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はじめに~ありき。というときに使う“ありき”の意味が知りたいです。古文だったら「在る」+き(過去の助動詞)でいいと思うんですが。。。
たしか過去の助動詞の「き」は自分が直接体験した過去の事柄を表すものだったと思います。
ですが、今政治家の人たちが「まず自衛隊の派遣ありきで~」というように使うときの“ありき”は、また意味が違うように思います。なかなか自分でうまく言葉にしてこの違いを説明することができません。
どなたか説明していただけると助かります。

A 回答 (4件)

過去に似たようなご質問がありました。



参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1072209
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おっしゃるとおり,「在り」(ラ変動詞なので,終止形は「ある」ではなく「あり」です)+過去の「き」です。


したがって,現代語に訳せば「はじめに~があった。」となります。

ところで,現代語の中でこの表現を使うときは,多くの場合「○○について,その是非などを論じるべきであるのに,それをせず,最初から決定済みとか,分かり切っているとか,タブーであるとか,議論してはいけないとか,議論は避けるべきであるという姿勢を取っている。けしからんことだ」というニュアンスを伴っていることが多いですね。

「まず自衛隊の派遣ありきで~」は,「本来であれば,イラクの情勢や日米関係などを総合的に考えて,自衛隊を派遣するのがよいのか悪いのか,また派遣するとしたらどの地域に派遣するのか,12月以降撤退するべきか残るべきかなど,さまざまな選択肢があって,そのどれをとるかについてきちんと議論しなくちゃいけないのに,最初から『自衛隊は派遣する。他の意見は一切認めない』と決めつけている」という意味合いになります。

なぜそうなったか。
私はこんな風に考えています。
「初めに○○ありき」の表現で最も有名なものは,新約聖書のヨハネの福音書の冒頭,「初めに言葉ありき。言葉は神と共にありき。言葉は神なりき。」でしょう。
口語訳すれば,「初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。」となります。
なにしろ聖書の中の一説ですから,「本当に初めに言葉があったの?」とか「どうやってわかるの?」「証明できるの?」などと質問してもしかたのないことです。
(それに,この部分に関して言えば,聖書の他の部分に出てくる,実際の人物の発言や行いに関する記述とは違い,非常に抽象的な言い回しなので,証明がどうのこうのという問題ではなく,こういう考え方なんだ,と割り切ってうけいれるものなのでしょう。)

もちろん,この語句には批判的なニュアンスはありません。
「本当は言葉があったかどうかを議論しなくちゃいけないのに,その議論を封じて,結論を押しつけている。けしからん」と福音書の著者や,それを日本語に翻訳した明治時代の協会関係者がが考えて「初めにことばありき」と書いたわけではありません。
単に,In the beginning was the word.という英語の表現(もっとも新約聖書の原文はギリシャ語ですが)を日本語に直すとき,文語体の過去形の表現として「初めに言葉ありき」と書いたに過ぎません。
しかし,何しろ聖書の言葉なので,クリスチャンでないひとがこの言葉を使うときに,「当否を議論せずに,最初からそういうことだとして受け入れるべきもの」という意味合いで使い出したのではないかと思っています。
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細かいことですが,変換ミスに気づいたので訂正しておきます。


明治時代の「協会」関係者ではなく,「教会」です。
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 アリキは存在の動詞アリの連用形アリに過去の助動詞キの終止形キがついたものです。

高校の古典の時間に習われたのではないかと思いますが、過去の助動詞にはキとケリがあり、ケリが「……があった(ということに今気づいたことよ)」というニュアンスを持つのに対し、ケリは「……があった(ことを私はこの目で見た)」という意味を持ちます。つまりキは「……ということが過去にあった。それは今はじめて気づいたのではなくて、そのことがおこったときから私は知っている。私の直接に体験した過去だ」という用法で用いられることが多い。
 「まず……ありき」というのは♯2さんのおっしゃるとおりヨハネ福音書の「はじめにことばありき」が出典だと思います(こういう不自然な用法がきちんとした日本の古典にあるとは思われないので)。神の真理についての客観的記述なのだからケリではなく、キであるわけです。福音書はヨハネをはじめとする聖人が体験を中心につづったという形式によるものですから、ここでケリなんてあやふやなことを言ってもらってはこまる。「……という過去があった」と言いきるのがここでのキの役目です。ケリのように「……という過去があったと、私は今この福音書を書く段になって思いだした/気づいたことだなあ」ではない。
 はじめにことばありき、は世界の始原にことばが存在し、そこから万物が生じたということです。「まず自衛隊の派遣ありきで」というのも同様。自衛隊派遣という結論がまずあるということ。否定的な文脈で用いられるのは、「最初に結論があってその後にその結論を導くための議論を適当にくっつける」というのが非民主的な方法論だからです。福音書が「はじめに万物ありき。万物より神生ず」だとみょうちくりんになってしまうのと同じことです。アリキという言いまわし自体に罪があるわけではなく、何が最初にあって何がその後にあるかという方法論がめちゃくちゃな場合に「……アリキ」と表現されるために、一見否定的な言いかたに聞こえてしまうのです。「まず議論ありきだ」という言いまわしで使えば(まあめったにそういうことはありませんが)、民主主義の根本にかなった用法になるでしょう。
 ケリで過去を叙述すると、過去にほんとうにそういうことがあったのかどうかという点よりも、今それを自分が思いだした、気づいたことに焦点があうようになっています。「はじめにことばアリケリ」「まず自衛隊の派遣アリケリ」はだから使えない。過去を直接に表現するにはキのほうがぴったりくるわけです。
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