性格いい人が優勝

1. 神について何も説明できなくても ひとに信じる動態はあると考えます。
したがって わざわざ神について説明せよという問いを受けたときのこたえが
どうなるかだけの問題にはなります。


2. 《ブッダター(仏性)》の説明として たとえばヘーゲルの《無限なる
もの》を当ててみます。

▲ ( G.ヘーゲル:有限と無限) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
無限なものと 有限なものとの一体性・・・この矛盾・・・は 

どんな自然的なものも自分のなかにこれを持ってはいない 
ないしはこれを 我慢できないであろうが 

この矛盾を持ちこたえることができるのが 
人格(☆ もしくは《時間》)の高さである。

    (『法の哲学』§35 追加(講義録)藤野渉・赤澤正敏訳 1967 )
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


3. 無限とは わけの分からないものです。つまり神を説明する言葉だと見
られますが むろん経験世界を超えています。

4. しかもヘーゲルはここで 有限なる存在であるわれわれ人間にあっても 
その生まれつきの自然本性にこの無限性がやどる・または埋め込まれていると
言おうとしています。

5. これが 《ブッダター あるいは 霊我と訳されるアートマン》のこと
だと見ます。

6. これを《無い神》派は どのように否定するか? おしえて欲しい。
《矛盾であっても 持ちこたえられる》という点をめぐって どう考えますか?



7. なお ヘーゲルの議論で 《人という有限なる存在における無限性との
――おそらく非思考における―― 一体性)》を我慢できない場合があると言い
ます。この命題(判断)について どう捉えますか? 
 
8. なぜあなたはその人間なる存在においてそのあなた自身にとって固有の
《時間》が 〔なぜ〕高くないのか? と問うていますか?

質問者からの補足コメント

  • №8お礼欄での religion の語源についておぎないます。

    次の語源辞書を参照してください。
    (コピペ―が出来ないサイトなようです)。

    ▲ ( OnlineEtymologyDictionary: religion )
    https://www.etymonline.com/search?q=religion&ref …

    No.8の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/10/16 08:52

A 回答 (19件中11~19件)

人と神の絆=religionもっと親密な意味を持ってるのですね。

ありがとうございます。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

いくつかの説が挙がっていますが バンヴェニストの説は:

▲ religiens: " careful "

☆ の筋だと思います。

お礼日時:2019/10/16 10:17

religion=神と再びで会う、という意味の語。

キリスト教徒は何を目論見、信仰するのですか。隔絶してると考えてるのに?
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

お早う! ご回答をありがとうございます。

★ religion=神と再びで会う、という意味の語。
☆ その語源解釈は しりぞけられています。

《ふたたび( re- )むすばれる( -lig- )》というのですが これはラテン
語です。聖書の(キリスト・イエスの)神のことを 古代ローマ人が主要な
神として持ち それをこの言葉で表わしたとは考えられません。

E.バンヴェニストによると 《 -lig- 》は《言う》という意味の語にもなっ
た《あつめる》のことではないかと。《ふたたび集める》というのは 《気
を引き締める⇒ 少したるんでいたから ふんどしを締めて出直す⇒ 精神
の再統一(これが 神々に結び付けられて認識された)》といった意味では
ないかと言います。

もっとも アダムとエワが神にさからってエデンの園を追われたあと ふた
たび神と結び付けられるといった意味じたいは 或る程度・ただしあくまで
宗教のオシヘとして 広まっています。





★ キリスト教徒は何を目論見、信仰するのですか。隔絶してると考えてる
のに?
☆ 知りません。わたしは イエス・キリストが指し示した真理・道・生命
としての神を受け容れていますが 宗教とは・そのオシヘとはいっさい関係
しません。

お礼日時:2019/10/16 05:49

言葉というメディア、光というメディア、しるしというメディアです。

絶対的に隔絶してるという考えをしてるのは、キリスト教の人々です。エデンの園から、この世界に落とされたから、隔絶と考えてるのでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 言葉というメディア、光というメディア、しるしというメディアです。
☆ 分かりました。

言葉もシルシですが シルシは 無限性(=神)を仮りにしめすためのも
のだと特定すれば 次のように区分することが出来ます。

光は――おもに視覚についてですが――感性を触発する媒介物(メディア)。

言葉は おもに理性を刺激するメディア。

シルシは 感性や理性を超えたナゾ(仮りに霊性と言う)を指し示すため
のメディアでしょう。




★ 絶対的に隔絶してるという考えをしてるのは、キリスト教の人々です。
☆ 絶対性(超経験)と相対(経験)世界との間柄は 二段階に分けて説
明されます。

① 相対(有限)世界を超えて 絶対的な隔たりがある場ないしチカラと
いったナゾを 絶対性(あるいは無限)と――想定じょう――言う。

② 絶対性は われわれの経験世界を超えているからには その絶対の隔
たりをモノともせず いかようにもハタラキカケを行ない得る。

☆ すなわちそのハタラキカケとして:

ア:《アダムの創造》なる絵画のごとく指先が互いに触れなんとしている。

イ:ニュートリノのごとく霊性がわれわれを突き抜けて飛んでいる。

ウ:霊性は そこらじゅうあまねく存在する。遍在説。

エ:あらゆる出来事が神からわれわれへのメールである。ちゃんと読め。

オ:そんな霊性などあるもんか! 世界は シューニャター(空)なり。
 (これも 絶対性を指し示すひとつのシルシであり得ます)。



次は意味がなくなりましょう。
★ エデンの園から、この世界に落とされたから、隔絶と考えてるのでし
ょう。


ここからの展開!?

α: われわれ人間の側から 何らかのハタラキカケを行ない得るか?

β: 人間は 神からのハタラキカケをただ受け取るのみか?

γ: わけの分からないハタラキカケを誰が読み解き得るのか?

お礼日時:2019/10/16 05:28

無限と有限は言葉、シルシ、光など、メディアを介して出会ってますよ。

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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

かたちがあり 数が決まっており 一般に感覚として認識しうるもの
ごとは 《有限》です。

二で割っても三で割っても その商は元のままであるナゾの何ものか
これが 無限です。

無限は 想定に成ると言えば そうです。



《永遠》というのは げんみつに言えば無限のことです。

誰も永遠に生きた人はいないのに 誰もが平気で《永遠》という言葉
を使っています。



無限・絶対・超経験なるナゾについては その仮りのシルシとして言
葉が当てられ あたかも経験事象と同じ世界に属しているものである
かのごとく 表現に用いられています。

ほんとうは 次元の違う世界のものです。



光は 経験事象です。

メディアって マスコミのことですか? 経験事象です。

お礼日時:2019/10/16 00:02

キリスト教は、神を無限、人は有限と言いますけれど、そもそも個体を想定するから、そういうのでは。

有限、無限、此岸、彼岸、天国、地獄の二元論で、考えてしまうのも、どれも個体で考えるからでしょ。実のところ、それら、どれもがネットワークで繋がり成立してるとしたら、二元論で語ってもどうしようもないし、また、内部と外部、この世と超越界も意味ないと思います。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ キリスト教は、神を無限、人は有限と言いますけれど、
☆ いや それは 立ち場のいかんにかかわらず 普遍的な認識ではない
でしょうか。



★ そもそも個体を想定するから、
☆ 《個体》・・・ですか? 人間も一人ひとりが個体ですね? その場
合は《想定》しなくても 経験事象としてそのままそうである と成るの
では?



★ そういうのでは。
☆ つまり 神は無限であり 人は有限であるのは 普遍的な――概念と
しての――認識だと思います。


(神については 経験事象を超えているので 《想定》になるのは そう
なのですが 概念認識としては そのまま成り立つはずです)。



★ 有限、無限、此岸、彼岸、天国、地獄の二元論で、
☆ げんみつには 《元》という言葉はふさわしくありません。

《無限》は 絶対性ですから 《元》です。《有限》は 相対的なもので
すから 単なる要素・要因ないし事物・事項です。

言いかえると 経験世界と超経験とは 次元が違います。

《天国》は 無限の世界であるかも知れませんが 《地獄》は ただの想
像物だと思います。



★ 考えてしまうのも、どれも個体で考えるからでしょ。
☆ しょうじきに申し上げて この場合の《個体》という用語がよく分か
りません。


★ 実のところ、それら、どれもがネットワークで繋がり成立してるとし
たら、
☆ 無限と有限とは そのあいだに絶対の隔たりがあります。次元が違う
ので ネットワークでつながるという捉え方には 無理があると思います。


★ 二元論で語ってもどうしようもないし、
☆ 無限は 絶対性としての根源・根元であり 《元》ですが 有限世界
のものごとは 無限と同じ元ではありません。


★ また、内部と外部、この世と超越界も意味ないと思います。
☆ 《内部と外部》というのは 有限な経験世界での事象です。《無限》
には 《内と外》といった認識が成り立たない。つまり 成り立つかどう
かが 分からないわけです。

《この世と超越界》 これは 《有限と無限》という規定に同じだと思い
ます。

お礼日時:2019/10/15 23:47

この世は物質と精神で構成されています。

もし、この世は物質のみで構成されているとしたら、私は何も感じないでしょう。

熱いとか赤いと感じている主体が私です。熱いとか赤いと言う感じは、幾ら高性能な顕微鏡で脳の中を覗いても見えません。物質が、熱いや赤いに対応する動きをしているのが見えるだけです。
その動きの刺激を受けて、精神である私が熱いとか赤いと感じているのです。
熱いや赤いは物質ではないので、それを感じている私も物質ではありません。私は、無限の感受性である精神です。

物質の全体を宇宙と言います。質問者さん、それでは「精神の全体」を何と呼んだら良いでしょうか。

そして、この世の始まりを物質のみで説明することは出来ません。物質の因果関係は、原因が結果を生じ、その結果が原因となり更に結果を生じると言う形になります。
従って、宇宙の始まりは原因なくして結果を生じなければなりません。つまり、無から有を生じなければなりません。しかし、それは不可能です。

一方、精神は物質を動かすことが出来ます。精神である私は物質である手を動かすことが出来ます。ですから、宇宙の始まりにおいて最初に動いたものは、「原因から自由な精神」以外にはありません。

質問者さん、この「宇宙を創造した精神」を何と呼んだら良いでしょうか?

 ユダヤ教・キリスト教では、外界は神が創造したと信じます。
 ここに物が落ちたのは、ここに落ちるように、宇宙が作られているからであると考えます。そして、どうしてここに落ちたのかを追求し、 物体は外から力が加わらなければ、そのまま飛び出した方向へ等速運動を続けるが、落下距離は時間の2乗に比例する為、 放物線を描いて地上に落下し、ここに落ちたことを発見します。
 宇宙で起る全てのことは、必然であり意図されたものであると考えます。ですから、一見偶然に思える事柄に対しても、 必然であると確信し、その仕組みを解明しようとします。
 ある天才は、「神はサイコロを振らない。」と言いました。 これは、現象を確率で説明しようとする態度に対して、必然な説明をしなければならないと批判したものです。
 この様に、西洋では神が宇宙を創造したと言う確信により、自然科学は発達して来ました。

 それに比べて、東洋では仏が宇宙を作ったとは考えません。精神の中に仏が存在していると考え、内心の仏を追求します。
 宇宙は偶然出来たと考えます。物は色んな所に落ちます。物がここに落ちたのは偶然だと考えては、 落下の法則や万有引力の法則は思いつかないでしょう。
 無神論も同様です。ハッキリと必然と分ること意外は偶然であると考えたのでは、人に先駆けて新しいものを発見することは出来ません。


 神を持ち出すと、単純に非科学的であると非難する方が居られます。しかし、科学で全ての現象を説明出来るでしょうか。
 第一、物質の因果関係のみでは、宇宙の始まりを説明することは出来ません。 物質の因果関係は、原因→結果=原因→結果=原因→結果・・・と続きます。原因があり、その為に結果が生じ、 その結果が原因となり次の結果が生じると言う順番となります。
 しかし、これでは最初の原因が存在出来ません。その最初の原因は、何らかの原因により生じなければなりませんが、それがありません。 物質のみでは、宇宙の始まりを説明できないのは自明のことです。

 また、コインのゲームを考えて見ます。コインを縦に立て、倒れて表が出れば私が勝ち、裏が出れば貴方が勝ちます。 科学では、このゲームで私が勝つ確率は50%、負ける確率も50%としか言えません。 しかし、現実にはどちらかが勝ち、掛け金を全て手に入れます。それを決めるのは何でしょうか。
 これと同じことは、素粒子レベルでは無数に起っています。完全に均衡している状態で、僅かな力が加わり少しの不均衡が生じると、 不均衡が不均衡を呼び次第に大きくなり、終にはコインは倒れます。

 確率は50%ですが、ほんの僅かな力が加わることで、表が出たり裏が出たりする。その為に、ある者は人生で成功し、ある者は失敗する。 その僅かな力が精神である可能性はあります。

 精神である私は、物質である手を動かすことが出来ます。肉体は動かすか動かさないかで物的に均衡した状態にあります。 ほんの僅かな精神の力を、物的に均衡した物質(脳)に加えることにより、手は動いたり動かなかったりします。 この様に、精神は物質を動かすことが出来ます。

 単なる偶然の連続で、この宇宙は進行しているのでしょうか。それとも、何らかの意図があり、僅かな精神の力が加えられているのでしょうか。

正しい知識を得るには、全てのものを疑うことの出来ない自明なものなのか否か問いかけることが必要です。 デカルトは、この方法的懐疑により、全ての知識を自明なものか否か検証して見ました。
 その結果、自明なことは唯一つしかないことが判明しました。それは、全てのものを疑っている自分が存在することだけは 疑うことが出来ないと言うことでした。 「我思う故に我あり。」です。それ以外は、正しいと思ってはいたが、そう思っていただけであることが分りました。 これが「無知の知」です。

 しかし、自明なものしか信じないのであれば、そこまでです。そこから先は、何を信じるかによります。
 心は、その中に宇宙を作り出しています。私たちが感じている宇宙は、心の外の宇宙ではありません。心が作り出した宇宙です。 心の外を覗くことは不可能です。心の外に、宇宙があるのかどうかも分りません。
 しかし、心は外界に似せて、心の中に世界を作り出しているのです。心の中では、1+1=0でも、1でも3でも何でも構いません。 心の中に在るものは、消えたり生じたりします。従って1つと1つ在ったものが消え去り0となっても良いし、 新しく生じて3になっても良いのです。決して増えもせず減りもしないと前提して、1+1=2としなければならない必要はありません。

 しかし、外界では、無から有は生じませんし、有が消滅して無となることもありません。エネルギー保存の法則が成立します。 従って、1+1=2でなくてはなりません。
 心が1+1=2に制約されている事実は、心の中の世界は、外界に出来る限り似せて作られていることを証明しています。 外界に1+1=3を適用すると、その行動は誤りであり、失敗するからです。
 従って、外界には、心で感じている様な世界が存在することを前提とせざるを得ません。

 宇宙の仕組みを完全に解明した時、物質だけでは説明出来ないことが残されたら、神の存在を証明したことになります。  この様に、宗教は全く科学的な態度であると言えます。
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ちょっとミスリードがひどくないですか?



「神が無い派」なんて存在しません
あなたの提示する「神」を信じていないだけで
神自体を否定しているわけではありません。
何人も無いことを証明できないのですから。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ちょっとミスリードがひどくないですか?
☆ ツッコミやご批判は 歓迎です。


★ 「神が無い派」なんて存在しません
☆ あぁ これですか。

最近その種の話をいくつかの質問でやり取りして来たと思っているもの
ですから かなり大胆になって説明抜きでそういった切り口におよんで
います。

でも ただちに説明できるとも思っています。

無神論は――神が 人知を超えたナゾであるからには――証明し得た理
論ではなく ナゾをめぐる信仰〔の一種〕であるという議論です。



★ あなたの提示する「神」を信じていないだけで
神自体を否定しているわけではありません。
何人も無いことを証明できないのですから。
☆ ですよね。

神とは何か? あるいは神にかんする誤解とは? といった話題は ほ
かの質問で できればすすめたいとは思っているのですが。・・・

お礼日時:2019/10/15 11:39

理解の外にあるものを神のいる証拠とするのはどうなのかね


昔は自然現象も神の仕業だったけど、今では神の仕業でもなんでもないわけで、同じように、分からないものはまだ理解できていないだけ、と考えるのが道理ではないのかな

ヘーゲルがなんなのかよく知らないけど、人間の肉体は有限なのに精神は無限だ、みたいな意味でしょうか?
だとするとそれはおかしいと思います、人間は脳で考えれる事以上には思考出来ません。
パソコンと同じです、処理できることには限界がある、記憶できることにも限界があります、人によってスペックは違うし、高性能でありつつも曖昧ですけどね、人間の精神は有限だと思います。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 理解の外にあるものを神のいる証拠とするのはどうなのかね
☆ 理論(仮説)の立て方が 違っているはずです。

《人間の理解を超えているナゾ》を 仮説として《神》のことだと想定
して その経験世界のものごととの整合性を検証して行くわけです。

《人知を超えたナゾ》については 《神がいる》とも《いない》ともど
ちらについても 証明できないはずです。よ。



★ 昔は自然現象も神の仕業だったけど、今では神の仕業でもなんでも
ないわけで、
☆ 昔も今も 《知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ》について
は それが(つまり神が) 自然現象とどうかかわっているかは 何と
も分からない。分かるか分からないかが分からない。となりましょう。


★ 同じように、分からないものはまだ理解できていないだけ、と考え
るのが道理ではないのかな
☆ もちろん 《未知》です。未知の中で 知り得ないと証明された場
合は 《不可知》とされます。

ちなみに 神なるナゾは それらとは別の《非知》というカテゴリにな
ります。




★ ヘーゲルがなんなのかよく知らないけど、人間の肉体は有限なのに
精神は無限だ、みたいな意味でしょうか?
☆ いいえ。

 無限:霊性(?) : 非思考の庭
 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 有限:理性(精神): 思考の緑野
    感性(肉体): 感性の原野

そして 《無限 ‐ 有限》の矛盾的構造として 人間存在は成り立ってい
ると言っていると思います。


★ だとするとそれはおかしいと思います、人間は脳で考えれる事以上
には思考出来ません。
☆ ですから 霊性なる無限は 非思考の庭として(つまり 信仰とし
て)の現実です。


★ パソコンと同じです、処理できることには限界がある、記憶できる
ことにも限界があります、
☆ ですから 通常の自然本性(身と心)は 有限です。


★ 人によってスペックは違うし、高性能でありつつも曖昧ですけどね、
人間の精神は有限だと思います。
☆ ええ。おっしゃるとおりであり 無限は 霊性です。(つまり 何
と言っていいか分からないので 霊などと言っています)。

(霊性は――仏性と同じく―― 想定であり仮説です)。

お礼日時:2019/10/15 08:08

ヘーゲルの言ったことが間違ってる・・と するのなら 何も問題無い

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