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これには批判もあると思うが、超越や解放を目指すなら、という話。
生き残りに懸ける命は勿体ないと私は思うのだけれど、皆さんはどう思いますか。
生き残るために策を練り、生き残るために心を押し殺し、生き残るために命を削り、生き残るために我慢する。生き残るために戦う。生き残るために、、、の後にはどうも悲壮感が漂っている場合が多い気がする。命(存在)を懸ける対象としては、生き残りというのは不適なのではないか。
生き残るために楽しみ、とか、生き残るために喜び、とか、生き残るために安心し、とか、生き残るために協和し、というのは無いわけではないが、あまり聞かない。
太古から現代まで、ずっと存在してきたサバイバル原理というか、闘争原理を破壊して、超越や解放を目指すことはできるだろうか、という話。これは、雲の上の御伽噺だろうか。生存原理は存在原理に劣るという主張と捉えてもいい。
たまにはこういう話も振ってみようと思い立ち。それが今夜でしたという話。
追伸:
超越とか解放というのは、例えば、食べなければならないという生存のルールに支配されなければ、あなたは何をしますか?みたいな問いに対する答え。過去から現在までの生命の営みを無視することともとらえられますが、非現実的で意味がないと思うことなかれ。良ければ考えてみてくださいな。
最近マイブームの、岡本太郎的に言えば、 一瞬を生き切れ! と言う事も出来るかな。
存在を透徹しようとする哲学人たらんとするなら、こんな問いにも当たってみてもいいかもしれない。
知らんけど。
No.28
- 回答日時:
ジョーという燃え尽きることを好む人の相互承認欲求は、この燃え尽きることがらで、互いに互いの力、力量を感じあい、承認とし合うと言うことでしょうね。
ジョーは一見、非社会的な態度を取りますが、ジョーはボクシングの対戦者との力比べを介して、相互の「燃え尽き度」を感じ合いたい、ともすると変態な社会性を持っています。力石徹とカーロスーリベラはボクシングでの拳の力の確認の中で、互いに与える「燃え尽き仲間」の承認を仕合、幸せを味わっていましたね。その事を知ったのりちゃんは、ジョーに、女として承認されることをあきらめました。「燃え尽きの幸福感」をボクサーではない限り、共有、相互承認できないからです。洋子さんの場合、感覚的にその事をつかんでいて、ジョーに海外の敵を、タイマイ叩いて、貢いで、ジョーに燃え尽きるための貢ぎ物にしてたんです。「死神ジョー」のプロデュースは実質彼女です。彼から、燃え尽きの承認は、得られなくても、大好きなジョーの近くに居られ、プロデュースすることで、自分の存在価値をジョーに認められ、これを感じ、共に青春=燃え尽き、生き甲斐を感じられるからです。事実、作品のなかで、白木お嬢さんの貢ぎ行為を社員が指摘しています。あしたのジョーの主人公たちには、かなり変態で、偏った「相互承認欲求」が習慣的に存在していたようです。けれどその片寄りこそ、「爆発」し会える仲間の証であったのだと思います。ジョーらのように、体でぶつかると言う事はもっぱら少ないですね。縮み上がっているんでしょうか。
英語さんも、ムカリンさんも、理解しすぎている。それは決して良いことではないですよ。今回の場合^^
No.27
- 回答日時:
オマケです
矢吹丈に関する「愛し愛されたい」については質問の趣旨に逸脱するのですご返答は差し控えます
No.26
- 回答日時:
質問者さんに色々と誤解させているようですね
私が経験したトランス状態と矢吹丈が経験しだであろうトランス状態とで「雲泥の差」があります
何故なら矢吹丈脳はは「命の危機に迫るほど極限状態」だったのに対して私のは「周りに注意が向けていないが故に何かあったとき対処出来ない程度の限度状態」
ですから私が感じたのはあくまで「今までに感じたことが無いような幸福感」に過ぎません。
矢吹丈が感じたであろう「究極の幸福感」とは当然違いますね
更に言えは矢吹丈は「究極の幸福感」を得る過程で何度なく「限界」を経験していますが、私は同程度の限界を三度経験したに過ぎません
そのうえで
限界を経験しそのうえで更にその先の限界を目指すその原動力は「そうしようする欲求であり欲望」です
しかしながら欲望だけでは限界を越し続けられないのです
何故ならここで言っている限界とはある意味においては「命の危機的状態」であり限界値が上がるとは「命の危険度がより高い状態」となります
人は誰しも自己防衛本能がありその本能によって危機的状況を避けようとするものです
だからこそ「命の危機的状態」を未然に防ぐための「手段」として「自らの誘惑」するのです
これのせいで多くのアスリートが目標半ばにして挫折してしまうのです
トップアスリート何故トップに挫折することなくたどり着けるのかそれは欲望と本能を一体化させそれによって限界に向かうその行為(練習他)を本能的な行動にするからです
それによっ自らを止めようとするのその「自らの誘惑」をはねのけてしまえるからです
加えて目標が達成したときとても「凄い喜び(幸福感や達成感)」獲られる事が期待出来るからです
期待出来るその理由はすでに経験してるからです
そのうえで
矢吹丈が何故戦い続けたのか?
それは「生きている実感」を得ることにほかなりません
「生きている実感」が持てていないものにとって「生きている実感」はかけがえの無いものなのです
だからこそ「生きている実感」を切に望む者は「生きてきた実感」もまた切に望むのです
それは矢吹丈も同じです
矢吹丈が「生きてきた実感」を感じるのは試合が終わった直後です
矢吹丈が感じた「生きた実感」とは「達成感」や「幸福感」です
これはリアルのアスリートにも言えることなのです
だからこそ矢吹丈は「生きてきた実感」を得る為には「達成感」や「幸福感」を得ようとしたのです
但し矢吹丈がこの考えに至ったのは力石徹との戦いの後です
矢吹丈にとっても「生きてきた実感」の集大成とも言えるのが「完全燃焼」なのです
だからこそ「完全燃焼」したと言える「究極の幸福感」や「究極の達成感」を得ようしたのです
それは結果論と質問者さんは仰っていますがそうでは無いことをホセメンドーサとの戦いで矢吹丈は何度となく「足りない」と口にし試合を続行しています
これは矢吹丈が「完全燃焼」が何たるかを本能的に知っているから言えることなのです
「完全燃焼」が何たるかを本能的にするからです知っていたとと言うことは「完全燃焼」したと言える「究極の幸福感」や「究極の達成感」を本能的に知っていたと言うことです上記以外で矢吹丈は互いに尊敬し合った相手を通して・矢吹丈のボクシング人生を支えてくれた多くの仲間とのふれあいを通して「生きている実感」を感じ得たでしょう
なる程。良い答えですね^_^
誤解が多いのはやむを得ない事です。
ムカリンさんの回答は微妙な言葉の差異を設けて作られているからです。幸福と幸福感の違いとか、なかなか分からないですね。
あと、本能と欲望を一体化すると言うのも分かりませんでしたが、それは私がそれをしたことがないからかも知れません。
ジョーが本能的に、或いは経験的に、燃焼感について、その事後の感慨について知っていたと言うのは私も薄らに思います。完全燃焼について、本能的に察知していたと言うのはあると思います。しかし同時に、ではジョーをあの地点、真っ白に燃え尽きるあの地点に導いたのはその本能だったのか?と言えば、ひどく偏ったジョーの内面に対する補償作用としての働きがあったかも知れない。と思いました。
生きている実感、これに尽きますかね。
No.25
- 回答日時:
ムカリンさんとキサラギさん、何、二人で、燃え尽きるβエンドルフィンの幸福感について、語り合ってるのですか。
燃え尽きると本当は大変ですよ。私は、何度か、燃え尽き症候群のかたに、お逢いしましたけれど、職場に復帰するまで大変そうでした。ところで、白木洋子お嬢さんに自分のグローブを渡したあと、ジョーは死んでいないみたいですよ。医者の話だと、死んだら、最後のシーンのように座っていられないそうです。妹の話では、車椅子のジョーとお嬢さんの絵があるそうです。梶原一騎さんの想いは分かりませんが、ちばてつやさんは、死なせる意図はなかったようです。ご想像にお任せしますと言っています。はは。燃え尽き症候群は大変。そりゃそうだw
私もジョーは死んで無いと思ってます。燃え尽きると言うのは、死ぬと言うことじゃなくて、果すと言うことだと思うんですよ。完全に、燃え尽きたんですよ。彼は^_^
でもまぁ、生き残りに懸ける命は勿体無い、と言う題で、ジョーが出てきた事はいい例になったと思います。
No.22
- 回答日時:
目の前が真っ白くなったトランス経験は
自己流の瞑想もどきをして経験しました
具体的には光っているランプをずっと凝視し続けるだけですけどね
凝視し始めた頃は雑念に囚われましたが雑念をほっといてランプを凝視し続けるたら雑念が消え目の前がぼやけ始め程なくして目の前が真っ白くなりました
その瞬間に今まで経験したことの無い「幸福感」に包まれました
この哲学版にはそういう方は少なくないようです。私もかくいう一人です。
勿論、ムカリンさんがどういう経緯で瞑想するに至ったかは私には知ることができません。ムカリンさんはその時死にかけてたのかもしれない、それは私にはわからないことです。
しかしながら、敢えて言わせていただきますが、ジョーが数々の拳闘士と打ち合ってきて最後に闘ったホセとの試合で、真っ白に燃え尽きるのと、森や洞窟や部屋で熱心に瞑想している行者の至る至福感、幸福感と、同じであると言えるでしょうか?
私は言えないと思います。
正直言って、幸福感とか、太郎の言う歓喜とか、そんなもんは執るべき事柄ではないんですよ。
ジョーが、真っ白に燃え尽きたぜ、と言えば、真っ白に燃え尽きたんです。それはジョーだけの、固有の青春であり、生き様だったんですよ。
行者が森で真っ白に燃え尽きることを私は別に否定しませんし、それが無価値だとは言いませんが、というのも、行者は修行や悟りに人生懸けているからですが、人間ってなんやねんってなったときに、行者のそれとジョーのそれとでは、ジョーのほうが人間じみてる。人間じみてるから、深く人に訴えるものがある。
行者は独り、自分と闘った、乞食してこの世間とも対峙した。ジョーも、相手と闘っているようで、やはり自分と闘っている。それは共通するでしょう。
>矢吹丈が「完全燃焼したその瞬間」の為に人生を懸けたのは「完全燃焼したその瞬間」彼の人生では二度と味わえない「究極の幸福感」・「究極の充実感」を得られる事を彼は知っていたからです。
何か、筋書き通りでした、というような印象が拭えません。ジョーがその究極の幸福感、充実感のために戦ったというのは嘘だと思います。それは結果論です。
ムカリンさんの言う事には理性は感じるけれど、それはジョーの生き様を推進してきたものじゃない。ジョーの生きざまを推し進めてきたのは何でしょう?
痩躯にあれほどの熱を滾らせたのは何故でしょう?闘う才能があった。それは事実でしょう。
でも、才能じゃない。運命じゃない。
それは、ジョーの目を見ればわかるんですよ。
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命を粗末にしろと言うのではない。
後生大事に抱えていては、自分の血の一滴も流さないようでは、生きたとは言えないのではないか?
いや、本来的に皆、流しているはずだ。その血潮の温度を無視するから、痛みの分からない痛い奴になってしまう。クールな、空白な奴になってしまう。
その熱さを、痛みを、自分で感じて、生きている昂ぶりをむしろ誇りに思って、吠えなければならないだろう。
透徹した視力を持った哲人であっても、この道の奥底を見据えることはできない。そこには悲しみなんてない。燃え上がった血の湧き出す、炉があるだけだ。
その熱い中身が絶対的に冷たい世界に流れ出すとき、世界が華ひらくのではないだろうか。
理哲な賢人にはわからないことだ。
僕は最近、自分に対する不満をふつふつと感じる。
なんて下らない奴なんだと。胸の内にメラリと燃えるものがある。
自己否定。これこそが、モチベーションなのではないでしょうか?
No.61
>これは、社会のシステムの問題でしょうなあ。
なんでも商品化してしまう。この性分は問題になると思う。月の土地を販売した話など聞くと、本当に恥知らずだと思う。お前が月を作ったのか?お前が月に到達したのか?何もしてないじゃないか?お前は価値を付けただけ。
これは、私の商性に対する懐疑でもあると思います。価値とは、お金とは何か、どうあるべきかの話になるかもしれません。
しかし敢えて言うなら、その目的とは、酷で冷たい世界、酷で冷たい運命に対する、爆発だと言ってよいでしょう。
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なかなかいいパンチをしてやがると。
私は太郎の言葉に従っているのではなく、古より太郎が受け継ぎ、また自ら顕現した熱い生き方を、俺もしてみようと思っただけなのです。
俺は若いころこんなに働いたのに、年を取って邪険にされている。不公平だ!こんなことを言う大人は、はっきり言って凡俗以外の何物でもない。
気持ちは分かるが尊敬の対象にはならない。
そうではなくて、俺は若いころこんなに働いた、年を取って邪険にされている。だからなんだ。俺は俺の信念に従って働いたんだ。俺はそれに絶対の自信がある。お前ら若い者に同じような自信があるかね?ないならつけてから出直してきやがれ!
とか、
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とか、
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心をゼロにして話を聞いてみる、これは大変良いことを聞いたと思いました。ありがとうございます。
ここに人生をわずかにも告白し、痛みを感じて来たことを身をもって知っている人に、さらに痛みを感じるべきだなどと間抜けたことは言いません。ストイックになるべきとも言いません。自他の痛みを知って、闘志を起こし、自己を励起して、道を切り開くことが、私には必要だったし、時代の要請でもあると思う。
最後に補足しておきますが、これらの話は勿論、自傷や自殺を勧めたり、行使したりする話ではありません。
履き違えのないように、念の為。