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一連の質問で教えていただいたことや、提示していただいた資料を基に、私なりにまとめてみました。
良いと思えたことの寄せ集めみたいなものです。
新しい視点はさほど含まれていまませんが、表現の仕方に特に工夫をこらしたしたつもりです。
しかし、それが逆に仇になっている可能性もあるかもしれない。
ご意見・ご批判よろしくお願いします。
あくまで叩き台としてお示しするものですので、改善を前提にしての質問です。
遠慮なく、しかしお手柔らかに、また、有意義な改善点をお示しいただければ幸いです。
若干長めである点、お詫びいたしておきます。
部分的でも構いませんので、どんどんご指摘ください。
日本語学習者の方からの率直なご感想なども大歓迎いたします。

【 VOL.1ー使い分けの要点 】
(A)人間というものは、ある物事にフォーカスし主観的な判断や断定などを述べたい生き物である。
もし、あなたが、ある物事にフォーカスし主観的な判断や断定などを述べたい場合、その物事は【〇〇は△△】のように主題提示の意義を持つ助詞【は】を用いて表わすと良い。
「〇〇について言ってみれば△△」という意味を表わすことができる。

(B)人間というものは、また、何らかの現象・属性などを主観的な判断を加えずに(事実として)そのまま伝えたい生き物である。
もし、あなたが、何らかの現象・属性などを主観的な判断を加えずに(事実として)そのまま伝えたい場合、「何らかの現象・属性などの主格、または可能・希望・好悪・巧拙などの対象」は、【〇〇が△△】のように、指定(または特定)の意義を持つ助詞【が】を用いて表わすと良い。
以降で若干の解説を加える。

【 VOL.2ー「は」を使う 】
1.
目の前の人にフォーカスし主観的な判断や断定などを述べたければ、【〇〇は△△】という構文を使い〇〇を主題提示します。

(ア)この人は社長だ。

のように言う。
「この人について言ってみれば(彼は)社長だ」という意味。
また、鯨にフォーカスし主観的な判断や断定などを述べたければ、

(ア”)鯨は哺乳類だ。

のように言う。
鯨が哺乳類であるのは客観的事実ではないか、と思われるかもしれないが、「哺乳類であることが客観的事実であること」をあなた自身の判断として認めている、という意味で主観的な判断・断定なのである。
「鯨」を主題提示しているのは自らの意志である、という点に留意する。

(ア-1)この人は社長だ。
この【〇〇は△△】は措定文(判断文)と呼ばれる。(措定=ある事物の存在を肯定し、その内容を明白にして示すこと。ー明鏡国語辞典ー)
三上寛によれば【〇〇<△△】という包摂関係が成立している。
△△は叙述名詞句で基本的に属性概念。
「この人<社長」という関係性で社長は属性概念であり、「この人」という指示名詞句よりも広い範囲に適用される。
言い換えれば、「この人」は社長という属性概念に包括されており、

(アーa)この人は社長という属性概念に包摂されている存在だ。

という意味の文になる。
「は」の前後が包摂関係にある、こうしたシチュエーションの場合、

(アー2)社長がこの人だ。

のような指定文が作れないのは当然である。

2.(アー3)社長はこの人だ。
【〇〇は△△】を倒置指定文として表現する場合。
△△が指示名詞句であることが要点。指示名詞句=「世界のなかの対象(個体)ー西山」である。

(アー3a)社長という属性概念に該当する対象(個体)は誰かと言えば、それは「この人」だ。

という意味。
同じ「は」を使いますが、(ア-1)措定文との違いについて再確認してください。
倒置指定文に包摂判断は存在しない。
「社長=この人」である。
だからこそ、
(アー4)この人が社長だ。
という指定文も導かれ得る性質の文である。
(指定文・倒置指定文については後述)

3.
措定文【〇〇は△△】においては、〇〇=△△という同一判断も成立する。
これは指定文【〇〇が△△】の〇〇=△△とはまた趣を別にする。
あくまで結果的に〇〇=△△と措定される、ということ。
《包摂判断 A≦Bー三上寛》(〇〇≦△△)
という等式が成り立つ。

措定文に置いて「包摂される対象」は「は」を使って主題提示(措定)できる。
〇犬は動物だ。
〇シロナガス鯨は海で尤も大きい生物だ。(同一判断)
〇寿司はうまい。
〇寿司は大好物だ。(同一判断)

「包摂する主体」は「は」を使って主題提示(倒置指定)することができない。(同一判断の場合は例外)
×動物は犬だ。
〇海で尤も大きい生物はシロナガス鯨だ。(同一判断)
×うまいのは寿司だ。
〇大好物は寿司だ。(同一判断)

【 VOL.3ー「が」を使う 】
1.
目の前の人の属性を主観的な判断を加えずに(事実として)そのまま伝えたければ、

(アー4)この人が社長だ。

のように言う。
「この人」に関する主観的判断ではなく、「この人」が「社長だ」という属性の主格であることを(事実として)指定する。
あるいは、桜の現象を主観的な判断を加えずに(事実として)そのまま伝えたければ、

(イ)桜が咲いた。

のように言う。
「桜」に関する主観的判断ではなく、あくまで「咲いた」という現象の主格であることを(事実として)指定している。

(イー1)桜は咲いた。

のように言う場合は、桜にフォーカスして主観的な判断を述べていることになる。

2.
「が」を使う場合、次の2通りの意味を表現できる。

(アー4a)(初対面の相手に社長を紹介するとき)この人が社長だ。
●「△△の主格が〇〇であること」を軽く指定する中立叙述の「ガ」。

(アー4b)(部長を社長と間違えた相手に)この人が社長だ。
●「△△の主格は何かと言えば、それは〇〇だ」と強く特定する特記の「ガ」。

使い分けるためには、以上の、VOL.1 ~ VOL.3を理解しておけば十分である。
以降では、すでに表現済みの文を解釈する場合のために少し補足的に述べるが、使い分けの必須要件ではないのであくまで参考程度に。

【 VOL.4ー補足 】
措定文・指定文・倒置指定文の前項と後項の関係は以下のようになっている。(上林 洋二氏による解釈から編集)

a.紫式部は源氏物語の作者だ。ー措定文
ー紫式部(個体 / 指示名詞句)
ー源氏物語の作者(属性 / 叙述名詞句)

b.源氏物語の作者が紫式部だ。ー指定文
ー源氏物語の作者(個体 / 指示名詞句)
ー紫式部(個体 / 指示名詞句)※

c.源氏物語の作者は紫式部だ。ー倒置指定文
ー源氏物語の作者(属性 / 叙述名詞句)※
ー紫式部(個体 / 指示名詞句)

d.紫式部が源氏物語の作者だ。ー指定文
ー紫式部(個体 / 指示名詞句)
ー源氏物語の作者(属性 / 叙述名詞句)※

◎(個体 / 指示名詞句)⇔(属性 / 叙述名詞句)
のように対照しており、※の項目は、他の文例であればもう一方の要素が適用されることもある。
たとえば、
b".源氏物語の作者が美人だ。
という指定文における後項は、
ー美人(属性 / 叙述名詞句)
となる。
むしろ、※のついてないものは、それぞれの文における必須要件である点にご留意いただきたい。
b と d では、「 源氏物語の作者」の要素が異なる点にも留意すると、用語の意味がわかりやすくなるかもしれません。

【 VOL.5ー既説批判 】
1.
新情報(未知)か旧情報(既知)かによって使い分ける方法。
これは、以下の理由により誤りと思います。
「は」の意義は「主題提示」なので、「鈴木さんは校長です」の「鈴木さん」が既知であるのは当然です。
また、「(佐藤さんではなく)鈴木さんが校長です」という指定文の場合は、たしかに「鈴木さん」は新情報(未知)でしょう。これは《●「△△の主格は何かと言えば、それは〇〇だ」と強く特定する特記の「ガ」》です。
しかし、「あの赤いネクタイを締めている方、ご存知ですか?あの方が当校の校長です」のように、《「△△の主格が〇〇であること」を軽く指定する中立叙述の「ガ」》の場合は旧情報(既知)になる。

2.
主格がどこまで係る(=つながる)のか、文末まで係る(「は」)のか、節の中だけにしか係らない(「が」)のかによって使い分ける方法。
というものも目にしますが、これも誤り。
「お父さん、晩酌が楽しみだと、いつも言ってますよ」
「父が晩酌をすると、必ず酔っぱらうちゃうのよね。だから本当は、あまり飲んでほしくないのよ」
などと娘さんが愚痴るシチュエーションがある。

3.
対比の「は」・排他の「が」という分類も散見します。
しかし、対比の「は」は、複数の対象を(時には暗黙的に)主題提示することで結果的に可能になっているにすぎない。
排他の「が」については、
・犬は好きだ。(が)猫は嫌いだ。
という排他を意味することも多いわけですし、
・桜が咲いた。
のような排他以外の用法(中立叙述)もあるわけですから、「使い分けの分類」としては意味が無い。

質問者からの補足コメント

  • >☆ この《認識》には 何らかの主観的判断は ふくまれていない?
    のですか?

    判断しなくとも認識はできますよね。

    No.18の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/09/03 01:12
  • 紛れ防止のため一部修正します。

    ・桜が咲いた。

    が「が」によって主体的に指定(特定)された桜であり、

    ・桜は咲いた。

    は「は」によって客体的に(主題として)取り上げられた桜、

    であることの構図を示すことによって、ハガの差異に対する理解が深まるのではないか、という期待があるわけです。

    No.26の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/09/03 14:03

A 回答 (45件中31~40件)

ご説明をありがとうございます。



★ (№9お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
・・・
 〇 犬は動物だ。

のような完全措定文の場合、犬<動物 という包摂関係にあるのだから、

 × 動物は犬だ。

という倒置指定はできない。
仮にできるとするなら、「動物=動物という分類に限定して挙げる好き
なモノ」という意味の場合であるが、この場合は、「犬=動物という分
類に限定して挙げる好きなモノ」という同一判断であるからできる。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ たとえば 次の場合はどうですか?

〇 〔犬‐ハ そうだなぁ 犬と言えば わたしにはいろんなエピソード‐
ガ あるんだ。《犬》という一語だけで 話は尽きない。たとえば 犬は
動物であるという話題にしぼってみた場合〕
動物〔という話題にかんして〕‐ハ 〔わたしのいちばん好きな動物‐ハ〕 
犬〔‐ガ それ〕だ。

☆ つまり 《犬‐ガ》の主題たる《犬》のほうが ハ格のみちびく主題
たる《動物》よりも この場合には 範囲がひろいことになります。

 動物〔は 話題のひとつである〕 ≦ 犬〔の話題〕

☆ というふうに――なぜなら 生物の種の分類ではなく 話題性の問題
なので――なり得ますよね?
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

> 動物〔は 話題のひとつである〕 ≦ 犬〔の話題〕
☆ というふうに――なぜなら 生物の種の分類ではなく 話題性の問題
なので――なり得ますよね?

ここはおっしゃる意味がよくわかりません。
『動物〔は 話題のひとつである〕』ということであれば、猫の話題になったかもしれないし、鯨の話題になったかもしれないのではないかと。

お礼日時:2019/09/03 00:05

#10 について



>【として】の意味は、もう理解できましたか?

「鳶が鷹を生む」を誰が事実【として】理解してもらいたいのですか。

「吾輩は猫である」を誰が事実【として】理解してもらいたいのですか。

臍【が】茶を沸かします」。(●^o^●)
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>「鳶が鷹を生む」を誰が事実【として】理解してもらいたいのですか。

まったくわかってませんね。
話者が比喩(を形成する事実)として理解してもらいたいに決まってますがな。

もし、あなたが、「鷹を生む」という現象を、主観的な判断を加えずに(事実として)そのまま伝えたい場合、「鷹を生む」という現象の主格は、【〇〇が△△】のように、指定(または特定)の意義を持つ助詞【が】を用いて表わすと良い。

と申し上げている。
『(事実として)そのまま伝えたい』という願望さえあれば、嘘でも本当でも「鳶が鷹を生む」と表現すれば良いわけです。
「が」には、そういう意義がありますよ、ということです。

しょうもない突っ込みを入れてる暇があったら、本質を理解できるよう、質問文を熟読してください。

>「吾輩は猫である」を誰が事実【として】理解してもらいたいのですか。

これは【〇〇は△△】だから、《ある物事にフォーカスし主観的な判断や断定などを述べたい場合》

>臍【が】茶を沸かします」。(●^o^●)

リンダに臍の毛を抜かせます。

お礼日時:2019/09/02 23:50

No.11 の応答について



>当方の感覚だと、これが自然になる文脈は限られる気がします。

こうした発想が典型的な言語実体観によるものです

言語は話者の認識の表現であり、話者を離れて実体としての文、文脈がどこかに転がっている訳ではありません。

一つの文脈は、個別の話者の認識として存在するもので、多数転がっていて、限定されるというようなものではありません。

個別の話者の概念認識が、規範としての語の意義を媒介として表現されるものです。

こうした、言語実体観基づく誤った素人理解を議論しても始りません。■
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№1⇒№7です。



次の一点のみ 食い下がります。

★★ (趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
【 VOL.2ー「は」を使う 】
1.
・・・
(ア-1)この人は社長だ。
この【〇〇は△△】は措定文(判断文)と呼ばれる。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆☆(回答№1) なお 話し手の思想を表わす文は つねにすべて《判断
文》ですよ。



★ (№7お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

措定文ー三上
判断文ー野田

と(たぶん)命名者が異なるわけですが、「が」を使う指定文には判断する
という要素がないからです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ つまり このご発言は 次のご見解と矛盾をきたすのでは? と思うの
ですが。

★★ (№4 お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
『桜は咲いた。』自体がすでに《主観的判断》として成立しているわけです
から。

因みに桜が咲いたのは客観的事実ではないか、と思われる向きもあるかもし
れないが、「咲いたという客観的事実」をあなた自身の判断として認めてい
る、という意味で主観的な判断・断定なのである。

「桜」を主題提示しているのは自らの意志である、という点に留意する。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


☆ すなわち:

〇 桜‐ガ 咲いた。

☆ というような《ガ格による文――指定文でしょうか――》であっても:
★ 「咲いたという客観的事実」をあなた自身の判断として認めている、と
いう意味で主観的な判断・断定なのである。
☆ という結論にいたるのではないでしょうか?
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>〇 桜‐ガ 咲いた。

☆ というような《ガ格による文――指定文でしょうか――》であっても:
★ 「咲いたという客観的事実」をあなた自身の判断として認めている、と
いう意味で主観的な判断・断定なのである。
☆ という結論にいたるのではないでしょうか?

いえ、それはちがいます。
【〇〇が△△】という型の指定文は、《何らかの現象・属性などを主観的な判断を加えずに(事実として)そのまま伝えたい場合》の表現です。

(イ)桜が咲いた。

という指定文は、【〇〇は△△】という型の措定文のように、《ある物事にフォーカスし主観的な判断や断定などを述べたい》わけではない、という点が極めて重要です。
桜にフォーカスするような余裕を持ち合わせていない文、と言ってもよいでしょう。
フォーカスという意志行為を実行する前に、すでに「咲いた」という事実が現象として認識されているわけです。

道を歩いていて一万円が落ちていたとします。
「お金は落ちている」とは言わないでしょう。
「お金が落ちている」と言うはずです。
《お金にフォーカスし主観的な判断や断定などを述べたい》という意志はまったく働かないだろう、ということ。
《「落ちている」という現象を主観的な判断を加えずに(事実として)そのまま(たとえ自分自身に対してにせよ)伝えたい》という気持ちになるはずです。
これと同じです。

しかし、さすがに、もっとも鬼門と思われる箇所についてのご指摘でした。
ここを理解してもらえれば、非ネイティブの方々には飛び級で理解が進むように思っている次第です。
さらに検討を重ねてみたいと思います。

お礼日時:2019/09/02 23:39

最終コーナーを回ったかと思ったら、出発点に戻ってしまいましたかね。


 ヤレヤレ。
 参考になったポイントもいくつかあったようですから、それでヨシとするべきでしょうか。

【 VOL.5ー既説批判 】に関して。
1.新情報(未知)か旧情報(既知)かによって使い分ける方法。
 これはいくつかある説明の仕方のひとつで、場合によっては有効ということでよいのでは。
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-592.h …
===========引用開始
 余計なことかもしれないが、〈初出の「が」、既出の「は」 〉について補足しておく。
 mixiのトピに書いたら、〈日本語ってそういうもの〉ではない、と反論されてビックリしたことがある。あんまり古いことなんで、どこに書いたのか忘れてしまったorz。
 そんなのは当たり前で、もしこれが絶対的なルールなら、長編小説の冒頭で「ガ」を使ったあとは「ハ」は使えなくなる。それは困るだろう(笑)。
 そもそも、〈ある日、おじいさんハは山へ柴刈りに、おばあさんハ川へ洗濯に……。 〉だって「対比?」の「ハ」じゃないかって気がする。
 これが〈ある日、おばあさんガ川へ洗濯に行ったときのことです。 〉なら「ガ」のほうが自然だろう。
 ただね。
 入門者に、「ハ」と「ガ」の違いに興味をもってもらうには好例だと思っている。
 いきなり「主題」だ「主語」だと始めるより、ずっとマシじゃないだろうか。 
===========引用終了

2.主格がどこまで係る(=つながる)のか、文末まで係る(「は」)のか、節の中だけにしか係らない(「が」)のかによって使い分ける方法。
 これに関しては、この方法が何を言いたいのか当方には不明です。野田さんの本に出てましたっけ。

3.対比の「は」・排他の「が」という分類も散見します。
 当方も〈排他の「が」〉に関しては疑問です。
〈対比の「は」〉に関しては、典型的な例を少し考えたいと思います。
 たとえば下記のような場合はどうでしょうかね。

犬は好きだが猫は嫌いだ。
犬が好きだが猫は嫌いだ。
犬が好きだし、猫が好きだ。
犬は好きだが、猫が嫌いだ。


 別々のテーマなのに同じようなやり取りが続いてどこのことだか忘れましたが……。
「料理はフリアおばさんが抜群にうまい」は自然な文、という書評?に賛成していたような記憶があります。
 自然ですかね。
 当方の感覚だと、これが自然になる文脈は限られる気がします。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

1.新情報(未知)か旧情報(既知)かによって使い分ける方法。
> これはいくつかある説明の仕方のひとつで、場合によっては有効ということでよいのでは。

いやいやトビさん、『場合によっては有効』ほどタチの悪いものはありませんて。

>もしこれが絶対的なルールなら、長編小説の冒頭で「ガ」を使ったあとは「ハ」は使えなくなる。

お~、これは鋭いご指摘でご尤も。
ただ、おそらくですが、従属節は除く、といったことを言ってた人がいたような気もします。

> 入門者に、「ハ」と「ガ」の違いに興味をもってもらうには好例だと思っている。

個人的には、すぐにそうじゃないことがバレてしまうので逆効果と今は思っています。

2.主格がどこまで係る(=つながる)のか、
下記サイトの(3)項目に載っています、
野田氏なのかアルクなのかは不明ですが、下記のような例文が紹介されている。
 ・父が晩酌をするとき、つきあう。
 ・父は晩酌をするとき、冷や奴を食べる。
前者は節の中だけにしか係らないから「が」を使う、ということなのだと思います。
https://yousei.arc-academy.net/manbow/index.php/ …

3.対比の「は」・排他の「が」
a.犬は好きだが猫は嫌いだ。⇒犬猫それぞれを主題提示することで(それぞれについて述べるわけだから)結果的に対比になっている。対比の典型。
b.犬が好きだが猫は嫌いだ。⇒好きなのは犬だと特定(特記)した上で猫について主題提示している。
c.犬が好きだし、猫が好きだ。⇒これは対比というより並列でしょうか。どちらも特定(特記)でしょう。
d.犬は好きだが、猫が嫌いだ。⇒犬を主題提示して述べたあと、猫が嫌いだと特定(特記)

好悪の判断は、「は」「が」に拘わらず対比の要素になりやすいのかもしれませんね。

4.
>「料理はフリアおばさんが抜群にうまい」は自然な文、
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R7L …
他の点ではみんなに劣るけど・・・といった文脈などが想定されそうです。

お礼日時:2019/09/02 23:11

>《事実【として】そのまま伝えたい》という意図がある場合に、格助詞「が」を使う、ということ。



こういう記述をみると、「臍【が】茶を沸かします」。(●^o^●)
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

リンダに臍の胡麻をとってもらいます。
【として】の意味は、もう理解できましたか?

お礼日時:2019/09/02 22:25

№3です。

コメントをありがとうございます。

★ (№3お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~

>☆ 次のような用例は ハ格の別種の用法になるのですか?
〇 動物‐ハ〔と言えば 中でわたしの好きなの‐ハ〕 犬〔‐ガ それ〕だ。
〇 うまいの‐ハ〔と言えば わたしの感覚では日本人なら〕 寿司〔‐ガ
それ〕だ。

ウナギ文、または端折り文ですかね。
ややこしくなるので敢えて取り上げませんでしたが、補足としてでも明記
しておいたほうが良いのかもしれません。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ あぁ 投稿した甲斐がありました。

★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
いずれにせよ、

「包摂する主体」は「は」を使って主題提示(倒置指定)することができ
ない。(同一判断の場合は例外)

という基準から外れることはないかと。

〇動物は犬だ。
動物‐ハ〔と言えば 中でわたしの好きなの‐ハ〕
といったシチュエーションにおいては、「動物=動物という分類に限定して挙げる好きなモノ」という意図が存在しているでしょう。

・それに関して言うなら、それは犬だ。

という構図。
つまり、(包摂関係ではなく)同一判断と考えて良いかと思います。

〇うまいのは寿司だ。
うまいの=「うまいの」に分類されるもの。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 要するに このふたつの用例は 《措定文の倒置形》ではない。
それゆえ 別種のハ格の用法になる。

――という理解になりますか?

《例外》と見なすのも しっくりこないようにも思いますが。・・・
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

a.紫式部は源氏物語の作者だ。ー措定文
ー紫式部(個体 / 指示名詞句)
ー源氏物語の作者(属性 / 叙述名詞句)

これは措定文なのですが、(同一判断)の文でもあります。
「が」と「は」の違いについてーその6 野田尚史⑤
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11265606.html
の BA 氏に、
【これは解説に使った名詞がたまたま唯一物であるためにそういう結果になるので、性質上解説であり包摂判断であることには変りがあるまい。】
という三上の解説を紹介していただいています。
で、こうした措定文でありながら同一判断という文の場合、

c.源氏物語の作者は紫式部だ。ー倒置指定文
ー源氏物語の作者(属性 / 叙述名詞句)※
ー紫式部(個体 / 指示名詞句)

のように倒置指定文が成立します。
しかし、

〇犬は動物だ。

のような完全措定文の場合、犬<動物 という包摂関係にあるのだから、

×動物は犬だ。

という倒置指定はできない。
仮にできるとするなら、「動物=動物という分類に限定して挙げる好きなモノ」という意味の場合であるが、この場合は、「犬=動物という分類に限定して挙げる好きなモノ」という同一判断であるからできる。
なので、

「包摂する主体」は「は」を使って主題提示(倒置指定)することができ
ない。(同一判断の場合は例外)

という言説を覆す必要性は特になく、当然、(私の中では)例外というわけでもありません。
まあ、しかし、ご指摘のようにややこしいには違いないかという印象はあります。

お礼日時:2019/09/02 22:23

№2です。



☆☆(回答№2) ~~~~~~~~~~~~~~
★ 【 VOL.2ー「は」を使う 】

▲ 指示名詞句=「世界のなかの対象(個体)ー西山」である。

☆ 《「世界のなかの対象(個体)」》と表現すれば すべてがそれに
当てはまることになります。定義として 要を得ません。
~~~~~~~~~~~

☆ この批判点も №1での《措定文(判断文)》というときの疑問に
同じです。

単純に なぜ言い換えが 一般的な用語になっているのか? です。

指示名詞句ではなく 叙述名詞句に対しても 
▲ ・・・=「世界のなかの対象(個体)》
☆ という説明としての言い換えになる――のではないですか?
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>指示名詞句ではなく 叙述名詞句に対しても 
▲ ・・・=「世界のなかの対象(個体)》
☆ という説明としての言い換えになる――のではないですか?

おっしゃるとおりで、構文次第です。
質問文の下記2つを参照してみてください。
b.源氏物語の作者が紫式部だ。ー指定文
ー源氏物語の作者(個体 / 指示名詞句)
ー紫式部(個体 / 指示名詞句)※

d.紫式部が源氏物語の作者だ。ー指定文
ー紫式部(個体 / 指示名詞句)
ー源氏物語の作者(属性 / 叙述名詞句)※

お礼日時:2019/09/02 21:59

★ (№1お礼欄) ~~~~~~~


・・・

 ・〔あぁ この会社の役員の組織ですか? それ‐ハ〕「会社の役職としての社
 長」がこの人だ。

という不合理な意味になってしまう
~~~~~~~~~~~~~~

☆ 次のように解釈できるシチュエーションは どうでしょう?

 〇 〔あぁ この会社の役員の組織ですか? それ‐ハ 誰‐ガ 担当している
かという場合には まづ〕 社長‐ガ――または 「会社の役職としての社長」‐ガ
――この人だ。

☆ この場合 次のような《包摂関係》も成り立つはずですよ。
★★ (趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「この人」は社長という属性概念に包括されており、

 (アーa)この人は社長という属性概念に包摂されている存在だ。

という意味の文になる。
「は」の前後が包摂関係にある、こうしたシチュエーションの場合
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~







☆☆ >なお 話し手の思想を表わす文は つねにすべて《判断文》ですよ。
・・・
★ :
『ある物事にフォーカスし主観的な判断や断定などを述べたい場合』と記しています。
「ある物事」を明示しないなら「は」を使う必要がないのは当然でしょう。


☆ わたしの説明不足だったかも知れないのですが この場合の批判点は

★★ 【 VOL.2ー「は」を使う 】 ~~~~~~~~~~~~~~~
1.
・・
(ア-1)この人は社長だ。
この【〇〇は△△】は措定文(判断文)と呼ばれる。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ というくだりの:
★★ 措定文(判断文)
☆ という括弧書きだけについてのものです。

なぜ言い換えを示すものと思われるところに きわめて一般的な意味の用語
が使われているのか?

単純なことの引っ掛かりでした。
なぜなら 《文は つねにすべて〈判断文〉》なんですから。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

> 〇 〔あぁ この会社の役員の組織ですか? それ‐ハ 誰‐ガ 担当している
かという場合には まづ〕 社長‐ガ――または 「会社の役職としての社長」‐ガ
――この人だ。
☆ この場合 次のような《包摂関係》も成り立つはずですよ。

なるほど、おっしゃりたいことがわかりました。
ただ、
(アー2)社長がこの人だ。
が成り立つ場合は、
(アーa)この人は社長という属性概念に包摂されている存在だ。
という措定文解釈によるところの、「この人≦社長」という包摂関係はありません。
この場合、2とおりの解釈が可能になりそうです。
a.少し表現を変えますが、「いわゆる社長という立場の人」ではなく、「当社の社長=世界のなかの対象(個体)」を指す場合。
b.もうひとつは、「いわゆる社長という立場の人」ではなく、今回言われて初めて気づいたのですが「いわゆる社長という役職の分類そのもの」を指す場合。
・社長という役職の分類そのものに該当するのがこの人だ。
といったニュアンスでしょうか。
前者は属性概念ですが、後者はどちらも「同定する意図」があり、(属性ではなく)「世界のなかの対象(個体)」を表わす点にご留意を。

>★★ 措定文(判断文)
☆ という括弧書きだけについてのものです。
なぜ言い換えを示すものと思われるところに きわめて一般的な意味の用語
が使われているのか?

措定文ー三上
判断文ー野田
と(たぶん)命名者が異なるわけですが、「が」を使う指定文には判断するという要素がないからです。

お礼日時:2019/09/02 21:56

#5 の応答について



早速の応答をありがとうございます。

>主観的な判断や断定などを述べているわけでないことを、理解なさってください。

とてもだれも理解できません。

>『雨』に(意図的に)フォーカスしたわけではありません。
つまり、雨について主観的な判断をしているわけではない。

意図的であろうとなかろうと、主観的な判断や断定なしに「雨」と言える訳がありません。主観的な判断や断定なしに「雨」と音を出すのは精々、テープレコーダーか発声機械で、それは言語ではなく単なる音です。

主観的な判断や断定なしに「雨」と書く人は、精神本逸の精神病者です。

>鳶の「鷹を生む」という《属性(動作)を主観的な判断を加えずに(事実として)そのまま伝えたい》という意図の文です。

「鳶が鷹を生む」訳がないでしょう。そんな事実があったら天地がひっくり返ります。(笑)

>《事実【として】そのまま伝えたい》という意図がある場合に、格助詞「が」を使う、ということ。

ナンセンスです。
犯人でない人を指して「彼が犯人だ。」という嘘を云うのは、サスペンスドラマではありふれたセリフです。■
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>とてもだれも理解できません。

鳶が鷹を生む

鳶は鷹を生む
の違いがわからないとは、情けないですな。

>意図的であろうとなかろうと、主観的な判断や断定なしに「雨」と言える訳がありません。

それは明らかな認識不足ですね。
「判断や断定」がなくとも、水が天から降ってきたら雨だという認識はできるでしょ?

>主観的な判断や断定なしに「雨」と音を出すのは精々、テープレコーダーか発声機械で、それは言語ではなく単なる音です。
>主観的な判断や断定なしに「雨」と書く人は、精神本逸の精神病者です。

それは、はじめて雨という語を覚えたばかりの人に対して適用できる主観でしょう。
面白そうな視点ではありますが、「は」の意義とは関係ない。

>「鳶が鷹を生む」訳がないでしょう。そんな事実があったら天地がひっくり返ります。(笑)
>ナンセンスです。
犯人でない人を指して「彼が犯人だ。」という嘘を云うのは、サスペンスドラマではありふれたセリフです。

事実【として】
と、わざわざ【】までつけてやったのに、「として」の意味ががわからんのかな?
わからないときは辞書を引くこと。

お礼日時:2019/09/02 21:18

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