限定しりとり

先に、「形容動詞という誤り」を提起させていただきましたが、他の質問に対する批判ということもあり、当方の説明もストレートではなく、主旨をかならずしも十分に御理解いただけていないコメントが見られました。

当方が<「一方的な主張」というスタンスなので、素直に回答者の見解を聞けないのだと思います。>というご批判もいただき、不十分な説明をお詫びするとともに、今一度、説明させていただきたいと思います。

せっかく当方の提起に興味をもっていただき、袖振り合うも多少の縁と云う諺もあり、もう少し、噛み砕いて説明させていただきます。

ついては、内容を御理解いただいた上で、質問、疑問、反論、コメント等いただければと考えますので宜しくお願い致します。

まず、形容動詞という品詞区分は何を云っているかですが、以下の内容です。

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

形容動詞
けいようどうし

日本語の品詞の一つ。「静かだ」「親切だ」のように,用言の一種で,意味上は形容詞に近く,活用の点では動詞に似たところがあるものを,全体で1語と認め,形容動詞と呼ぶ。しかし,この品詞を認めるか否かは論争があり,単語の認定法,品詞の認定法により異なる意見が出ている。また,形容動詞を認めても,どの単語がそれに属するのかという点で一致しないことがある。橋本文法では形容動詞を認めるが,時枝文法では「静か」「親切」がわれわれの意識のなかで1語として存在しており,しかも単独で使われることもあることなどを根拠として,いわゆる「形容動詞」は形容詞的意味をもつ体言に指定の助動詞のついたものとみるべきであるとしている。山田文法や松下文法でも「形容動詞」を品詞として設定してはいない。

https://kotobank.jp/word/%E5%BD%A2%E5%AE%B9%E5%8 …

この定義のポイントは、【意味上は形容詞に近く,活用の点では動詞に似たところがあるものを,全体で1語と認め,形容動詞と呼ぶ。】です。

まず、注意すべきは意味上、つまり語の意義としては<形容詞>に近いということです。つまり、属性表現の語であり、名詞ではないということです。

次に問題となるのは、<活用の点では動詞に似たところがあるものを,全体で1語と認め>ということです。この点が重要な所で、具体的な事例についてみます。

■ 形容動詞の活用と活用形
形容動詞の活用のしかたは、次の1種類だけである。
未然形_連用形__終止形__連体形__仮定形__命令形 
―だろ/―だっ  /だ   /―な  /―なら   ○
    ―で
    ―に

となります。

終止形を挙げれば、「綺麗だ」「元気だ」「平和だ」等となり、「綺麗」「元気」「平和」が語幹で、「だ」は活用語尾になります。辞書の見出しには何故か語幹しか示されていません。北原保雄はスペースの節約等の理由にならない理由を挙げているのが目に付きます。

さて、<活用の点では動詞に似たところがある>とされているので動詞の活用を見ましょう。
5段活用が判り易いと思いますが、「行く」を取り挙げてみましょう。

「行か/行き/行く/行く/行け/行け」

となります。ここで、注意すべきは、「行く」の語尾「く」が「か/き/け」と変化して「行か」「行き」になっても動詞「行く」の語義は変化しません。断定の場合は「行きます」と判断の助動詞「ます」が付加されます。命令形語尾と仮定形語尾「け」は同じで、活用語尾「け」自体が仮定、命令の意義を持つのではありません。

このように、活用とは次に続く語による形の変化でしかありません。

では、これを形容動詞について見てみましょう。仮定形が判り易いのですが、「綺麗なら」「元気なら」の場合、「部屋が綺麗なら嬉しいのだが。」「彼が元気なら良いが。」で判るように、明らかに「なら」は仮定の意義を表わしています。つまり、これは意義を持つ一語であり、活用語尾ではないという事実を示しています。

英語の屈折の場合は、「be」が「is」や「was」に変化すれば、人称、時制の意義の付加、変化を表すように形式の変化が意義の変化に結びついており、単なる形の変化ではありません。

しかし、膠着語である日本語は「行く」が「行か」や「行き」に変化したところで「行く」に意義が加わり、意義が変化するものではなく、単なる形の変化です。このように、一語の形容動詞を認めるということは、膠着語の特徴である活用を屈折のように誤って取り込むということになります。

あくまでも活用だというのであれば、「元気になる」「元気である」「元気だ」の「元気に」「元気で」「元気だ」は全て同じ意義でなければなりませんが、明らかに意義が異なり、文の意味が異なります。

形容動詞説というのは、このように膠着語である日本語の一語とは何かという言語論、文法論の根幹に矛盾をもたらすものであるということです。

こうした、非論理的な誤った品詞の定義は事実に合わせ訂正すべきだということです。

では、どうすれば良いかといえば、<形容詞>に近いと言っているように、内容は静的な属性表現の語であり、<形容詞>との相違は活用を持つか否かです。したがって、この二種類を静止として一纏めにし、その下位分類として活用を持つ形容詞を認めようということになります。

これは、事物の込み入った、詳しい属性表現の語が漢語として流入し、これを和語に取り込んだ歴史的経緯によるもので、現在も「ハッピーな」「ビューティフルな」などと、外来語の取り込みに適用されています。

形容動詞という品詞を設定すると云うことは、こうした、歴史的事実、膠着語である日本語の特徴である活用という事実を捉え損ねた形主義主義的な誤りであるということです。

こうした、主旨をお伝えしたかったのですが、言葉足らずのようでした。

これが、反対に和語に浸透したのが、「静かな」「暖かな」「まん丸な」「真っ黒な」と云う用法です。

但し、「元気」「平和」「静か」などが、「元気が一番」「平和を守ろう」「二人静(か)」のように名詞として使用される場合もあり、この語は多義であるということで、これを混同すると、先のブリタニカの説明にある、<時枝文法では「静か」「親切」がわれわれの意識のなかで1語として存在しており,しかも単独で使われることもあることなどを根拠として,いわゆる「形容動詞」は形容詞的意味をもつ【体言】に指定の助動詞のついたものとみるべきである>という誤った解釈に陥ります。

このように、<形容動詞>という一語を設定することは誤りだということですが、ご理解いただけましたでしょうか。■

質問者からの補足コメント

  • なお、さらに詳細な批判は三浦つとむ「形式主義文法論の吟味 」(『文学・ 哲学・言語』国文社:1973)を参照下さい。

    また、現在の形容動詞論の一端を伺うには、下記を参照下さい。形容動詞設定の歴史的経緯が説かれています。

      権 善和 「日本語形容動詞の研究」

    https://dspace.inha.ac.kr/bitstream/10505/14526/ …

      補足日時:2019/07/29 22:00
  • なお、「なら」は仮定形ですが、「ならば」は「なり」の仮定形+仮定の接続助詞「ば」で、仮定を表わす句というべきもので、仮定の意義を直接に表わすのは仮定の接続助詞「ば」ですね。

    ば[接助・係助]
    [接助]
    1 口語では活用語の仮定形、文語では活用語の未然形に付く。未成立の事柄を成立したものと仮定する条件を表す。もし…ならば。「暇ができれば行く」「雨天ならば中止する」
    【デジタル大辞泉の解説】■

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/07/30 09:26
  • >>名詞の合体形なので、「形容動詞語尾=助動詞活用形」とならざるを得ない

    「合体形」と形式に捉われる発想がまず問題です。言語は意義、意味を表わすもので、言語実体観のためこの関係が理解されないということです。

    そして、「形容動詞語尾=助動詞活用形」とならざるを得ないのが何故、どのような根拠からなのかも理解できません。

    論理を進めるためには、その根拠に照らし確認しないと、結局感覚的な理解、発言にしかなりません。

    これまでの応答を反省されれば、明らかかと思いますが。■

    No.7の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/07/31 19:02

A 回答 (15件中11~15件)

#4です。



>それぞれ、判断の助動詞「だ」「で」、格助詞「に」等になります。

『明らかに「なら」は仮定の意義を表わしています』
とおっしゃいました。
これは、仮定の意義以外は考えられない、ということをおっしゃったのだと思います。
だからこそ活用語尾ではない、という理屈なのですよね?

同様に、
『明らかに「だ」「で」は判断の意義以外を表わさず、「に」は格助詞の以外の意義を表わさない』という意味でしょうか?
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この回答へのお礼

>>これは、仮定の意義以外は考えられない、

「雨なら、遠足は中止だ。」の場合、「なら」は仮定の意義を表わしており、「彼が元気ならいいが。」の「なら」も同じで、形容動詞「元気なら」の活用語尾ではないということです。

『明らかに「だ」「で」は判断の意義を表し、「に」は格助詞の意義を表す』という意味です。■

お礼日時:2019/07/31 06:26

>「元気なら」の場合、「部屋が綺麗なら嬉しいのだが。

」「彼が元気なら良いが。」で判るように、明らかに「なら」は仮定の意義を表わしています。つまり、これは意義を持つ一語であり、活用語尾ではないという事実を示しています。

一理ありそうですね。
なるほどと思います。
これが形容動詞否定派の論拠と考えて良いでしょうか。
私見を述べる前に教えていただきたいのですが、仮定形以外の場合は、どうなりますか?
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この回答へのお礼

御指摘の通りです。

膠着語である日本語の一語とは何かという言語論、文法論の基本的な問題で、言語事実に即した理解です。

それぞれ、判断の助動詞「だ」「で」、格助詞「に」等になります。■

お礼日時:2019/07/30 20:54

>話すという動作の在り方を具体化、立体化し表現するものです。

時間的な変化は動詞「話す」が表わしています。
これが納得しかねます。
><動詞>は対象の属性を運動し発展し変化するものとしてとらえ概念化し表現します
概念化して表す動詞「話す」一体何を表せるの?所詮概念では?、都合の悪いところをすっ飛ばした説明としか・・・。
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この回答へのお礼

早速の応答有難うございます。

>>具体的にどのような点が何故納得しかねるのかを御開示いただければ、返答も可能かと考えます。
感覚的なコメントを戴く場合が多く苦慮しております。

>>一体何を表せるの?所詮概念では?、都合の悪いところをすっ飛ばした説明としか・・・。

当然、話すという動的な属性を普遍的に捉えた概念化ということになります。

すっ飛んでいるのは、概念とは何かの理解ではないかと愚考致します。

お礼日時:2019/07/30 20:50

流暢な、動き。


この「流暢」をどこまで説明できるか。
確か以前、動画で色が表現できる・・・なんて言葉もあったように思います、あったり前です。
それより、簡単に動画、と言っていることが問題です、倫理的というより科学的な立場では、あれは動画ではありません、微妙に変化はしているが複数の静止画を連続して見ているだけです。
動画として見るためには、観察者側の能力が必要です、よく聞くのは視覚の残像効果、それに加えて、その情報を処理する脳がどのように認識するか、動き(動画)として認識する能力が必要になります。
動詞、形容動詞を理解するためには、その言葉を受け取る側に上記の能力が必要なだけです。
オタク系の人に、オタク(専門)以外のたとえは理解するつもりもないでしょうが。
電波通信に側波帯通信というやり方があります。メインの周波数とわずかに異なる周波数の電波が上下に発生します、この側波帯の電波だけ発信します。
通常の受信機で再生しても「モゴ、モゴ」としか聞こえません。
そこで受信した受信機で側波帯に対応するメイン周波数を作って混合します、それを通常の受信機で再生すれば、普通に聞き取れます。
人体でも似たことがあります、意味の分からない言葉、でも例として音叉の音を聞いた後で、同じものを聞けばちゃんとした言葉として聞こえる。
そんな受け取る側に何かの能力が必要な言葉、それが動詞であり形容動詞です、だから言葉で伝わるのは概念、だけ。
なぜ?、時間が問題です、1時間、こ言葉ではこのように概念は伝わります、でもこの概念だけでは時間の計測はできませんね。
動きはこの時間と密接に関係します、時間が止まれば動きはありません、時間そのものが伝えられない以上、動きも、動きそのままの表現はできません。
流暢、は一連の動きを観察したうえで、脳がどのように認識するか。
速い、遅いとどう違うのか、私も自信はありませんが、速い、遅いは現実には時間の差が出ます、流暢、と流暢でない、は、時間の差は無関係と思います。
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この回答へのお礼

早速の応答を有難うございます。

言語は、対象を概念化し、規範を媒介として感性的な形に表現します。
そして、音韻、文字、語彙、文、文章規範を定め立体的、重層的な表現過程、構造を持っています。

<動詞>は対象の属性を運動し発展し変化するものとしてとらえ概念化し表現します。

<形容詞>は属性を静止し固定し変化しないものとして捉えて概念化し表現します。

りゅう‐ちょう【流暢】リウチヤウ
言葉づかいがすらすらとしてよどみのないこと。「―に英語を話す」
【広辞苑】

で、これは属性を静止し固定し変化しないものとして捉えて概念化したもので、話すという動作の在り方を具体化、立体化し表現するものです。時間的な変化は動詞「話す」が表わしています。

そして、流暢は和語である活用を持つ形容詞では表わしきれない、込み入った属性を表わしています。しかし漢語であるため活用を持ちません。そのため、直接名詞には接続できず判断辞「なり」の活用を利用し、「流暢な会話」のように和語に取り込んだものです。

このように、対象の属性の普遍性を捉え概念化するという抽象の能力を人間の脳は持っています。これは、猿が樹上から大地に降り、集団で社会生活を営むようになり、協働の必要性から発展した能力ということができます。

そして、これは自然の一部である人間が、自然の持つ論理性、合理性を活用したものということができます。■

お礼日時:2019/07/30 17:07

>


このように、活用とは次に続く語による形の変化でしかありません。

では、これを形容動詞について見てみましょう。仮定形が判り易いのですが、「綺麗なら」「元気なら」の場合、「部屋が綺麗なら嬉しいのだが。」「彼が元気なら良いが。」で判るように、明らかに「なら」は仮定の意義を表わしています。つまり、これは意義を持つ一語であり、活用語尾ではないという事実を示しています。

  話が具体的になって、素人にも分かるようになったで、ありがたいことです。
仮定形の例を挙げて、「なら」という形が「仮定」を表しているのではなく、仮定形に「ば」が接続して初めて仮定の意味を持つわけです。「行け(ば)」と同様に、「なら(ば)が仮定形なのです。この「ば」を省略しても「仮定」の意味を持つという時代的な変化を忘れてはなりません。「た」の仮定形の「たら」にも同じことが言えて「たら(ば)」が仮定形です。
 時々、気が付いた時点でコメントさせていただきます。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

貴重な御指摘をありがとうございます。

御指摘の通りで、「なら」は肯定判断辞「なり」の仮定【形】で、「ば」は零記号になっているということですね。
したがって、断定の助動詞「なら」の仮定【形】自体が仮定を表わすという当方の記述は誤りですが、「なら」は一語で、活用語尾ではないという主旨は問題ないと思いますが。

「綺麗だ」「綺麗で」の「だ」が断定の意義を表わす助動詞であり、「で」は「だ」の連用形「で」であるように、形容動詞説でいう語尾は一語であるということです

デジタル大辞泉の解説
なり[助動]
[補説]連体形「なる」は室町時代に「な」となり、口語の助動詞「だ」の連体形に、未然形「なら」は同じく仮定形に用いられるようになった。■

お礼日時:2019/07/30 06:47

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