この人頭いいなと思ったエピソード

観想が人にもたらすものとは。

質問者からの補足コメント

  • No.20 お礼の続き
    私は二義的なものではなく一義的なものを求めます。原体験に当たるものが、生けるものとして今現れてあり、言葉としても生じるという事があり得るはずである、と言う強い見当をつけています。

    >このように:
    ★ あなたが〔☆ つまり わたしブラジェローヌは〕仏性を発揮して
    居て、衆生たる話し相手を悟らせてやろうと増上慢を起こ
    ☆ しているということです。

    じゃあやっぱり駄目じゃないですか。こんな事を臆面もなく言うってことは恥知らずのままですよ。対話の基本が出来てないってことでしょう。

    >ズラッシー無しで行きましょう。

    ぶつかってこなければ避けませんよ。

    さらに補足に続く

    No.20の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/02/12 14:00
  • No.20 補足の続き

    >★ 一見乱雑に見える中の、筋道
    ☆ をさらに明らかにしてくれるとありがたいです。

    これは人の言葉に沿うということを為せば見当は明らかになるでしょう。自分から何かを言う事よりも、他の人の言葉を聞くことの方が難しい。何故なら、他の人の言葉を聞くにはその語られたことについての素養が必要になるからです。似たような経験、似たような知識、似たような境遇、或いは相手の言葉の背景に思いをやって、推察するという能力が無ければならない。それが難しいので、場合によっては喩え話も生まれる。

      補足日時:2019/02/12 14:02
  • No.21 返答の続き
    >《まことのもの》は 共通に持たれています。勝義の何かです。
    あとは 二義的・二次的な経験現象であり その認識内容です。

    二義的なものは置いておいて、まこととは何かについて考究することはすぐれている。彼は雑多なものを吹いて退けて、真に求めるべきもの、人に備えられているものに気が付いて、正気を取り戻しつつある。

    No.21の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/02/12 16:40
  • 予感と言うものは良い意味で完全に裏切られることになるからである。その望みは望んだ以上のものをもたらすからです。また、予感というのは人々各々、それぞれが持ちやすい形で備わっているのであって、一切衆生悉有仏性と言えど、鋳型にはめたような同じ形で仏性があるのではないと思われます。衆生には八種あり、その道もそれぞれに対応して八種あるとも言われます。分類して八種ですから、因縁を交えれば実質無限です。それを一般化することは原理的に無理です。
    >これらの神論をすべて一望のもとに捉えることのできる哲学理論も のぞまれるわけです。
    例えば大きい人と小さい人と中くらいの人が居るとします。小さい人は大きな門が重くて開けれない。大きな人は小さな門はくぐれない。中くらいの人にはその中間が望ましい。それぞれに合ったサイズの門を用意するのが良いでしょう。という事は一般化よりも個別化が合理的なのであって、つまりそれは対機

    No.27の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/02/13 22:26
  • いつもお世話になってます。ご回答ありがとうございます^_^
    取り急ぎ寝る前にお礼します。
    体得、体現と言うのは確かに今の私のテーマなのではありますが、知りたいのは回答者様方の其々の深い認識なので、思うところを率直に仰っていただけたらと思います。それがむしろ、私にとっての体得、体現に結びつく話になる可能性が高いと思われますし、たとえ結びつかずとも、きっと何か良い結果にはなるでしょう。本回答に対する本お礼は、又後日お礼欄にて致します^_^

    No.34の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/02/15 23:58
  • 無所有処や非想非非想処が危険なのは、例えば鳥が、空を自由に舞っている様でいても、実際には風に細心の注意を払わなければならない様なものです。空には障害物が何も無い様に見えるが、その空の障害が無いと言う本質によって危険が生じている。下手に飛べば翼が乱流によってへし折られるでしょう。
    人は空を飛ぶ必要が無く、堅固な道を歩めば良いと言うことです。実際私は瞑想で事故った事があります。それによって自由になれると思い込んでいたが、自らの強引さによって怪我をしました。それは静けさと明るさと安寧ではなく、乱気流に巻き込まれ中で稲妻に打たれた様なものです。

    No.36の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/02/17 01:56
  • 死んだ木片でさえも、優れた彫刻家のノミにかかれば、生かし切られる。彼は固いものを柔らかく扱うからです。
    死んだ木片でさえも生かされると言うのに、人が生かされぬと言う道理は無い。ひねくれた心を真っ直ぐ(善軟)にすることによって人は生きて来る。

    一方で、薬でさえ多量に服用すれば害があるだろう。もしそれが毒であるならば、何をか言う事があるだろうか。
    適度を越えたものに徳はない。

    No.35の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/02/17 03:16
  • 相手の徳を頼れば無くもないが、その様なものを対機の法と言うのか甚だ疑問である。
    それはただの甘え、怠惰であって、徳にならないどころか悪になるであろう。それが善転することがあるなら、それを聴いた人の徳によるところであって、表現した者の徳ではない。賢者は理法だけで無く、場合によっては愚者の言葉さえも道の歩みの糧にすることがあるからでおる。
    何れにせよ、他人の徳を頼って、度を過ぎて自分のしたい様にするなどと言うことは推奨されない。まして、人をして悟らせてやろうなとど自称する者がする事ではない。

    No.37の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/02/17 11:45
  • 栄養満点の食事でも、食べ過ぎれば肥満になって病気の元を生じてしまう。
    それを、食え、食え、と言って際限なく勧めたり、無理やりに食べさせるのは良い事ではない。それは無条件ではなく無制限なのであり、徳を欠く行いである。

    また、病気でも無い人に対して、これは良く効く薬だからと無条件に押し付けるのも問題がある。薬の適用される条件に該当しない人に薬を押し付けても何の益にもならないどころか、余計な作用を体に及ぼすだけだろう。
    また、もし出来るならば、病気の種類や患者の容態を診て、まるで医者の様に薬を処方できるに越した事はない。病の諸条件を峻別し、病人を差別して受けないと言う事がないように出来る事が理想ではある。

    我は相手に対して無条件だと標榜しつつ、特定の人を拒んでいる者は欺瞞を抱えている。

    私(キサラギ)は、人をして悟らせてやろうなどとは思わない。ここでは只、道の友を求めただけある。

    No.38の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/02/17 13:12
  • 思春期の終わり頃、不動明王の修行時代をモチーフにして小編を書いた。原稿データは無くなってしまったが、法師やら弦の張られていない琵琶(虚空蔵菩薩の化身)やらが出て来る少し不思議な話だった。うろ覚えだが、物語の冒頭、山中足跡が次第にけもの道のようになり、それを辿ると次第に路らしくなりやがて、都大路に着いた、と言う滑り出しだったと思う。で、色々あって修行時代のお不動さんは海(大道の喩え)に臨んで解空したそうな、と言う話なんだけど。
    この都には門があって、そこを早瀬のように人々が出入りしていた。その中には葬列らしきものもあった事を、書いた覚えがある。それはさておき。

    最後の一関と言う言い方も禅にはある。

    閉めるのが上手な人は鍵や錠を使わずに閉めるので、誰も開ける事ができない。とも。

    上手くやろうとするのでなく。如何にすればこの扉は開くのか。

    門とは何か、門が無ければ簡単なのだが。。

    No.39の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/02/17 16:37

A 回答 (46件中21~30件)

まだつづきますが。



★(№25お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
真を知りたいなら真を求める事が尤もな事なのです。それならば、それを
見つけた時に、これこそ真であると分かるからです。
この意味において、人は真を知る前から真を予感して居るとは言えるかも
しれない。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ つまり 《一切衆生 悉有仏性》です。

ここから もう少しすすめることは出来ませんか? 理論的な展開は 成
りませんか?

たとえば――次は 理論的なよりは 実践としてですが。:
自未得度 先度他。あるいは 無住処涅槃。




言いかえると:
★ 真である"その光"
☆ が ほかの人たちと共有することができるのなら よいことですよね?

そのために 理論的に知りしたり あるいは いま上のような実践へと一歩
すすめるといったこと これがのぞまれるのではないですか?

つまり そこまで行かないと 《その光》なる宝の持ち腐れになるのでは?




人びとはそれぞれ ブラフマンとかヤハヱ―といった名で呼んで そういっ
たコミュニケーションを取ろうとしたわけです。

オホモノヌシだのヒトコトヌシだのとです。

つまりあるいは 《無い神》派だっているわけです。
《アン‐アートマン(無我・非我)》という説を推し出した。


そして――スーパー増上慢になるとすれば―― これらの神論をすべて一望
のもとに捉えることのできる哲学理論も のぞまれるわけです。




あるいは こういう探究もあります。:
▲ (ヰキぺ:絶対精神) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B6%E5%AF%BE …

ヘーゲルによれば、精神の本質というのは自分の外部に根拠を持たぬもので
あり、主観的、客観的な過程を経た上で個々の精神が周囲の影響を受けるこ
となく、発揮できるようになれ、またそれを自覚できる。

そしてそのようになった状態のことを絶対精神という。

ヘーゲルが目的としていたことは、哲学の体系を構築することであり、そこ
から過去と未来を哲学的に理解できるようになるということであった。

それには現実の全てを理解できることに加えて、現実の全ての過程までも理
解できる必要があり、それらを成せるのは絶対精神であるがゆえである。

ゆえにヘーゲル哲学の課題というのは絶対精神の過程を示すという事なので
もある。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 必ずしもこれでよいという例を出したのではないですが すでにこうい
った問い求めが示されています。

あらたな一歩が待ち望まれるものと思います。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

私の目下のテーマは、体得するという事、体現するという事にあります。
例えば武道を志す人があって、しかもその人は腕に覚えあり、道場破りにいそしんでいたとします。しかしある時、ある道場で、ある男に出会います。その時その人は思った。この男、只者ではない。その技、完全の域に達している、と。そして、一本負けを喫してしまう。だがむしろ彼はうろたえなかった。むしろ喜んだ。私はこのような男をこそ探していたのだと。道場破りはそのためだったと。

私もこの道を極めたいと思っているのです。

この体得、体現するという事を説明するため、例えば仮に、”生ける言葉”と言うワードを提出してみます。
ブラジェさんはこの”生ける言葉”というワードを聞いて、どう思われますか?
検索してみると、既に聖書にあるようですから、キリストの事を想像されるでしょうか。
(私は救世主になりたいわけではありませんが、)私的にはこの生ける言葉というのは、一つの体現者の形を巧く表現したワードなのです。

>自未得度 先度他。あるいは 無住処涅槃。

菩薩道の事を仰っているのだと思います。菩薩は種々様々な方便を使って衆生を教えますが、その時が来るまでは、自らは敢えて涅槃には入らない。敢えて涅槃に入らないことが、彼(彼女)らの涅槃に入る事なのです。

>★ 真である"その光"
☆ が ほかの人たちと共有することができるのなら よいことですよね?

それは分かりません。人々には各々求めるところがあるからです。それに真を求めている人でも、人的な真か、神的な真かでも違い(優劣ではない)があると思われます。真とは一つであるが、人の誠を知りたいのか、神に至りたいのかで異なるという事です。そして、物を欲しがるようにして求めるならば、求めているものは真ではなくなる。

>ヘーゲルについて

私はヘーゲルは知らないが、ヘーゲルが絶対精神を完成し備えていたならそれについて、或いはそれまでの過程について正しく語る事も出来るであろうが、そうではないなら、絶対精神と言うものはかかるものであろう、このようであるはずだ、きっとそうあって欲しい、などといったあやふやなものにならざるを得ない。これらはヘーゲルの持った”予感”の一種になり全否定されるべきものではないが、一般化するのは踏みとどまった方が良いのではないかと思う。何故なら、補足に続く。

お礼日時:2019/02/13 22:16

>観想は、想いの起こる未然のところと言いますか、、、観る働きと言うのは、想いや言葉を司る機能のより深いところより世界を照射し、識知していると言う事なのかなと。


つまり、この観る働き、テオーリア、観照(仏教では)と言うものによって真実在や、生滅を超えたところのものを識知し、その識知したものを想いによって象って、その象られたものを言葉によって発露する、それが智慧であり、その智慧が哲学の元、起源となっているのでは無いかと思ったのですね。

キサラギさんはそもそも、№2お礼欄でこう言っていますので、「観想」という概念の内、アリストテレスのテオーリアということではなく、物事の本質の思いを凝らすこと、あるいは仏教の「観照」ということの意味を深く考えたいという趣旨の質問であったことは明白だと思っています。

アリストテレスの「テオーリア」に対する解釈はどうもしっくりこないものばかりです、私にとって。その解釈の通りならば、とるに足らないもの、と思います。しかし、あのアリストテレスが、という思いもありますので、いずれ深くわかる時が来るのかもしれないと思っています。

さて、キサラギさんは「観想」という言葉を、「観る働き」(かな?)と捉えようとしていると思います。このことは、西洋哲学というよりも、仏教哲学に近いという印象を持ちました。仏教をよくご存じのキサラギさんならではという感じです。
これは、私にとっても大変に興味のあるところであり、整理しなければならないところであり、あれこれ考えたいと思いました。おそらくは「観想」という言葉ではなく、違う言葉、あるいは造語をしなければならないことかもしれないとも思いました。
いずれにしましても、思索の探検、整理の段階ということですね。

しかし、こういう話をすることを妙に嫌う人がいるようで(笑)、困ったものだと思っておりますが、今回は私に関係のないことですので、これ以上は申し上げません。

智慧というものが、観る働きによって得たものを、状況に応じて発露する力ではないかという「仮説」は正しいのではないかと思います。
人間は何らかの目的を持ち、それを具現化することが人生における主たる活動であり、その時には自分の内面に蓄えられたものを駆使して、智慧を発揮させているというのは誰もが実感として共感することだろうと思うからです。

画家や陶芸家が、自分の思い通りの作品が作れずに、作品を壊してしまうなんてシーンをドラマなどでよく見ましたが、これには運不運というものが私はあると思うのですが、基本的には、「情報が足りない」のだと思います。
観きっていないということ、即ち「修行が足りない」と。

尻切れですが、時間の都合で今回の投稿はここまで。
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この回答へのお礼

ニャンポコさんのおっしゃる通りで、アリストテレスの名前は出しましたが、それに拘っていると言う訳では全くありません。広く観想、テオーリア、観照、そういったものについて問うています。観想という言葉について、例えば仏教では、観とか、観自在(内的なものを対象とした観)、観音(外的なものを対象とした観)、観照(おそらくは全照的な観)などの分類まで存在しており、凡そ知り抜かれているのではないかと思えるほど、必要十分な言葉が残っています。ですがこの観想という言葉も、肉眼や聴覚に比べた想いというものの射程距離を考えると、想いによる観ということで、妥当性はあるかなと思っています。素朴に、”観る”という字を書くのが、ここでは良いかもしれません。

>画家や陶芸家が、自分の思い通りの作品が作れずに、作品を壊してしまうなんてシーンをドラマなどでよく見ましたが、これには運不運というものが私はあると思うのですが、基本的には、「情報が足りない」のだと思います。
観きっていないということ、即ち「修行が足りない」と。

なるほど。智慧の常在性と、機縁によって発動する智慧の対機性、つまり常に智慧の働きがあり、時と場合でそれが適切に発動する、いわば完成されたものの実在を想定するなら、修行も足りないのかもしれません。これは私の現テーマでもある、体得とか、体現にも関わる事です。

>尻切れですが、時間の都合で今回の投稿はここまで。

お忙しい中ありがとうございます。又いつでもお時間よろしい時にでもいらしてくだされば歓迎いたします。

お礼日時:2019/02/13 21:19

☆☆(№23) 


>したがって 勝義の光については 人間は 《普遍神としての一
般絶対性》か それとも《それに――オホモノヌシとかブラフマ
ンとかあるいはヤハヱ―とかの――具体的な呼び名のついた個別
絶対性》かとしてのふたつの用法において 互いに語り合うこと
しかできないわけなんです。

★ そんな名前をつけなくても、”その光”で問題は無いと思います。どんな
光なのかという問いに対しては、前述したようである事を述べるにとどめる
のが良いでしょう。
この件は、語れば語るほど分からなくなる人が増える傾向もある。それで、
たとえこの類の経験をしても、口を開かない人々も一定数居ると思われます。
☆ このように説明された内容にケチをつけるいわれはありません。

ただしこれでは 哲学の理論にはなりません。理論になるかどうかだけでは
なく 一般性を持った話し合いには いかんせん ならないのです。


ですから:
★ あの林檎どうだった?まじうめぇよ。お前どうだった?確かにうまかっ
た。
語り合える事と言えばこれくらいの事です。
☆ となります。




★ ただ、次のように問われた場合には、ある形の答えをしなければならな
いでしょう。
マジで?俺も林檎食いたいわ。何処に行ったら食えるの?
ある人は果物屋と言い、ある人は自宅の居間にあったと言い、ある人は畑で
食べたと言うようでは、問うた人は混乱するかもしれない。だが、林檎が果
物の一種であり、広く普及している食べ物であり、樹に生るものである事を
知る事が出来たなら、それを得ることもできるだろう。
”その光”に関しては、こうして形而上的な言葉や種々の比喩も生まれる。
そして少なくとも一つ言えることは、真を求めなければ真には出会わないと
いう事である。神を求めても、それが空想の神なら、神に似た別物に出会う
事になるだろう。
☆ ええっとですね。ひと言の問いでお応えします。

その光もしくは神について:
★ 空想の神 / 神に似た別物
☆ という判断は どうやって成すのですか? その成した判断が 間違い
ないと証明できますか?

ほんものの神を 言葉で表現できるのでしょうか?
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この回答へのお礼

"その光"が真であるので、見れば(在れば)それが真だと分かるのです。それを、"その光"と仮に称して居るのは、それが妥当な表現と思われるからです。例えば、あの、紅くて甘くて、シャクっとした、少し酸っぱい果物なんだっけ?と言えば、知ってる人は、あぁ、あれね、あの果物ね。と相槌が打てる。その果物は本物だったかどうか、その味は本物だったかどうか、などと問う者は居ない。林檎と言う名前が一義的には必要無いように、神やヤハウェ、オオモノヌシ?その他諸々の名前は特に必要としないのです。
しかしもし、神やヤハウェやオオモノヌシと言う名前を頼りに探求した場合、それが見つかった時には、その人は、これこそ神である!とか、これこそヤハウェである!とか、これこそオオクニヌシである!と言う帰結を得るだろう。
林檎という名前だけでは何も探求できず、それが紅いとか、甘いとか、水気を含んでやや固いとか、少し酸っぱいとか、そう言う情報を頼りにしないと自分が食べたものが林檎がどうかの判定は出来ないでしょう。
林檎を色々と空想して、林檎に無い情報を恣意的に加えてそれを探し見つけても、見つけたものは林檎とは違うものとなってしまうのはある意味道理です。

林檎を食べる前には本当に林檎と言う食べ物を知った事にはならないように、幾ら理論や対話を重ねても、"その光"を見た事にはならない。だから、真を知りたいなら真を求める事が尤もな事なのです。それならば、それを見つけた時に、これこそ真であると分かるからです。
この意味において、人は真を知る前から真を予感して居るとは言えるかもしれない。
真を求めない人が、真に出会うと言う事はおそらく無く、また出会ってもそれがそうだとは気がつかないだろう。

お礼日時:2019/02/13 16:09

コメントをありがとうございます。



★(№23お礼欄) この経験については、似たような経験をしている人々
が古今東西に居り、幾らか言葉も残されていることから、ある程度の一般性
は確保されます。
☆ その《言葉》を共有することは出来ます。しかも 人間の言葉にしたも
のは すでに経験的で二義的な概念や思想になっています。

あなたの言葉で:
★★ 原体験
☆ は 言葉化したなら 内容は薄まって行き 自分以外の人に伝えるとき
には その原体験を《仮りに表わした内容》しか伝わらないでしょう。

そうでなければ 原体験の共同化が 言葉ですでに表現され得て来ていると
いうものです。そういう歴史が いくつも現われているはずです。



★ さして特殊というほどのものでもないでしょう。
☆ この場合の特殊というのは 共同化し得た一般性ではなく またその一
般性を個別具体的に表現したものでもないという意味を示すだけのものです。



★ この種の経験について、洋の東西の共通と差異を論じたものを読んだこ
ともあります。しかし、それらが果たして本当に自分と同じ経験なのか?と
言われるとそれは確定を以て言い切る事は出来ない。精々、似ている所があ
る気がする、という程度です。違うかもしれない。
☆ つまり一般的な表現で言いかえるなら 《主観における光体験》は 他
者と共通のコトであったかどうかは 人間には分からない。つねに・どこま
でも 分かるか分からないかが分からないナゾにとどまる。――となると思
います。


★ ただ、ブラジェさんの言い分では、人のする全ての経験が突き詰めれば
固有のものであり”特殊”であると言う事も出来てしまう。それは、私の味覚
とあなたの味覚は決して同じという事は出来ないという、ブラジェさんの嫌
いな独我論への通路にもなり得る。
☆ 独在性を説く独我論は その独在性という理論(仮説)を人びとに理解
して欲しいとうったえていないでしょうか? なら 相互関係する存在論で


そして 《特殊絶対性》は 《互いに理解し得ないとは言い切らない》わけ
です。普遍神を大前提とすれば その真理の光は だれもが同じものを見た
というコトがあり得るとも言っています。――ただし それを証明すること
は 人間には叶わない。

つづきます。
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№22の説明では 納得も満足もしないという場合があることは


知っています。


それは 《われが見たという光》について おのれの主観の内部
では あたかも《勝義のもの・まことのもの》 あるいはつまり
《絶対性》として受け取り・受け容れているということがあるか
らです。


そして このことは わたしの理論では 《特殊絶対性》として
捉えます。



主観の内面においては 絶対性そのものとして 持たれていると
いうことが 起きます。

そしてそれとして・つまり 主観の内部において抱かれているか
ぎりその絶対性として みとめられます。

だれもそれを否定することも肯定することも 証明付きではでき
ません。


言いかえると 各自それぞれの主観内部の《光》は その主観を
共同化することが出来ないのです。出来るかどうかが 人間には
分からない。
(それゆえ 神を共有するという集団を成す宗教は 根本的に間
違いです。オシヘが オシヘだけとしては ふつうの思想として
受け取られます)。



したがって 勝義の光については 人間は 《普遍神としての一
般絶対性》か それとも《それに――オホモノヌシとかブラフマ
ンとかあるいはヤハヱ―とかの――具体的な呼び名のついた個別
絶対性》かとしてのふたつの用法において 互いに語り合うこと
しかできないわけなんです。

思想として理論的にも語り合うということになるはずです。
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この回答へのお礼

この経験については、似たような経験をしている人々が古今東西に居り、幾らか言葉も残されていることから、ある程度の一般性は確保されます。さして特殊というほどのものでもないでしょう。汽笛さんへの返信にも書きましたが、この種の経験について、洋の東西の共通と差異を論じたものを読んだこともあります。しかし、それらが果たして本当に自分と同じ経験なのか?と言われるとそれは確定を以て言い切る事は出来ない。精々、似ている所がある気がする、という程度です。違うかもしれない。

ただ、ブラジェさんの言い分では、人のする全ての経験が突き詰めれば固有のものであり”特殊”であると言う事も出来てしまう。それは、私の味覚とあなたの味覚は決して同じという事は出来ないという、ブラジェさんの嫌いな独我論への通路にもなり得る。

>したがって 勝義の光については 人間は 《普遍神としての一
般絶対性》か それとも《それに――オホモノヌシとかブラフマ
ンとかあるいはヤハヱ―とかの――具体的な呼び名のついた個別
絶対性》かとしてのふたつの用法において 互いに語り合うこと
しかできないわけなんです。

そんな名前をつけなくても、”その光”で問題は無いと思います。どんな光なのかという問いに対しては、前述したようである事を述べるにとどめるのが良いでしょう。
この件は、語れば語るほど分からなくなる人が増える傾向もある。それで、たとえこの類の経験をしても、口を開かない人々も一定数居ると思われます。

あの林檎どうだった?まじうめぇよ。お前どうだった?確かにうまかった。
語り合える事と言えばこれくらいの事です。
ただ、次のように問われた場合には、ある形の答えをしなければならないでしょう。
マジで?俺も林檎食いたいわ。何処に行ったら食えるの?
ある人は果物屋と言い、ある人は自宅の居間にあったと言い、ある人は畑で食べたと言うようでは、問うた人は混乱するかもしれない。だが、林檎が果物の一種であり、広く普及している食べ物であり、樹に生るものである事を知る事が出来たなら、それを得ることもできるだろう。
”その光”に関しては、こうして形而上的な言葉や種々の比喩も生まれる。
そして少なくとも一つ言えることは、真を求めなければ真には出会わないという事である。神を求めても、それが空想の神なら、神に似た別物に出会う事になるだろう。

お礼日時:2019/02/12 21:32

№21です。



今回は ひと言でお応えできます。

キサラギ A もキサラギ B も 人間の言葉による表現としては 基本
として二義的・二次的にして経験的な認識行為でありその内容である。

なぜなら 
★ 光 / 影を生じない光 / これの次は存在しない〔ひかり〕
☆ と表わしたかぎり すでに二義的な経験事象になっています。





★ 二義的なものなど何も存在しない
☆ という説明は すでに二義的なものとしてしか存在しないのです。

確かに人間の言葉によって 《勝義のもの》を指し示すことは出来ま
す。《月》と言おうと《太陽》と呼ぼうと 《まことのもの》と言い
表わそうと 一方でその名・その言葉が 勝義のものではないけれど
他方でその言葉によって勝義のものを指し示すことが出来ます。

つまり その指し示すための言葉は 《仮りのもの・代理・依り代・
補助線》です。(言葉は 一般にもシルシです)。

テオーリアという言葉で説明した瞬間に 《われ見たりという光》は
経験的な仮象となっています。《空》であり 《空として現象してい
る》ということです。
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この回答へのお礼

これは屁理屈ですね。私は林檎の喩えをもって説明しましたが、絵に描いた餅は食べられないと言っているだけの事です。もしブラジェさんの言うとおりに従えば、厳密に、人は何一つ言葉を語れない事になる。そんな道理は存在しない。名示出来るものについては名示すれば良い。ただしそれは名であって、名を聞くだけでは実体を見ることはできない。ブラジェさんとはそれなりに話したが、あなたにはどうも、言葉には意味があるのに、その意味する所を実感できないからと言ってそれを無意味化する行為に逃げ込む癖があるように思う。それは例えば、林檎を食べたことのない人が、林檎という名だけを知っていて、どうしてもそれを食べたいのだが未だ食べたことが無い故に、林檎は空っぽだと言ってやせ我慢するようなものです。

私は光を見た。これが経験を意味しています。
その光をイデアと名付けた。これが名示です。

名前は二義的であるというのはその通りであるが、光を見たという経験そのものは一義的なものなのです。

No.23に続く。

お礼日時:2019/02/12 21:10

次のように――単純化しすぎるきらいがありますが―― 考えることを


とおして 問うてみましょう。

○ (われ光るものを見た) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
A
われ 光るものを見た。

これは イデアである。(イデアも テオーリアと同じように 《見る
こと》です。ヴィデオと同じです)。

このイデアこそが われらが心より問い求めるまことのものである。
われは これをあがめよう。なお 問い求めよう。テオーリアなる姿勢
だ。

B
いやいや それは まことのものの なお仮りの現われなり。
(神の依り代なり。補助線なり)。

光るもの 必ずしも金ならず。
イデアとは 月を指し示すその指のことなり。月そのものにはあらず。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ A か B か ふたつは互いに 相容れない立ち場でしょう。

どちらだと考えますか?


《まことのもの》は 共通に持たれています。勝義の何かです。

あとは 二義的・二次的な経験現象であり その認識内容です。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

A:
私は光を見た。それは明るかった。それは影を生じない光であった。そこは隔てが無かった。
これの次は存在しない。二義的なものなど何も存在しない。

B:
これを何と言って表そう。これは人の言葉を超えたものである。表しようのないものである。
しかし仮に言葉を設けてこれを表すならば、それはイデアであり、神であり、無一物であると言えよう。しかしこれらの言葉が語られて、他の人がこの言葉を聞いたとしても、この言葉を聞いたその事によって、それを見ることはかなわないだろう。林檎を食べたことのない者に、林檎の名を教えても、その味を教えることができないように。

このように、AとBは相容れないのではなく、BはAに次いで生じる二義的な見解です。Aが無ければBは無い。しかしBは無くてもAはある。

>○ (われ光るものを見た) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
A
われ 光るものを見た。

これは イデアである。(イデアも テオーリアと同じように 《見る
こと》です。ヴィデオと同じです)。

このイデアこそが われらが心より問い求めるまことのものである。
われは これをあがめよう。なお 問い求めよう。テオーリアなる姿勢
だ。

B
いやいや それは まことのものの なお仮りの現われなり。
(神の依り代なり。補助線なり)。

光るもの 必ずしも金ならず。
イデアとは 月を指し示すその指のことなり。月そのものにはあらず。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ A か B か ふたつは互いに 相容れない立ち場でしょう。

どちらだと考えますか?<

この文の作りだと、BはAを知らない事になる。それを見た者はそれが仮とは言わない。また、天文の知識の少ない古代にあってさえ、太陽と形容しても月とは形容しない。又、Aも、イデアを見た後に、これを崇めようとか、問い求めようとかは思わない。テオーリアというのは、かの光はなんであるのかと観ることなのである。全ては解けた。この後に、その解けたものについて思索するとき、テオーリアの状態になる。かの光は何だったのか、それにいくら思索と言葉を弄しても一義的には表せないために、観想するという態になる。そこでは真を求める意欲は停止しないが静的になる。ところで、人的なものは神的なものの二義的なものではないだろう。ここで字数制限。

お礼日時:2019/02/12 16:32

№19です。



わたしには 《ズラッシー》なる文体になおそのまま映るわけですが 
次のくだりに集中して《対話》をつづけます。


★(№19お礼欄) 一番初めのあなたの回答、ひらめきが得られて云
々と言う回答は別に問題はなかった。それに対して私は、ひらめき→言
葉→理論と動く中で、最初の原体験は薄まって行くのではないか?と尋
ねた。
☆ と同じようにこちらとしては あなた〔や他の人たち〕の見解表明
についてそこには アリストテレスの言っていないことをアリストテレ
スの思想であるかのごとく語るところがある・・・と思うのですが ど
うですか? 
――と問うたまでです。


テオーリアをプラクシスやポイエーシスよりもとうといものと捉えつつ
も 実際には 三つの分野の活動をまとめて全体として 真理の探究や
徳の陶冶にいそしむ。――といった基本の姿勢についてです。



なお 上のお尋ねについては ヒラメキが観想として思考を超えている
(つまり わたしの言葉でヒラメキは《非思考の庭》で起きる)からに
は そこから進んで 《→言葉→理論》というふうに概念を取り決め言
葉で表現するようになれば: 
★ 最初の原体験は薄まって行く。
☆ これは 当たり前のことではないのでしょうか? 

それでもよいというのが――プラトンとはちがって――アリストテレス
の態度ではないかと。




このように:
★ あなたが〔☆ つまり わたしブラジェローヌは〕仏性を発揮して
居て、衆生たる話し相手を悟らせてやろうと増上慢を起こ
☆ しているということです。



ズラッシー無しで行きましょう。

★ 一見乱雑に見える中の、筋道
☆ をさらに明らかにしてくれるとありがたいです。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

>わたしには 《ズラッシー》なる文体になおそのまま映るわけですが次のくだりに集中して《対話》をつづけます。

ぶつかりたい場合は他所でお願いします。対話と衝突は全く違うので。衝突は避けるものですから。それをずらしと言われるならブラジェさんには”当たり屋認定”でも差し上げましょうか?

>☆ と同じように

同じではないですね。

>こちらとしては あなた〔や他の人たち〕の見解表明
についてそこには アリストテレスの言っていないことをアリストテレ
スの思想であるかのごとく語るところがある・・・と思うのですが ど
うですか? 
――と問うたまでです。
テオーリアをプラクシスやポイエーシスよりもとうといものと捉えつつ
も 実際には 三つの分野の活動をまとめて全体として 真理の探究や
徳の陶冶にいそしむ。――といった基本の姿勢についてです。

なるほど、ブラジェさんはwikiを参照してそう思われたわけですね。これと私や他の人たちの見解表明とどう違うのでしょうか。それともブラジェさんだけはアリストテレスの言ったことの意味を良く汲んでいて、私や他の人たちは汲んで居ないという事でしょうか。確かに私はアリストテレスの意を汲めているかどうか自信は無い。だが、テオーリア、観想、観照という言葉には、自分にも思い当たる節がある。そして、皆さんはどう考えているだろうという事で、質問させてもらっている。この質疑応答において確かにアリストテレスの名前を出しはしたが、それは参考程度に、です。しかし、アリストテレスやその周辺について詳しく、彼の思想について確かな見解をお持ちの方がいるならば、教えていただく事は歓迎したい。

>なお 上のお尋ねについては ヒラメキが観想として思考を超えている
(つまり わたしの言葉でヒラメキは《非思考の庭》で起きる)からに
は そこから進んで 《→言葉→理論》というふうに概念を取り決め言
葉で表現するようになれば: 
★ 最初の原体験は薄まって行く。
☆ これは 当たり前のことではないのでしょうか? 
それでもよいというのが――プラトンとはちがって――アリストテレス
の態度ではないかと。

ブラジェさんは、これは当たり前だという事で納得するのですか?私は違います。
補足に続く。

お礼日時:2019/02/12 13:43

《ズラッシャー》なる・対話の相手に対して どう伝えればよいか?




☆☆(№16) アリストテレスは 秘境にあこがれイデアの層雲峡
にあそぶといった旅には出ません。

★ 誰もそんな事は言っていません。
観想は幻想ではないのです。

☆ イデアの想定のもとに良し悪しをふくむ広義の理念論としての観
念論を展開するプラトンの行き方を 《幻想》として葬ったようです。

たしかにアリストテレスは そうしています。

ならば テオーリアの扱いでは どうするか? アリストテレスの行
き方を どちらかと言えば よしとするか?


むろん 自己流もあるでしょうが このスレッドの全体として あま
りにも混沌という言葉が ふさわしい・・・とご自覚にはなりません
か?


ブディズムの行き方は さほどプラトンと変わりませんよ。観念論だ
という場の設定。





哲学カテで見てらんないやり取りがおこなわれていれば ブロックを
かけられないかぎり 見解を寄せるのは 広く人間性の問題です。仏
性のあらわれです。






応答に詰まると出るのは おまえのかあちゃん 出べそ! なるマジ
ナヒであり続けています。いつになったら おとなになるのか。

自由に中身を批判すればよいだけ。
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この回答へのお礼

自らの語り口にのみ整合性を認め、他の人の言葉の内実を見ようとしないので、一見乱雑に見える中の、筋道に気がつかない。

自ら他の人にぶつかるように歩き、沿う事が無く、我が物顔で押し通ろうとすることの何処を善なる態度と見れば良いのか。

なぜ話の内容ではなく、話する以前のことについて先ずこのように述べなければならないのか。

アリストテレスのテオーリアの良し悪しを問うているのではありません。ある見解に対しての賛同か反対かを問うているのではないのです。それは何か?如何なるものか?と言う事を問うているのです。アリストテレスのテオーリアについて語ってくれるのであるならば、アリストテレスのテオーリアはこのようなものです、と語ってくれればそれでいい。プラトンのテオーリアがあるなら、それに対してプラトンのテオーリアはこのようなものであると語ってくれれば良い。両者に関係があるのなら、その関係について述べてくれればそれで良い。
自身の為すところのテオーリアがあるなら、それはこのようなものであると語ってくれればそれで良い。一番初めのあなたの回答、ひらめきが得られて云々と言う回答は別に問題はなかった。それに対して私は、ひらめき→言葉→理論と動く中で、最初の原体験は薄まって行くのではないか?と尋ねた。これは私自身のテオーリアについて思う所に重なることでもあるのでそれを尋ねた。

オカンのへその話とか、大人になれとか言う事については、それこそ幻想でしょう。
あなたにとって、相手が子どもであるように見えてしまうのはなぜか。
あなたが仏性を発揮して居て、衆生たる話し相手を悟らせてやろうと増上慢を起こすのはなぜか。

対話すると言うことの基本に立ち返った方がいい。

お礼日時:2019/02/12 09:07

※かまわないほうがいいです。

多くの人がそうしています。

アリストテレスの「テオーリア」をどう解釈するか?これも諸説あり、大抵
どれも一理ありということになるわけです。
キサラギさんはそれはそれで、そこから深い真理を追及してゆくことに興味が
あるということを私は知っているので、そのつもりでお話をさせていただいて
います。
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この回答へのお礼

お礼前後します。
ありがとうございます。各々が自身で為すテオーリア、観想、或いはそれに類する観る事についての思う所を聴けたらと思って居ますので、ニャンポコさん他汽笛さんや猪突さんの回答はとても良かったです。
又、過去の哲学者がどう考えたかについても、教えていただける方が居るなら歓迎したいですね。
ところが、wikiを参照しただけで訳知り顔になり、それで質問者を論破したなどと場違いな事を言い出す者もいるので、まぁそう言う輩は置いておこうと思います。(こんな事は言いたくも無かったのですがね^_^;)
お気遣いありがとうございます。

お礼日時:2019/02/12 02:22

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