電子書籍の厳選無料作品が豊富!

最近聖書を読み始めました。
ど素人です。バプテスマはしてません。

教会では、神に祈り信じ受け入れることの大切さを説かれます。
そして、信じるものが救われ、次の世界?天の王国で、報われると。

1 信じるものだけ救われる、これが本当に神のやることなんでしょうか? ひどくエゴイストに感じます

2 中国などでは、キリスト教信徒は弾圧されてると聞きます。信じる者が救われるどころか、弾圧されているのに神は何もしないのです。このことへの疑義をどう解釈するのでしょうか

3 イエスが十字架で死に、その血で、全ての罪は赦されたとされますが、理解できません

どれか一つでも構いません。
解説できる方お願いします

A 回答 (21件中11~20件)

イエスが十字架にかかったのは、ユダヤの人が間違いを犯したからです。




ユダヤ民族が国をもたずエジプトで奴隷にされたりしていますが、2千年前も神の言葉を伝えるイエスを磔にしました。

そのためかユダヤ人は世界に散り散りなり、ようやくイスラエルという国を中東に建国ましたがそのために
今でも中東は火の雨が降っています。

信じる者が救われるというのは、その教えを実践すれば天国に行けるという意味でしょう。
べつに他の宗教でも救われる人もいるし、心清く生きていれば、救われます。

でもイエスのような人を殺せば国自体呪われるということもあるのです。
イエスは自分が殺される事を知っていました。

生前も色んな奇跡をおこし、 死んでからも弟子たちの前に現れ話をしたそうです。
それを復活というのですが、それがなければ2千年もキリスト教は残らなかったでしょう。

イエスが処女マリアから生まれたと言っていますが、大工ヨセフ、若い妻マリア夫婦から当たり前に生まれています。イエスを神聖化するためにそういいます。

インドの釈迦がマヤ夫人のわきの下から生まれたというのと同じですね。

なおイエスにはマグダラのマリアという妻がいました。 彼女は高級娼婦でした。七つの悪霊の憑かれていましたがイエスによりその悪霊は離れました。

それらのことはキリスト教ではタブーですね。

イエス自身が悲劇的な最後だったため、弟子筋も悲劇を好むのです。祈りとはたとえば電話をかけるようなものです。

その時それなりのものが来ますが、それが精霊であったり、悪霊であったり、その人の心に応じたものがきます。  

何故、救わないのか?  奇跡はそんなには起きません。
    • good
    • 0

① 信じるものだけ救われる


何処の宗教でも同じ事を言うのでキリスト教の批判にはなりません

②弾圧されているのに神は何もしない
何処の宗教も同じですのでキリスト教の批判にはなりません

③その血で、全ての罪は赦された
宗教に限らず、何処の世界にもある事ですのでキリスト教の批判にはなりません



キリスト教が人類に話した役割は大きいです
文化、芸術、政治経済、道徳、そして精神にです

キリスト教が世界宗教に発展した理由に
この世界で称賛される人物が登場したからです
神の言葉も聖書も、みずから広まらず
人によって広まるのです

無智、
そこからすべての偏見が始まります
    • good
    • 1

弾圧せれるのも試練、たとえイエスキリストが祈りに答えてくれなくても何度も祈る、イエスキリストは神であり人その全きイエスが全人類の罪をあがなってくれた、なぜなら俺たちには現在があるイエスキリストを信じたら聖霊が教えてくれる。

    • good
    • 0

続きです。



❸ イエスが十字架で死に、その血で、全ての罪は赦されたとされますが、理解できません
③ 前回書いた回答の中で触れたマージェリー・ケンプは、イエスの磔刑を表すものを見て、私のためにイエスは血を流したといったらしいです。時代が1000年以上離れているのにです。宗教とはあまり関係がないですが、「~~の死を無駄にしないで」という決まり文句のような表現がありますが、そういう表現を使うヒトは「~~の死を活用して、これを好機として」と言いたいわけではないのだろうと思います。そのような言葉の使い方もあるので、罪を許す、罪を赦す、免罪、贖罪の細かなことにはこだわらないこととします。 またイエスの死とかイエスの血とかに関しても、宗派?(教団、教会)によって解釈も結構違うようなのですが、そこもこの際無視します。 で、『「死に関して、生の終焉とだけただ考えていた』のではない人たちが多くいるということが大前提です。 死んだあとで裁きがあると考えていたか、死そのものに罰死のような感じや不安を抱いていたかという状態を想定してください。 そして自分の生き方や過去においてマズイなまずかったなあれは罪深いことだったという忸怩たる思いも少しあるいはたくさんある場合、自分の死は罰死や裁定で罰を食らうような死になるのじゃないかという恐怖が心底にある場合、『大丈夫だよ』という理解をさせてくれるものはとてもありがたい護符・言葉・証拠になります。
福音派やアメリカに多い協会系の解釈は別にして、ルターは貴重な代価として今後のヒトを含めすべてのヒトの犯す罪を血で払った(贖った)としているようです。
https://suomikyoukai.xsrv.jp/?p=1868 イエスが死んでしまった以降は、直接にイエスに神との取りなしを頼むことはできませんが、イエスが一括前払いで今後のヒトの罪を贖ってくれているのであれば、もうローマ教会から贖罪符を買わなくていいわけです。
ローマ教会は、(スゴイ想像で書きますが、たぶん)、イエスの死と復活が作り話でもフェイクでもないことの証として、ヨハネの19-30~19-36を挙げているのだろうと思います。
https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8 …
またプロテスタントのカルヴァン・改革派・長老派も、預言の成就の証としてイエスの死と血と水を重視しているのだと思います。
日本で街中やwebサイトで見かける福音派やアメリカに多い教会系、新興のイエスキリスト教会などの解釈は、エペソ人への手紙1章7-10を証拠として、神からの贈り物として理解するように勧めているのではないかと思います。
https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9 …

話は一転しますが、時効になって罰せられなくなる、裁判で無罪となる、正当防衛・不可抗力・責任能力がなかったから罪を問わないとなった場合、それは『罪が赦された・許された・贖罪した・無罪だった』となるのか、やや難しいとこともあるように思います。
親鸞も、自分たちは能力も低く身持ち悪く信心や戒律受持も揺らぎがちの者としては、仏の請願を信じるしかないと思っていたようです。それに生活のためには、戒律と信仰や学問ばかりに時間を懸けているわけにはいかないですから、利を求めたり、楽や安逸、愛欲なども捨てるわけにはいきません。 私だって救われるという保障や証拠が欲しいのです。 そう信じなければ救われようがないという思い切りです。
https://shinshu-kaikan.jp/learn/shinran
保障を保険証、証拠を贖罪符やパワーストーン、聖遺物、聖地巡礼、洗礼などに求めても良いのでしょうが、なんと言ってももっとスゴイことが、聖書(新約)に書かれてあるので、そこに証拠を求めたのではないですか。

国民主権は憲法で保証されているというようなの、一人一人は個人として尊重されているという言葉よりも、(宗教経験がある場合には)聖書の方が心に響くという感覚の人は多いと思います。 そうでなければ、連綿と、キリスト教やその類似宗教が信徒を持ち続けるわけはないのです。 日本育ちの多くの人が、死んだ人の魂・霊を安らかにというのを聞いて、違和感や疑問を抱かないというのと、ほとんど同類です。 特に信仰や信心をしてなくても、一応キリスト教系に近い文化を知っていれば、キリストの血(イエスの死後に流れ出た血)に、人の救済の神の意志の現れというのに近い理解は、なんとなく分かると思います。 天地創造神話や生物の進化に関する現代的理解をしていても、イエスの身体から流れ出た血=人の贖罪がなされる証という理解はしているのだろうと思います。
    • good
    • 0

私もど素人ですが、whatamiwrongさんよりも、少し知識というか調べた経験が多いのではないかと思います。

 ですので、雑談程度の感じで、読んでください。

聖書を読むと「福音書」がいくつか新約に出てきます。 新薬の四つの福音書はイエスの言行録です。 末日聖徒イエス・キリスト教会というのがあって、これは1830年以降にアメリカでジョセフ・スミス・ジュニアが訳した(実は啓示で語った)聖書をベースにしています。 その聖書・モルモン書は、ユダ王国のエルサレムからアメリカでのニーファイ人の物語となっています。 大本(おおもと)というのがあって、1920年以降に出口王仁三郎が口述した霊界物語を大きなベースにしています。 それは、神素盞鳴命が八岐大蛇をやっつけから始まり現代に至る物語です。
旧約(旧約ではなくただ聖書ということもありますが)は天地創造の物語や歴史物語と示された律法などからできています。
系統が物語りとは違いますが、中世ヨーロッパでは、聖遺物への呪力信仰や聖人に対する信仰が強まり、イコンも信仰の重要物となって発展しました。 また聖地巡礼も盛んになりました。 これを呪物、おまじない、パワースポットのように(ちょっとの寄付などで大きな利得をえる利益願望)とだけとらえるのではなくて、神聖な経験で感性の奥底までがっちり捕まれるということとらえることもできると思います。 14‐15世紀のイギリスで、14人の子の母であるマージェリー・ケンプは、神の啓示を受けその都度大声で泣きわめくし、まともな信仰ではないとかなり叩かれ非難されるのですが、一部の聖職者からはそれがまともな信仰だと認められたりもしたようです。というのは聖人とか、教会の著名人たちの多くが単に敬虔な信徒であったというだけでなく霊的神秘的経験をしたことを述べたりもしていたからです。 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%83 …
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A9 …

で、正統な?教会の方針に従い礼拝し贖罪し免罪符も買うというような多くの人々のケースであっても、神秘体験のようなものを感じていたのです。
新約に出てくる人たちも、ジョセフ・スミスに従った人たちも、出口に従った人たちも、キリスト教弾圧禁令下で信仰を維持したり、新たに信仰に入っていった人たちも、神秘的とか霊的としか言えないような至福・満足・安心・安堵がはっきりと感じられたので、その体験を希求し続け、現実世界の衣食住や肉体生命の危険が増す不都合は無視するか、その不都合こそが自分が至福につながっていける証拠のように感じたのです。

性愛にSMとかがありますが、なんで痛く苦しくなるのを求めるのかといえば、その果てに快感があるという経験を重ねて、オペラント条件付けの強化がなされ、レスポデント反応は弱化するからです。
ヒトの大脳は、通常の生理から想起される反応に限定されるのではなく、思考が認識を変え、認知も感情や情動さえも決定づけることが可能です。
神秘体験というのを、イヌやネコ、ラット、サルなどがするのかどうかは分かりませんが、人間の中には、物理的刺激がなくても、幻覚、幻聴、幻触、幻臭を感じることがあるのは確かですから、ある状況下(瞑想、睡眠中、睡眠不足、過労、水分不足、栄養不足、激痛の最中など、あるいは幻覚剤を用いているとき、ハイテンションのとき、うつ状態のとき、強く念じているときなど)に、突然に、強烈な光を見たり、神を感じたり、絶妙の発想が生じたり、神々しい感情に打ちのめされたりして、そのあまりの強烈さに、そのときを境に、考え方や志向あるいは価値感や思考方法が一瞬にして変わっていくといのは、ごくごくありそうなとと思います。

さて神秘体験やオペラント条件付けの強化はさておいて、問題は「物語・福音」です。
多くの信者、信徒は、創始者ほどの神秘体験はしません。 オペラント条件付けの強化もレスポデント反応を打ち消すほどのものではないことが普通です。 イエスに従った使徒たちも信仰に徹しきれなかったと福音書に書くほどです。
https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B …
https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B …
こうした一種の背信が福音書には書かれている。 旧訳にもイスラエルの民の苦難の連続が書かれている、ジョセフ・スミスに従った人たちもヒトは間違いを犯す存在として位置づけ物語ります。霊界物語も自分の立位置を気にせずに理解すればあるある物語です。 平穏無事でただただ清浄な世界などは書いていないです。 物語と言えば、形式は長編叙事詩ですがイーリアスも波瀾万丈で嫉妬や怒りが渦巻いています。 物語というのは、自分の中にあるあまり良くないと思える感情や行いが織り込まれているから、そこに魅力があって、強く引き込まれ、それでもなお、なんとか立ち直ったり、滅んでも再生復活したりという仕立てになっていて、物語を読み進む、聞き進むと、擬似的に共感と同情と強い感動と一層強い決意が湧いてくるようになっています。

もしも、聖書や物語が、不信や背信、競り合い、嫉妬や堕落、怒りなどのない記述ばかりだったら読まれもしない、後世には伝えられないで消えたのではないかと思います。 また悪徳だけでも現世で栄え死後もひどい目に遭わないようであれば、その聖書や物語は公に広く伝えられることにはならないでしょう。 そのような欠点のないのが、おおくの信仰の土台にされている物語なのだと思います。 現状の自分の弱さやだらしなさが、周囲にもあることを前提にして、その上で、それから脱する方向に自分を持ち上げ、鼓舞し、テンションを高め、自己統御の効力感を喜びと感じたいというものが、ナラティブになるような物語なのです。

その強い願望・希望に適うのが、「祈り信じ受け入れることの大切さを説く教え」です。

❶ 信じるものだけ救われる、これが本当に神のやることなんでしょうか? ひどくエゴイストに感じます。
① 「不徳や背信とエゴばかりのものが[最後まで得を]え続ける」なんてのを語りや教えにしても、それを広めるのは難しいですね。 何度失敗や躓きがあっても、また信じようと自分を律すればそれで救ってもらえるという教えの方が、ずーっと魅力的です。 とにかく、「自分にはこれっきゃない!」とい強く感じられる教えとは、そういうモノでしょう。 
[信じなくても転けにしても、誰でも救ってくれる神]なんてのを布教したいというヒトはまれでしょう。 もしも布教されたところで、その神をことさら信じることはないですよね。
[信じます]とか[南無阿弥陀仏]とか最後の一瞬にでも言えばそれでも良いという教えを広げる場合でも、現在や明日明後日には好き放題にやれと勧める教えって、まあ普及しないです。

❷ 中国などでは、キリスト教信徒は弾圧されてると聞きます。信じる者が救われるどころか、弾圧されているのに神は何もしないのです。このことへの疑義をどう解釈するのでしょうか
② イエスが磔になるときも、キリスト教の中で正統異端で戦う場合でも、信じるモノが虐殺された場合、神は基本的になにもしません。 そこに疑義が生じたヒトだっていたでしょう。
イエスが殺されるときも、聖人として後世崇められるヒトが受難するときも、神は何もしません。 https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B …
神がなにかするとか、直接に延命するとか、害が及ばないように奇蹟を起こすようなことは基本的にしません。旧約でも、神の国の所在地や戒律を示すとか、最大限で海を退かせる、パンを増量する程度です。それだって、いつもそうした救済をしてくれるわけではないです。信徒や信者にとっては、現世でいい目を見させてくれる、害を減らしてくれるというのは大きな期待ではないです。 信者などが一番に願望しているのは、霊的心的精神的な満足と昂揚感、自己効力感から生まれる幸福感です。 それを強く求めないヒトは、異端者から始まって差別されがちな創唱宗教の強い信者にはならないのです。
    • good
    • 0

1 信じるものだけ救われる、これが本当に神のやることなんでしょうか?


ひどくエゴイストに感じます
 ↑
ユダヤ教、というのがありまして、これは
ユダヤ人の為の宗教です。
これを、人類全体のための宗教にしたのが
キリスト教です。
だから、信じるモノだけ救われる、というのは
オカシイ訳です。
こういうのは、布教の為に編み出した技術です。




2 中国などでは、キリスト教信徒は弾圧されてると聞きます。
信じる者が救われるどころか、弾圧されているのに神は何もしないのです。
このことへの疑義をどう解釈するのでしょうか
  ↑
現世で弾圧されても、あの世で
天国へ行けるから心配するな、と解釈されて
います。




3 イエスが十字架で死に、その血で、全ての罪は赦されたとされますが、
理解できません
 ↑
原罪のことでしょう。
神の命令に違反して林檎を食べた、という
罪のことです。
江戸時代、新井白石は、良い歳した大人が
そんなおとぎ話を信じているのか、と驚いた
といいます。




どれか一つでも構いません。
解説できる方お願いします
 ↑
こういうのを矛盾無く説明するのが、神学と
言われるもので、牧師や神父はこれを勉強する
訳です。
ここから、西洋法学が誕生しました。

それでも、どうしても説明できないのが出て来ます。
それは、一般条項で
逃げます。

「偉大なる神の御心など、我々人間は理解
 出来ないのだ。
 黙って、神の言うとおりにすれば良いのだ」
    • good
    • 0

他の回答者さんもおっしゃっている通り、近代の思想史は個の欲望を是認することと、”隣人を愛する”こととの矛盾との格闘の歴史でした。

私は、ジョン・ロックの社会契約論を読んで、一応、納得できました。現代の欧米社会で、常識とされていることは、イギリス人の手で文章になっているんですね。日本を出て、米国で生活していることも役に立ちました。他人の生き方に、基本的には、干渉しないところです。

日本と違って、キリスト教、あるいは一般的宗教への批判が厳しくありません。日本に住む、キリスト教徒は、大変です。偏見と闘っているといえます。

1.信じるということが、どういうことか。自分の欲望に任せて、他人を傷つけることも厭わず、怠惰に生きないで、自分は、神の作ったパズルの一つのピースであるという謙虚な自覚をもち、他と強調して、社会の生産的な構成員になることです。正しく信じれば、生き方そのものが変わります。神を中心にして、我欲を後回しにして生活するところまで行って、実際に”信じる”と言う行為が完成します。ただ、信者であればよいというわけではない。ハードルは高いです。キリスト教徒にも、殺人者もいれば、犯罪者もいます。そういう人たちをどうするか、が、課題になってきます。

2.例えば、キリスト教を断罪する国で、洪水を起こして、全員、ジェノサイドしてしまうのが、公平だ、と考えられますか。何が起きると、神の公平が証明されると思いますか。

中国で布教するキリスト教徒は、逮捕されます。私も一人、現在でも獄中の、アメリカ人のお医者さんを知っています。教会では、見捨てることなく、彼や彼の家族をサポートしています。民間レベルでできることは、少ないですが、決して、中国を見捨てているわけではないです。

次にキリストが現れるときまで、地球は私たちの手にあります。地球温暖化で気候の変化に、CO2排出規制で取り組んでゆくのも、キリスト教徒に、”神から信託された地球を、しっかり管理しなくては”と言う、自覚があるからです。

3.私は、プロテスタントですので、もしカソリック教会にいらしているなら、教義が少し違うかもしれませんが、大筋は同じです。旧約聖書の神は、ユダヤ人の神で、律法(生活規律)も厳しいものだった。それを、”愛の宗教”に一歩進めたのが、イエス・キリストです。旧約全体が、救世主であるイエスへの示唆に満ちています。

神が一番嫌ったのは、自分以外の神を崇拝することと、自堕落な生活を送ること、そして、偽善や非寛容でした。預言者を通して、何度も、何度もユダヤ人に警告を発しています。そして、ユダヤ人たちの罪をあがなうために、”神の子”であるイエスを神への犠牲にします。(ユダヤには、罪を犯したときに、子羊を犠牲に捧げて、神の許しを請う、という、宗教的な神との和解方法がありました。当時のユダヤ人にはわかりやすい方法でした。)そして、イエスの教えを信じることは、神を愛すること。イエスの教えを広めることは、人類を救済することである、という考えに敷衍してゆきます

キリスト教を理解するとっかかりとして、パウロのローマ人への手紙を何回も読むことが、一般的に勧められていますので、お試しください。

日本と古代ユダヤでは、常識が天と地ほど違っているので、疑問点もたくさん出てくると思います。それが当たり前です。しかし、人を愛すること、見ず知らずの人を愛すること、嫌われている人さえ愛すること、が、人間的成長の助けになるでしょう。現代の日本では難しいことと思いますが、健闘を祈ります。
    • good
    • 0

この疑問は普通の人間であれば思春期になると誰でも思いつく疑問ですね。

もちろん、千年2千年前の西洋人も今と同じ普通の人間です。だから、この問題はここ2千年繰り返し論じられていました。神に対するこの矛盾があまりに自明に見えるのに、これが矛盾でないことを論証しなければならない。キリスト教の教学の歴史は全てこの矛盾が矛盾でないということを論証しようとしてきた歴史です。

論理の面白さは、一見矛盾していることでも、話を複雑にして行けばそれが矛盾していないように見える論理を常に見つけることができる点にあります。そして、その論理に説得されてしまう人たちのことをキリスト教徒と呼びます。一方、その論理に説得されない人たちから見ると、その論理を詭弁と呼びます。

何れにしても、上記疑問に対して考案された複雑な論理体系は時代時代に変遷しながらいくらでもあります。例えば、アウグスチヌス、アンセルムス、トマス・アクイナス、トマス・ホッブズ、ジョン・ロック、ルネ・デカルト、ヘーゲル、キルケゴール等々、巷の人々が天才と認めている一流の頭脳の持ち主達が、この問題を真剣に考えて、彼らはそれぞれ、自分の提示した論理に説得されてきました。

それに対して、私の経験でも「神なんかいないよ」と言う人が巷にはいくらでもいることを見てきました。でも、その人達の大多数はまさか、上記に列挙した綺羅星の如き人達よりも自分の方が優れていると思っているとは思えません。何で、歴史に残るような人々が神の存在について説得されてしまったんだろうか。彼らは説得されたのに、自分は説得されないのは何故なんだろうか。このように、もし、これらキリスト教徒たちがどのようなに多様で複雑な論理展開から上記の疑問に対する回答に説得されてきたかを知るには、上記の人々に着目してキリスト教の教学を眺めてみることをお勧めいたします。

その作業って、上記の疑問ばかりでなく、一般に論理の説得力って何であるのかを知る上で面白い作業です。どういう論理の展開なら人々は納得しそれを正しい論理と思い込むのか、どういう展開なら納得せずに詭弁と思うのか、論理一般のみならず、ご自分の論理に対する理解も同時に深めるためにも意味のある作業だと思います。
    • good
    • 3

「神が人を作ったのではない、人が神を作ったのだ」by眠狂四郎


↑が真理です。
    • good
    • 0

神は何もしませんよ。


神の意向を忖度した人間どもがアボリジニを殺戮したり、ユダヤ人を絶滅収容所に入れたり、広島や長崎の非戦闘員を大虐殺しているのです。

神がやったわけではなく、人間どもが忖度したわけですから神は無実ですね(笑)。
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す