dポイントプレゼントキャンペーン実施中!

1. オシヘは 考えるものである。にもかかわらず もしそれを信じるの
なら セイシンサクランに落ち入る。

2. つまり人間の言葉で表現されたオシヘを 無条件にわが心に受け容れ
る(つまり信じる)なら オシヘの内容とおのが心の内容との葛藤によって
生じるその精神錯乱状態をまわりの人びとは アース役となって静かに受け
留め ひとまづおさめてやらなければならない。

2-1. 人びとは 思いやりに満ちている。

3. そのとき あたかもそのシュウキョウ患者に代わって疾病に罹るかの
ように からだや気に差し障りをもたらすかも知れない。こころは デリケ
ートである。転移?

4. だから もしシュウキョウをめぐって そんなものは屁の河童なのだ
とその場や情況が―― 一般にクウキとしてもそのクウキを利用するべく――
成り変わるなら もう疾患の原因は瞬時にして取り除かれるわけである。





5. シュウキョウなるオシへを自分からすすんで求めた人びともいるかも
知れないので その割り合いを 半々だとすれば シュウキョウは不必要と
いうクウキが《はびこる》につれて 患っていた人びとの半数は 見る見る
うちにピンピンとして元気に成る。

6. クウキ感染もなくなること 請け合いである。

7. 健康寿命が延び 社会保障費すらが半減し 財政はプライマリーバラ
ンスを回復するといういいこと尽くしである。




8. そのためにも ひとは 個人の信仰と集団的なる宗教とを峻別しなけ
ればならない。ただちにいますぐに。

8-1. オシヘは 考えるべきものである。

9. 広くゆるやかにいわゆる精神疾患は シュウキョウの自己欺瞞とその
ヰルスのばら撒き――そしてそれをアース役が 人間性にもとづきなだめよ
うとすること――に原因がある。という仮説です。

10. 思いやりのあるひとは 多少は冷酷になったほうがよいとも言えま
しょうか?

11. シュウキョウには 独り善がりのオシコモリ教や《無い神》派とい
う信仰を履き違えて無神論というオシヘとした《唯だ物論》教をふくみます
が どうでしょう? 



☆ 悠長にしていていいはずがない。という問いです。

A 回答 (2件)

>信じる:良心


   ↓  ↓
>感じる:ヤマシサ反応

なぜ信じることが良心で、感じることがヤマシイのか。
人間は信じる前に感じるようにできているんですよ。
そもそも生まれて間もない赤ん坊に信仰心なんてものは無い。
あるのは感じる能力のみである。
それで信じることは清いことで、感じることはヤマシイことなのか?
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ なぜ信じることが良心で、感じることがヤマシイのか。
☆ 推理として逆の方向から考えてみましょう。

① わたしは心にさからったことを思ったりそれを実行しようとすると
胸騒ぎが起き動悸がはげしくなり 顔は赤らみ舌はしどろもどろになる。

② これは ヤマシサ反応だ。これを意識すると 恥ぢをおぼえる。

③ それは どこから来るのか?

④ 自分の意志でそうしようと思ってしているのではない。

⑤ どうもわたしの知らないところで そのハタラキは起こっているら
しい。

⑥ むろん身のどこか。神経細胞で起きているのであろう。けれどもそ
れは 現象のありか・またあり方を見ているに過ぎぬ。どうして起こる
のか?

⑦ それは 身(感性)でも心(精神)でもないとすれば どこかナゾ
の場だ。これを 霊性として捉え その場を 非思考の庭とよぶ。つま
り 感じるでも考えるでもなく 信じるにおいて起こる。のではないか?

⑧ 大きくは 《信じる⇒感じる》という作用であり 具体的には《良
心⇒ヤマシサ反応・恥ぢ》というかたちだと捉えられよう。



★ 人間は信じる前に感じるようにできているんですよ。
☆ 極端な言い方をすれば 時間的な経過から自由にその現象を把握す
るなら どうなるか? という理解の仕方になります。

《信じている》から 《良心がはたらき 顔が赤らむ》という基礎的な
理解です。



★ そもそも生まれて間もない赤ん坊に信仰心なんてものは無い。
☆ だから 身のゆだねのごとく心をもゆだねている。そしてそれを聖
なる甘えと呼び のちのちの《信じる》の素となる。と見るわけです。



★ あるのは感じる能力のみである。
☆ 現象としては そうですよ。《良心 あるいは ヒラメキ》は 現
象を超えたところに想定するのです。だから ワケの分からない霊性と
いう言葉を当てています。

★ それで信じることは清いことで、感じることはヤマシイことなのか?
☆ 感性は きよらかさも やましさをも 感じるのです。

信じる非思考の庭から――良心のハタラキとして――やって来るという
場合は 霊性とかかわっているゆえ きよらかなという捉え方をします。

やましさを感じることが きよらかなおそれの具体的な現われであると
いう見方なのです。

お礼日時:2019/10/25 22:36

>オシヘは 考えるものである。

にもかかわらず もしそれを信じるの
なら セイシンサクランに落ち入る。

だからわしが繰り返し繰り返しゆーているよーに、信じるのではなく感じることが大事だってこと。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

それは げんみつに基本として言えば ミスリーディングでしょうね。

ご回答をありがとうございます。


ひとは 生まれつきそなわった自然本性として 身(感性)と心(精神:
記憶と知解と意志のみっつの行為能力)とを持ちますが そのほかに
ぷらす・アルファとして 霊性をやどすと想定されます。

《信じる》――つまり 知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾの何
ものかを 無条件に無根拠にてわが心に受け容れること――は そのま
ま 《+ α としての非思考の庭〔という信仰の動態〕》においておこ
ないます。

したがって 《信じる》と《感じる》および《考える》とは 次のよう
に別の能力行為であると考えられます。


○ ひとなる存在の能力行為

【信じる】:《自然本性+α 》=霊性:非思考の庭:ヒラメキ・ 良心
                         ↓    ↓
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                         ↓    ↓
【考える】:《自然本性の心》=理性:思考の緑野:直観    ↓
【感じる】:《自然本性の身》=感性:感性の原野:  ヤマシサ反応・恥ぢ  




☆ 信じると感じるとは 良心とヤマシサ反応とのつながりで つなが
っていると言えますが それは:

  信じる:良心
   ↓  ↓
  感じる:ヤマシサ反応

というふうな向きによるハタラキであって 矢印がそのぎゃくではない
ので:
★ 信じるのではなく感じることが大事だってこと。
☆ という捉え方は ミスリーディングになるおそれがあるでしょうね。

お礼日時:2019/10/25 21:19

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!