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一連の質問で教えていただいたことや、提示していただいた資料を基に、私なりにまとめてみました。
良いと思えたことの寄せ集めみたいなものです。
新しい視点はさほど含まれていまませんが、表現の仕方に特に工夫をこらしたしたつもりです。
しかし、それが逆に仇になっている可能性もあるかもしれない。
ご意見・ご批判よろしくお願いします。
あくまで叩き台としてお示しするものですので、改善を前提にしての質問です。
遠慮なく、しかしお手柔らかに、また、有意義な改善点をお示しいただければ幸いです。
若干長めである点、お詫びいたしておきます。
部分的でも構いませんので、どんどんご指摘ください。
日本語学習者の方からの率直なご感想なども大歓迎いたします。

【 VOL.1ー使い分けの要点 】
(A)人間というものは、ある物事にフォーカスし主観的な判断や断定などを述べたい生き物である。
もし、あなたが、ある物事にフォーカスし主観的な判断や断定などを述べたい場合、その物事は【〇〇は△△】のように主題提示の意義を持つ助詞【は】を用いて表わすと良い。
「〇〇について言ってみれば△△」という意味を表わすことができる。

(B)人間というものは、また、何らかの現象・属性などを主観的な判断を加えずに(事実として)そのまま伝えたい生き物である。
もし、あなたが、何らかの現象・属性などを主観的な判断を加えずに(事実として)そのまま伝えたい場合、「何らかの現象・属性などの主格、または可能・希望・好悪・巧拙などの対象」は、【〇〇が△△】のように、指定(または特定)の意義を持つ助詞【が】を用いて表わすと良い。
以降で若干の解説を加える。

【 VOL.2ー「は」を使う 】
1.
目の前の人にフォーカスし主観的な判断や断定などを述べたければ、【〇〇は△△】という構文を使い〇〇を主題提示します。

(ア)この人は社長だ。

のように言う。
「この人について言ってみれば(彼は)社長だ」という意味。
また、鯨にフォーカスし主観的な判断や断定などを述べたければ、

(ア”)鯨は哺乳類だ。

のように言う。
鯨が哺乳類であるのは客観的事実ではないか、と思われるかもしれないが、「哺乳類であることが客観的事実であること」をあなた自身の判断として認めている、という意味で主観的な判断・断定なのである。
「鯨」を主題提示しているのは自らの意志である、という点に留意する。

(ア-1)この人は社長だ。
この【〇〇は△△】は措定文(判断文)と呼ばれる。(措定=ある事物の存在を肯定し、その内容を明白にして示すこと。ー明鏡国語辞典ー)
三上寛によれば【〇〇<△△】という包摂関係が成立している。
△△は叙述名詞句で基本的に属性概念。
「この人<社長」という関係性で社長は属性概念であり、「この人」という指示名詞句よりも広い範囲に適用される。
言い換えれば、「この人」は社長という属性概念に包括されており、

(アーa)この人は社長という属性概念に包摂されている存在だ。

という意味の文になる。
「は」の前後が包摂関係にある、こうしたシチュエーションの場合、

(アー2)社長がこの人だ。

のような指定文が作れないのは当然である。

2.(アー3)社長はこの人だ。
【〇〇は△△】を倒置指定文として表現する場合。
△△が指示名詞句であることが要点。指示名詞句=「世界のなかの対象(個体)ー西山」である。

(アー3a)社長という属性概念に該当する対象(個体)は誰かと言えば、それは「この人」だ。

という意味。
同じ「は」を使いますが、(ア-1)措定文との違いについて再確認してください。
倒置指定文に包摂判断は存在しない。
「社長=この人」である。
だからこそ、
(アー4)この人が社長だ。
という指定文も導かれ得る性質の文である。
(指定文・倒置指定文については後述)

3.
措定文【〇〇は△△】においては、〇〇=△△という同一判断も成立する。
これは指定文【〇〇が△△】の〇〇=△△とはまた趣を別にする。
あくまで結果的に〇〇=△△と措定される、ということ。
《包摂判断 A≦Bー三上寛》(〇〇≦△△)
という等式が成り立つ。

措定文に置いて「包摂される対象」は「は」を使って主題提示(措定)できる。
〇犬は動物だ。
〇シロナガス鯨は海で尤も大きい生物だ。(同一判断)
〇寿司はうまい。
〇寿司は大好物だ。(同一判断)

「包摂する主体」は「は」を使って主題提示(倒置指定)することができない。(同一判断の場合は例外)
×動物は犬だ。
〇海で尤も大きい生物はシロナガス鯨だ。(同一判断)
×うまいのは寿司だ。
〇大好物は寿司だ。(同一判断)

【 VOL.3ー「が」を使う 】
1.
目の前の人の属性を主観的な判断を加えずに(事実として)そのまま伝えたければ、

(アー4)この人が社長だ。

のように言う。
「この人」に関する主観的判断ではなく、「この人」が「社長だ」という属性の主格であることを(事実として)指定する。
あるいは、桜の現象を主観的な判断を加えずに(事実として)そのまま伝えたければ、

(イ)桜が咲いた。

のように言う。
「桜」に関する主観的判断ではなく、あくまで「咲いた」という現象の主格であることを(事実として)指定している。

(イー1)桜は咲いた。

のように言う場合は、桜にフォーカスして主観的な判断を述べていることになる。

2.
「が」を使う場合、次の2通りの意味を表現できる。

(アー4a)(初対面の相手に社長を紹介するとき)この人が社長だ。
●「△△の主格が〇〇であること」を軽く指定する中立叙述の「ガ」。

(アー4b)(部長を社長と間違えた相手に)この人が社長だ。
●「△△の主格は何かと言えば、それは〇〇だ」と強く特定する特記の「ガ」。

使い分けるためには、以上の、VOL.1 ~ VOL.3を理解しておけば十分である。
以降では、すでに表現済みの文を解釈する場合のために少し補足的に述べるが、使い分けの必須要件ではないのであくまで参考程度に。

【 VOL.4ー補足 】
措定文・指定文・倒置指定文の前項と後項の関係は以下のようになっている。(上林 洋二氏による解釈から編集)

a.紫式部は源氏物語の作者だ。ー措定文
ー紫式部(個体 / 指示名詞句)
ー源氏物語の作者(属性 / 叙述名詞句)

b.源氏物語の作者が紫式部だ。ー指定文
ー源氏物語の作者(個体 / 指示名詞句)
ー紫式部(個体 / 指示名詞句)※

c.源氏物語の作者は紫式部だ。ー倒置指定文
ー源氏物語の作者(属性 / 叙述名詞句)※
ー紫式部(個体 / 指示名詞句)

d.紫式部が源氏物語の作者だ。ー指定文
ー紫式部(個体 / 指示名詞句)
ー源氏物語の作者(属性 / 叙述名詞句)※

◎(個体 / 指示名詞句)⇔(属性 / 叙述名詞句)
のように対照しており、※の項目は、他の文例であればもう一方の要素が適用されることもある。
たとえば、
b".源氏物語の作者が美人だ。
という指定文における後項は、
ー美人(属性 / 叙述名詞句)
となる。
むしろ、※のついてないものは、それぞれの文における必須要件である点にご留意いただきたい。
b と d では、「 源氏物語の作者」の要素が異なる点にも留意すると、用語の意味がわかりやすくなるかもしれません。

【 VOL.5ー既説批判 】
1.
新情報(未知)か旧情報(既知)かによって使い分ける方法。
これは、以下の理由により誤りと思います。
「は」の意義は「主題提示」なので、「鈴木さんは校長です」の「鈴木さん」が既知であるのは当然です。
また、「(佐藤さんではなく)鈴木さんが校長です」という指定文の場合は、たしかに「鈴木さん」は新情報(未知)でしょう。これは《●「△△の主格は何かと言えば、それは〇〇だ」と強く特定する特記の「ガ」》です。
しかし、「あの赤いネクタイを締めている方、ご存知ですか?あの方が当校の校長です」のように、《「△△の主格が〇〇であること」を軽く指定する中立叙述の「ガ」》の場合は旧情報(既知)になる。

2.
主格がどこまで係る(=つながる)のか、文末まで係る(「は」)のか、節の中だけにしか係らない(「が」)のかによって使い分ける方法。
というものも目にしますが、これも誤り。
「お父さん、晩酌が楽しみだと、いつも言ってますよ」
「父が晩酌をすると、必ず酔っぱらうちゃうのよね。だから本当は、あまり飲んでほしくないのよ」
などと娘さんが愚痴るシチュエーションがある。

3.
対比の「は」・排他の「が」という分類も散見します。
しかし、対比の「は」は、複数の対象を(時には暗黙的に)主題提示することで結果的に可能になっているにすぎない。
排他の「が」については、
・犬は好きだ。(が)猫は嫌いだ。
という排他を意味することも多いわけですし、
・桜が咲いた。
のような排他以外の用法(中立叙述)もあるわけですから、「使い分けの分類」としては意味が無い。

質問者からの補足コメント

  • >☆ この《認識》には 何らかの主観的判断は ふくまれていない?
    のですか?

    判断しなくとも認識はできますよね。

    No.18の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/09/03 01:12
  • 紛れ防止のため一部修正します。

    ・桜が咲いた。

    が「が」によって主体的に指定(特定)された桜であり、

    ・桜は咲いた。

    は「は」によって客体的に(主題として)取り上げられた桜、

    であることの構図を示すことによって、ハガの差異に対する理解が深まるのではないか、という期待があるわけです。

    No.26の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/09/03 14:03

A 回答 (45件中11~20件)

★★ (趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


【 VOL.5ー既説批判 】
1.
新情報(未知)か旧情報(既知)かによって使い分ける方法。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ について 私見を述べます。



1. 主題を提示する活用格は 話し手の主観から 中立である。その人の気
持ちにも思想にも 染まりません。


2. ガ格が新情報(未知)としての主題を提示し ハ格は 旧情報(既知)と
しての主題を示すという一定の事実の指摘にかんしては 次のように捉えます。


3. まづ この既知か未知かを区分するという説は 誤解があってはなりませ
ん。ハ格が承ける主題は たとえ未知であってもそれを既知として――話し手が
自分の扱い方において――扱って示すというものです。

4. ガ格にしても これは 一般にハ格主題のあとにつづくものですから ハ
格の主題が既知扱いなら それに関係する主題も 既知扱いとなるのが ふつう
ではないか? ――いいえ。微妙に違って来ます。


5. 話し手は とにかく既知扱いのハ格主題を提示したあと この中心主題に
かかわる主題を――ふつうは ひとつ――取り出して来て ガ格主題とするわけ
です。

6. これが 文にとっての第二主題であり 関係主題とよぶものですが この
とき ハ格の提示した中心主題にかかわる関係主題として 何を取り出してくる
かは 聞き手にとって・そしておそらく話し手にとっても 未知数です。

7. とんでもない関係主題を引っ張り出してくることもあります。

8. つまり 関係主題に何を持ってくるかは いろんな可能性があります。そ
の中からひとつをえらんで提示するわけですから このガ格主題は ハ格主題の
既知扱いと対照させるなら 内容が未知のものであるという印象をあたえること
になります。

9. ここから 《既知と未知の区別》説が出て来たものと考えられます。

10. 活用格には 罪はありません。功績もほとんどありません。多少の影響
を――影や響きを――あたえたという程度なのだと思われます。



11. この事例と同じように ハ格やガ格には 《主観性の有無いかんや 個
別・特殊・普遍の使い分けや その他の内容を示すような語法》は ありません。
主題を提示するのみです。

12. そのような語法や用法は 文脈の所為です。そして文法の問題であるよ
りは いわゆる社会言語学の専門に扱う分野である と考えます。



        *


《Aハ Bガ C》構文の文例を拾い出しました。


☆☆ 8. 関係主題に何を持ってくるかハ いろんな可能性ガ あります。

★★ 新しい視点ハ さほど含まれていませんガ、表現の仕方に特に工夫をこら
したしたつもりです。
・・・

☆ かたちをそのまま表わした事例ハ すくなかったのですガ A・B・Cの形に
なっていない場合もそれは 省略されていると捉えるわけです。

文法の基礎としては この構文であり 言語学の応用部門としていまの研究課題
があると見ます。つまり 文の主観性やその判断がどのように成分としての語句
と関係して来ているかなどなどの研究課題です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>3. まづ この既知か未知かを区分するという説は 誤解があってはなりませ
ん。ハ格が承ける主題は たとえ未知であってもそれを既知として――話し手が
自分の扱い方において――扱って示すというものです。

そのとおりでしょうね。
話者と聞き手双方ともに既知でなければ、それを主題とすることはできませんから。
ただし、実際に既知である必要はなく、話者が、そうだと認識すれば良いわけです。
なぜなら、主題とするという行為自体、あくまで話者個人の所有だからです。

>5. 話し手は とにかく既知扱いのハ格主題を提示したあと この中心主題に
かかわる主題を――ふつうは ひとつ――取り出して来て ガ格主題とするわけ
です。
>9. ここから 《既知と未知の区別》説が出て来たものと考えられます。

チェイフや大野晋などもこの説を唱えていたようですが、個人的にはまったく肯う能わざる解釈です。
くどくなるので根拠は繰り返しませんが。

>12. そのような語法や用法は 文脈の所為です。そして文法の問題であるよ
りは いわゆる社会言語学の専門に扱う分野である と考えます。

というか、文脈に合わせてハ・ガを使い分けているのでは?

>文法の基礎としては この構文であり

ちょっと意味がとれませんでした。

お礼日時:2019/09/05 22:53

No.32 に答えて



>個々の語には――その一つひとつを取り出して見たかたちでは―― 意味は無いんだと。この語と別の語との差異の関係が 意味を醸し出しているのだと。

いいえ。
言語的な実体は、シニィフィエとシィニフィアンの連合としてのみ存在する。

と言っています。

「この語と別の語との差異の関係が 意味を醸し出しているのだと。」というのは、確かに意味を取り上げていますがこれはナンセンスでしかないのは理解できますよね。
媒介の論理が欠落しています。

>☆ ラングは 口語たるパロルをいっしょにふくめて ふつうに《言語 あるいは 言葉》のことだと言えばよい。

いいえ。
ラングは規範で、パロールが言語というのが正しい科学的な理解です。
「口語たるパロル」というのは音声第一主義の誤りです。それでは、文書は無視されます。

>人びと共通の内容だとみとめたなら それが文法として共有されてゆく。

文法と云う以前に規範なしには言語表現はありえません。それは、直接感性的な絵や音楽の表現です。
概念ということが全く理解できていませんね。先にヘーゲルの論理と唯物弁証法による理解を提示しておきましたが、猫に小判ですね。

>ランガージュである。ラングを形成する潜在的なチカラとして特出される場合がある。

ランガージュは言語活動と訳されますが、言語の本質が表現であることが理解できない誤りです。

>その助詞や助動詞は けっきょく形式なんです。

絵ということですか。内容のない形式は語ではありません。先に、語とは何かを定義しておきましたが猫に小判ですね。

>ハ格やガ格は 言わば語そのものに色がついているって言うんでしょ? 

「ハ格やガ格」という機能主義的な発想の誤りです。語は概念を表わします。
語の意義と意味の関係と相違が理解できていません。

意味とは何かは、下記を参照下さい。
「三浦の関係意味論」
http://www.languetech.co.jp/e_1_4_3.html

>主題を提示するという

何度云っても判らん人ですね~。
語は意義を表わすもので、主題を提示などしません。
ここが、根本的な誤りです。

>その文例での《花》が 個別に取り上げられているなら

格助詞「が」が個別の対象であることを表わしています。

語とは何か、文とは何か、概念、規範という基本をまず理解しましょう。■
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この回答へのお礼

横からですが、ひとつだけ。

>語は意義を表わすもので、主題を提示などしません。
ここが、根本的な誤りです。

主題を提示するという意義を表わすもの。

と考えると間違いなんですかね。

お礼日時:2019/09/05 20:14

>相手の理解を得るためには、相手の疑問に対して『論理的に』解説を加えることが必須です。


それをせずに紋切り型の表層的雑言しか口にできなくなった側の負けだ、ということだけは肝に銘じておいていただきたい、とリンダが言っておりました。

弁証法の論理を理解できない人に説明は無理筋です。

しかし、事実は頑固です。

事実との照応できずにガタガタ云う思い上がりの呆け茄子には手を焼きます。

リンダ、もう知らない!
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>しかし、事実は頑固です。

頑迷じゃないだけマシかもね、とリンダが申しております。

>事実との照応できずにガタガタ云う思い上がりの呆け茄子には手を焼きます。

焼くのは手じゃなく茄子にしとくとよろしい。
焼き茄子、うまいよ?

お礼日時:2019/09/04 23:51

№30の所説について批評します。




◆ 「は」「が」論の前提 : 何が欠けているのか。

☆ 全体の印象は 学問として――ともかく学術論文として――発表された
文章の語彙そのものに 振り回されている。です。

印象ですので 率直に申し述べました。



◆ ソシュールパラダイム下の言語実体観
☆ めちゃくちゃです。ソシュールは 真逆の仮説を書いたのです。(自分
では 発表しなかった)。

構造主義を起こさせたとも言われるように 《言語ないし語に 実体はない。
あるのは 語どうしの関係のみだ》と言っているのです。言ってみれば 言
語という現象が 学問の対象と成り得る・そう言ってよければ実体であると。

個々の語には――その一つひとつを取り出して見たかたちでは―― 意味は
無いんだと。この語と別の語との差異の関係が 意味を醸し出しているのだ
と。




◆ 規範であるラングを言語本質とする〔ソシュールパラダイム下の言語実
体観〕
☆ ラングは 口語たるパロルをいっしょにふくめて ふつうに《言語 あ
るいは 言葉》のことだと言えばよい。

言語たるラングには:
① 実質的な中身として 人びとの言語生活があり

② そのナラハシの中に語法などをめぐる共通の要素を捉え それを整理し
て一般性のあるものとして 人びと共通の内容だとみとめたなら それが文
法として共有されてゆく。その文法という規則をもふくむ。

③ ヒトの言語能力という視点ないし概念をあたかも別個に取り上げるとす
れば それは ランガージュである。ラングを形成する潜在的なチカラとし
て特出される場合がある。




◆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
客体的表現の語を詞とし、主体的表現の語を辞とした。

助詞、助動詞は主体的表現の語であり辞に区分される。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

◆◆ (【Q:「が」と「は」の違いについてーその8 番外編】 回答№20)

 ☆☆ いかに主体的表現を表わすためのものだと言っても その助詞や助
   動詞は けっきょく形式なんです。

分からん人ですな~。
誰が、「主体的表現を表わすためのものだ」などと言っていますか。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ つまり 矛盾していなければよいのですが。

 ◆ 助詞、助動詞は主体的表現の語であり辞に区分される。
 ◆◆ 〔助詞・助動詞について〕誰が、「主体的表現を表わすためのもの
   だ」などと言っていますか。





◆ 助詞である「は」「が」は、話し手の持っている主観的な感情や意志そ
のものを、客体として扱うことなく直接に表現した辞である。
☆ そんなばかな。ハ格やガ格は 言わば語そのものに色がついているって
言うんでしょ? 

あ り 得 ま せ ん。

言ってみれば 包丁は使うひとの感情や思いや考えによって《表現されるこ
とがある》。時にはよからぬ思想の人が持っていると 人殺しの色がにじみ
出して来るんだってんでしょ?




◆ 「が」は、対象の個別性の側面を捉え、「は」は対象の普遍性、特殊性
の認識を表わす。
☆ この命題については はこぶる氏もまじえた議論の余地があるようです
が 私見を明らかにしておきます。

どちらも 主題を提示するという――一般的で言わば中立的な――ハタラキ
を成すものです。中心となる主題をハ格が担当し その中心主題にかかわる
関係主題を ガ格が受け持つ。

これが 基礎としての主題格のあり方です。
個別性や特殊性といった意味合いを もし帯びるとしたとしても それは
文の意味や文の置かれた情況からの意味関係から来るものだと見ます。

ハ格やガ格には そういった機能は ないと見ます。


◆ 「が」では「花が咲いた。」のように個別の花とその対象である実体が
持つ属性である「咲く」を緊密に結び付けることになる。
☆ その文例での《花》が 個別に取り上げられているなら そのように捉
えられましょうし 提示された主題について 論述する《咲いた》と ガ格
とが 《緊密にむすびついている》かどうかは 単なる文の意味上のしわざ
から来る。はずです。

主題格の語じたいには 罪も功績もありません。
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No.30 に提示した前提を理解することなしに、其の日暮らしの思い付きを並べるのは、個人的には、すぐにそうじゃないことがバレてしまうので逆効果と今は思っています。



きちんとした、科学的な論理に基づき適切な「導入」を図ることが必須と今は思っています。

事実は頑固で、無智が栄えたためしはありません。■
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>きちんとした、科学的な論理に基づき適切な「導入」を図ることが必須と今は思っています。

同感です。
あとは、(揶揄ではなく自戒を込めて申し上げるわけですが)『科学的な論理』であることを論理的に表明できる表現力の問題でしょうね。
相手の理解を得るためには、相手の疑問に対して『論理的に』解説を加えることが必須です。
それをせずに紋切り型の表層的雑言しか口にできなくなった側の負けだ、ということだけは肝に銘じておいていただきたい、とリンダが言っておりました。

お礼日時:2019/09/04 17:16

種々、同類のコメントが寄せられていますが、前提となる認識がお粗末で、論理が混迷しています。



何が前提とならなければならないかについて、下記に示しましたので拳拳服膺して下さい。

<「は」「が」論の前提 : 何が欠けているのか。>
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2748&id=9085 …

<「は」「が」論の前提 : 何が欠けているのか。(Ⅱ)>
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2748&id=9090 …

これらの前提を理解することなく、「は」「が」を論じても混迷する他ありません。■
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コメント数ばかりが増えて、話がまったく進んでいない気がするのは、どなたに問題があるんでしょうね。

とても読む気になれないやり取りになってませんか。

>個人的には、すぐにそうじゃないことがバレてしまうので逆効果と今は思っています。
 そうですか。当方は違いを説明する「導入」としては好例だと思います。
 少なくとも、「特殊性の認識」よりははるかにマシです。

>好悪の判断は、「は」「が」に拘わらず対比の要素になりやすいのかもしれませんね。
 だと思います。「犬は好きだ」というだけで、対比のイメージが湧きますから。
 こういう「典型的な例」を並べれば、〈対比の「は」〉の働きも見えてくるかと。
 少なくとも、「特殊性の認識」よりははるかにマシです。
 
 フリアおばさん……に関しては下記をご参照ください。
https://ameblo.jp/kuroracco/entry-12517642997.html
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>当方は違いを説明する「導入」としては好例だと思います。

色々なご見解があってよいと思います。

> フリアおばさん……に関しては下記をご参照ください。

拝見しました。
 ・料理はフリアおばさんが抜群にうまい。
への論評について、若干申し上げてみます。

>そして「料理は」の文を不自然と看做すのは、「料理は」の表現を普遍性の認識と誤って捉えたためで、話者と受け手の理解がずれたためである。

これが不自然に感じられるのは、料理を普遍性と捉えるからだと言っていますが、それはちがうでしょうね。単に、
 ・フリアおばさんは料理が抜群にうまい。
のように人物を主題にした表現のほうが圧倒的に多いからという理由にすぎません。
その意味で、『通常多用されるものでなんら不自然ではない』も言い過ぎかと。
【この文の場合は】料理の普遍性・特殊性は関係ない。
因みに、
・いわゆる料理という作業=普遍性
・家事の中のひとつとしての料理=特殊性
のように分類しているようです。
この点については、もう少し突っ込んだ質問形式で問う予定を立てているところ。

お礼日時:2019/09/03 23:55

#24 のお礼についいて



>「とする」
…と仮定する。(明鏡国語辞典)
「鷹を生む」という現象を、主観的な判断を加えずに(仮定的事実として)そのまま伝えたい

ああいえば、こういうの典型ですね。

>擬人化小説であることを覚えておかれるとよろしいでしょう。

であれば、「吾輩は猫である」は事実【として】理解してもらいたいのではないのですよね。
ああいえば、こういうの典型ですね。
事実とはなんですか?(笑)
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

1.
>ああいえば、こういうの典型ですね。

ああいっても、こう言えなくなったわけですね?
原因は、あなたが論理破綻しているからです。

2.
アスナロウ⇒「吾輩は猫である」を誰が事実【として】理解してもらいたいのですか。
hakobulu⇒これは【〇〇は△△】だから、《ある物事にフォーカスし主観的な判断や断定などを述べたい場合》
アスナロウ⇒猫が言葉を喋りますか。(笑)
hakobulu⇒擬人化小説であることを覚えておかれるとよろしいでしょう。
アスナロウ⇒であれば、「吾輩は猫である」は事実【として】理解してもらいたいのではないのですよね。

誰が『「吾輩は猫である」は事実【として】理解してもらいたい』と言ったのさ~!?
このアンポンタン!!!
とリンダが臍で笑っております。

お礼日時:2019/09/03 16:09

#25 の応答について



>・フォーカスするような余裕を(心が)持ち合わせていない(ような状況を表わしている)文

どんな文ですか。具体的に定義しましょう。まあ、そんな文はないでしょう。

>カメラを向けるという意志行為を言語化(言語表現)すると『フォーカス(する)』という語になるわけです。
そんなに難しいこと?

言語表現とは無関係なでたらめな用語、理解です。

>「お金は落ちている」とは一般的には言わないでしょう

一般的とは何ですか。落ちているお金を見て、「お金は落ちている!」と感嘆します。■
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

1.
hakobulu⇒フォーカスするような余裕を(心が)持ち合わせていない(ような状況を表わしている)文
アスナロウ⇒どんな文ですか。具体的に定義しましょう。まあ、そんな文はないでしょう。
hakobulu⇒カメラを向けるという意志行為を言語化(言語表現)すると『フォーカス(する)』という語になるわけです。
そんなに難しいこと?
アスナロウ⇒言語表現とは無関係なでたらめな用語、理解です。

お茶を飲むことをお茶すると言うでしょ?
それと同じこと。
行為を言語化することは言語表現の一環ですから、『フォーカス(する)』が『言語表現とは無関係なでたらめな用語、理解』というのは、あなたの認識が誤っていることになります。

2.
hakobulu⇒「お金は落ちている」とは一般的には言わないでしょう
アスナロウ⇒一般的とは何ですか。落ちているお金を見て、「お金は落ちている!」と感嘆します。

まだ、猛暑が続いているようですね。
水分と休養をとって、少し脳を休めてください。

お礼日時:2019/09/03 16:01

ひと言のみです。



★ (№21お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
《‐た。》(それ自体は主体的表現ではあるものの)、

「が」という主体的表現とはおそらく関係ないかと。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ これは――時枝説について・あるいは三浦説とか三上説とかも じつは
わたしは(わたしも) 詳しくありません。なのに デカイ顔をしてしゃべ
っていましたが―― 《主体的表現と客体的表現》については 知っていま
す。
(吉本隆明の議論からの類推です)。

それで 助詞や助動詞が 品詞の中では 主体的表現に深くかかわるという
説ですが けっきょくこのどちらもそうである――という意味になるはずで
す。
《‐た。》も 「が」もです。



入れ子構造で図解されているはずです。
なかなかいいサイトが見つからなかったのですが 次が参考になりますかど
うか。
△ 入れ子構造(主体的表現と客体的表現)
http://www.kinet-tv.ne.jp/~sat/data/publications …

その § 2.1 日本語表現の基本構造 です。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>助詞や助動詞が 品詞の中では 主体的表現に深くかかわるという
説ですが けっきょくこのどちらもそうである――という意味になるはずで
す。
《‐た。》も 「が」もです。

入れ子構造についてはアスナロウ氏に教えてもらいましたが、主体的表現・客体的表現を品詞毎に特定するという業績(と言って良いと思いますが)を残した時枝は、さすが専門家とはこうしたものかという感慨さえ呼び覚ましてくれるかのようです。

ただ、現時点での懸案はそこではないような。
というのも、「た」は断定の助動詞などと辞書でも語釈されていますから主体的表現であることは容易に理解できます。
しかし、「が」が主体的表現であることに気づくのは結構難しいと思われる。
その意味で

桜が咲いた。

が主体的桜であり、

桜は咲いた。

は客体的桜であることの構図を示すことによって、ハガの差異に対する理解が深まるのではないか、という期待があるわけです。

お礼日時:2019/09/03 13:53

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