう?これがよくわからない。物理じゃないのか?
人でいうところの意思か?意思には目的がないと働きにくいけど、目的自体は情報だ。意思とは、情報から情報へ流れる、水平になろうとする作用かなんかかな?なにか命令の基準があるのかな?
性質というか、。法則というか。

事象と共に、情報が存在しているのなら、ミームそのものの事象が、物理的に、脳内にもあるはずだ。と考える。電気などのエネルギーに付随していないのに、どうやって情報があるのか?情報そのもの同士の関係性によってか?
ビッグバン以前にも、情報はあったなら、そこにも、エネルギーというか、質量というか、ないしはそれにかわるものがあったのだろうとおもうが。情報が、表現されずともそこにあるには、。エネルギーなどがないと、忘れると思うから。
人が忘れようと忘れまいと、自然の情報はあるが、自然がそれ(自然自身)を忘れるか?
自然の情報はありのまま、忘れるけれどうまれるのか?

>情報とは 質量もエネルギーも持ちません。
 なぜでしょうか?
 それは たまたま人間が表現したものであり
 表現しなければ しないままでも変わりない
 ものだからです。
 
なぜだかよくわからない。自然の情報にしても、現れても現れなくても変わらないと言うことは、エネルギーなどが無いことになるのか?
現れるのにはエネルギーがある。現れなくても、それを維持する電力というか、エネルギーがいるんじゃないの?
維持する必要が無いのか?物理があるのか無いのか分からんな。それら両方か、どっちでもないか、物理をこえてるか、いろいろあるが。
変化しないということは、流転しない。言葉に電気などの物理エネルギーや質量があるか?というと、ふつーには無い。それは、相対的存在で、一人なら言葉がある意味が無いから。物ならある。一人でも体はある。
そういう意味でなら、一人でも生きれるな。

伝言ゲーム、けつのほうにいけば、形は崩れてる。
楽譜だって、おれが楽譜をかけるとしても、あるスコアの写しを百回もすればかなり間違う。(実際には楽譜はかけないんだけど)。
楽譜を見て、楽器が表記されてなければ、ギターの音で鳴っているのを想像する人もいれば、ピアノや声、いろんな音で想像する。表記されていても、無視できる。それに、音楽の全ては、到底、楽譜にはかけない。楽譜という、音楽の擬似的一面だ。マトリックスだって、その内部に、現実の全てを表せるわけが無い。本物は、情報と、事物が、一体化しているんだろう思う。その情報だけをまるまる移植することはできないのでは?それをするのは、時空を移植することにもなる。
あたりまえだけど。
時空の次元を超えない限り無理かな。
 
XYZ軸があって、XY軸のみで表記する情報も、Z軸を0以外にすれば、無数にあらわせる。ZがOであろうが2であろうが、3とあいまいであろうが、XYではずっと同じ数値だ。現実には、Xが1Yが1Zが0の時と、X、Yを変えず、Zをかなり大きくした場合、XとYの数値にも変化がおきると思うが。たぶんな。証拠は無いが。
また、N軸も考えると、N軸はあらゆる慣性で、一方通行の振る舞いを見せる。そのことで、XYZの値が一定の法則(Nを主語の一つとした法則)によって変わる。
おそらく、主語は、法則の中で一つとは限らない。=は、左右の二項を結んでいるだけでなく、上下、三角、四角、円だったりするんだろうな。
「三角=」の従来表記の展開図ならぎりぎりかけそうな気がするが、四角、それ以上になると、ピカソもお手上げだろう(笑。
自然は、地でいってるけど。
おれもじでいこう。 
 
話はそれたが、伝言ゲームのような意味で、ミームは流転し続けているのは事実だとおもう。
渡した図面どうりに施工しない手抜き土建屋もいるが、図面が命令を出してるのも事実だ。
人間が、容易に、そのミームの命令から、手抜きというある意味超越的な、相手にしないという態度で、外れるのもまた事実であり、希望であると同時に、きびしい人間の自然の姿(不幸)を産む性質でもあると思う。
 
ミームの強さを見るに当たって、その尺度を考える。
・それを支持する脳の数。
・それが書かれた情報媒体の数、目立ち度。
・それの起こす事象の変化度。いまある現象に、どれだけ、どんなミームが介在しているか。ミームが具現した度合い。
 
>繰り返しますが 情報とはそもそも言葉で
 表記する必要のないものなのです。
 
それは分かる。
>なぜなら 宇宙はそもそもあらゆる部面で情報を
 内包しているからです。認識できるということは
 情報を内包している証拠なのです。
 
 ほんとだ(笑。そういえるな。
>人間が幸せになるためには いかにミームの質を
 「自然の在りよう」に近づけるかにかかってくる
 ことはこのコロッケが語っております。
 
そりゃそうだ。おれの思考も、はやく自然体にしたい。そういう意味で、自然に追いつきたい。いつ、道をはずしたのか?
もしおれだけがそうなれば、きっと、他の人と話せなくなるな。
まぁ、そんなことは無いが(笑。
回路は多い方が処理能力がある。みんなで考えれば速い。できたらな。
皆が同時に持つ自我ができたら、みんなで考えれる。ミームは、そういう風になるのかもしれないと、思う。ミスってやばいあり方のマトリックスになったりして(笑。
自然のありようとは、そういうあり方でもあるのか?
皆が、同じ自我を持つ。
かつ、それぞれに自我を持つ。
海で考えるとか、宇宙で考えるとか、脳外を使って考えるとか、できたらいいな。
むしろ、自分の脳だけあって刺激がなければ、考えれないけど。
都市を、手持ちにできたらいいなぁと、最近は思う。ミームは相似を操れる。大きい部品のレゴも、最高に細かい部品にすれば、都市も持ち歩けると思う。同じ持ち歩くのでも、着せ替え都市とかな。都市のバリエーション。近代都市は何処も一緒すぎる。合理という名目で。
今度は違う。やはり、風土というものを欠いた都市は味気ない。国際都市にしても、地球的風土が、発露してこればいいのに。地球風土が背景の文化も、いっぱい生まれてそうだな。それに遊ぶのも、楽しいかも知れんな。

>コロッケが自然の延長線上に存在できる日を
 目指して わたしの哲学は続きます・・・。
 
同じコロッケでも、千差万別、これ、コロッケ?というようなものまである。
そうみると、ミームはかわいらしい。
経済も、経済?というような形に、リヴァイバルするのかもな。
そのとき、?のつく経済の方が、より本来的であり、以前のは、試行錯誤と不幸により、歪にだったんだと、察しがつくかもしれん。
ミームのカンブリア紀だってあるはずだ。これから来る、起こせるのかもな。それに耐えうる容積を持った、思考媒体が必要だから。
人類がそれに耐えるのかは、わからん。きっと耐えるだろう。そのためのサイバースペースかな。社会現象の、膨大な量のアットランダムを計算できるような。
カンブリア期の、ほとんどの種は、死んだからな。だれが生き残るんだろうな、。
種の起源は未来にあるという観方を、ちょっと改造して、今の先端にあると、いえるのかも知れんな。
疑問は大事だ。
これって自然?も大事だが、これってミームだったの?ぐらいまで、ミームを高めたいな。
最近の都会の子供は、メディア(ミーム)で遊ぶ。心配だな。
自然で遊ばせてやりたいな。残念ながら、日本の都市では、道路だって遊び場にはならん。危ないと、禁止されるからだ。
最近の子は、あまり禁止を守らないが、。
犯罪も増えるが、犯罪を減らす行為が、犯罪的に行われているようにもおれには見える。
人道に反すること、人道というのも、もうちょい、見て、考えたいな。人権みたいに。人のあり方だ。
ミームの歴史や、すでに読んだことや、色々考えたいが、今日は終わろう。思考がすこし、現実から遊離してきたし。
ありがとう。
 
一つあまった話を。
上から、街の墓地をみると、墓石が、まるでビル群のように乱立している。墓場が、都心のミニチュアに見えてな(笑。明らかにミームだったな。道路までついてた。
夜はネオン(人魂)でもつくんか?と、おもったが、死んでも俗世に住まなきゃならんのは、故人はかわいそうだな。楽しいかもしれんが、ビル群では味気ない。もっと味のある墓場を、デザインできるだろうと思うな。いくら狭いっていっても、あれじゃあな、あそこに、挨拶入れに行くみんなはどう思ってるんだろう。
故人に寄せる思いに、墓のあり方は関係ないのかな、。

お礼日時:2003/03/24 03:48

こんにちは!



実は前回の意見で終わりにしようと思ったのですが、また一言いわせてもらいます。

”自然はどこから来たのか?”

この命題に触発されて、私ははじめてこのような場に意見を言わせて頂きました。
読書好きなしがないサラリーマンですが・・・・。

ayamatiさんの知性と人柄を文書の中で感じます。
貴方が思っている以上に、この命題は多くの人の関心を呼ぶと思います。
私も貴方に触発された一人です。

回答は・・・。
目の前にあるかもしてれません、苦難の果てにあるかも知れません。
その回答が出たとき、ぜひ教えて頂きたいと思っています。
その時を心待ちにしております。

(貴方の知性と、人柄、そして未来に輝きを感じております。)

ではでは。
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この回答へのお礼

私も、明るいものを、あなたからいただいた回答に感じました。
気持ちがよかった。
私にできることは私がします。
あなたができることは、あなたがします。
自分でできることを自分でする。
そんな当たり前のことが、忘れられることもあるようで、。
だから、自分に何ができるのかが分からなくなる。
どうしたらいいのかわからなくなる。
自然は何処から来たのか?
あなたから来た。私から来た。
私たちは、自然から来た。
ここらへんまでなら、私には、矛盾無く理解できる範囲です。
少し足りないかな(笑。
しかし、私たちの現状は、見方によっては、その回答と、大きく違うようです。
ありがとうございました。
自然は、人々が、各々として生きることを可能にする概念であると思います。私たち、それぞれの中にも、最高に豊かな自然があるからです。
それを、見つめたいです。

お礼日時:2003/03/24 00:05

●たくさんの応答をいただきまして ありがとうございます。


 けれども あなたの応答にすべて答えようとすると
 あなたの10倍は 語らなければなりません。
 時間的に無理ですので できる範囲で答えたいと思います。

 ビーバーの巣は自然で 人間のつくったビルは
 非自然であることの説明ができるくらいは 哲学
 されたようですから お話をその次にすすめます。

 満月の月明かりで白骨を見た 人間の感情をもっと深く考察しましょう・・・。
 人間の行動や選択は 論理では動きません。
 論理で動くのは 機械的な作業やそれに順ずる
 行為です。人間が動かされるのは 感情によってです。
 情といい直してもいいでしょう。されに言うならば
 叙情(リリシズム)のうちに生きています。
 人間の感情は 脳神経科学に於いては 100以上の
 ホルモンによって発露すると言われております。
 音楽は12の分割された音波群によって 和声を
 成しさまざまな表情を表します。
 たった12の組み合わせでも 無限の表現が可能なのに
 100以上のホルモンの組み合わせで 人間の情は
 構成されるのですから その複雑さと懐の深さは
 想像に難くありません。
 さて 言葉が無い場合 白骨を見て 例えば次のように
 情がうごきます。「わぁ! こわ~い! (暫くして)
 ふわぁーんと慣れる。」まぁ こんなものでしょう。
 しかし ここにあなたのように言葉を介在させると
 様々に情は 変化しだします。
 わたしなら そこにエロスを見て 白骨の大たい骨を
 性器に挿し入れるかもしれません。
 このように 言葉により情が変化することが悪いわけではありません。
 そのメカニズムを知らないで それが自分だと
 勘違いすることが 不幸をまねくのです。
 過去の事件で 催眠暗示で 殺人を犯した事例が
 あります。これは 言葉の力を使った犯罪です。
 わたしたちは 言葉を使う以上 多かれ少なかれ
 自己暗示の世界に住んでいることを まず認識しなければ
 なりません。あなたは 自己暗示に酔うタイプの人間に
 わたしからは 見えます。要注意です。
 言葉はイメージを生みます。イメージも 例えば
 エイゼンシュタインのモンタージュ理論や
 サブリミナル効果など その副作用が報告されています。
 自然には あまりみられない現象です。
 
 マイナス100度の太陽を見る視点。
 これを理解するには まったくミームを使わないか
 もしくは 哲学の末に数億年をこえて生存できる意味を
 見つけるかなのです。わたしたちは後者を選ぶしか
 選択肢はありません。
 見るということは 簡単なようでむずかしいのです。
 目のまえで 転んだ老人を見てもなにも行動しないのは
 ちゃんと見ていません。起き上がるのを自然に
 助ける動作ができて ちゃんと見ていることに
 なるのです。それは自然な動作だからです。
 DNAに書かれている 当たり前の動作なのです。
 マイナス100度の太陽を見て 感動に震える
 人類の子孫は ちゃんと見れてることを示しています。
 
 ミームはエネルギーか?物質か?
 こんな簡単な疑問には 即座に答えがでなくては
 修行が足りない証拠を露呈しているようなものです。
 ミームは情報であり 宇宙の構成要素のひとつです。
 DNAに書かれた 遺伝情報も情報です。両者とも
 情報である以上 DNAがミームに置き換えられるもの
 必然です。バイオテクノロジーとは まさにそれを
 指します。この宇宙は 物質とエネルギーと情報により
 構成されます。物質とエネルギーは実は同じもので
 正弦波がその全てです。正弦波の正体は
 電磁波です。磁界とは空間の歪みで 電界とは
 空間の歪みがもとに戻ろうとするエネルギーポテンシャル
 なのです。DNAに刻まれた遺伝情報は 存在の
 写し絵です。そのままが 生殖により残ります。
 しかしミームは 記憶され編集され加工され
 それ自体が いままでに無い事象を出現させる
 指令情報となります。そこがミームが問題視される
 一番の要因だと わたしは考えます。

 自己暗示から 脱出すること まずはそこからです。

この回答への補足

マトリックスのエージェントって、モモの時間泥棒を思い出す。

補足日時:2003/03/19 18:29
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この回答へのお礼

ほんと、ありがとうな。
>そのメカニズムを知らないで それが自分だと
 勘違いすることが 不幸をまねくのです。
 
 そうだ。
>あなたは 自己暗示に酔うタイプの人間に
 わたしからは 見えます。要注意です。
 
 注意しよう。

>目のまえで 転んだ老人を見てもなにも行動しないのは
 ちゃんと見ていません。起き上がるのを自然に
 助ける動作ができて ちゃんと見ていることに
 なるのです。それは自然な動作だからです。
 
 そうだな。もっともなことだ。

>こんな簡単な疑問には 即座に答えがでなくては
 修行が足りない証拠を露呈しているようなものです。
 ミームは情報であり 宇宙の構成要素のひとつです。

ということは、言葉はミームの一種で、ミームは人間に限らずいっぱいある、いわゆる宇宙を構成する、エネルギー(物)と情報のうち、情報を指すものとしていいんかな?そういえばそんなことを聴いた記憶があるな。
どんどん露呈しよう。それは、情けないことだし、みせる顔がないんだけど。だが、悪くない。

>たった12の組み合わせでも 無限の表現が可能なのに
 100以上のホルモンの組み合わせで 人間の情は
 構成されるのですから その複雑さと懐の深さは
 想像に難くありません。
 
立派な回答だ。言うとおりだな。それは、かなりすごいことだ。
叙情だな。感情が豊かということは、幸せなことに直結する。

>マイナス100度の太陽を見る視点。
 これを理解するには まったくミームを使わないか
 もしくは 哲学の末に数億年をこえて生存できる意味を
 見つけるかなのです。わたしたちは後者を選ぶしか
 選択肢はありません。
 
後者か、。楽しみにしとこう。

>DNAに刻まれた遺伝情報は 存在の
 写し絵です。そのままが 生殖により残ります。
 しかしミームは 記憶され編集され加工され
 それ自体が いままでに無い事象を出現させる
 指令情報となります。そこがミームが問題視される
 一番の要因だと わたしは考えます。

これは、一番考えたいところだ。もし、問題打破の方法が社会脳の形成であり、社会脳の形成に失敗すると、というか、失敗はゆるされない。
リスクを最高に軽くするための、グローバル化だな。社会脳は一じゃない。
一つの大きなミームじゃない。そのためのグローバル化だ。
まさに、流転しつつも、道をはずさないミームだ。
それなら、希望が見える。脳回路。脳やITなどの研究が進むのは、時代といえば、まさにそう見えるな。そういう時代に生きているといえる。
だからこそ、自然のことは忘れるわけにはいかない。
>さて 言葉が無い場合 白骨を見て 例えば次のように
 情がうごきます。「わぁ! こわ~い! (暫くして)
 ふわぁーんと慣れる。」まぁ こんなものでしょう。
 しかし ここにあなたのように言葉を介在させると
 様々に情は 変化しだします。
 わたしなら そこにエロスを見て 白骨の大たい骨を
 性器に挿し入れるかもしれません。

言葉がなかったら、感情がわからないというのは悲しいことだな。
「言わなきゃ伝わらない」という、共同幻想だな。
言わない方が、伝わる。伝わるどころか、一体化だ。
自然、奥が深すぎ、その天は高すぎるね。まさに、誇りを感じるな。うれしいことだ。だが、おれの感情はミームにさえぎられているため、涙することがない。
残念だ。涙する日が、一刻も早く来るよう、願い、かつ積極的に生きたいな。
> 満月の月明かりで白骨を見た 人間の感情をもっと深く考察しましょう・・・。
 
そうしよう。子供は持っている言葉が少ない。だから、白骨を白骨として見れるか分からない。その場合、子供の目には、それは面白いオブジェ、遊び道具としてうつるのか、もし見慣れて、飽きているのなら、何の気にも留めないだろう。
だけれど、死体に近づきたくない心理というのは、子供の頃の方がむしろ強く、身内の死体ですら近づきたくなく、いわゆる恐怖という感情を招くな。
だけど、近づきたくない死体が身内かというと、そんなのは身内といわんな。あらゆる死体に近づきたい。近づけるようになりたい。
じゃぁ言葉の薄い動物の感情はどうだろう。
やっぱり、「わぁぁあぁ~~~(泣。」となるのだろうか?
自分の獲物の死体ならならないだろうし、自分の同族ならなるかな。
そこ(死体があるという状況)には、自分についても、死の危険をみれるからか?それとも、身内の死とは、身を切られる思い、自分の中の何かが死ぬことだからか?端的に、それは、心に穴があくという状況を生み出すのだろう。自然には穴が無い。
おれの心も自然のようにありたい。穴が開いたり、埋まったりするのは自然なことだ。

>自己暗示から 脱出すること まずはそこからです。
 
そうだな。君の言うとおりだ。おれは言葉が多い。消していこう。いらんものは捨て、少数精鋭の部隊をつくろう。それは、言葉を統化する作業かもしれない。より、高位の言葉に集約しよう。
より高位とは、レコードでフリスビー遊びをするようなもんだ。それで、かつ、レコードであるということも知っているのがよりよい。ミームに遊ばれないが、使えるためには、そういうことがあたりまえだ。
ようは、より子供ってことだ。オトナというのは、子供を超えてきているので、子供を満たしているはずだと思うわけ。だけれど、おれは、子供を満たしていないな。まぁ、ひねくれたガキだということだ。早く大人になりたい。大人も、超えてしまいたい。それが、自然体のおれかな。
赤ちゃんは至高の哲学者だという理由は、今ならわからなくもない。
まだ、おれの知らない重大な理由があるだろうけどな。
赤ちゃんのミームは、かなり高位だ。なぜなら、記憶の根底に当たる、根源的なミームだから。でも、至高かどうかは分からん。でも、至ってるといえばそう思える。赤ちゃんにとっては、このおれの愚かな思考など、どうでもいいことだが。おれも赤ちゃんだったのだから、そういうわけで、自信が無いわけじゃないが(笑。
最近は、(前からも)統化の作業にこっててな。それは、ミームたちの脳内淘汰だ。
早く終えて、早く自然になりたい。はやく、もっと目が見えるようになりたい。
バランスをとりたいな。曇ってるなりに、見ながら、それによって、統化の作業も合理化されるだろう。

君の志は、自然かといえば、半自然だな、たぶん。バランスが取れているように見える。つまり、人間的だってことだ。あたりまえか(笑。
いい人だ。
>正弦波の正体は
 電磁波です。磁界とは空間の歪みで 電界とは
 空間の歪みがもとに戻ろうとするエネルギーポテンシャル
 なのです。
 
ということは、はじめから、あるがままだった。それは、情報と、エネルギーが不可分だったってことか?いまだって、情報はエネルギーがないと存在できないからな。不可分だ。情報が眠っている状態にも、なんらかのエネルギーは必要だろう。その正弦波は途切れないなら、万物はそれであるといえる。情報とエネルギーは眠っていた。そして起きたら万物が出た。
情報とエネルギーは一体化しているんだから(波はエネルギーであり、形という情報だ)それに始まりがあるなら、眠りか、起きているかで、起きたときが始まりといえる。でも、その正弦波には、誕生が無い。誕生がなければ死なない。だけれども、形がある以上、死ぬと思うわけ。
おそらく、誕生し続けているのだろう。自然界で、死は、死ではない。
正弦波もそのように、誕生し続けるのかな。
やっぱり、無形とか、無を、おれは何とかせなあかんかも。正弦波なら、無から無へ行ける気がする。無は、あるという事を越えている気がしてならん。
自己暗示かな(笑。

お礼日時:2003/03/19 16:27

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