近現代思想は「人間」ついてどのように論じてきたか。
「主観性」というキーワードを中心に教えてください!!
ヘーゲル・マルクス・ニーチェ・フロイト・フッサール・メルロポンティ・ハイデガー・サルトルに詳しい人お願いします!!!
難しすぎて困ってます・・・

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A 回答 (3件)

ぼくはこう理解しています。



実在の問いに答えるとき、近代ではデカルトから、理性に基づく「客観性」中心に来ましたが、フッサールあたりから変わり始め、ハイデッカーや西田幾多郎は、実在にも「主観性」があると、論理を展開するようになった。

例えば現在、イノベーションを論じるに当たって、客観的な「形式知」と同時に、主観的な「暗黙知(言語で表現できない主観)」が重要な役割を果たしているといった論理が、その1つの流れです。

つまりものの存在や生成には、主観無くしては、認識も創造もできないという論理です。
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 メルロ=ポンティについて書きます。


 彼は、全てを知覚の前に現れる現象から説明します。
知覚なのだから、視覚のみである必要はなく、触覚なども入るのです。
こうして、視覚に優位を与えていた従来の西洋哲学を相対化します。
経験とは、すべての感覚の複合体なのです。
視覚的に見ると、どうしても言語による認識がテーマななりますが、
知覚全体を考えると、実践や行為が問題になります。
こうして、彼は「身体の現象学」を研究しました。
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次の本が参考になると思います。

探してみてください。
茅野良男「ドイツ観念論の研究」1975,創文社
高橋昭二著「カントとヘーゲル」1984,晃洋書房
山崎庸佑著「生きる根拠の哲学」第三文明社レグルス文庫
立松弘孝訳「現象学の理念」1965,みすず書房
フィンク著/新田義弘・小池稔訳「フッサールの現象学」1982,以文社
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Q「表現の自由」と「思想の自由」の共存は不可能?

わが国には「表現の自由」と「思想の自由」と言うものが存在します。


その中で例えば、この思想は反社会的で危険だ。禁止する。と言う事があった場合、これは「思想の自由」に反する事と受け止められる時もあります。

しかし、その思想を拒否する思想もあり、それも思想の自由です。結局は、どちらの思想を支持するかの問題で、「禁止する思想」の支持が多ければ、その思想は禁止されます。


これと同じで、表現も言えるでしょうか?


例えば、破廉恥なCMが流された場合、はしたないと思って批判が集まって、そういう類の放送を法律で禁止された。

これは、「表現の自由」に反します。



「思想の自由」では、思想を否定する思想と言うものが存在し、「思想の自由」と言う憲法を保ちながら、思想に制限をかける事は可能ですが、表現を否定する気持ちは、表現ではなく思想の分野で、表現を否定する表現と言うものは存在しないように思います。


つまり、この例で言えば、「思想の自由」を尊重するならば放送は禁止ですし、「表現の自由」を尊重するならば継続と言う事になります。

前置きが長くなってしまいましたが、二つ質問があります。


・「思想」を否定する「思想」と言うものが存在し、それもまた「思想の自由」ですが、「表現の自由」を否定する表現と言うものは存在するでしょうか?


・「思想の自由」と「表現の自由」は同じ憲法に定めるのは矛盾しないか?


答えだけでなく理由も教えてください。
よろしくお願い致します。

わが国には「表現の自由」と「思想の自由」と言うものが存在します。


その中で例えば、この思想は反社会的で危険だ。禁止する。と言う事があった場合、これは「思想の自由」に反する事と受け止められる時もあります。

しかし、その思想を拒否する思想もあり、それも思想の自由です。結局は、どちらの思想を支持するかの問題で、「禁止する思想」の支持が多ければ、その思想は禁止されます。


これと同じで、表現も言えるでしょうか?


例えば、破廉恥なCMが流された場合、はしたないと思って批判が集まって...続きを読む

Aベストアンサー

"「思想の自由」なんて法律、無意味ですね"
   ↑
御指摘の通り、あまり意味はない、という人も
います。
しかし、社会主義のように思想を押しつけたり
する場合もあり得る訳です。
又、日本では、沈黙の自由や謝罪広告の強制が、
これとの関係で問題となったことがあります。

”アルカイダを否定する思想も、民主化を否定する思想も「思想の自由」だと
思うので法律矛盾はしないと思う。結局は、「思想の自由」と「思想の自由」
との戦いなのだと思います。”
   ↑
誤解というか、思想の自由と表現の自由を混同している
ように思えます。
思想の自由とは、両親の自由と一緒になって「内心の自由」を
保障したものです。
思想良心を外部に発表する自由が表現の自由であり、学問的体系の
形をとる場合は学問の自由になる訳です。

”表現を拒否するというのは思想であって、「その表現は嫌だ」と言う
「思想の自由」を遂行している。と言う事です。
その「思想」をもって他人に要求する行為そのものは「表現」ではありません”
   ↑
根底に思想があって、それが外に出ると表現になる訳です。
質問者さんの意見を理解することが出来ましたが、それは
一般に説明されている内容とは異なるようです。

"「思想の自由」なんて法律、無意味ですね"
   ↑
御指摘の通り、あまり意味はない、という人も
います。
しかし、社会主義のように思想を押しつけたり
する場合もあり得る訳です。
又、日本では、沈黙の自由や謝罪広告の強制が、
これとの関係で問題となったことがあります。

”アルカイダを否定する思想も、民主化を否定する思想も「思想の自由」だと
思うので法律矛盾はしないと思う。結局は、「思想の自由」と「思想の自由」
との戦いなのだと思います。”
   ↑
誤解というか、思想の自由と表現の自由を...続きを読む

Q【哲学】ニーチェ→サルトル→?ニーチェ→サルトル→の次は誰ですか?ニーチェ→サルトル→の源流

【哲学】ニーチェ→サルトル→?

ニーチェ→サルトル→の次は誰ですか?

ニーチェ→サルトル→の源流を組むサルトルの次の哲学者の名前と○○主義を教えてください。


ニーチェ→サルトル→以外の源流を組む哲学もあるんですか?

Aベストアンサー

私は、西洋哲学の歴史的な流れを語るほどに、いろいろと著作を読んでゐるわけではありませんので、直接の回答はできません。OKWaveでは同じ質問にいくつかの回答がついてゐますから、そちらを御覧ください。

そもそも
ニーチェ→サルトル→?
といふ図式が出てくるのが不可解です。アホの私の頭では、ニーチェとサルトルは単純にはつながりません。ニーチェはキリスト教の腐敗を批判しましたが、聖書の世界を否定したとは思へません。強大な力の必要性を説きました。人間の世界ではどうしても神が必要になる、その神を追ひもとめてゐたのではないでせうか。宗教をふくめた人間そのものを肯定したのがニーチェです。当時のドイツの尊大な学者についてかう書いてゐます。
「学者はこうして自信をもって、その本能によって、宗教的な人間は、自分よりも価値が低い劣った人種だとみなすのである。」
(ニーチェ『善悪の彼岸』第3篇58 中山元訳 光文社文庫 140,141ページ)

先日別の質問にも回答いたしましたが、ネット情報ですませてゐたのでは、プラトン、アリストテレスなどの名前だけでありがたがつて、表面的に高尚な哲学だと信じこむだけです。私なら
プルタルコス→エラスムス→ニーチェ
です。哲学カテゴリのみなさんの見解もさまざまです。マキアベリやモンテーニュの名をお出しになる方もいらつしやいますし、タレスはアルケーだ、アウグスティヌスを崇めるのだ、マッハ以前の哲学はゴミだ、ウィトゲンシュタインの前で沈黙すべきだ、などなど諸説あります。ナナミさんも御自身でお決めになるのがいちばんよろしいかと存じます。

私は、西洋哲学の歴史的な流れを語るほどに、いろいろと著作を読んでゐるわけではありませんので、直接の回答はできません。OKWaveでは同じ質問にいくつかの回答がついてゐますから、そちらを御覧ください。

そもそも
ニーチェ→サルトル→?
といふ図式が出てくるのが不可解です。アホの私の頭では、ニーチェとサルトルは単純にはつながりません。ニーチェはキリスト教の腐敗を批判しましたが、聖書の世界を否定したとは思へません。強大な力の必要性を説きました。人間の世界ではどうしても神が必要になる、その...続きを読む

Q思想の自由について

思想の自由について

思想の自由とは
「憲法が保障する基本的人権の一。人がどのような思想をもっていても、
それを理由に社会的不利益を受けることのない自由。」
とあります。辞書からの引用です。

ここで言う社会的不利益とはどのようなものでしょうか?
教えてください。

また、もしも社会的不利益を受けた場合、もちろん違憲となるでしょうが、
違憲だからなんなのでしょうか?
憲法に違反した人間を訴えればお金を取ったり、刑務所に収容させたりできるのですか?

Aベストアンサー

社会的不利益を与えたのが国か一般私人かで話は少し異なります。

1.国の場合
国が特定の思想を持っている人に社会的不利益を与える方法としては、iこれを弾圧する法律を国会が制定する、iiこれを弾圧する行政行為を行政庁がする、iiiこれを弾圧する裁判を裁判所がする、という3つの場合が考えられます。
裁判所は違憲審査権を持っていますから、裁判所によって、i法令、ii行政行為が違憲無効となります。また国家賠償の対象となる場合もあるでしょう。iiiの場合は審査をする裁判所が違憲なことをしていますから、上級裁判所があれば上訴するか、国民審査などによってどうにかします。

2.一般私人の場合
こちらが質問者様が主に疑問になっておられるところだと思います。
一般私人には憲法が直接適用されることはないというのが今の主流の考え方で、最高裁判所もこの立場にたっています。ですから、違憲だからといって、先に述べた国のように、直接何かが無効にされたりするわけではありません。
ですが、民法などの私人の行為を規律する法律を介して、憲法の保障する思想の自由の趣旨が私人にも及ぼされるのです。ですから、結局は憲法が適用されるのと似たようなことですね。
具体的には、思想を弾圧するような契約は民法90条違反として無効になる可能性があり、思想を弾圧するような行為は民法709条に基づいて損害賠償の対象となる可能性があります。

社会的不利益を与えたのが国か一般私人かで話は少し異なります。

1.国の場合
国が特定の思想を持っている人に社会的不利益を与える方法としては、iこれを弾圧する法律を国会が制定する、iiこれを弾圧する行政行為を行政庁がする、iiiこれを弾圧する裁判を裁判所がする、という3つの場合が考えられます。
裁判所は違憲審査権を持っていますから、裁判所によって、i法令、ii行政行為が違憲無効となります。また国家賠償の対象となる場合もあるでしょう。iiiの場合は審査をする裁判所が違憲なことをしていますか...続きを読む

Qニーチェ~ハイデガー~サルトルの思想的つながりは?

19世紀末にニイチェは、このプラトンのEssentia(本質存在)がExistentia(現実存在)に優位するという「プラトン主義」と「形而上学」をひっくり返し、西欧の2500年の「形而上学」の歴史に終止符を打ちました。

これを受け継いだのがハイデガーで、ハイデガーはデカルト以来の意識中心の、自我を出発点に取る近代哲学を放棄し、人間の事実存在(実存)に出発点にとる「実存哲学」を始めることになりますが、後期になるとサルトルの「実存主義」と区別するために、今度は人間を中心とする「実存哲学」から「転回」し、「存在」を中心とする「存在論」を展開しました。



という哲学の解説を読んで興味が湧きましたが、ところどころ分かりませんでした。

前半の、ニーチェが「プラトン主義」と「形而上学」をひっくり返した、とはどういうことでしょうか?

後半で、ハイデガーは自我を出発点に取る近代哲学を放棄し、人間の事実存在(実存)に出発点を取る「実存哲学」を始めた、とありますが、自我を出発点に取るのと実存に出発点を取るのとではどう違うのでしょうか?

サルトルと区別するために~とありますが、結局やってることがサルトルと似てきちゃった、ということですか?

ハイデガーは結局サルトルを超えるような仕事をしたんでしょうか?それともサルトルとは全然別の種類の分野に進んだ、ということですかね?

19世紀末にニイチェは、このプラトンのEssentia(本質存在)がExistentia(現実存在)に優位するという「プラトン主義」と「形而上学」をひっくり返し、西欧の2500年の「形而上学」の歴史に終止符を打ちました。

これを受け継いだのがハイデガーで、ハイデガーはデカルト以来の意識中心の、自我を出発点に取る近代哲学を放棄し、人間の事実存在(実存)に出発点にとる「実存哲学」を始めることになりますが、後期になるとサルトルの「実存主義」と区別するために、今度は人間を中心とする「実存哲学」から「転回」し...続きを読む

Aベストアンサー

 こんばんは。まず基本的な「データ」の誤りから修正していきます。
サルトルが『存在と無』を発表したのは1943年であり、ハイデガーが『存在と時間』を発表したのは1927年です。この部分で質問者の質問には基本的な誤解があります。
 齋藤信治や川原栄峰そして木田元、滝浦静雄等の説明によれば、ハイデガーはサルトルの著作を目にして烈火の如く怒ったとのエピソードも伝わっています。それは『存在と時間』のどこをどう読めば、あのような妙な焼き直しの文章になるのかとの理由があったとされています。
 ハイデガーは思索家であると同時に優れた哲学史家でもあり、それはニーチェの言葉を『ニーチェ-美と永劫回帰』『ニーチェ-ヨーロッパのあらゆる価値観の顚倒』に見られる、デカルト以前とデカルト以後の対比を通して見た「『存在』への問い」に表れています。
 サルトルが実存主義であるかとの問いには疑問視される見解もしばしばあり、必ずしも彼が実存主義者であるとはいいかねます。
 ご参考にすべきは、フッサールとハイデガーでありここにサルトルなどがつけいる余地は寸分などもありません。
 なお参考文献として、齋藤信治の『哲学初歩』あたりをお読みになることをお勧めします。

 こんばんは。まず基本的な「データ」の誤りから修正していきます。
サルトルが『存在と無』を発表したのは1943年であり、ハイデガーが『存在と時間』を発表したのは1927年です。この部分で質問者の質問には基本的な誤解があります。
 齋藤信治や川原栄峰そして木田元、滝浦静雄等の説明によれば、ハイデガーはサルトルの著作を目にして烈火の如く怒ったとのエピソードも伝わっています。それは『存在と時間』のどこをどう読めば、あのような妙な焼き直しの文章になるのかとの理由があったとされていま...続きを読む

Q政治思想>>自由主義

1.自由主義(Liberalism)、新自由主義(New-Liberalism)、新(復興)自由主義(Neo-Liberalism)について、歴史的、経済的、政治的...どの方面からのアプローチでも結構ですので相違点等を教えて下さい。

2.上記の他に、「自由主義」と名の付く政治思想があれば教えて下さい。

Aベストアンサー

自由主義は、政治権力を抑制して、人々の自由を確保しようとするものです。政治的自由主義の場合は人々の自由意志に、経済的自由主義は自由な経済活動を市場原理による調節にまかせていくもので、この両者は普通は一体としてとらえられることが多いです。
絶対王政の専制政治と重商主義経済政策に反対し、立憲政治と資本主義経済を実現する、市民(ブルジョア)革命を担う思想の体系です。政治的自由主義の代表的理論家としてはジョン・ロック、経済的自由主義の代表的理論家としてはアダム・スミスがあげられるのが普通です。

ニュー・リベラリズムは、19世紀末から20世紀初めに影響力をもった思想と政策の体系です。経済が自由競争段階から独占段階に移行したことと参政権の拡大にともなって、イギリスの自由党がとなえたもので、党首ロイドジョージの名とともに語られることが多いです。労働者や貧困層の生活を保障するための社会政策の充実をはかるもので、後の福祉国家成立の基盤形成をなしました。思想的にはベンサムやミル父子などの功利主義の延長線上に位置づけられ、市場原理だけでは失業や貧困が解決できず、それは人々の自由を阻害する、ということから、古典的自由主義を修正するニュー・リベラリズムと証したのです。また、ニュー・リベラリズムは帝国主義的膨張による富裕化を前提にしており、その富を労働者や貧困層にも分配するものでした。その後イギリスでは、より徹底した福祉国家政策を追求する社会民主主義の労働党にとってかわられますが、第2次大戦後のイギリス福祉国家の骨格のプランは、策定の中心となった自由党員ベヴァリッジの名前をとって呼ばれるのが普通です。1930年代のアメリカのニュー・ディール政策もニューリベラリズムの政策と位置づけられます。アメリカでは、福祉重視の政治的傾向を「リベラル」といいますが、これはニュー・リベラリズムの意味と言っていいでしょう。
古典的自由主義とネオ・リベラリズムが国家機能の抑制を説くのに対し、ニュー・リベラリズムは国家機能の拡大を促す役割を果たしたのが特徴です。

ネオ・リベラリズムは、2度のオイル・ショックを契機に、先進国の高度経済成長が終焉したのにともなって影響力を強めた思想と政策の体系です。福祉国家政策による財政規模や国家機能の拡大、税負担の増大を批判し、できるだけ市場経済にまかせていく、という内容です。代表的理論家としてはハイエクとM・フリードマンがあげられます。
イギリスのサッチャリズム、アメリカのレーガノミクスがその実例としてあげられ、日本でも1980年代の中曽根行革や、90年代以降の「構造改革」は、ネオ・リベラリズム政策だとされます。グローバリゼーションの基調は、ネオ・リベラリズムを基礎に進んできています。先進国は、不況克服策やグロバリゼーションの圧力への対応として大なり小なりネオ・リベラリズム政策を導入していますが、労働運動や社会運動の力が強いフランスやドイツなどでは、かなり不徹底なものであることを余儀なくされています。
ネオ・リベラリズムは競争の拡大・強化や、競争の促進要因としての格差の拡大を容認することが特徴で、競争の勝者により多くの分配の与えることを主張し、累進税率や社会政策による所得再分配を非難します。
ネオ・リベラリズムは、「結果の平等」から「機会の平等」へと主張しますが、所得格差が教育格差につながる現状や、技術が複雑で大規模なしかけを必要とするようになっていることから、手持ち資本が大きければ大きいほど競争には有利で、弱者保護を弱める政策ともあいまって、富める者をより富ませ、貧しいものをより貧しくさせる、という格差を拡大する方向をとることには、批判も多いです。

自由主義は、政治権力を抑制して、人々の自由を確保しようとするものです。政治的自由主義の場合は人々の自由意志に、経済的自由主義は自由な経済活動を市場原理による調節にまかせていくもので、この両者は普通は一体としてとらえられることが多いです。
絶対王政の専制政治と重商主義経済政策に反対し、立憲政治と資本主義経済を実現する、市民(ブルジョア)革命を担う思想の体系です。政治的自由主義の代表的理論家としてはジョン・ロック、経済的自由主義の代表的理論家としてはアダム・スミスがあげられる...続きを読む

Q(ヘーゲル、ニーチェ関連)「最初の人間」、「最後の人間」の初出は?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%AE%E7%B5%82%E3%82%8F%E3%82%8A#.E6.9C.80.E5.BE.8C.E3.81.AE.E4.BA.BA.E9.96.93 
このページの4節の「最後の人間」の冒頭の数行から、ヘーゲルの著作物で「最初の人間」が、またニーチェの著作物で「最後の人間」が論じられているものと推測します。

「最初の人間」はヘーゲルの如何なる著作に於いて論じられていますか。
「最後の人間」はニーチェの如何なる著作に於いて論じられていますか。
よろしくお願いします。

なお、上記のページから「最初の人間」、「最後の人間」の意味合いは見当がついています。
また、断るまでもないのでしょうが原書は読めません。

Aベストアンサー

ニーチェの「最後の人間」は「ツラトゥストラかく語りき」の第1部序章第5節に出てくる言葉です

意味はいいのですね?

ヘーゲルは具体的にどこかはわかりません
わかったら補足します

Q板垣退助は「自由民権は大切である」という思想をもって自由民権運動を起こしたのですか?

板垣退助は自由民権運動で有名です。
自由民権運動といえば、日本史教育では「日本の民主主義発展のさきがけとなった」といった好意的評価をされてる印象があります。

しかし、板垣自身は明治維新直後は政府の要職についていて、下野したきっかけは征韓論政変です。
下野翌年に「民撰議院設立建白書」を出したことで有名な愛国公党のメンバーも、同じく征韓論政変で下野した人たち(後藤象二郎、江藤新平、副島種臣)が多いみたいです。
征韓論政変自体は、政策の衝突、もしくは派閥争いでしかなくて、自由民権というテーマとは関係がないですよね。

ということは、征韓論政変による下野直後にはじまった「自由民権運動」というのは、
板垣達にとって単なる政治的な地位を得るために政府を攻撃する手段でしかなかった、ということはないのでしょうか。

それとも板垣は元から「民衆に自由と参政権を保障するべきだ」という思想の持ち主で、
もし征韓論政変がなかったとしたら、明治政府の中枢という立場からそのような整備を進めていこうと考えていたのでしょうか。

権利を求める運動なのだから「政治的地位を得るための攻撃」で当たり前で、
そのことにより自由民権運動の評価が下がる、というものではないと思いますが
運動と板垣本人の思想との繋がりが気になったので質問しました。

板垣退助は自由民権運動で有名です。
自由民権運動といえば、日本史教育では「日本の民主主義発展のさきがけとなった」といった好意的評価をされてる印象があります。

しかし、板垣自身は明治維新直後は政府の要職についていて、下野したきっかけは征韓論政変です。
下野翌年に「民撰議院設立建白書」を出したことで有名な愛国公党のメンバーも、同じく征韓論政変で下野した人たち(後藤象二郎、江藤新平、副島種臣)が多いみたいです。
征韓論政変自体は、政策の衝突、もしくは派閥争いでしかなくて、自由...続きを読む

Aベストアンサー

板垣退助は自由民権運動の象徴みたいに思われていますが、
同じく指導的な立場の民権家で、
自由党の機関紙「自由新聞」で先鋭な理論を展開した馬場辰猪からは、
厳しく批判されています。
明治十四年十月に自由党が誕生。翌十五年、改進党の結成。
このころまでは自由民権運動は上げ潮でした。ところがです。
自由党の結成からわずか半年ほどのちに、
党首の板垣が「ヨーロッパに行く」と言い出した。
結成されたばかりで、党が政治問題に忙殺されているこの時期にです。
一年ちかい一般的な視察と観光に終始したその遊の費用はどこから?
政府からでした。
藩閥政府は自由民権運動に弾圧と懐柔をくりかえしたのですが、
板垣の外遊もそうした懐柔策の一環だったのです。
ヨーロッパ滞在中にすでに自由民権運動から隠退する意向の板垣は、
帰朝歓迎会の席上で、突然、
自由党は解散したほうがよいという趣旨の演説をしました。
結成から三年、自由党は解党しました。

萩原延壽「馬場辰猪」を参考にしました。

Qパリ・コミューンとマルクス思想の関係とは?

マルクス主義における民主主義の機構論のモデルは、パリ・コミューンの経験でありました…

という記述を本で読んだのですが、パリ・コミューンというものが元々マルクスの頭の中で共産主義政府のモデルになっていたのでしょうか?パリ・コミューンのどういう所をマルクスは参考にしたのでしょうか?

Aベストアンサー

http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/34/5/3412600.html

短期間で終わったので評価が低かったのに対してマルクスは、プロレタリアの直接暴力によって権力が発生した点を評価した。

Q思想や表現の自由は国をバラバラにする?

漠然としてあった慣わし、良識、
明文化されてないが共通認識として皆が持っていたものが崩れていくと、面白い争いが起きるんだなあと、最近関心を持っています。

親を蔑ろにする、子供生むより自分の人生、子供はそもそもリスクで損で迷惑なもの、保育園反対、ベビーカー邪魔、公共の場に連れてくんな、高齢者早く死ね、ブサイクは遺伝子残すな、過疎地域は税金の無駄だから潰せ、未成年者でも極刑OK、能無しは死ねばいい、シングルマザーは自己責任でしょ、etc

これらの意見は人道的な価値観からは外れているが、
それらの思想や表現もまた自由で、本音で、それらの思想が幅を利かすようになってきて、良識的な思想との対立が目立ってきて、
なんかバラバラになっていってるなあと感じています

政府としては良識側の立場に立ってまとめていきたいものの、これといった有効手段もない状態。
「お前らもっと道徳観を持て、人の心を取り戻せ」と叱咤激励したり、
「心が貧しい、さもしい奴らだ」と蔑んだりしても、
何の訴救力もなく、事態は何も変わらず、ただただ苦々しい思いをしながら追い詰められていくばかり。

こういう状態って、打開策のようなものはあるのでしょうか?

もし仮に「道徳観を教え込む」とか「普遍的な良識感を叩き込む」とかをやると、それは洗脳というか思想の押し付けになってしまうのでしょうかね?

漠然としてあった慣わし、良識、
明文化されてないが共通認識として皆が持っていたものが崩れていくと、面白い争いが起きるんだなあと、最近関心を持っています。

親を蔑ろにする、子供生むより自分の人生、子供はそもそもリスクで損で迷惑なもの、保育園反対、ベビーカー邪魔、公共の場に連れてくんな、高齢者早く死ね、ブサイクは遺伝子残すな、過疎地域は税金の無駄だから潰せ、未成年者でも極刑OK、能無しは死ねばいい、シングルマザーは自己責任でしょ、etc

これらの意見は人道的な価値観からは外れて...続きを読む

Aベストアンサー

こういう状態って、打開策のようなものはあるのでしょうか?
   ↑
学校では道徳は教えられない、と言われています。
道徳は、子供の頃から親や社会が身体で覚えさせないと
身につきません。

中国や韓国の道徳教育は日本などよりはるかに盛んですが
結果は御存じの通りです。

だから世界各国では宗教を利用してきたのです。

新渡戸稲造の武士道にあります。

「御国では、宗教教育をしていないと聞きましたが本当
 ですか?」
「本当です」
「オオ! それでどうやって子供達に道徳を教えることが
 できるのでしょう?」

英国などでは、小学生のときからキリスト教に基づく
宗教教育をやっていますが、それはこうした理由がある
からなのです。


もし仮に「道徳観を教え込む」とか「普遍的な良識感を叩き込む」とかをやると、それは洗脳というか思想の押し付けになってしまうのでしょうかね?
  ↑
はい、洗脳であり押しつけです。
そうでないと社会は、北斗の拳の世界になってしまいます。

そこまで行かなくても、秩序が乱れて困るのは
結局、国民です。

ある程度の洗脳や押しつけは、文明社会では
必要なのです。

こういう状態って、打開策のようなものはあるのでしょうか?
   ↑
学校では道徳は教えられない、と言われています。
道徳は、子供の頃から親や社会が身体で覚えさせないと
身につきません。

中国や韓国の道徳教育は日本などよりはるかに盛んですが
結果は御存じの通りです。

だから世界各国では宗教を利用してきたのです。

新渡戸稲造の武士道にあります。

「御国では、宗教教育をしていないと聞きましたが本当
 ですか?」
「本当です」
「オオ! それでどうやって子供達に道徳を教えることが
 できる...続きを読む

Qカール・マルクスの思想の重要点について

いつも楽しく拝見させて頂いています。

現在、ドイツの哲学者のカール・マルクスについて勉強しています。
「疎外」というコンセプトを学び終えたところで、
そこからカールマルクスの思想の重要点を見つけなくてはならないのですが、
彼の思想で一番重要な事とは何でしょうか。
彼は人間にとってどんなことが大切だといっていたのでしょうか。

できれば「疎外」から繋げて、
現代人に納得ができるように説明して頂けると助かります。

よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

マルクスの思想の重要事はまさにその「疎外からの開放」です。
資本論で示されているように、彼にとって疎外は人間性を失わせていくもので
これをなんとかしよう、というのがマルクスの思想です。

あれ?ここだけ見るとまともに見える。ふしぎ!



では、その原点はどこにあるか。彼の思想の土台となった唯物史観は簡単に言うと
「モノによってモノが生まれる」という考え方をします。
どういうことかというと、疎外にしても「モノ」が原因になるわけです。

ここから疎外の原因はとなるモノは何かを探ったときに、それはお金(資本)だとしたわけです。
お金というものがあれば(本源的)蓄積が起こるので、人間社会に「疎外」が起こる。
疎外の原因がお金として、唯物論的観点から、マルクスはお金を
キリスト教の原罪と同じ表現であらわしたわけです。

つまり、お金を持っている人は原罪を有している=資本家は吸血鬼で根源的な悪!
ということになります。ここからはもはや善と悪の話になってしまい、
後は宗教国家が歴史的にたどってきた暴力的な異端排除や戦争と同じ。
この悪を成敗するは、神聖なる労働者階級であって、
資本家に対しては暴力と独裁を持ってしても許容される、と結論につながるわけです。



ええ、やっぱりむちゃくちゃでんがな。



もちろん歴史を見れば明らかではありますが、共産主義を標榜すれば、予定通りに独裁が起き、
結果としては疎外が自由主義国とは比べ物にならない勢いで強まっていきました。
ただ、このむちゃくちゃが19世紀には一部で支持されたことも間違いない。これは何故でしょうか?
私は、資本に対する無知や不理解(あるいは積極的誤解)がもたらした誤謬であると思うのです。


ここ100年で経済の分析は進み、現代において我々が容易に知ることができるように、
資本は原罪なんて大仰なものではなく、観測・分析が可能な道具に過ぎないものです。
そもそもマルクスが問題にした本源的蓄積にしても、お金が無くたって発生しうるケースが多く示されています。

それでもマルクスの思想は、土台が唯物論なので原因をモノにおかなければいけない。
本源的蓄積の原因を、現代においてごく普通の観点のように人間の精神活動によるもの、
すなわち利己心によるものであるともできなかったわけです。
そこで目をつけられたのが、彼にとって"よくわからない"お金だったんじゃないでしょうか。

マルクスの思想の重要事はまさにその「疎外からの開放」です。
資本論で示されているように、彼にとって疎外は人間性を失わせていくもので
これをなんとかしよう、というのがマルクスの思想です。

あれ?ここだけ見るとまともに見える。ふしぎ!



では、その原点はどこにあるか。彼の思想の土台となった唯物史観は簡単に言うと
「モノによってモノが生まれる」という考え方をします。
どういうことかというと、疎外にしても「モノ」が原因になるわけです。

ここから疎外の原因はとなるモノは何かを探ったとき...続きを読む


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