今、秦の河勝について調べています。
聖徳太子が使った忍びの一人なのですが、出自や功績など、詳しい事がわかる本やサイトなどがあれば、知りたいのです。

同じく、聖徳太子が使った忍びの一人、大伴細人についてもあればお願いします。

宜しくお願いしますm(_ _)m

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A 回答 (1件)

こんにちは。


詳しい情報ではありませんが。
以前読んだ小説の中にこの名前を見たことがあります。
確か、聖徳太子の舎人(とねり)の長だったはずです。

聖徳太子1~4 黒岩重吾 文春文庫

もう1人の方はわかりません。
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この回答へのお礼

早速のお答え、有難うございます。
「聖徳太子」読んでみますね^^

一応補足なのですが、秦の河勝については、香具師などを率いていたということと、広隆寺の建立にかかわった事くらいまではわかっているのですが・・・

大伴細人については、甲賀流忍術の祖という事しかわからないのです。

また何かわかったら、お願いします。

お礼日時:2004/12/15 14:50

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Q秦河勝や物部守屋の墓・・・古墳だと思っていました。

大阪府寝屋川市に秦河勝の墓があります。
丘陵の上に墓石のようなものがありました。

また大阪府八尾市には物部守屋の墓があります。
平地に鳥居があり、瑞垣で囲まれた中に墓石のようなものがありました。

この時代の有力氏族の墓は古墳だと思っていたのですが
これはどういうことなのでしょうか。

推論でも結構です。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

寝屋川市の伝・秦河勝の墓は市の史跡に指定されていますが、別に寝屋川市が秦河勝の正真正銘の墓として認定している訳ではありません。
現地には古くから五輪塔があったようですが、現在のものは慶安2年(1649)に再建されたものであることが、現地の説明板に記されています。
(私が現地確認したのは昨年3月です)

八尾市の物部守屋の墓は私が行った時には施錠されていたので、中の確認ができなかったのですが、どう見ても近世以降のものですね。
http://mononobe.nobody.jp/tabi/yao/yao06.htm によると、「河内名所図会」には古墳のような状態で描かれてはいるようですね。
なお「河内名所図会」は享和元年(1801)に発行されたもののようです。

いづれにしても、古代の人物の墓の場所を特定するのは、奈良・平安初期の絵図に描かれている、とか、墓誌でも出土しない限り絶望的ですし、仮に場所が特定できたとしても、古墳が形を保ったまま残されている可能性は低いですね。

Q【聖徳太子って天皇?】聖徳太子って歴代天皇の祖先ですか? 聖徳太子って厩の皇子と呼ばれていた。

【聖徳太子って天皇?】聖徳太子って歴代天皇の祖先ですか?

聖徳太子って厩の皇子と呼ばれていた。

皇子、太子ってことは天皇の祖先ということ?

それとも聖徳太子とは別に当時に天皇はいた?

聖徳太子は厩の皇子と言われたのは聖徳太子は厩(馬小屋の前で産まれた)という意味ではなく厩の地域(馬を管理する地区)で産まれたという意味だそうで、聖徳太子は馬を管理するどちらかというと貧困層の地域で産まれたが産まれながらに天才でその噂が広がって高官になっていった。

聖徳太子が天皇の祖先なら天皇は元は馬小屋の管理人の家に産まれた人になってしまうが聖徳太子の真似を後醍醐天皇がしていたので、聖徳太子は天皇ではなく聖徳太子の太子と天皇家は全く関係がないということですかね?

天皇家でもないのに皇子とか太子とか今で言う天皇陛下の子供である天皇皇太子と同じ位の人間と同じ位を名乗れていたのはなぜ???ってなる。

聖徳太子は天皇の子供じゃないの?

Aベストアンサー

実在の人物でない説が有力です。

Q神沼河耳命と沼河比売

沼河比売は 高志の国の人

神沼河耳命より早く登場しています
神沼河耳命は 沼河比売と同じお名前です

お二人の神は繋がりがあるのでしょうか
      越と関係があるのでしょうか

Aベストアンサー

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%9B%BD%E4%B8%BB
大国主をキーとすると
沼河比売 は 嫁の一人
神沼河耳命は 大国主の別名である大物主の娘の婿ということになります。
義理の祖母ということかと。

天津神系(つまり天皇系)が国津神系を合体するときに、そのボス大国主=大物主に集約しちゃったので、日本海側から大和在来系が、ごちゃごちゃになっていますね。
天津神 + 非天津神(国津神)という感じで、国津神自体に統一性はないんじゃないかな。アメリカで言えば 白人と有色人種 みたいな感じで、アジア系とアフリカ系いっしょかよ!というアバウトさ。
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Q聖徳太子→厩戸皇子→聖徳太子、の変遷について

聖徳太子について、教科書への記述に関してです。
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Aベストアンサー

1999年に大山誠一氏が聖徳太子虚構説を出したのが大きいです。
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聖徳太子は否定したのですが厩戸皇子の存在までは否定しませんでした。
その影響で聖徳太子という記述が用いられなくなってしまいましたが、虚構説が出た直後から反論があり、
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古代史では邪馬台国は存在していなくて、邪馬壱国だったという説が昔ありましたし、
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ある本を読んでいて、次のような記述をみつけました。

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東の第一席は新羅、二席目は大食(アッパース朝)。
西は第一席は吐蕃(チベット)、二席目が日本であった。これに対して、大伴古麻呂が異議を申し立て、なぜ新羅よりも下位なのか。納得できない。として、新羅と順序を入れ替えることに成功した。」

これは、どの書物にでているのでしょうか。
また、この話は、実話なのか作り話の可能性があるかなどは、どうでしょうか。

(これよりはるか前に、百済の将軍位鎮東より、倭の安東将軍がひくかったのはわかっています)

Aベストアンサー

『続日本紀』にあります。
この「事件」は、いろんな本によく取り上げられていますが、実話として扱われているように思います。
上田雄著『遣唐使全航海』には、唐や新羅その他列席した使節の目に、日本の使節の行動がどう映ったのか、この件に関する資料が出てくることを期待していると書いてあります。

実話かどうか、とてもじゃないですが私には判断できませんが、
専門家の解説が出た後では回答できませんから、思いついたまま気楽な立場で回答します。

この話の重要な点は、「並ぶ順序を入れ替えてもらった」というよりは、「唐は、日本の地位をその程度に見ていた」ということだと思います。
「正史」には、自国のあるいは現政権の都合の悪いことは書かないのが原則ですね。
編者は、後世まさかこのような見方をされるとは、思っていなかったのではないでしょうか。

堀敏一著『中国と古代東アジア世界』によると
8世紀前半に玄宗の側近にあった張九齢が起草した、諸外国の君主宛ての国書が残っていて、その比較ができるとして、
日本のランク付けは、吐蕃― 突厥・突騎施― 新羅― 契丹― 渤海・南詔― そして、護密や勃律に並んで日本となっています。

当時の唐をめぐる諸国の力関係を表していると思います。
しかし、同著には、「諸蕃間の唐廷における席次争いがいくつも起こっている」との記述がありますから、やはり「実話」なんでしょうね。

参考URL:http://www.minpaku.ac.jp/staff/nagano/thema01.html

『続日本紀』にあります。
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上田雄著『遣唐使全航海』には、唐や新羅その他列席した使節の目に、日本の使節の行動がどう映ったのか、この件に関する資料が出てくることを期待していると書いてあります。

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