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1. 悪は 善のへそ曲がりであり 善の損傷行為である。

2. だから 悪は ない。存在しない。

3. 善が傷ついたことを 悪と呼ぶに過ぎない。

4. またその傷つける行為のことである。

5. 善とは ふつうに日常生活をじみちに生きることである。


☆ これを問います。

質問者からの補足コメント

  • №2お礼欄について 次を訂正します。


    X 10. 《普段の生活において自然ふつうにふるま》(8)うことは・つまり
    言いかえると 《ふと寄り道をしたり道草を喰ったりすること》は・・・

    ○ 10. 《普段の生活において自然ふつうにふるま》(8)うことから逸れる
    ことは・つまり言いかえると 《ふと寄り道をしたり道草を喰ったりすること》は
    ・・・



    ☆ お詫びします。

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/11/18 10:40
  • №42つづき

    《善を過度に求める》という部分(そういう説明)は わたしが触れていなかっ
    たところです。

    自由意志の自由度が あんがい広い・つまり悪にしたところで何でもありとすら
    言えるほど広い範囲の《自由度》が見られる・・・というところから説明したか
    ったところです。

    《善を過度に求める――そのことも間違いではない――》という代わりに 《自由
    度ないし善のゆたかさにおいて 寄り道としてのヘソの曲げが生じた・・・と言
    いたかったわけです。




    ★ 善は悪なしにも考えられるが、善なしにはいかなる本性も考えられないとい
    うこと。
    ☆ 善を理念としてのごとく・あるいはイデアのごとく 高くかかげる説明はこ
    こではしていません。《生活日常の安定性・そのあゆみ》というふうに定義して
    います。


    質問者は このように:
    ★ 関係ないことツラツラ書いて哲学うんぬん言ってる
    ☆ ところです。

    No.42の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/11/24 08:10

A 回答 (54件中41~50件)

基礎理論というよりは、殺しを当たり前に目にし、悲しい思いもあるから、土地土地で自生的に成長した秩序、慣習法がもとにあるのではないで

しょうか?古代のローマ法も参考になるのでは?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 土地土地で自生的に成長した秩序、慣習法がもとにある
☆ という見方を同じくします。

では その起こりは さらに具体的にどうなのか? 


★ 殺しを当たり前に目にし、悲しい思いもあるから
☆ といった実際の経験から学習し そこに一般性のある要素要因を取り
出し分析し 良し悪しそれぞれの普遍的な内容を探し出す。

その結果 わたしの場合は やましさ反応と恥ぢを基本要素と見なしまし
た。

これらが 良心のハタラキとして起こる心的現象だと捉え 基礎理論とし
ました。



掟やさらには法律は あたかもこれらの基礎理論の展開としてナラハシを
捉えたなら このナラハシの位置づけとして現われて来るものと思います。

ムラ共同体で ナラハシの威力をかためたものは 掟や法律となるように
です。

お礼日時:2019/11/18 16:32

汝殺すなかれは、現代では、自然権にして人権の、自由とい概念で、表現されてますね。

他者の生命人生生活に手を出してはいけない、という形ですね。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


ですから その基礎理論は どうか? この問いが 哲学のものであり
ここでの課題です。

お礼日時:2019/11/18 13:42

最大の利益は生命です。

あとは財産、財産権、所有権しかりです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 生命
☆ というのは 存在のことです。存在を否定することは 一般に
やましさ反応を引き起こすものと思われます。

そういうふうに 哲学としては理論を模索すると思います。



ウソ・イツハリは 人間の自由意志のそのまた自由度によって――
その道をふと曲がってしまうこととして――起こされるマイナスの
善(ふつうの心)だと考えられます。


意志自由の自由がまもられることが やましさ反応から自由なふつ
うの心(善)だと思われます。

そういう意志をとうとぶか・それを踏みにじるかという判定基準に
よって:
★ 財産(☆ つまりわれの仕事の結果得たもの)・所有権
☆ について考えられ そしてそれらをまもることが 善だと見な
されるものと思います。

お礼日時:2019/11/18 13:40

パスカル曰く、ピレネー山脈を越えたところは、こちらの真理は向こうの非真理であると、道徳的価値観も同様です。

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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

かつてパスカルの指摘するようであった。いまでも まだそう言えるような
善悪観の対立する状態が のこっているかも分かりません。

でも おおむねはすでに世界的に 《なんぢ ころすなかれ》は 心の自然
にふつうにおもむくところに逆らうことであるゆえ――やましさ反応が出る
ゆえ―― 善をそこねることであると 考えられているのでは?


たとえウソをつくのが常態であるところであっても ウソはいけないという
タテマヘはすでに確立しているのでは?


つまり 共同主観を模索する時代なのでは?

お礼日時:2019/11/18 13:32

結局は質問者さんの恣意的な定義でしかないのでなんとも言えませんね



たとえば「左」というものは存在しない、たんに「右」の逆でしかない
というのと同じでは?
この手の表裏一体のものは関連性で説明できるからといって
片方が主でもう片方が従のような説明は不適切です。

悪を異常に特殊な生活を破天荒にいきることと定義して
その反対が善とすることは成立しないのでしょうか?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 恣意的な定義でしかない
☆ 理由として:
★ たとえば「左」というものは存在しない、たんに「右」の逆でしかない
というのと同じでは?
☆ なんですか? ほんとうに?



★ この手の表裏一体のものは関連性で説明できるからといって
片方が主でもう片方が従のような説明は不適切です。
☆ わたしの心を動かしません。



★ 悪を異常に特殊な生活を破天荒にいきることと定義して
その反対が善とすることは成立しないのでしょうか?
☆ 成立しません。《異常に主な説く生活を破天荒に生きること》が善だと
言う場合がないとは言えません。


北半球で昼間の太陽に向かって太陽ののぼって来る方角が 左であり もう
一方は 右だとでも定義すればよいぢゃないですか?

やましさ反応による善とそして悪とは そのように定義していますよ?

お礼日時:2019/11/18 13:27

他者の利益を損なわない、が道徳の本質で、スムーズに共存するには、道徳=利益を守るためのルールは、共同体の他者との間で共有されなくてはなりません。

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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

でも もし№8の条件のもとでは:
★ 利益
☆ とは何か? について 時代が変われば 正反対の内容になって
しまうということもあるかも知れないぢゃないですか。


★ 共同体の他者との間で共有され
☆ るような内容あるいは判断基準とは何か? この問い求めにすす
まねばならないですよね?

お礼日時:2019/11/18 13:21

あるべき、あらぬべきは、地域ごとに、民族ごと、社会、国ごとに異なりますから、そのように表現しています。

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この回答へのお礼

そういう場合には 次のように問い返す必要があるかと思います。


地域や民族ごとに違う判断が成されるというとき その結果とし
て 互いに反対の選定になり得ますか? と。

つまり 民族Aと民族Bとでは 善と悪との判定が まるで反対で
あったということはありますか?


もしないとすれば 或る程度の判定基準が分かっているのではな
でしょうか?



ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2019/11/18 13:17

評価としての、あるべき姿=善とあらぬべき姿=悪ですかね。

非常に共同体内で、他者との間で、共有されているルールに基づいた道徳評価であると考えます。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

その場合には:
★ あるべき / あらぬべき
☆ という判断を どのような基準でどのようにおこなうのか? が知り
たいとなります。


★ 非常に共同体内で、他者との間で、共有されているルールに基づいた
道徳評価
☆ どうして《共有されている》のか? この問いが 善悪論にこたえる
筋道ではないかと思うのですが。

お礼日時:2019/11/18 11:27

> それ


> って どの語句をさしていますか?

悪は 「善のへそ曲がりであり 善の損傷行為」である。
「善が傷ついたこと」を 悪と呼ぶに過ぎない。
また「その傷つける行為」のことである。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


(あ) ★ ~~~~~~
悪は 「善のへそ曲がりであり 善の損傷行為」である。
「善が傷ついたこと」を 悪と呼ぶに過ぎない。
また「その傷つける行為」のことである。
~~~~~
☆ この部分が 悪ではないか? とのご見解ですね。


つまり――解釈するに――たとえば 《たとえ善と悪とについて定義し
それが 或る程度において現実に見合っており妥当であると思われたと
しても 人間の成すことがそもそも 善とは言えず悪ではないか?》と
いうことでしょうか?


どうして でしょう?

人間の思惟や行動が相対的なものであり そもそも人間という存在じた
いが相対的なものなのだから。という理由は 理由にならないと思いま
す。

なぜなら (あ)のように定義して世界を認識するということは それ
として成り立っているなら それで いまこの問い求めは 満足なんで
すから。

お礼日時:2019/11/18 11:24

『善』と『悪』



・これは、キリスト教をベースに考える『善』と『悪』なのか??

・キリスト教では、『善』と『悪』、、、しかないのか??

・これは、内証(生命、心)の『善』と『悪』を言うのか??

・それとも、人の行いによる事象の善』と『悪』を言うのか??


※問う前に、『善』と『悪』について質問者様が定義しないといけない
のではないですか。

※仏教の概念から言えば、『善』もあり『悪』もありです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


お手数ですが 回答№1からつづく回答へのそれぞれのお礼欄に 趣旨説明欄
からつづく説明を――番号をつけて――書いて来ています。それを ごらんに
なってくれますか?

横着ですが。

お礼日時:2019/11/18 11:17

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