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「歌わないです」について、間違った文だという質問が出ています。
(回答しようとしたらこの人からブロックされています。どうしてブロックされたか全く心当たりがありません。仕方なく、質問の形で話に加わります)

 形容詞「素晴らしい」に「です」をつける言い方は、一部の人にあり得ないと判断されています。これは本来、「素晴らしゅうございました」といったものです。ところが「ございます」を使う人があまりいなくなって、「形容詞」を丁寧形で表現することが出来なくなりました。そこで登場したのが「素晴らしいです」です。ところがこれに対する賛成者は<少ないです>。
そして、それに加えて「過去形」までもが加わってきました。「素晴らしっかったです」「よかったです」「楽しかったです」。否定的な人々には、一層違和感が加わりました。ではどう言えばいいのか。「素晴らしゅうございました」「楽しゅうございました」
 いくら何でも、そんな古めかしい言い方に戻れるものかという否定派は今もあります。ところがここでまた、「素晴らしかったです」「よかったです」を、「素晴らしかったでしょう」「良かったでしょう」と、「う」をつければスラスラ通じてしまいます。こんな話がこのサイトでも続けられてきました。
 さて、今度の質問は「歌わないです」が間違っているという話。これが、「美しくないです」だったらどうなるのでしょう。「歌わない」の「ない」は打消の助動詞。「美しくない」の「ない」は形容詞。「形容詞」+「です」は間違いという人がいても不思議ではありませんが、「助動詞(ない)」+「です」はあっても、また不思議ではない。(「ません」が普通ですが)
 皆さんのご意見をお伺いしたいと思います。

質問者からの補足コメント

  • どう思う?

    私の質問は本来の質問者「feifei0119さん」の〔普通、「歌わないです」は間違った文です…〕
     https://oshiete.goo.ne.jp/qa/10833584.html
    に由来するものです。「歌う+ない+です」が間違いだとは、誰も言っていないのに、feifei0119さんが敢えてそう言ったのは、「ない(形容詞)+です」(例えば「お金がないです」)が、あまり使われない言い方だ、という話から出てきた考え方だと思ったから、そのあたりを区別したかったのです。
     こう書きながら、自分でも分かりにくい言い方だと、感じています。しかし、質問はそういう意図から生まれたと言うことをご理解いただけた方に、お答えいただきたいと思います。

      補足日時:2018/11/21 19:40

A 回答 (10件)

こんにちは。



「形容詞+です」この問題は古くて新しい問題ですね。
私の思うに、はっきりした解決、というか、こうなれば落ち着く、ということの言い難い問題です。文法の体系性という点で、小さな矛盾を含んでいると思うからです。

「用言+ないです」のほうでは、「ない」が2種、あるいは3種に分けられるということは、異論の少ない(いろいろ言う人はいますが)ところだと思います。
「形容詞」「助動詞」と、「補助形容詞」。この点については、1311tobiさんが紹介された chiebukuro の解説がわかりやすく、私も勉強になりました。(私は、意味がほぼ同じで活用などが同じなら、品詞をごちゃごちゃ議論することもないだろう、という怠惰な考えだったので、あまりまじめに考えたことがありませんでした。要は、同じ語形が「多少」違った使い方をされるだけで、「基本的な」ところは一緒だろう、と思っているのです。)

皆さんが触れられていない点で、私が重要だと思うのは、「です」にも2種類ある、という考え方です。
これは、たぶん私の学生時代(ン十年前です)から言語学のほうではそうだったと思うのですが、確証はありません。私はずっとそう考えてきました。
今回、改めて国語辞書の記述を見、辞書の付録の「助動詞活用表」などを見て、「です」が一つしかない(「丁寧な断定」という用法)ことにちょっと驚いたくらいです。まあ、国文法の分析が言語学(少し前の「日本語学」)と違うのはよくあることですが。

かんたんに言えば、「名詞/形容動詞+だ/です」の「です(1)」と、「形容詞+です」の「です(2)」は違うものだ、という分析です。(「形容動詞」を「ナ形容詞」と言い換えるのは、今回はやめておきます。)

上に書いたとおり、「です(1)」のほうは、「だ」の丁寧な形、です。「断定」(この用語は好きではありませんが)の助動詞で、丁寧さによって形が分化します。
   学生 だ/です   まじめ だ/です

それに対して、「です(2)」のほうは、「だ」とは対立しません。
   美しいです (×美しいだ)
この「です(2)」は、「断定」の機能を持たず、「美しい」という、すでに「断定」の機能を持った言い切りの形に「丁寧さ」を加えているだけです。つまり、「断定」の助動詞ではなく、「丁寧」の助動詞です。(動詞文の「ます」に対応します)

また、「です(1)」は活用を持ち、「でした/でしたら」という形になります。
   学生でした   紅葉の名所でしたら、例えば、、、
(「でしょう」を活用形とは考えません。「だろう/でしょう」は一語の助動詞と考えます。)

それに対して、「です(2)」は活用を持ちません。
   ×美しいでした (美しかったです)  ×美しいでしたら (美しかったら)

(ここで、「美しいなら」の「なら」を、「だ」の活用と見るか、という問題も関係するかもしれませんが、まあ、これは「なら」をどう考えるかという、もっと複雑な問題になります。私は、「だ」と「なら」は、少なくとも現代語では、別物と考えます。)

ということで、多少の言い訳を必要としながらも、形容詞文の丁寧体として、「美しいです」は一つの位置を与えられるわけですが、さて、それがなぜ「不自然/不安定」に感じられるのか、1131tobiさんによれば「厳密には誤用」と言われてしまうのか、です。

ちょっと話の流れを変えます。
日本語の文の分析法として、文を「命題+モダリティ」という形で考えるということがあり、かなり一般的になっています。(国語学では「叙述+陳述」という、似た考え方が昔からあります。)

これによれば、文の終わりには、話者(書き手)の、その文の内容に対する「断定」や「推量」など、話者の「意志」、あるいは聞き手に対する「命令」や「勧誘」、「確認」「質問」などの、ある種の「態度」が現れる、とされます。
これは、用言のいわゆる「活用形」や助動詞によって表されるわけです。「ね」や「よ」などの終助詞もモダリティを表すとされます。

ここで問題になるのは、「丁寧さ」というのはモダリティなのか、ということで、どうも文法の中の位置づけが微妙なものです。
前からの呼び方では「文体」の一つの要素なのでしょうが、それは文を文として成り立たせる必須の要素、つまり「文法」の一部なのか。

で、私の考えでは、「形容詞+です」の不安定さは、この、「丁寧さ」が文を終結させるためのモダリティとしては不十分だ、というところにあるのではないか、となります。

「名詞/形容動詞+だ/です」の「です(1)」は、「断定の助動詞」に丁寧さが加わったもので、立派な(文を終結させる「力」を持った)モダリティですが、
   学生/まじめ です(断定+丁寧)
「形容詞+です」の「です(2)」のほうは、「丁寧さ」だけの機能しかないので、
   美しい(断定?)+です(丁寧)
という形が、文の終わり方としてどうも安定しない、と感じられるのではないか。

「美しいです」が不自然だという人も、「美しいですか/ね/よ」などにすると安定するように感じる、というのはなぜか。これに対するうまい説明は今のところないように思うのですが、どうでしょうか。(単に私が知らないだけかも)
終助詞「か/ね/よ」が文終結のモダリティとしての機能を持つからだ、と考えるとうまく説明できます。
   美しい+です(丁寧)+ね/よ/か(確認/主張/質問など)
もちろん、「でしょう」をつけても、「でしょう」の持つ「推量(あるいは確認)」というモダリティによって文として安定します。
   (たぶん)美しいでしょう。
   (どうですか?)美しいでしょう?

これは、世代が違ってもあまり変わらないようで、今の若い人も「形容詞+です」には何らかの不安定さを感じるようですが、どうでしょうか。
「「ね」や「よ」をつければ自然だから、変じゃないよ」というのは、上に述べたように「形容詞+です」の弁護にはなりません。

以上、私の考えをざっと述べてきましたが、ただ、「モダリティ」という概念は、研究者によってかなり幅があって、不用意に使われすぎている感があります。この概念そのものの検討が必要であり、いろいろ行われているようですが、私は不勉強でよく知りません。
(さらに、「文が終わる」とはどういうことなのか、「文成立の要件」となると、もう、根本的な議論になり、わけがわからなくなります。「文とは何か」ですから。)

この「形容詞+です」の不安定さ加減は、話し言葉では語調によって文の自然さが変わってくるので、微妙です。

   「どうですか?」「いやあ、なかなかがんばってますねえ。面白いです!」

などと、ある種の強調を込めた言い方をすると、それなりに自然な文として成り立つように(私には)思われます。
(語調が(文終結の)モダリティの機能を肩代わりする? 語調が文の意味を変えることは、「ある。」「ある?」など、ごくふつうのことです。単に「歩く。」と言うと描写あるいは意志に過ぎませんが、「(さっさと)歩く!」とある語調で言うと「命令」になります。)

なお、「話しことば」と「書きことば」で、後者のほうが「正式な」ことば、「正しい文法」の基準になるようなものと考えることは、私はしません。

言語学の考え方では、話しことばのほうが言語として自然な形であって、書きことばはそれに何らかの人為的な手が加わっているものだと考えます。(明治期の「言文一致運動」などを考えればよくわかることだと思います。)
言語の音韻や文法は、人間の意図とは別に、それこそ「自然言語」であって、自ずから文法の体系ができあがっていき、また変化をするものだと考えます。

「書きことばの文法」というのは、「規範文法」への傾斜を持ちやすく、「素晴らしい言語文化・言語芸術」がその後ろ盾になります。そうすると、言語としての本来の自由さ・内発的なエネルギーが失われてしまいます。それでも、話しことばはそんなことにかまわず、本来、内部にあった動きがどんどん現れてくるのだろうと思います。
それに対して、より以前の文法を持った世代がいろいろ抵抗感を持つことは、当然のことですが、それはまあ、時代の流れということで。

上に述べた私の考えは、「形容詞+です」に関しては、「単に新たな変化の一つで、そちらへ(いやでもおうでも)動いていかざるをえないもの」というのではなくて、文の作り方として少し無理があり、世代が変われば移っていくものとはかんたんに言えない、という見方です。
あと50年もしたら、どうなっているのでしょうか。あまり変わらず、「ね」や「か」をつけて使われ続けているのでしょうか。(「動詞+ないです」のほうも、興味深い現象ですが、これはまた別の話だと思います。)

もう一つ、「国語審議会」が認めた、という話ですが、「これからの敬語」自体が国語審議会の答申の一つ、ということなのではありませんか?(今、「これからの敬語」のアドレスをコピーしようとしたのですが、なんと「メンテナンス中」だそうです!)

長くなりました。最後まで読んでくださった方に感謝します。

saburoo
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この回答へのお礼

nwsaburooさんにまで、お出まし願って恐縮です。
 「です」に二種類あるという説は、「日本文法大辞典」に「です」の成立の仕方に二種類あり、その一つは「で候」から変化したもの、もう一つは「でございます」が様々な経路を経て(「でござんす」「でごんす」「でやす」「でえす」)成立したものというのですが、この系列の話か、あるいは、「です(1)」、「です(2)」として用法の差があるという話なのか、よく分かりませんが、おっしゃるとこによれば、名詞、形容動詞について「だ」←→「です」と対立するです。「人だ」←→「人です」、「静かだ」←→「静かです」の時の「です」。いわば「断定+丁寧」のようなものが(1)で、「美しいだ」は成立しないが「美しいです」だけが成立するのが(2)ということになるようです。
 しかし、考えてみると、
 行くだ× 行くです×
 美しいだ× 美しいです〇
というのが、
 行くのだ〇 行くのです〇
 美しいのだ〇 美しいのです〇
のように、「の」を挿めばすべて成立してしまうのに、どうして「うつくしいです」だけが成立してしまったのはやはり、謎です。「の」を挿めば表現意図が異なってしまうのでしょうが、やはり謎であるのに変わりはありません。なお、形容動詞は自らの中に「だ」や「です」を取り込んで成立しているので問題にならないのは言うまでもありません。
 ところで問題の「ない」ですが、中学生相手の「国文法」のサイトに、「打消」の助動詞・形容詞・
補助形容詞という分類されていたのをみて、「美しくない」「丈夫でない」の「ない」は補助形容詞というべきであったと反省しています。
 特別にお出ましいただいた、nwsaburooさんにベストアンサーを差し上げますので、皆さんご了承ください。

お礼日時:2018/11/24 21:52

>実は補足に書いたように、「形容詞(終止形または連体形)+です」が認められたのが問題ではなくて、それを「間違った」とみるかどうかが問題なのです。

そして「歌わないです」がそれと同じ性質のものかどうかが、問題です。

 おそらく、「形容詞(終止形または連体形)+です」(ex.うれしいです)と「歌わないです」は別のものです。
 しかし、「です」をつけられるか否かという点に限れば、ほぼ同様と考えて支障がないのでは。
 話題になっている論文も一緒に考えているようですし、当方も区別する必要性は感じません。ちなみに、その論文の内容に関しては、「ああそうです」としか言えません。話し言葉限定のようですし、個人差が大きすぎる気がします。

「〜ない」の種類に関しては別の質問で書いたとおりで、当方はおおむね下記のように考えています。
【「~ない」形の形容詞の迷宮──〈1〉〜〈4〉】
https://ameblo.jp/kuroracco/entry-11792417530.html

 同じような話が下記でも進行中です。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/questio …

>「時枝文法」信奉者は「形容詞」にこういう使い方はないとされているようです 
 こういう場であまり一般的ではない話を持ち出すなら、気をつけないと、単なるデマか単なる●●になる気がします。当方は関わる気は{ありません/△ないです}。
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この回答へのお礼

締め切ってからお礼を書くも変ですが、これが書けてしまうようです。ご紹介いただいたyahooの
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/questio …
にも、「ない」の話が出ていて、これが今の常識的な考え方のようです。

 ここで書くことができたので、nwsaburooさんに書いたお礼というか、コメントで書き忘れたことを書かせてもらいます。
 「です」(2)は断定の意味など全くなく、ただ丁寧だけを付け加えるということでしたが、これぞ「ます」の働きです。動詞の場合は、「行くです」のように「です」はつきませんが、「行きます」「あります」のように見事に「丁寧」の意味を表すことができますが、「美しい」「ます」は結びつきません。仕方がないから、「です」をつけるようになったということです。それでも上方弁には、「おます」という言葉があり、「美しゅうおます」で丁寧だけを表すことが可能です。そういう言葉が関東にはできず、「美しゅうございます」しかなかった。「ございます」はいくら何でも丁寧すぎるというわけで、美しいです」が登場したことになります。こういう言い方は失礼だと、叱られるでしょうが、関東弁は未熟です。だから、「ず・ぬ(ん)」という打消を「ない」と訛ってしまい、元からあった「無い」と同形になってしまいました。
 「標準語」など称せられるのは、時期尚早でした。言ってきますが、明治政府が「標準語」の対象にしたのは、江戸語→東京語ではなく、山の手あたりに住む教養ある中流階級の言葉でした。

  1311tobiさんには大変失礼しました。

お礼日時:2018/11/25 10:59

#6です。


補足拝見。

>feifei0119さんが敢えてそう言ったのは、「ない(形容詞)+です」(例えば「お金がないです」)が、あまり使われない言い方だ、という話から出てきた考え方

とは考えませんでした。
今回のご質問は、形容詞の「美しくないです」が間違いだとしても、助動詞の「歌わないです」が間違いということはないだろう、という趣旨ですね。
ただ、先にお示しした研究報告でも、「用言+ないです」と一括りにして扱っているようです。feifei0119さんも同じでは?
その前提で、さらに申しますと、
『普通、「歌わないです」は間違った文です』は、「あまり使われない」という意味もありますが、「使うべきじゃない」という意味にもなり得ると思います。
後者に関しては(私とは)見解の相違ですので何とも言いようがありませんが、前者に関しては、実際は使われている、ということを経緯を示しつつ述べることで回答とするしかないかと私は思いました。
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございます。前の名古屋大学における研究発表について、1311tobiさんへのお礼に意見を書いてしまいました。それをおよみいただければと思います。

お礼日時:2018/11/22 13:44

「認められている」と言ってよいのかは不明ですが、すでに許容されていると考えるべきでしょう。



 過去に同様のことを何回か書いているのでご覧になったことがあると思うのですが……。
 下記が比較的まとまっているのではないかと。当方は「良かったです」「素晴らしいです」と「ないです」は同じようなものだと考えています。厳密には違うんですかね。
 個人的にはどちらも使いません。仕事で見かけたら修正するか否かはケースバイケースです。
 詳しくは下記をご参照ください。
【「形容詞終止形」+「です」 うれしいです うれしかったです】
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-2417. …

 前問の〈「歌わないです」が間違っている〉が何を根拠にしているのはわかりません。そこがわからないので、どう話をしていいのかもわかりません。

「国語審議会」が認めたか否かは記憶になにのですが、↑にひいたように、

【昭和27年の『これからの敬語』の記述】も【平成19年の『敬語の指針』P.28の記述】も許容しているんですから、認めているのでは。
 現状では「形容詞+です」をバツとしている文法書も辞書もないはずです。
 当方が知る唯一の例外は、これも↑にひいたWeb辞書の『大辞林』だけです。それでも〈多少ぎこちなさも感じられる〉としか書いていません。
 今回の前問で『大辞林』は認めていない旨のコメントを読んで「ついにそこまで言ってくれたか」と喜んだのんですが……ヌカ喜びでした(泣)。
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この回答へのお礼

実は補足に書いたように、「形容詞(終止形または連体形)+です」が認められたのが問題ではなくて、それを「間違った」とみるかどうかが問題なのです。そして「歌わないです」がそれと同じ性質のものかどうかが、問題です。 hakobuluさんのおっしゃるところによれば、研究発表の中で「用言+ないです」と一括りにされているらしく、大学クラスの研究発表の中で、研究者が「何を言ってくれるんだ」と少し腹立たしくなっているところです。
 高校生くらいになると「用言」が「動詞・形容詞・形容動詞」であることは知っており、それに「ないです」を接続させると、「歌わないです」(動)「美しくないです」(形)「丈夫でないです」(形動)
となり、「歌わない」は一つの固定した形ですが、「美しくない」は密着固定したものではありません。
「美しく」は「連用形」であり、さらに「美しく(は/も)ない」のように、間に係助詞を挿入することさえできる。この点では形容動詞も同様で、「丈夫で(は/も)ない」。これを同じに扱うには、「ない」の接続を、『動詞や一部の助動詞の「未然形」に、また形容詞や形容動詞の「連用形」に接続する』
と定義し直さなければならないことになります。
 私たちが習った文法は、「美しくない」や「丈夫でない」の「ない」は助動詞ではなく、「形容詞」だと区別したものです。もっとも、「時枝文法」信奉者は「形容詞」にこういう使い方はないとされているようですが。このさいとでは、アスナロウさんが、「時枝文法」の流れを汲む「三浦つとむ」文法の信奉者のようです。

お礼日時:2018/11/22 13:59

どうも~。


いつもお世話になっております。
ご質問とは珍しいですね。
先の質問でのポカに気づいて、今訂正をしたところですので、それに絡めて。

釈迦に説法でしょうが、「です」は、昭和初期ぐらいまでは、名詞・体言に接続するのが基本だという考え方から、「歌わないです」ではなく「歌わないものです」のような表現が一般的だったようです。
「歌わないでした」と過去形にすることができないことなどから、「用言+です」の形は不安定だという認識があったらしい。
ただ、「です」が丁寧語であることから、「ません」よりも丁寧な表現になると思われ、特に若者の話し言葉として浸透していったとのこと。
2008年には、「ないです」の使用が「ません」の使用を約 3 倍も上回る結果が出たという研究結果もあります。↓(けっこう分かりやすい。短いのも助かる)
https://www.lang.nagoya-u.ac.jp/nichigen/menu7_f …
因みに、わたしは(若くはありませんが)書き言葉でも使っています。
とはいえ、子供の頃は使っていなかったように記憶している。
使い始めは若干違和感もあったはずですが、すぐに慣れたみたいですね。
今は、むしろ自然に使っている。

「歌わないです」
「美しくないです」
どちらも使いますが、やはりシチュエーション次第で(無意識的に)使っているような気はします。
おそらくですが、
「歌いません」
「美しくありません」
などよりも、もっと強く否定したい場合・・ですかね。
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この回答へのお礼

なるほど、こういう基礎的な研究も必要なのですね。

お礼日時:2018/11/22 14:11

歌わないです、でちょん切るから不自然に聞こえるだけと思いますが。


歌わないですね、少しも違和感ありません。
ただし、自身の意思を持った行為として表現するときは、歌いません、と表現します。
歌わない・・・「です」がつく、つかないにかかわらず、他人が歌う?歌わない?、場合の表現です。
結論、文法としては、何も間違いではありません、何を言いたいのか、何を表現したいのか、表現の方法として、自分が歌いたくない、場合の表現で使うのは不適等です。
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この回答へのお礼

ご回答有り難うございます。

お礼日時:2018/11/22 13:28

No. 2の補足です:



> 「素晴らしかったです」を積極的にお使いですか
  積極的に使うというところまでは行きませんが、「素晴らしゅうございました」とはまあ言いませんね。

> 「しないためには」の言い換えとは、たとえば「(失敗を)避けるために」のような言い方でしょうか。
  このような悲劇を二度と繰り返さないためには -> このような悲劇が二度と起きないようにするには

ところで、昔はあまり聞いたことがなかったような言葉や表現で近年流行りのでも、違和感が強くて自分では決して使わないし、ましてや公的な文書では「あり得ない」と思うものもあれば、何となくユーモラスな感じがするだけというのもありますね。たとえば以下のようなものです:
  ら抜き言葉
  あるじゃないですか
  これって
  上から目線
  あり得ない
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2018/11/22 13:26

文科省の国語審議会が「それでもちっとも構わない」と言っていますし、以前嫌われてバッシングされた「ら抜き表現」も江戸時代はそっちが主流だったことが言語学で証明されて、みんな使うようになりました。

言語は生きているのです。
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この回答へのお礼

ご回答有り難うございます。「国語審議会」が認めたのですか。できれば資料をお教えください。「ら抜き表現」が江戸時代に主流だった、についての資料も。面倒であれば、敢えて無理は申しませんが。

お礼日時:2018/11/21 16:13

> いくら何でも、そんな古めかしい言い方に戻れるものか


ということに尽きると思います。

ところで似たようなのに「〜しないためには」がありますが、これは肯定派が多いようです。しかしこの表現はたいていの場合言い換えが可能なので、あたくしとしてはこれはアウトだと考えております。(^▽^;)
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
「そんな古い言い方」とは、「素晴らしゅうございました」のようないいかたですね。では「素晴らしかったです」を積極的にお使いですか。「しないためには」の言い換えとは、たとえば「(失敗を)避けるために」のような言い方でしょうか。

お礼日時:2018/11/21 15:16

①言葉というのは社会の合意によって決まる


②合意が変われば当然言語も変化する
③社会のようなマス集団の場合全員一致はあり得ない
④自分の気に入ろうと気に入るまいと、変化したならそれが「社会の合意」ということである
⑤これまで日本語はそのようにして変わってきた
⑥それを否定したいなら樋口一葉や夏目漱石も否定しなければならない
⑦そしてこれからもそのようにして変わっていく
⑧言語の性質がそういうものである以上、それを否定するのは無意味な話である
⑨またそのようにして(原始時代以来)変わってきた言語を使いながら変化を拒否するのは、独りよがりで矛盾に満ちた行為である
⑩なお、文法は常に「後付け」であり言語の正しい在り方や正しい変化の仕方を規定できない
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
一般論としては、どれもおっしゃるとおりです。私がお聞きしたいのは、具体的なお考えです。
「よかったです。」はお使いになりますか。

お礼日時:2018/11/21 15:16

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