最速怪談選手権

近頃は、宗教についての話題が多く、あれこれと話がありますが、雑然としていて
まとまりが全くないように思えます。

宗教については現代の日本では時代としては「否定」だと思います。ただ、一人ひと
りの本心は「どうだろう」ということは思います。

1.宗教に必要性があるとお考えの方御意見をお願いします。

2.宗教と言うものの本質を論じていただいた上で、批判をお願いします。

3.北伝仏教(大乗仏教)の哲学について、優れているとお考えの方、ご意見をお願いします。

4.北伝仏教(大乗仏教)の哲学について、批判してください。

5.聖書の哲学についてお願いします。

6.コーランの哲学についてお願いします。

質問者からの補足コメント

  • そのほかの宗教についても結構です、お願いします。

      補足日時:2019/11/13 01:28
  • この質問の意図は、信仰を持っている方が、現代社会の中のクウキでは
    言いにくいであろう、宗教論を訊きたいということと、このクウキの中
    ではテキトーなことも、すんなりいえるであろう宗教批判を、キチンと
    した形で訊きたいということであります。

      補足日時:2019/11/13 03:36
  • 創価学会についてでも結構です。

      補足日時:2019/11/13 09:38
  • 宗教の下劣な批判には、「なりすまし」という方法が昔からあるという
    のも定説になっているようです。

      補足日時:2019/11/26 06:01
  • 少し考えました。

    強者の威嚇に対しては、民衆は「自分たちを守ってくれる力」であるという風に「曲解」して従うものであると、映画を見たりとかとか歴史物小説を読んで思ったものです。

    また、それとは別に、人間の心の中には「賢者のイメージ」があるということを、心理学の本の中に書かれてあったことを覚えています。
    どうも、この二つを長い間混同してきたのが人類なのではないかと今思っています。そして、そういった混同を整理するための認識の仕方を人類は習得すべきだと思います。

    >弱者の中に希望を見る事

    大変に重要な点だと思います。しかし、弱者の中に希望を見出すためにはどうしたらいいのでしょうか?現実社会の中では弱者はあくまで弱者でしかないといえると思うのですが。

    No.35の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/11/26 08:28

A 回答 (54件中11~20件)

にゃんポコさんは流石しっかりしてらっしゃる。


ファクトフルネスと始め聞いたときは、自分が知った事実に基づくことを言うのかなと思っていました。その場合、自分の経験と言うローカルなものを、事実と言うグローバルなものにしてゆく作業が必要で、その作業の中に本質を見抜くという行為が含まれているのだと思います。
データ=事実 では無いと私は先ず思いました。しかし、データを無視するのも合理的ではありません。本来、データを取る動機自体が、正確な事象を把握する事であるからです。統計学と言う大きな分野があるくらいですし、現代ではビッグデータを解析する方法を開発する事が、大きな産業シーンとなっています。
データに基づくと言う場合は、データをいかに集めるか、+読み解くかの合わせ技でないと、正しい景色は見えてこないでしょう。

にゃんポコさんが仰る現代的思考法は、あまりにも作為的なものが入り乱れて連結し、どれに誰の意図が含有しているか全く不明であるくらい、懐疑が懐疑として意味を為さないくらい、全てが疑わしい中で行われていると思います。それは、省略と手っ取り早さが売りの、本質的には人の営みというよりは情報化社会の営みに即した思考運動だと思います。
じっくりと、一つないし自分のテーマを考えるというよりは、手早く、問題解決になるようなヒントを、沢山探す、みたいな。

仕事でも、及第点〜八十点でいいから早く回す事が優先され、100点とか、それを超えるような地点を目指す仕事の仕方は減って来ているように思います。

この傾向は衰退を早め発展を遅らせるものであると思いますが、現代には何処か焦りがあって、腰を据えて構えていられない状況があるんではないかと思います。焦ってる時こそ落ち着いて、本質を追求する本物志向を採るべきだと思うのですが、入り乱れる情報戦の中に晒されて疲弊している我々は、情報から孤立した精神に傾倒しがちなところもあり、悪貨は良貨を駆逐するの、情報世界バージョンが今、起こってるのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

よく分かっていらっしゃるという感じです。

千葉雅也という40歳くらいの若い哲学者がいて、彼は「エビデンシャリズム批判」という
論を展開しています。

つまり、現代の人が何か言えば必ず「エビデンス」を求められる風潮を批判し、もっと、
その人の経験ないし直観を重視すべきだということであると理解しています。そうである
ならば全く賛成です。

人間は間違いをおかし、コンピュータは計算が正確で間違いがない、だから人間よりコン
ピュータが信頼できる、という単純な根拠でAI等が完全に支持されていると思います。

「ディープラーニング」ということについて、あるいは「量子コンピュータ」の仕組みに
ついてキチンと理解している人がどれほどいるのか?
また、人間の脳のことをどれだけ知っているのかを考えれば、多分に信仰的であると考え
ています。

例えば、戦国武将は何万人もの部下の個人情報をすべて暗記していたという話があります。
司馬遼太郎の幕末物の中のサムライたちの頭の中には膨大な情報が記憶されていたと想像
できるのです。
そうした人々が合理性とか利害だけでなく、様々な情念によって結びついていたのが従来
の人間社会であったと思うのです。

現代の合理性って、つまるところ大資本がいかに合理的に利益を得るか、ではないでしょ
うか?
それなのに、人間が社会に貢献できなくなるとか労働がしたくてもできなくなるかも知れ
ないというのにAIだなんだと喜んでいるご仁たちは私には「ずるむけたタコ」にしか見え
ません。

詮ずるところ、哲学の問題であり、他人を尊重しないという価値観と個の利の追求が全体
の利に繋がるという、全く根拠の不十分なモノの見方を支持しているということが、間違
いの根源であると考えています。

お礼日時:2019/12/12 10:42

ちと連投になりますが、次の動画をたまたま見たので共有します。




ファクトフルネスという態度について要約した動画で、それによると、我々は物事をドラマチックに見る本能があるそうです。
あまりニャンポコさん好みの動画ではないかもしれませんが、この動画に、グレイゾーンについて語られている部分があります。
曰く、世界は白黒、金持ちと貧乏、支配と被支配、先進国途上国などの対立概念で分断されているのではなく、多勢を占めるのは中間層であるのが事実だと言うものです。
この話を延伸すれば、私が時折しがちな、”真実の生き方と虚偽の生き方”という分断した人生観を持つのではなく、真実味とか、嘘っぽさとか、真実と虚偽の中間とか、そういったグレイゾーンを認めることで、より事実、実際に近い自分像や世界像を認識することが出来るのではないかと思いました。
これによれば、信じているわけではないが、まるきり信じてないのでもないという信じることについての中間層が膨大にいることが予想され、それの良し悪しはさておき、そういう実態がある事と、その実態によって起こる社会のムーヴメント、世間の有機的な流れの姿についても、分け入る事が出来るのではないかと思いました。
そう思えば、菩薩というのはある意味で衆生でもなく仏でもないグレイゾーンだとも言え、人々の大半がこの菩薩性を何らかの形で有し、また発揮している可能性はあると思いました。
私の自分観についても、自分は悪いのではないかとか、善いのではないかと思うよりも、善悪の滑らかに混ざった中間色であるのが実態である可能性は否定できません。

仏典には、昼と夜が合しないように、という言い回しがあり、境界はくっきりとしているという場合もありますが、それが真実かどうか、あるいはその意味する所はまだ研究する余地があると思います。
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この回答へのお礼

返信が遅くなりました。

この本も私は読んでいないので推測になってしまいますが、この著書の言いたいことが
読者にキチンと伝わっていないのではないかということをまず思います。

例えば、貧困、環境問題等について「ドラマティック」に見てしまい、事実を見誤って
いるケースは多々あるでしょう。

いくつかのデータから見て、そんなに悲劇的なことはない(そういう事実はあるでしょう)。
だから、世の中は少しずつ良くなっているのだから、心配することはない、と結論するな
らば、あまりにも科学的厳密さがないと思います。
著者がそういう結論を述べているのならば、私はこの人は「タコ」だと思います。なぜなら
著者は医師でもあり「公衆衛生学者」という肩書を持っているからです。
そうですね、少なくとも1000件のデータを提示していただきたいと思います。

世界的ベストセラーであるから、書かれてあることが「正しい」と一般大衆は思いがちです
が、私は「売れ線」狙いなものが山ほどあると思っています。

動画でまとめられてるような論調が嫌に多いなとは思っていましたが、この本の影響である
ことが分かりました。

貧困層に対する問題が提示されていましたが、アジアで貧困層をターゲットにした社会起業
家がどんどん出て、貧困が解消されつつあるということが書かれた本を、十年ほど前に読ん
だことがあります。アフリカのことはよく知りませんが、アジアでは、偉大な情熱をもって
自国の貧困と戦う戦士がいることを私は知っていましたから、この情報化社会で知識層がそ
れを知らないというのは考えにくいことです。

ご指摘の「分断」ということについては、この本の中では「本能的」なものとして扱われて
いるようですが、これは科学的思考、デジタル的思考がもたらしたものではないかと思われ
ます。
昔は、もっとずっとアナログ的に人も社会も見ていたと思います。個性も認められていまし
たし。
「決めつけ」がとても多くなったと私はずっと感じています。それは、いわば「現代的思考
法」であり、その思考法の全体像を共に哲学してゆきたいと思っています。

お礼日時:2019/12/07 04:03

私は自信が細く、良い線行ってても、これでいいのだろうか?と、その良さを打ち消してしまう事もよくあります。

もっと伸び伸び生きれたら良いのにと思いますが、慣習的な自己否定感がよく引っかかります。

人にはそれぞれ弱点があって、また恵まれている点もあり、一概にその人全体をして弱者だと言えるようなことは少ないのかなと思います。それこそ運により転落し、不遇に生きる人はそれだけで人格が廃れていくように思われますが、実際にはその人の人格が廃れたのではなく、もともと内在していた人格の荒廃した面が、境遇によって表に発露しているのではないかと思うこともあります。

自己を開発して行くこととは、自己の内にある豊かな部分が活きるような境遇に自己を導いて行くことなのかなとも思いました。端的に言えば平和に生きるということで、それはお金持ちになって余裕のある生活をすると言う意味では無く、他者の痛みを知って自らは争わない。人に気づかれる事なく、また自分自身も気づく事なく、不穏なく、人を善導するのが菩薩の道であるのでは無いかと考えました。もしそこに気付きが存在すれば人は恩を感じます。恩は決して悪いものではありませんが、恩を受けたとか、与えたとか思うと、それに縛される恐れがあります。もし善根を植えたことに恩が付きまとえば、それは善根ではなくなってしまう。

人に善きものをあたえるならば、知らずに、知られずに与えるのが良く、湧き出る泉が人や動植物に恩を着せないように、世の中に善きものを与える人は、菩薩的なのでは無いかと私は考えました。

勿論、こうすれば良くなる、ああすれば良い、ロジカルな事で、実際にその通りに努力して行って世の中が良くなり、また他者の幸せに貢献してその事を自分の満足にし、我執少ない人は、良好だと思います。

本当の生き方とはなんでしょうね。
中々難しい。
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この回答へのお礼

キサラギさんが「自信が細い」という感じは、文章からはイメージしにくいですね。

私こそ、子供の頃は自信がなく、心の弱い人間でした。貧乏で体が弱く、人見知りする
性格でオドオドしていたので、苛められはしなくて、かわいがられましたが、馬鹿にさ
れていたと思い込んでいたんですね。

それが、社会人になって自分は無能ではないと思い始め、商売で小さな成功をして自信
が持てるようになったんです。とは言っても、たいしたことはないですよ。

本質的に「弱者」という存在はないと思います。常に強者になれる可能性を持つのが人
間の本質の一つで、仰るように、人間として廃れた面が出やすくなっている人のその瞬
間の状態を「弱者」と呼ぶことが正確な理解と言えるでしょう。

>自己を開発して行くこととは、自己の内にある豊かな部分が活きるような境遇に自己
を導いて行くことなのかなとも思いました

その通りだと思います。
自己の内にある豊かな部分とは共有している部分と個別の部分とあると思いますし、その
導き方は一括りにはできない難しいものでしょう。

私は現代の文明は、人間の内面的な部分(個性と言っていいかも知れません)が圧迫され、
時に否定されるものだと考えています。
このことは、「ファクトフルネス」の動画を見て改めて考えたいと思います。

人類の歴史の中で、人に助言をしたり、相談に乗ってあげたり、本を書いて自分の得た知識
や体験を人に伝えたり、事業を起こしたり、そういったことすべてが「菩薩的」といえると
思いますが、要はそれによって人々がどれだけ幸せになれたかが、その人の行動の総決算に
なるといえるでしょう。

そういった一切の行為が自身の中に「因」として刻印されてゆくというのが仏教の考え方に
なるわけですが、科学的には「分からないこと」になっています。

ですから、私は「菩薩行」というものは、自分が納得できるというか満足できる所を目指して
精進してゆくことだと思います。
進むほどに苦しくとも満足できるでしょうし、納得できると思います。

尤も、私の「菩薩行」はこれからですが。

お礼日時:2019/12/04 01:22

>弱者とは、現実には暗闇・絶望と言えるかもしれません。

しかし、そこに生まれる希望
こそ本当の希望ですね。そう思いました。
言い換えれば、運命に沈んだ弱者の精一杯の「希望」を叶えてあげたい、というのが「
菩薩」「仏」あるいは「神」の心ではないか?そこに宗教の存在意義の一つがあると思
います。
仏が衆生を信頼している、のかどうか?これは、難しい。

そうですね。抗えないものに打ちのめされた人の心底の希望とは一体なんであるか?これを悉く知っているのが菩薩・仏の類だと思います。
弱者の中に希望を見ると言うのは、その人自身が自らを励まして、自ら立ち上がり、自ら立ち直って、究極の道へと自ら歩みを進めていくことを、見るのではないかなと。つまり菩薩・仏は、その弱者の手助けはせず、又出来ないのであるが、その弱者自身が弱者ではなくなり得ることを知っていて、それを見抜いていて、それに必要なもの、すなわち発心をこそ期待し、希望し、見ているのだと思います。その発心を得させるのは、人自身の深奥に秘められているそれ、善の本のものであると考えられます。色んな障礙があってこの心の深奥に秘められているものの働きが表面(人生)には現れてこないのが衆生であり、色んな障礙が取り除かれ、その心の深奥に秘められているものの働きが自在に現れているのが菩薩・仏なのだと思います。この善の本のものが何処から生まれるのか?なぜ生存が生存を超えさせるのか?については、まだまだ考究できるところであるでしょう。

その働きの現れとは例えば徳行であり、与えるという徳を例にとれば、貧しい人に金品や食べ物を与えるのではなく、貧しい人をそのままに富める人と成す事が、真に与えること、与えることの本質です。こういった事こそが真実の道であると考えられます。多くを持っていても物惜しみする人は貧しく、少ない中からこそ分かち合える人こそ富める人なのであるということ。ここに、物質世界(生死の流転)を超え、また”我あり”という精神を握りしめ執著するところの世界を離れた、人としての在り得べき姿の一端が現れるのだと。

とは言っても飢えの中で正気を保つことは難しいですから、実際に飢えてはいないのであるが、そのような境遇を慮って、自らはそういった道に適った生き方を(こころで)しよう。そう決意して、慎みという美徳や、諸々の徳が備わった静かな人が生まれるのだと思います。
実際の飢饉や戦災、自然災害に苦しんでいる人を現実に助けるとなれば、そういった社会機構が必要ですし、これは善道を行く為政者や、正義の人の仕事になると思います。そして、このような実力を持つ人々の拠り所とするところもまた、正道を行く人々の説くところと同じなのだと思います。

ところで、以前、と言っても十五年ほど前ですが、家の近くにある国連関係の機関に努める外国人の方と少しだけお話しする機会があって、質問したことがあります。何故アフリカは貧しいのか?という質問です。その答えは、アフリカにはリーダーが居ないのだという事でした。自らの地域や国を率いてそこを豊かに、平和に、人々のしあわせが実現できるようなところにしようと志し、力を持った善きリーダーが欠けているために、アフリカ諸国の発展が叶わないという事です。そのようなリーダーを生み出す土壌を育むところからしなければならないが、飢饉や内戦で荒廃したところでは、その土壌改良自体がままならない。それで、何時まで経っても貧しい地域・国となってしまう。
これは一面そうだとも思います。
しかし、アフリカの将来性を見越してそこに資本投下する国々も少なくないのであって、物が先か、心が先か、それは論じてもあまり意味がなく、物が先で生活改善の結果、人々の心が育まれ、彼らの暮らすところが立派な国や地域となったならそれはそれで良いのだとも思います。

そう言った生存の原理に基づいた生き方が、生存を超える原理を生み出す基となるのは、ある意味、道理な気もします。衣食足りて礼節を知るではありませんが、人は、経済の行き渡った状態で、初めてそれ以上のものを求められるというのは、一つの事実であると思います。
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この回答へのお礼

「弱者」は何故生まれるかといえば、「心が弱く、運がない」という資質からではないかと
思っています。
「心が弱い」と言っても意味が広くなってしまうでしょうが、自信がないとか、だらしがな
いとか、流されるとか、いうことになると思います。そして、運というものはどうしようも
なく「あるものである」と思います。

こういう人たちが社会の中で踏みつけられて、あるいは威嚇されて、更に弱者になってゆき
「絶望」するとともに「希望」を持つのでしょう。
しかし、近頃はあっさり希望を捨てる人が多いようです。

そして、ひねくれて、汚くなって、卑怯なことをしたり、自己満足の世界に閉じこもったり
して、運のいい人を妬み、引き摺り下ろそうとさえしているのが残念ながら、この娑婆世界
ですね。
心の清い弱者は、とうの昔にいなくなったようです。

でも、人間ですから、心の底には希望があるはずだと思います。そうした弱者は(また十界論
が出てきますが)六道輪廻でも、四悪趣が多いのであろうと思います。

そんな衆生に対し、仏は四聖へ道を開く「仏道修行」を提示したということだと思います。
それは、「菩薩行」という実践哲学です。

従って、信頼というよりも、やはり「慈悲」ということになるのではないかと考えられます。

「菩薩行」は自己を開く道でもあり、社会を結果的に良くすることになるという、自他ともに
幸せになるという、いわば「WIN WIN」の関係になれる哲学ということができるでしょう。

仏教の実践哲学はもっと、詳しい話になるのですが、大枠を申し上げました。

アフリカ諸国は、指導者がとても悪いということをよく聞きますね。自国の指導者も、関わっ
てくる国々・企業も、所詮は自分らの利益のことのみでは、永久に豊かにはならないでしょう。
インターネットの普及によって、どこまで、ということは思っています。

お礼日時:2019/12/03 00:48

私の前回答、誤字多かったですね。


年額→勉学
原型→元型
でした。

自己否定によって成長が始まる。この見解については私も同意します。もっとまともになりたいとか、ちゃんとしなければとか、自分の拙かったり情けなかったりする部分を認めて、前向きになれるなら、その自己否定は良かったのだと思います。
前回の回答では、それとは別に、只の純粋な向上心というものがあるのではないか?と言う思いから、自己否定では無い動機で始まる求道について、堅いと表現しました。例えば、真面目な人がヤクザになることなく一生堅気で過ごすように。
少なからずの人は私も含めて基本ひねくれていますから、道を外したところから正道を求めて勉め励むわけですが、最初から道を外さないパターンもあるのでは無いかと言うことです。

今朝は時間が無いので、ここら辺で。
また来ます^_^
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この回答へのお礼

なるほど。今も昔もエリートさんはそんな感じですかね。(偏見ありかな?)
そして、近頃では、そういう感じの人生観は多いと思います。

私は昭和育ちのスポ根漫画世代で、ジョーが大好きですから、ドロドロの自己否定
の世界が大好きです(笑)。

お礼日時:2019/11/30 11:18

信仰がループして権力側と市民側に交互してるだけです 

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この回答へのお礼

信仰心は常に利用されてきたと言ったほうが分かりやすいのでは。

お礼日時:2019/11/30 11:04

お礼、補足、ありがとうございます。



>自分を成長させるために勉強するとの意味での「自己否定」がなくなった状態と言えないでしょうか?

 自己肯定的な勉学という事でしょうか。自分はダメだから向上しなければならない、というのではなく、年額によって自己の学識を増進しようという自己肯定的なもの。もしそうなら、それいい意味で、堅いと思います。

・強者の威嚇について
強者の威嚇を民衆が、自己の防壁として認識するという事はあるかもしれません。人々の頭領は統制力を働かせて、人をかくあるべしと縛りますが、その事によって人が育成されるのか、はたまた隷属させられるのかはその頭領の特質にかかっていると思います。頭領や権力者が居なくとも人々は怒りや憎悪のある限り争うものだと私は思っていますので、台座の上にある者だけが罪深いと言う訳ではないと考えています。

・イメージについて
これについてのニャンポコさんの見解は特に興味深く思いました。賢者のイメージは確かに人間の心に存在しています。ユング心理学では老賢人と言われています。父性の象徴でありますが、精神の成長の導き手ともなる原型の一つです。原型には肯定的な意味と否定的な意味とがあり、その両義をどう解釈するかで人生の歩み方も変わってくると考えられます。肯定的な意味を取っても過信せず自信を持ち、否定的な意味を取っても退転せずよくそれを解釈する必要があるでしょう。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~lerxst21/rush/anima. …

・弱者の中に希望を見ることについて
これは一言で言うと、信じるという事です。人は恐怖故に自分よりも強いものの言葉を恕します。争いをしたくないがために、同輩の言葉を恕します。しかし、自分よりも劣ったものの言葉を恕す人があるなら、それを最上の忍耐と呼びます。この忍耐こそが、いわば本当のやさしさであり、その忍耐を為す人は弱者の中に光(希望)を見ているはずだと言うのが私の見解です。
矛盾するようなことことを言いますが、暗闇の中に希望を見るとはそういう事だと私は思うわけです。
人は光を求めます。優れたものを求め、力を求めます。しかしながら真実はその逆の方にあるのではないか?というのが最近の私の思うところであるのです。
仏は衆生を信頼している。これが今のところ、私の考えるセオリーです。
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この回答へのお礼

●「自己否定」ということについて。

私は「成長」とは自己否定の結果起きるものであると思います。現在の自分の「内容」
に対する「懐疑」ともいえると思います。

しかし、私も若い頃社会の中で先輩達の「厳しさ」に触れました。そして猛反発しまし
た。「うるせえ」と思いました。多くは、厳しさが人を育てるという硬化した考えがあ
ったと思いますが、中には素直に聞いておけばよかったというものもありました。

私は考え方が変わっているので、そこを怒られたわけです。それは、私の本質に対する
否定だと感じたので、反発しました。私の未熟さを指摘されたこともありましたが。

そこいらは難しいですね。その人の本質を否定しないで、内容の未熟さを指摘し、気づ
かせてあげる。

現実は、未熟さが大変に放置されてしまっていると思います。

信仰も懐疑によって深まると思うんです。信じている心が懐疑を生み、その懐疑が理を
求め、その結果信が深まる。懐疑は「求道」です。求道がなくなると信仰の硬化が始ま
ると思います。

●歴史上の英雄たちをはじめとした権力者たちは、歴史の教科書等では、かなり美化さ
れてきたと思いますが、実は、人間的にクズだったケースが多いと思います。
クズだったから、侵略戦争を起こしたり、自国民の大量粛清をしたり、人の住む町に原
爆を落としたりできたわけです。
権力を持つとキチガイになることが多いようです。我々だってどうなるのか?これは、
人間の宿命としか言いようがないですね。これを、解決する哲学があるのか、というこ
とですね。

●秋山さと子さんのこの本ですね、懐かしい。心理学の本を何冊も読んだ時期があった
のですが、この本が一番印象に残っています。

●弱者の中に希望を見ることについて

これが本題ですね。

弱者とは、現実には暗闇・絶望と言えるかもしれません。しかし、そこに生まれる希望
こそ本当の希望ですね。そう思いました。

言い換えれば、運命に沈んだ弱者の精一杯の「希望」を叶えてあげたい、というのが「
菩薩」「仏」あるいは「神」の心ではないか?そこに宗教の存在意義の一つがあると思
います。

仏が衆生を信頼している、のかどうか?これは、難しい。

お礼日時:2019/11/30 00:01

質問が多過ぎねえ~


否定と、結論するには、知らな過ぎじゃね~

歴史を学べば、宗教は、歴史の基礎、基本であり
その役割は計り知れない程大きい
その教義は何処に出発点があるか、深く学ばなければ分かりません、よ

聖書の哲学、のお話をします
〇政治上の権力と対決する所から生まれた
〇祭紀的呪術の宗教よりも高次元の人間的価値や創造をめざしている
〇実践する弟子達の行動は必然的に民衆救済に立ち上がった
この三点を踏まえて
http://rokusann.sakura.ne.jp/newpage5.html

今現代社会で最も必要と思われる仏教の慈悲について
「汝自身」を知る所から、始めなければなりません
最期まで読めるかな?
http://rokusann.sakura.ne.jp/sub5.htm
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この回答へのお礼

教科書を丸写ししたような、しかもやたら長い文章を回答として「読め」
というのは、いかがなもんだろうか?

そして、こんな文章を書いている人って、どんな理解をしているんだろう
なと思っていましたよ。

例えば、「十界論」って、要するにこういうことなんだ的なことが「分かる」
ってことだと思います。

お礼日時:2019/11/26 19:20

横やりm(._.)m



キサラギさんとニャンポコリンさんの
宗教の本質を聞いてると

大衆とな
民衆心理が
抜けてるような
宗教って
もっと柔らかい物じゃないと
民衆とか大衆には
浸透しないような
疑問をもったけど

例えるなら
世間の冷たさから
身をまもる
毛布とかカイロみたいな
感じかなぁ~

横やりm(._.)m失礼しました
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この回答へのお礼

あなたの割り込みは、礼儀をわきまえていると思うので、ニッコリ。

「宗教・哲学」は人間のためのものですから、母親の愛のように温かいものであるべきです
し、また、それだけでなく父親(本来の)のように厳しき愛もあるべきで、師匠や社会のリー
ダー(本来の)のように大きい愛もあるべきかと思います。

お礼日時:2019/11/24 14:22

第一原理なるものを求める方と言うのは本質的に探究者なのであって、これを宗教的に言い換えれば、信じられるものを探している、と言う事になると思います。


つまり、実際には、多くの人々は拠り所が欲しくて信仰に入るわけですが、この探究者と言うのは、自分で、神とか真理とか第一原理とか智慧とか言うものを見つけたいと思う人であって、これは市井に普通に見られる信仰の形とは異なる態度であると私は思うのです。
例えば、この様な人が宗教に入信したなら、次の様な疑義を持ち、またそれをなんとかして解決したいと思うでしょう。

神は本当にいるのか?
神は本当にそんな事を言った(行った)のか?
宇宙の原理とは何か?
宇宙の原理は存在するのか?
解脱は起こり得る事か?
解脱とは何か?
真実とは何か?
真実はどこにあるか?
そしてにゃんポコさんがおっしゃる様な、
第一原理とは何か?
それは如何にして見出されうるのか?
果たしてこれは真実に第一原理であろうか?
これが第一原理であると言うその根拠はなんであるか?

などであります。
そして探究者はこれらの解決を基本的に他者に委ねない。自身の納得を得るには自身で解決せねばならぬと、思っている事でしょう。

威嚇について。
過去には、国師と言う者がいて、彼は武力を持たないのであるが、武の権勢を誇る為政者に物申す立場で、その権力者に弱からぬ助言を為したと聞きます。
国師とはすなわち智慧ある者であり、武人はこれを尊重した事が歴史にはあったようです。国師には武人の威嚇は通じず、通用せず、必要とせず、ただ良き指南者として振る舞ったと考えられます。
当然世の理を把握しているのは国師ですが、国師の描く理想を回転させるのは武家の役割だったのかもしれません。
武家にも暴君と君子がいるように、尊敬される武王と、人々を抑圧する武王がおるのだと思います。国師の言う事に耳を貸さず悪しき甘言のみを欲するのは暴君ですし、耳に痛い事でも世の人々の小さな声を聴こうとするのは君子であるでしょう。

今では世も様変わりし、支配者も支配の仕方も昔のようではありませんが、つまり本当の支配者は民衆の目からは隠れていると思われますが、例えば自分が貧しいのに、金持ちを崇拝するのは卑俗ですし、自分が裕福であるのに貧者を軽んじないのは立派な態度であります。
先ほども申しましたように、強者に平伏すのは本能的な反応ですが、これが現在の基本的な宗教心理だと思います。
もし神や仏が下らない存在だとしたら誰が信仰するでしょうか。神や仏が偉大だとされているから信仰が成立するのでしょう。

しかし本当の信じる心は、弱者の中に希望を見る事だと私には考えられるのです。
そうでなければ本当の安らぎは得られないような気がしております。

にゃんポコさんのおっしゃる信仰心は、探究心にも連なるものであり、信仰を起こす皆が、その様な探究心を伴うとは中々私には考え難いです。大概、聖書ありきとか、経典ありきとか、開祖の言葉ありきとか、〇〇ありきで始まっているのが衆なる人々の持つ信仰の様に思われます。そこでは疑義は推進力では無く、迷い、弊害であって、信仰は深さでは無く硬度によって評価されている様に私には思われます。
一概にそれらを否定するつもりはございませんが、その様な心理が人々にはあるのではないかと思う次第です。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

今回の返答は長くなりそうな気がしますので、できるだけ簡潔にと思います。

人が信仰に入るにはいくつかの理由があると思いますが、私の場合は、親が信仰を持っていて、
親の教育によって自分の意志ではなく、信仰を持つに至ったということです。
しかし、人間一人前になるまでは、親に教育されたものは「教えられた通り」にしか理解しない
ものです。私もそうでした。

「一人前の人間=信念をもって、すべて自己責任で生きることのできる人のこと、と定義します」

そして、人生経験を重ねるにしたがって、その「教えられたもの」が現実社会の中でみると、よ
くわからなくなってきたのです。仏とか成仏とか地獄とか、ですから。
それで、多くの人が信仰から離れていったのを見ていましたし、私自身も離れました、半分。

半分残っていたのは、直観で感じたものがあったということだと思います。

その後更に人生経験を積み、持ち前の物事をトコトン追求したくなる性格が開花すると、段々納得
できるようになってきたんです。それで、「これで人生行こう!」と思ったのです。これが、私の
信仰の始まりです。実はそう思ったのは、ついこの間です。

で、私の一番の思いは、真理を分かりたいということではなくて、この仏法の説く力が本当であっ
たなら「物凄いことだ」という感動です。
ですから、私の本質は探求者とは言い難いでしょうし、本質的な探求者は信仰にはあまり興味はな
いのでしょう。

人間にとって、信仰心というものが何故起こったかといえば、簡単な話で、「明日どうなるか分か
らない、死んだらどうなるか分からない、だから怖い、安心して生きていたい」ということだと思
います。

そして、私は仏法哲学に人生(死後も含めて)を賭けたんです。賭けるということは、一人前の人間は
誰でもやることで、宗教だけではなく、自分の考えであったり、家族であったり、仕事であったりす
るということで、宗教に賭ける人が弱い人というのは間違いです。

それから、「~ありき」というのは信仰を持った人だけでなく、多くの人が自分の考えについて頑な
ではないでしょうか?
その「硬度」の高さとはなにかと考えますと、自分を成長させるために勉強するとの意味での「自己
否定」がなくなった状態と言えないでしょうか?

お礼日時:2019/11/24 04:33

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