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宇喜多秀家は豊臣秀吉の家臣ではなかったのですか??
豊臣秀吉の五大老と五奉行で五奉行は豊臣秀吉の家臣だったそうですが宇喜多秀家は五大老なので家臣ではないということになりますよね。
しかし石田三成などは秀吉の家臣だったそうですが、家臣とそうでない人の違いはなんなのですか??
また秀家(他の4人も含めて)と秀吉とは、一体どういう関係だったのですか??

わかりにくい質問ですいません

A 回答 (3件)

もともと、備前の国に 宇喜多家(大名)が存在していました。


秀吉が信長の命令で中国地方の毛利氏を攻略しているころ、この宇喜多氏は毛利に味方していたのです。
しかし、秀吉の進撃がすすむにつれ宇喜多氏は織田が優勢と判断して織田(秀吉)にすり寄ることになります。
このときの宇喜多家当主が直家
その子が秀家です。
秀吉にとって、このようにすり寄ってきた宇喜多氏は毛利攻略の大切な駒となりました。
なので、秀吉の宇喜多に対する扱いは非常に丁寧な物となったのです。

ということで、秀家は1大名でありながら、早い時期(秀吉がまだ信長の家来であった時期)から秀吉に非常に協力的
な大名ということになりました
その流れで、豊臣政権でトップクラスの地位になったわけです。
これに対して、三成はもともと大名ではありません。あるとき秀吉の外出先で秀吉にお茶を出した三成は、そのだしかたが
素晴らしいという事でみとめられ、秀吉の家来となり、秀吉のもとで働くことになります。
そして、功績を上げるたびに領地が与えられついには大名となったのが三成です。
このように、2人は秀吉の直属で働いていたか否か、と言う違いがあるのです。
ただし、広い意味ではどちらも秀吉の家来(家臣)であることには違いがないのです。
秀吉は天下統一しましたが、それは日本中の大名を含む武家が秀吉に従ったということです。
これは、日本中の武家が秀吉に対して「臣下の礼をとった」ということを意味し つまり日本中が秀吉の家来(家臣)となったという事になります。
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この回答へのお礼

助かりました

わかりやすい解説ありがとうございます!

お礼日時:2019/04/01 03:41

秀吉の「秀」の一字をもらって秀家と改名したぐらいですから、家臣と言ってもいいでしょう


前田家は、古くからの懇意の仲ですから、これも家臣と言えます

大老は地方を納め、奉行は都を納めました、主に政治的に
五大老(最初は6人ですが、九州の小早川が没したので)と五奉行の間では、ご奉行が勝手に政治を進めるので嫌われていました

石数の違いから、ご奉行には実力は無かったのですが、政治の力を利用して(秀吉の直接の家臣として、偉そうにする)

徳川家康は、いずれ天下を取るという企みがありますから、機が熟すのを待って動きました、前田利家が没してから動きました
秀吉の死後、家康は伏見城で政務をして、諸大老を帰国させ事実上の政権を掌握しました
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三成は、秀吉が直接新規採用したもの。

所領も秀吉が与えたもの。
奉行は武将としては弱小だが、秀吉の代理として偉そうに振舞える。それで三成が有力大名に嫌われるようになった。
大老クラスは、前田などは、織田信長の下で、秀吉の同僚、家康は、信長の同盟相手。そういうのを、なんとか秀吉が自分の下に置いた。その代償として家康には異常に広い領土を与えてる。毛利も、所領は広いまま。
江戸幕府で言えば、奉行が幕政に参加できる1万石程度の譜代大名、大老が外様大名、ぐらいの感じ。
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