これには批判もあると思うが、超越や解放を目指すなら、という話。
生き残りに懸ける命は勿体ないと私は思うのだけれど、皆さんはどう思いますか。
生き残るために策を練り、生き残るために心を押し殺し、生き残るために命を削り、生き残るために我慢する。生き残るために戦う。生き残るために、、、の後にはどうも悲壮感が漂っている場合が多い気がする。命(存在)を懸ける対象としては、生き残りというのは不適なのではないか。
生き残るために楽しみ、とか、生き残るために喜び、とか、生き残るために安心し、とか、生き残るために協和し、というのは無いわけではないが、あまり聞かない。
太古から現代まで、ずっと存在してきたサバイバル原理というか、闘争原理を破壊して、超越や解放を目指すことはできるだろうか、という話。これは、雲の上の御伽噺だろうか。生存原理は存在原理に劣るという主張と捉えてもいい。
たまにはこういう話も振ってみようと思い立ち。それが今夜でしたという話。
追伸:
超越とか解放というのは、例えば、食べなければならないという生存のルールに支配されなければ、あなたは何をしますか?みたいな問いに対する答え。過去から現在までの生命の営みを無視することともとらえられますが、非現実的で意味がないと思うことなかれ。良ければ考えてみてくださいな。
最近マイブームの、岡本太郎的に言えば、 一瞬を生き切れ! と言う事も出来るかな。
存在を透徹しようとする哲学人たらんとするなら、こんな問いにも当たってみてもいいかもしれない。
知らんけど。
No.111
- 回答日時:
過激にファイヤー!
燃焼に興味がおありでした。
ラ
世界平和の無血革命に!
お暇があればどうぞよしなに!!
ニャンさんが、リンク貼ってくれた
歌謡曲歌い手さんも私は好きですよ。
人それぞれ見え方が違うことにも、実は深い意味と因果があるのかも知れません。
さあ踊り出しませう!
この命輝き
光と音の 躍る 惑星(ホシ) リテラ・アディリセラス・ガイアースにて…
確か未来で聞いた銀河連盟中心のホシの名前でした…
あなたにも光の歌が聞こえ出す✨
No.110
- 回答日時:
今日たまたま見つけた動画です。
この曲は私は大好きで、この人上手いなあと思いました。でも…
上手い、きれい、心地よい…です。
そう、はっきり言うと退屈なんです。
Queenのデビューアルバムを聴いたのは12・3の頃でしたが、一発で夢中になりました。
「面白い」と思ったんですね。特別ではなく、「ユニーク」な創造性があると思ったんで
す。
キサラギさんとはセンスとか好みの違いはあれど、太郎の中に自分を見たという点で一致
しており、同じ本質を持っているのだろうと思います。
まったくその通りだと思います。太郎に自分を見た。太郎に触れた多くの人々がそう思うはずであり、世代もさまざまな人々がそう思うと言う事自体が、太郎がユニークでオリジナリティある生を生きながら、普遍的な生を歩んだことの証左であるでしょう。
この歌は、ナヨナヨしていると思いました。私も、今まで良いと思っていたものが急に退屈に感じられてきたのです。その最たるものが自分であります。自分はなんて下らないんだと、思うようになりました。それは意気消沈したのではなく、克己の始まりなのであります。
No.109
- 回答日時:
№100で言いたかったことを別な観点から言おうと思います。
太郎は天才だと思います。歴史上の天才たちが示したことを人類が理解したかというと
まだまだ理解されていないのと同じで、太郎の言うことが理解されたかというと日本な
んかでは全くと言っていいほど理解されていないと思います。
それは、現代社会が太郎の言うことと全く正反対の方向へ進んでいるからです。太郎自
身もいろんなことをしたけれど「何も変わっていない」と言っている訳ですよね?
それは、一部のとびぬけた人は除いて、一般大衆のレベルから見れば、何百年か進んで
いるということになると思います、太郎は。つまり、時代が全然追いついていないとい
うことです。
天才の悲哀は孤独であるということです。そして、天才の欠点は凡才の心が分からない
ということです。「名選手名監督ならず」で、教え方が下手くそだったと言えないでし
ょうか?
人々に伝えるためには、既存の枠の中で教えてゆく必要があると思います。いきなり、
破壊だの爆発だのしても人々は戸惑ってしまうのだろうと思います。
とまあ、言うは易しで、行うのは難しいです。少し前に文化の継承の仕方云々というこ
とを言いましたが、物事を変えること、人に教えること、に今興味を持っています。
意外とこれ、盲点かもしらんと思っています。
芸術は「上手くあってはならない、綺麗であってはならない、心地よくあってはならな
い」、これは、現文明に対する徹底的な否定ですね。そして、人間の魂の中に正さがあ
る、ということを断言した太郎に私は痺れたわけです。
キサラギさんも同様であると思います。しかし、こういう、何というか主観的な世界は
ともすれば「我尊し」に流されてしまうことが往々にしてあると経験上思っているので
いつものように余計なことを言いました。因みにホモ・デウスとは「慢心マン」という
意味で使いました。
そう、太郎は、世界は何も変わってないどころか、よりつまらなくなったと言っております。
太郎の講演などの録音を、ユーチューブなどで聞いていると、太郎が何か言うと、拍手が起こったり、笑いが起こったり、沈黙が起こったりして、聴衆がしっかり太郎の話に耳を傾けているのが分かります。太郎の平手打ちに、心地よさを感じると同時に、不安や自己懐疑が錯綜して、何とも言えない気分になったのではないだろうかと思います。
今回はにゃんぽこさんに物申す形になってしまうのですが、太郎は他人に教えるなんてことはしないと、私は思います。教育についても発言していますが、教育という字義にすら反対的な意見を持っていたようです。太郎は決して教育者ではないし、伝道者でもなかった。ただ燃え尽き、その光を死してなお発し続ける一人の男として、私は彼を尊敬できる。
ところで、太郎は祭りについても思うところが深かったようで、全国の祭り、それも、何百年も途絶えたような土着の祭りを復活させようとする運動を、支持したようです。
太郎は画壇に収まるような、美術界に収まるような人間ではなかった。素朴な姿勢の人々に、自分の芸術が届くことを欲した。太郎は天才で、凡人である一般大衆から乖離しているか?とんでもない。彼はむしろ、高尚な世界ではなく、素朴な世界に近づこうとしたと私は思う。人々にこそ芸術が必要だと思っていた。
信念が始まりなんだ。太郎だって抽象に入ったころの絵は、細々として、不安気で、頼りがない。はっきり言って、大したことない。痛ましい腕
多くの人は思う。僕なんて、私なんて、と。違うんだ。僕だから、私だからいいんだ。
それを主観的だ、我尊しと言って、傲慢だと言って軽蔑されるなら、もっと傲慢になってやっていいんだと思う。
私は今まで大人しすぎた。もっとややこしくてもいいと思う。
主観(=自身)の内に開けた宇宙こそ、本当に広大なんだ。だからこそ、客観(=他)の宇宙に挑みぶつかることができるんだと思う。
尊大だと思う。でもそれくらいで、ちょうどいいんだろうとおもう。
それでないと、寒くて凍えてしまうに違いない。この宇宙では。
生命というのはふくらみなんだとは太郎の言うところですが、内側からもりもりと膨らむそれこそが生の実態ではないのか。空虚なこの殻を埋めて、漏れ出すそれこそ、熱い魂言うべきものだろう。それには実体がある。
No.108
- 回答日時:
皆さん、燃えてますか? 不完全燃焼して人生の淀みをためてませんか?という話が、コメント107になるなんて、私も含め、皆さん興味あるんですね。
燃焼に。そうだと思います。
皆さん諫めてくださる方もおられますが、強い自己否定と自分への怒りによって、内なる炎を熾すことは、今の私には、まさにこのタイミングでは、必要なことのように思います。
その人なりの燃焼があるに違いなく、それが自己否定で燃えるのか、自己肯定で燃えるのか、その他如何なる何かで燃えるのか、ただ燃えるのか、いろいろあるとは思いますが、その方法論はどうでもよくて、燃焼しているかどうかは自身でわかるもの。自分には嘘はつけないのだから。
ところで今朝、こんな夢を見ました。
電車の最後尾に乗ってると、津波が起こった。電車が水没すると思いきや、密閉機能が搭載されていて、窓や天井が閉められて、電車は走り出す。後ろから迫る津波よりも速く走り、しばらくすると、街並みが広く明るい、やや金色をした大草原に変わった。これが原始の世界かと私は思い、想いにはこんなように現実を変える力があったのだと驚いた。そして私も含め、乗客は皆、大きな不安を感じた。あの街に頼ることなく、これから生きていかなければならない。できるだろうかと。後悔する者もちらほらいたように思う。夢はそこで終わり、目が覚めた。
No.107
- 回答日時:
ご返信ありがとうございます。
ご理解いただけたようで嬉しく思います。
残念ながら私では質問者様をノックアウトさせるには力量不足でしょう。ですから、ノックアウトしてくれる人物に出会えるよう、過去の個人的な体験から書かせていただきます。
私自身、読みが深いわけでも計算しているというわけではありませんよ。教えてくれていたのはすべて質問者様のほうですよ。
人は前を向いていると己の背中は見えませんよね。しかし、他人からはよく見えているものですよ。
ただ、そのことを間接的に書いたのは個人的配慮からです。
闇しか見えないと仰るのならば、それは後ろに光があるからです。「闇」を認識できている間は幸せです。
認識できなければ「何もわからない」と仰るはずだからですね。
ただ、いつまでも「闇」を見つめていれば、いずれ心が病んでしまいます。後ろで照らしている光は過去です。
燃焼させたいのであれば、遠くに見える光を探すしかありません。その光は未来です。
その光がどこにあるのか、知っているのは本人だけです。他人にいくら聞いても誰もわかりませんし、答えてくれません。
ですから、とことん己の過去を見つめ直して自問自答しなければならない。自分を知らなければならないのです。
それは非常に苦痛を伴い、非常に諦めを知らなければならない。
それでもその光を見つければ、吸い寄せられるように引き寄せらせるようにその光を目指してしまう。人間の不思議ですね。
燃焼できるのはその後です。
その光がいかに実現が難しいのか知り、それらに纏わる人々の様々な話を聞いて、試行錯誤しながら実際に体験してはじめて燃焼できるのです。苦労を知ることで実力以上の努力をする、そして燃焼し、燃焼した後の何とも言い難い高揚を得るのです。
質問者様は私にとってはその「何か」を探しているのか、はじめようしている人にしか見えていないのです。
私はその先にいる人々をよく知っています。しかし、そのすべてを理解してるわけではない。だからこそ会うたびに、話すたびに互いの考えを言い合い、互いに刺激を受け続けることができるのですよ。
違いの良さを衝突しているのではなく、受け入れることを楽しみ、余韻すら満喫しているのです。
仰るように、人の会話を理解できるのはせいぜい数%程度です。だからこそ、できるだけ可能な範囲で理解しようとすると、自分の概念すら時に邪魔になります。ですから、心の中を限りなく0にリセットするのです。
そうすると、相手の言葉しか入ってこなくなるのですね。ただ、そうなると次はどの視点から見ているのかが問題になってくるわけです。ここに行き違いが生じやすいのですが、私はこの「視点」を重要視しています。
「視点」というのはカメラワークそのものです。たった一つの物事にすら幾つもの視点が存在しています。
岡本太郎さんの世間では面白いおじさんという認識だったのは承知しておりますが。私の見ている視点では、病気が悪化し、傀儡と化してしまったような痛ましさがありました。しかし、それで岡本太郎さん本人が幸せだったならばそれでいいのです。
岡本太郎さんを想った岡本敏子さんの「視点」を尊重したいからですね。
なぜそう思うのか、それは目の前にあるものがすべてではないと何度も思い知らされたからです。
随分昔の話ですが、私はある人に仕事面で非常に厳しい指摘をされました。あまりにも不愉快で何もわかっていないと怒ったのです。
しかし、その話を別の人物に話したところ、こう言われました。
「指摘してくれる人がいて、よかったですね。良い経験になったでしょう」と。
私は最初驚きましたが、後に一理あると思ったわけです。不愉快なほど最もな意見を言っていた。ただ、話し方だけが気に食わないだけだったと。そして、その人に指摘されるという経験がなれば、世の中にはその人と同じような考えを持った人間がいると知ることはなかったと。
出会いは数じゃないと仰っていらっしゃるが、私には出会いの数もまた奇跡の一つです。
指摘された人物とは友人にはなりませんでしたが、私は一つ新しい「視点」を得ることができました。
そして、これまでの概念を自分自身で壊し、新しい概念を作ることができました。
そうすると、新しい概念は新しいものを引き寄せるのです。どんな些細なことも「知らないもの」は楽しくてたまらないわけですね。
また「知っていること」も見直す機会があれば、今までと違う視点を得られるのです。
何が言いたいのかと言うと、成長なくしては見れない景色をぜひ見て頂きたいということです。
ノックアウトは恐らく、その何気ない盲点を誰かに何気なく言われたときに起こることもあるということです。
意識していないときこそ、そのボタンは押されやすいと思いますよ。
ありがとうございます。
私は、自分の理解を超えている人と会うのが好きです。それぞれの人が、固有の体験を積んでいる故に、自分の理解を超えたものを持たれている。そう思って、私は近しい人だけでなく、この様なネットでお話しする人についても、陰ながら敬意を持って接してきた。
その敬意が他人に知られることは少なかったと思うけれど。
私は自分の理解を超えている人の話をするのが好きです。物事の髄に触れた様な事を語る人が時々おられる。それを聴いては、理解は出来ないが心に修めるつもりでいます。
今回、何度かお話を聞いて、あなたは真剣に回答くださっているというのが分かり、それだけでもありがたいが、その回答内容も意外なものであり、考える必要のあるもので、二重にありがたいものであります。
さて、仰るように、私は事実、まだ燃焼し始めたところであり、未来を予見しはじめたところです。
ただ、私の言う闇は、開けている、ということだけは分かっていて、その透明感は、通常言う、"闇の中"、つまり不安、というニュアンスとは異なります。私はむしろ、その透き通った夜の様な闇に親しみ、安心し、それで満足していました。火を熾すことを知るまでは。
あなたの仰る、背後に過去という光、そして未来に探すべき光があると言うのは何というか、私にとっては少し啓示じみたようなものに聞こえ、私から距離のあいた見解であると言う印象を受けました。悪い意味では決してありません。この見方においては、私から見て、あなたが達観していると思われました。あなたも、人生を生きる中で、筋道を得て、そしてそれを伝えようと努力して下さり、貴重な言葉を費やしていただけたことに、私も何かお返しをせねばならないでしょう。
私にとって光は胸の内にあるものであります。太郎は、25歳の頃、自身の内にある火を守ろうとするのではなく、むしろ前面に出す事を、薄暗いパリの映画館の中で決意したと、述懐していました。彼のシンボルワード、"爆発"の生まれた瞬間だった様です。
私の希望も少し似ていて、透明な闇の中で静かに輝く何か、と言うイメージを長い間抱いて来ました。
しかしながら太郎の言葉を聞いた後は、闘う太郎の炎に比べて、私の明かりは不争の明かりであったけれど、目覚めている太郎の炎に比べて、私の明かりは眠っていたのかも知れないと、思えたのです。 捕捉に続く
No.106
- 回答日時:
何か誤解なさっているように思えますので、最後に書き加えたいと思います。
責めているのは質問者ご本人だとわかっていたらこそあえて書かせていただいたのです。
なぜその言い回しを用いたのか、もう少し深く考えていただければ気づいていただけたかと思いますよ。
内容には「小さな幸せで満足できる人」と書きました。それをなぜ質問者様に向けられた言葉だと思わなかったのでしょうか。
それはかつての、疑問を抱くまでの質問者様ではなかったのかという意味ですよ。
満足できなくなったからこそ質問なさっているのでしょうからね。
文章をきちんと読めば、すべて質問者様ご自身がご自身への疑問を書いているとわかりますよ。
しかし、ここは質疑の場であって、個人の意見を書いているのです。
人によって答えも解釈も違うのです。それは認めるべき尊重すべき事実です。
ですから、その違いも、今現在に至るまでの質問者の姿すらも受け入れた方がいいといっているのですね。
ただの推測や否定には意味がないといっているのです。実行しているものだけが知る景色があるからです。
ご自身の盲点をなぜ質問の場で知ろうとなさらないのか。また、既にご自身が持っているものや見えているもの、考えている物事に意味を感じていらっしゃるようですが、それらの概念に囚われていること自体が障害になっているとなぜ気づかないのかということです。
すべてを受け入れた時、これまでの質問者様にはなかったものを獲得できればいい。それが質問する意味です。
既に知っていることですら見直すのが質問者様側の課題なのではないでしょうかね。
その課題を無視して、回答者の理解力を判断しようとするのは間違っていますよ。質問者は他人のどんな些細な話からでも、見出す必要があるのです。拾う力が必要だということですね。ですから、あえて使う言葉には意味があります。その意味をご理解いただきたかったのです。
「分かれ道において、危険な方を選べ」この解釈の根源にあるのは、誰かが通った道と未開の土地です。
しかし、忘れてならないのは、生存において必ずしも安全な道など端からないことです。あると思っているのは、社会がそう見せていただけです。
誰かが通った道ですら人の数の通りだけ微妙な違いがあるわけです。安全だと思っていたら大いに失敗した人々も大勢います。また、未開の土地に進むのでさえ多くの土地(分野)があり、人の数だけ道があるのです。また、どちらを選んだ場合も必ずリスクがつきものです。
ですから、「その人」にとってはどちらが危険な道かなど最初から存在しないのです。
だからこそ、固定概念に囚われ過ぎず好きな方を選べばいいのです。危険に見えているのは誰も知らないその人だけの道だからです。
誰一人として同じ人生は生きていません。似たようなことを思ったり感じたり考えたりするだけです。
罵倒以外であれば、柔軟にどんな人の言葉からでもどれだけ吸収し、どれだけ糧にできるのかがその人の器の大きさを左右するのです。「石が川の中で転がり、角が削られるように磨くからこそ丸くなっていく」というのはこういうことです。
もっと多くの人々に出会った方がいいですよ。
器の大きい人は言う事自体がまるで違いますからね。
過去の偉人も参考にすべきですが、見習うべきは今現実世界で生きている人だと思いますよ。
良いですね。あなたにはもっと話していただきたい。
今回のご回答は一言で言えばありがとう、と言うことに尽きます。ありがとう。
見知らぬ者同士が話をするのだから誤解はつきものです。
他者の言わんとしようとするその本意を拾おうとする。
誰しもしていることでしょう。その人なりに。ある人は斜に構え、ある人は耳をすませ、ある人は目を見て、ある人は解釈によって、或いは沈思して。
それでも行き違い、食い違うのは、俺の言いたかったことはそうじゃないんだと、互いに思っているからです。
私は、ノックアウトされるような言葉が欲しい。正面から相手の言葉を受け止めたい。
自分の受け止めと、相手の発しが、ぶつかる。それが今なされる会話です。そんな結果が歪で当然なんだ。
岡本太郎の様な人でさえ、世間では面白いおじさんとして認識されていたのはご存知でしょう。器の大きな人は言うことはまるで違う。でも、まるで違っても、その言葉を面白いで片付けるその白々しさに、痛みを感じないだろうか?
出会いは数じゃない。出会いは、出会いなんだ。縁であり、沢山繋げば良いってもんじゃない。それには流れがある。それは人生の様です。たった一つの出会いでも、それが奇跡であることもある。
あなたは非常に読みが深い様ですが、その分計算高く見えるのは俺の偏見だろうか。
もっと打ってきて欲しいですね。是非。あなたの本音を。
別に、普通の言葉でも良い。込めるものがあるなら、威力はある。
私の盲点と言うならここは闇です。
照らすのは何だ?
燃焼させるんです。自分自身を。
理解を超えたものを、打ち込んで欲しい。
ほんとありがとね。
No.104
- 回答日時:
人は、あるいは今回キサラギさんにコメントするかたは、何かと燃焼対象を、当事者の外部にあると思ってらっしゃいます。
そうではないですよね。何をやるにしたって、内なる炎が爆裂していなくては意味がないのですよね。内なる炎の燃焼が大事であって、外なるものは、その時その時違ったものであっても構わないわけですよね。そう。
まったくその通りです。
しかし回答も100件を超えましたから、途中から参加される方は以前の回答、お礼のやり取りを見ずに、回答されることも多いかと思います。
少々の誤解は避けがたいかもしれません。
それに、往々にして人は、自分の理解した範疇でものを判断しがちです。そして、本来大部分である自分の理解していない、できない範疇の事柄に目をつぶってしまう。それが落とし穴だと思う。
この質問のように、合理を超えたことを、或いは不合理の範疇にあることを話そうとしたら、どうしても、理解力のある自身の判断を捨てなくてはならない。
それには一種のストレスや苛立ち、不満、不快、恐れが伴うのかもしれない。
しかし、自分の本質を理解していない人が大半であろうことは事実です。
その自分の本質に迫ろうとするならば、理解に頼ることは出来ない。理解していないんだから、理解の範疇の外側に自分の本質があるのだから。
こうなると、いくら理解の幅を広げようとしても無駄です。理解を広げるのではなく、自分が、理解できない者の方に飛び込まなきゃいけない。この世の大半を占める、自分の理解の範疇の外側に飛び込まなきゃいけない。合理性の通用しない世界に飛び込まなければならない。
打算が通じない世界、本来人は惹かれるはずです。そのような、正味の世界に。
No.103
- 回答日時:
そうですね、僕らの先祖、縄文人から受け継ぐ炎ですね。
太郎はこんなことも言っています。
「自分が、自分の父であり息子であり孫である。そんな絶対感を持って生きるんだ」
大変良い言葉だと思います。
太郎は、私がこうだろう、と思ったことを、常に覆して来る。
太古からの炎だと言えば、それは自身に内在している自身の炎であると言う。未来にまで輝き続ける灯りだと言えば、それをもって一瞬を生き切れと言う。
めっちゃ良い。めっちゃ良いではないですか。
ただ生きるのではなく善く生きるとか、
人は二度生まれるとか、
人生は一切が苦であるとか、
これは、と思う様な言葉に出会ってきましたが、太郎の様なラッシュパンチは初めてかも知れない。大変気持ちいい。
この世は大変良いところだ。
闘士がいる。志を持った、熱い人間がいる。
私の様な腑抜けには、彼らの様な言葉が必要だったのかも知れない。
以来、身近にしてきた沢山のものがつまらなくなった。
そして、それ以上の、はるかに多いものが、輝き始めている。
その最たるものが、自分です。
今までイケてると思ってた自分は下らなくなり、何も無いところから立ち上がる自分が目覚しく思えて来た。
No.102
- 回答日時:
私は太郎さんのように行かず、危険な方向を選んでなくて、割りの悪い、面倒な方向ばかりを、要領悪く、よく選んで来ました。
ですから、ある意味で、諦めの悪い、人になってしまいました。ありがとうございます。
私は、太郎の様に行く必要は全く無いと思います。
ただ、太郎の様に、誰しも自身の本然的な生き方に達するべきだとは思います。
それが世間の枠に収まるか、枠からはみ出るか、枠を破壊するか、枠を創造するか、枠など存在しない大地平に出ることなのか、それらは全て、結果論なのだと思います。
何を求めるのか、何に向かうのか。
この広い世界に、ちっぽけな私で良かったではないか。
私は今まで大人しかった。
良い出来の人間になりつつあると、自身思っていた。
だけれどこんな時に、ちと、太郎の火が、いや、太古からの生命の炎が、燃え移ってしまったようです^_^
もし燃えなければ、しょうもない自己満足の人生で終わっていたかも知れない。
それが出会いと言うものなのでしょう。
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それが無いから燃え上がる、と言うところのそれとは、歪さや欠けのことではなく、あるべきはずのものがないと言う意味です。
命を粗末にしろと言うのではない。
後生大事に抱えていては、自分の血の一滴も流さないようでは、生きたとは言えないのではないか?
いや、本来的に皆、流しているはずだ。その血潮の温度を無視するから、痛みの分からない痛い奴になってしまう。クールな、空白な奴になってしまう。
その熱さを、痛みを、自分で感じて、生きている昂ぶりをむしろ誇りに思って、吠えなければならないだろう。
透徹した視力を持った哲人であっても、この道の奥底を見据えることはできない。そこには悲しみなんてない。燃え上がった血の湧き出す、炉があるだけだ。
その熱い中身が絶対的に冷たい世界に流れ出すとき、世界が華ひらくのではないだろうか。
理哲な賢人にはわからないことだ。
僕は最近、自分に対する不満をふつふつと感じる。
なんて下らない奴なんだと。胸の内にメラリと燃えるものがある。
自己否定。これこそが、モチベーションなのではないでしょうか?
No.61
>これは、社会のシステムの問題でしょうなあ。
なんでも商品化してしまう。この性分は問題になると思う。月の土地を販売した話など聞くと、本当に恥知らずだと思う。お前が月を作ったのか?お前が月に到達したのか?何もしてないじゃないか?お前は価値を付けただけ。
これは、私の商性に対する懐疑でもあると思います。価値とは、お金とは何か、どうあるべきかの話になるかもしれません。
しかし敢えて言うなら、その目的とは、酷で冷たい世界、酷で冷たい運命に対する、爆発だと言ってよいでしょう。
私の言う、「私は冷たかった」と言うのは、熱意を持てる対象を持ってこなかったというのではない。人間として、冷たかったという意味なのです。他者からは優しい人だと言われてきた。しかし太郎は言う。「好かれる奴ほどダメになる。」おもろいやんけ、と俺は思った。
なかなかいいパンチをしてやがると。
私は太郎の言葉に従っているのではなく、古より太郎が受け継ぎ、また自ら顕現した熱い生き方を、俺もしてみようと思っただけなのです。
俺は若いころこんなに働いたのに、年を取って邪険にされている。不公平だ!こんなことを言う大人は、はっきり言って凡俗以外の何物でもない。
気持ちは分かるが尊敬の対象にはならない。
そうではなくて、俺は若いころこんなに働いた、年を取って邪険にされている。だからなんだ。俺は俺の信念に従って働いたんだ。俺はそれに絶対の自信がある。お前ら若い者に同じような自信があるかね?ないならつけてから出直してきやがれ!
とか、
年取って邪険にされている。まるで役立たずと言わんばかりだ。うれしい限りだね。俺がいなくても、お前らはやっていける。それだけ成長したってことだ。俺も頑張った甲斐があったよ。
とか、
なるなら、威勢のいいおっさんだなwとか、やさしい大人だなぁ、とか、若い者もいろいろ思うところがあるでしょう。
しがらみの多い世の中で、純に生きていく事は、ただ生きて行くことよりも難しい。しかし思える。純に生きるとは、決して打たれない生き方の事ではないし、汚れない生き方でもない。縛られない生き方でもないし、疲れない生き方でもない。打たれ、汚れ、縛られ、疲れ、それでいて純なんだと、思えるようになった。その意味で、私は今までただ生きていただけだったかも知れない。必要以上には打たれたくない、汚れたくない、縛られたくない、疲れたくない、でもそれらは本当は、語弊を恐れず言えば、気持ち良いんだ。正面から取り組めば、障害は生きがいになる。そう思えるのです。
盲点からの打撃は失神を呼び易い。正面から、分かって受けた打撃はあまり失神しない。正面から受けて、気絶してみたい。どうかしてるのだろうか、俺は。
心をゼロにして話を聞いてみる、これは大変良いことを聞いたと思いました。ありがとうございます。
ここに人生をわずかにも告白し、痛みを感じて来たことを身をもって知っている人に、さらに痛みを感じるべきだなどと間抜けたことは言いません。ストイックになるべきとも言いません。自他の痛みを知って、闘志を起こし、自己を励起して、道を切り開くことが、私には必要だったし、時代の要請でもあると思う。
最後に補足しておきますが、これらの話は勿論、自傷や自殺を勧めたり、行使したりする話ではありません。
履き違えのないように、念の為。