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本質とは「それがなければそれではなく、それがあるからこそそれであるもの」です。例えば人間の本質とはそれがあるから人間であり、それがなければ人間ではないと言うもの、それが人間の本質です。

さて、人間の本質についていろいろ議論されているようですが、人間の本質とは何故?、何故なの?と問うことです。小さい子供はよく「何故なの?」と聞きますね。つまり真理を知ろうとする性質をもったものが人間です、いわゆる理性ですね。他の動物は真理を知ろうとは思いません。その何故?と問う性質(理性)を持ったからこそ、これほど人間は進歩したのです。ゆえに人間とは真理をどこまでも探求しようと言う理性を持ったものが人間です。

このように考えましたが皆さんの意見があれば教えてください。

A 回答 (17件中1~10件)

グッド 感謝します。


ご理解いただけまし
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シンゥッドさん



僕は真実の正義の法則を
遂に、極めました。

あなたの物とは異なる理論ですが、
お手数ですが、一度お読み頂けないでしょうか?

https://ameblo.jp/omokane/entry-12485386146.html

世界を救いうる正義は
その存在を信じる者にとってたしかに誰もが一度は希求する命題!

信じる者は救われる
か?


ヱ ェ( へ(エ)へ )ノ (オマヌ ケ! クマー‼)

魔を抜く!↑ 今日作った顔文字です♪

アメブロやってるみたいですね。奇遇ですね

どうぞこれからもよろしくお願いいたします


一緒に世界を救う架け橋を作りましょう⭐
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この回答へのお礼

あなたのHP読ませていただきました。いいねを押させてもらいました。正義の為にお互いに頑張りましょう。

お礼日時:2019/06/25 22:31

私は誰でしょうか。

大抵の人は、これが私ですと自分の体を指すでしょう。

 では仮に、手が切り取られたらどうでしょう。手と残りの体とでは、どちらが私でしょう。手は私では無く、残りの方が私ですと答えるでしょう。では首が取れたらどうでしょう。首の方が私ですと答えるでしょう。では脳を取り出したらどうでしょう。脳の方が私ですと答えるでしょう。では脳を半分に切ったらどうでしょう。どちらが私でしょうか。脳を切り刻んだらどうでしょうか。どれが私でしょうか。脳の中のどの部分が私なのでしょうか。

 そもそも、体の中の物質は、3年に一回全てが入れ替わっています。では、3年後の私は私ではなくなっているのでしょうか。

 赤いとか熱いとか感じているのが私です。では、赤い熱いと言う感じは、物質でしょうか。赤い色は、心の外の世界には存在しません。物質の表面に当たって反射する光の波長が存在するだけです。

 では、音はどうでしょうか。外界には、色々な波長の空気の振動があるだけです。私たちが感じている様な音は存在しません。

 この様に、心が作り出したものを取り去ると、何も残りません。従って、赤い熱いと言った感じは、物質ではありません。幾ら科学が発達して、全てを見ることが出来る顕微鏡が出来たとしても、脳の中を覗いたところで、熱いと言う感覚を見ることは出来ません。触ることも出来ません。ただ、私が感じるだけです。物質ではないものを感じている私も物質ではありません。

 私の感じている世界は、私が心の中に作り出したものです。心の外の世界がどうなっているか、私には全く知る術がありません。しかし、心は外界に出来る限り似せて、心の中に世界を作り出しています。

 例えば部屋の中で、テレビを見ている様なものです。テレビは、実際の現場に似せて場面を作り出しています。しかし、決して現場そのものを見ている訳ではありません。あくまでも、テレビが作り出した場面を見ているだけです。
 部屋の中にいる限り、外の現場を直接見ることは出来ません。

 テレビを見ているのが私です。決して、テレビが私なのではありません。 テレビが壊れても、修理すればまた見える様になります。見ている私が壊れた訳ではありません。

 もし、見ている私が壊れたのであれば、幾らテレビを修理しても元通りに見える様にはなりません。テレビを修理して、元通りに見える様になったと言うことは、私自身は何も変わってはいなかった事を証明しています。

 同様に、もし病気で脳が壊れて、何も感じなくなったとしても、医学が発達して、脳を直す事が出来る様になれば、また私は前と同じ様に感じることが出来る様になるでしょう。

 この事は、私は何も変わっていなかったことを証明しています。病気をしても、年を取ってボケても、そして死んでも脳を元の状態に戻せば、元通り感じることが出来るので、私自身は何も変わってはいません。

 ただ脳が信号を送らなくなったので、何も感じなくなっただけです。テレビが壊れて直せなくなっても、新しいテレビを買えば元通りに見ることが出来ます。脳が死んでなくなっても、新しい脳が私に信号を送る様になれば、また元の通りに感じることが出来ます。

 科学が発達し、かつて脳を構成していた、物質を掻き集めて、元の通りに組み合わせて、脳を作ったら、また、私は元の通り感じるようになるでしょう。

 私自身は、生じるものでも無くなるものでもありません。穢れるものでも、清くなるものでもありません。増えるものでも、減るものでもありません。宇宙の初めから存在しており、宇宙の終わりまで全く変わらずに存在するものです。

 死んだ後の状態は、生まれる前の状態と何一つ変わりません。何か違いを指摘できるでしょうか。
 生まれる前の状態から、人は生まれてきました。死んだ後の状態から生まれることは、何ら不思議なことではありません。
 「不生不滅不垢不浄不増不減」です。

質問者さん、この様に脳が死ぬと精神である私に刺激を送るものが無くなるので、私は何も感じません。新しい脳がまた私に刺激を送る様になると、私はまた元のとおり感じる様になるでしょう。
死んだら、気が付くと母の胸に抱かれていることに気が付きます。誰しもそうです。ですから、死んだ人にもまた次の生或はその次の生で出会えると考えます。

詳細は、下記のホームページを参照下さい。
http://catbirdtt.web.fc2.com/sitohananika.html
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この回答へのお礼

kothimaroさん、こんばんは

あなたのHPは以前から読んでいました。あなたのような賢人と議論できるのは幸せです。またよろしくお願いします。私はここで絶対善の定義をしたと書き込み皆さんと時々議論しています。

私もブログをやっていまして、いまは新しく書き込んでいませんが一応、善の定義したのでよかったら読んでいただけませんか。

https://ameblo.jp/shinwood/entry-12277885699.htm …    (絶対善の定義について)

お礼日時:2019/06/25 22:38

それも本質の一つでしょうね。

良いと思います。

ですが
時間が経てばお腹すがすくのも、夜になると眠りたくなるのも、女の子を見て可愛いと思うことも本質ですかね。

生きる為や、生きて子孫を残す為、死にたくないから。

これらだって実際にはとても重要な本質ではないでしょうかね

本質は一つとは限らない、と考えますよ

真理の探求を頑張ってください。
人一人一人、みんなそれぞれ違う方向に真実を模索し
歩んでいきますからね♪
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人間の本質は見いだせないと私は考えます。


人間に対する見方は様々です。ある視点から見れば本質はあると思いますが、その視点のみの本質です。その視点では人間を人間たらしめられますが、他の視点ではその本質では人間を人間たらしめることはできないでしょう。ですので人間の本質は見い出せないのです。
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人間と人間以外に線引きをすると言うこと自体、この問題をややこしくしています。


私たちは地球という星に生まれた知的生命体ですから、知的生命体とそれ以外の生命体との違いは何なのかと考えるとわかりやすくなると思います。

もし他の生き物が進化して、我々人間と同様に言語を操り、様々な思考をめぐらせることができるようになったとしましょう。
その新たな知的生命体とわれわれ人間との間に明瞭な一線はあるでしょうか。
どうもないように思いますね。

では、その発展途上にある生き物とわれわれ人間との間に明瞭な一線があるでしょうか。
これもずいぶんと難しいことのように思えます。

ですから私が思うに、霊長類などと言うだいそれた言葉が示すように、私たちは人間と言うものを随分と別格のもののように思ってしまう、そのことがこの問題を随分とややこしくしてしまっているように思います。

どうして私たちは人間とそれ以外の間に明瞭な一線があり得ると思うのでしょうか。
どうして人間の本質、と言う問いに対して何らかの正しい答えがあり得ると思うのでしょうか。
人間の本質とはこれだ!と議論しているのを、他の生き物たちはどんな風に見ているのでしょう。




なお、地球の知的生命体と他の星の知的生命体との間にどのような違いがあるのかを考えることも示唆に富んだ視点となるかもしれません。
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例えそれが情に訴えるものだったとしても、猿や犬、馬などがやさしい振る舞いをした時、人はそれに親近感を感じる。

人に近しいと思うからである。

イルカの考えでさえも断定的に分からない今、他の動物が、世の事象を不思議に思ってはいないと言う確証も勿論得られていない。
一方で、犬などの身近な動物でさえ、首を傾げて目の前の事象を不思議に思っているであろう動作を為すことがあるが、それらから犬でも不思議に思う事はあると言う推察はできる。これはなんだろう?これが起こるのは何故だろう?程度はあるが、これらのことはおそらく犬でも思う。

他の動物達に無く、人には有るというものは別に無い。程度の差があるだけである。
発達した知性と言語はその例の一つに過ぎない。
しかし質問者の拘りを立てて敢えていうなら、他の大型霊長類と僅かに違うと言われる遺伝子の差異が、人間と他の動物たちを隔てる本質という事になる。質問者の言うように、他に無く、人間と言う種に有ると言うものを本質と呼ぶ事にこだわるならば。
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障害者であろうと何であろうと、人間は人間です。



故に、人間としての「本質」は備わっていると見ます。

ただ具現化されにくい人達もいる、と云う事でしょう。

あなたは(皆さんは)具現化出来ている、と云えますか?
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この回答へのお礼

コメントありがとうございます。

その通りです。他の動物と確かに違ったものがあるから人間という名がつけられ分かれたのです。人間の赤ちゃんでも「これは他の動物とちがう」というものはまだないでしょうが機能的には持っていますから人間と言えます。

お礼日時:2019/06/17 20:50

揚げ足を取るようですが、すると真理を探究


しないのは人間ではない、ということになります。

ぼけ老人、そんなことを考えない一般大衆、
子供などは人間ではない
のですね。
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この回答へのお礼

コメントありがとうございます。

>ぼけ老人、そんなことを考えない一般大衆、子供などは人間ではないのですね。<

すでにNO6のお礼で答えています。

お礼日時:2019/06/17 20:49

では、知的探究心の深い人をより人間らしい人と言い、知的探究心の浅い人は、それに比べてあまり人間らしく無いと言えるだろうか?


私はその様には言えないと思う。
それに、他の動物がどれほどの知性を持っているかを測る指標を私は知らないが、他の動物が持つ知性の形態や知性の深さがどの程度人間に知られているのかも疑問がある。イルカが、なぜ海は青いのだろう?と考えてないと言い切れるだろうか。

私の経験から、これが人間の本質として認識されているのでは無いか?と思われる事がある。それは、やさしさである。世間知におけるやさしさでさえ、それを持つ人は良い人とか、温かい人などと呼ばれる。一方で、やさしさに乏しかったり、冷酷だったりすると、人でなしと呼ばれる事さえある。
このやさしさというのは指標で測れるものでは無いが、様々のシチュエーションにおいて、確かに発現する人間の持つ性質であり、どうも本質とも言える部分を形成しているのでは無いかと考えられる。
やさしさに明るい人、深いやさしさを持つ人はより人間らしく、やさしさに暗く、やさしさに薄弱な人はそれに比べて人間らしいと言う評価を受けない。

ただ、追記しておくべきことは、これはあくまで人間が良いものであるという前提に立っての考察である。どこか歪で、あくどいのが人間らしいと言えば、それにも一定の説得力は見られるだろう。人間の本質については短絡する事ができない。それはやや込み入った話なのである。
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この回答へのお礼

コメントありがとうございます。

>イルカが、なぜ海は青いのだろう?と考えてないと言い切れるだろうか。<

だったらそういう文献が出てから考えたらよろし。


>私の経験から、これが人間の本質として認識されているのでは無いか?と思われる事がある。それは、やさしさである。<

優しさは動物たちも持っています。そのような多くの動画もあるでしょう。

お礼日時:2019/06/17 20:49

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