これには批判もあると思うが、超越や解放を目指すなら、という話。
生き残りに懸ける命は勿体ないと私は思うのだけれど、皆さんはどう思いますか。
生き残るために策を練り、生き残るために心を押し殺し、生き残るために命を削り、生き残るために我慢する。生き残るために戦う。生き残るために、、、の後にはどうも悲壮感が漂っている場合が多い気がする。命(存在)を懸ける対象としては、生き残りというのは不適なのではないか。
生き残るために楽しみ、とか、生き残るために喜び、とか、生き残るために安心し、とか、生き残るために協和し、というのは無いわけではないが、あまり聞かない。
太古から現代まで、ずっと存在してきたサバイバル原理というか、闘争原理を破壊して、超越や解放を目指すことはできるだろうか、という話。これは、雲の上の御伽噺だろうか。生存原理は存在原理に劣るという主張と捉えてもいい。
たまにはこういう話も振ってみようと思い立ち。それが今夜でしたという話。
追伸:
超越とか解放というのは、例えば、食べなければならないという生存のルールに支配されなければ、あなたは何をしますか?みたいな問いに対する答え。過去から現在までの生命の営みを無視することともとらえられますが、非現実的で意味がないと思うことなかれ。良ければ考えてみてくださいな。
最近マイブームの、岡本太郎的に言えば、 一瞬を生き切れ! と言う事も出来るかな。
存在を透徹しようとする哲学人たらんとするなら、こんな問いにも当たってみてもいいかもしれない。
知らんけど。
No.11
- 回答日時:
No.8。
キャラです。そうですよ。力を出し惜しみするのではなくて、今に全力投球することです。80%の力ではなく、100%、120%の力を出すべきです。それでぶっ倒れたらぶっ倒れたでいいじゃないですか。変化というものは、過去から来るものではなく、未来から来るものでもなく、今。この今という時間から来るものだと思います。
生き残るため、というのが何か打算的な印象がありますが、私が言いたかったのは、サバイバルや競争自体を目的としたものではなく、生きることは打算でも現状維持でもなく、何でしょう、言葉が見つかりませんが、もっと熱いものであり、自由であり、周りを見渡してたじろぐことではなく、羽ばたくこと。鎖を引きちぎることであり、自分の限界を超えること。もっともっと一つのことを探究すること。この海の向こうには何があるのか、人間の思想や想念までも歪めてしまう力の謎を知ること。人間はどこまで邪悪になれるのか。また反対にどこまで聖くなれるのかを知ること。そう。もっともっと既成観念をくつがえすような仮説や予測、奇跡を手に入れて、ときめいたり、驚いたり。そういうドラマチックな今が必要だと思いますね。
温度上げてきましたね。
大変良いと思います。鎖を引きちぎること。素晴らしい。
生きた星の内部が熱いように、我々も実は熱いはずなんですよ。
それがせせっこましい嘘でいとも簡単に誤魔化されるなんて癪ではないですか。
人が、平穏な暮らしを求めてきたのは事実です。そしてそれを手に入れた結果がコレなら、やはり何か間違ってると言わざるを得ない。人類の努力を否定するわけではないが、いや、むしろ尊敬しているが、あえてこのようなことを言うのは、生きると言うことが、不条理である故に、だからこそその不条理を、正面で生きることが、生命の本質であるように思えたからです。
Twitterなんかの自分の過去の発言を見ると、自分がクソくだらねぇ奴だということが分かる。何かを動かしたい、そう思う時点で、もう負けてるんですよ。なんで素のままでいられない?
太郎は言う。綺麗になんて、生きられない。
と。
そう、だが、美しくは生きられる。
No.10
- 回答日時:
そもそも、生き残るために命をかけている人なんて、少なくとも現代の日本の中には
いないでしょう。
繰り返しますが、現代日本ではどうやっても生きて行ける文明社会だからです。但し
この文明の「やり方」を私は認めているわけではありません。持続不可能な文明です
し、「生き残ればいい」という目的観が強くある文明だと思うからです。
そういう文明の中で、実はぬるま湯につかって快適に生きているくせに、それを認め
るのが嫌だから、何か命をかけているみたいなことをいう人はいるでしょう。
そんなような人ばかりだから、岡本太郎みたいな人は認められない訳です。彼は日本
において有名人であっただけで、彼を理解した人は岡本敏子さんをはじめごくわずか
であったろうと思います。私もまだ理解しているわけではありません。
私もムカリンさんと同じで、あしたのジョーやタイガーマスクを見て育ったので、燃
え尽きる、みたいなことにあこがれを持っています。それもあって、岡本太郎の言葉
に痺れたのだろうと思います。
今回の質問を考えるにあたって、№7で引用した言葉の真意とか、岡本太郎が何故疑問
を持っていた抽象画を選択したのか、あるいは「爆発」とは何か?を突っ込んでみたく
なったわけです。
その通りですね。
文明は発達し、現代日本では生命力は失われてしまっていると思います。代わりにあるのが惰性でしょう。勿論、ハードワークをしていたり、また思慮深い人も居られますが、そのような方々の遺産が、これを支えていると言うのも事実でしょう。
太郎は、このようなことも言っています。
パリに行けば良い絵なんてごまんとある。それを見て、なんだ、絵じゃねぇか。と、思ったと。
太郎がつかもうとしたものはなんなのか、大変面白そうではないですか。
ぬるい生活をしておいて、反して不全感を抱く。平和に生きていながら、渇望が絶えない。この様な矛盾を抱える様が、現代人の実像の一つと言えるでしょう。
また、自らを社畜と称して誇りを汚したり、誰にも顧みられることのない、社会から打ち捨てられた生活を余儀なくされる人もいるでしょう。
或いは、ほんとはやりたいことを探したい、けれど安逸に今の仕事を選んで、続けている。こんな人も多いだろう。
しかし岡本太郎は、無条件で生きろと言う。
太郎がそれを実践できたのかどうかは分からないが、間違いなく表現はしただろう。無条件という事は、老若男女、社会状況、生活状況、など人々を規定するもの全てを打ち破って、爆発するってことです。
「自分は闘ってきたが、社会は変わらない。変わらないどころかつまらなくなっている。」彼は振り返って言った。
太郎の言葉を理解する必要は無くて、彼の問うたことの全ての答えを得るとは、即ち生命体験なのだと思います。
それが爆発であり、血潮を流すと言うことなのだと。
No.9
- 回答日時:
やはり、今の日本の社会の状態に、因があるように思います。
テレビからの情報でしかありませんが、外国の市民の生活態度などの紹介番組を見ていると、とても穏やかにその日1日を過ごしている様子に接し、ついつい日本人のゆとりのない生活と比較してしまいます。
日本は、社会全体が仕事に時間に追われて、と云うより仕事・時間を追いかけている、と云いたくなります。
余裕があっても無駄には出来ない、充実させないと不安になる、と云う病を患っていますね。
☆ 覚悟と云うならば、「日本時間」に遅れていても良い、と云う覚悟ではないでしょうか。
でも、新型ウイルスに対しての政府や民間の対応力には、力を発揮していると思っています。
こういうところは、管理社会の良い面だと思います。
>充実させないと不安になる、と云う病
これはおもしろいですね。良いこと言ったかもしれない。
良くも悪くも、日本人の少なからずは仕事=生活みたいなところがあって、休めない性格なんですよね。社会化が進んでるんだと思います。
日本時間に遅れる、面白い表現ですね。意味はよく分かりません。江戸時代、日本人は西欧人に比べて大変ルーズだったそうです。正確な時計が普及していなかったから。
この日本時間というのは、むしろ現代都市時間と言ってよいでしょうか。人生の時間を食われているんですよね。繁栄する都市という魔物に。
でもここでは、スローライフの良さを問うているのではなく、一瞬に命を爆発させる躍動について、それは生き残りを計算しているような態度では難しいんじゃないか?あるいは余裕を楽しんでいるような生き方では難しいんじゃないか?と。
前回の汽笛さんの質問で、他人の言葉を引用するなんてクソだ、自分の言葉で語れよと言った僕ですが、引用します。←クソ
質問のイメージをつかむために、動画を一つ。
https://www.youtube.com/watch?v=t5YMtjbhY_M
No.8
- 回答日時:
生き残った後に何の展望もないのなら、生き残るために策を練ったり、心を押し殺したり、命を削ったり、我慢したり戦うことは無意味です。
生き残った先に幸せがあり希望があり、長い間描いていた夢がかなうなら、生き残るために策を練ったり、心を押し殺したり、命を削ったり、我慢したり戦うことも喜びになるでしょう。どんなにその道が過酷であっても、乗り越えていこうとする情熱が生まれるからです。だから、生き残った後に何が待っているかによって、人は熱くも冷たくもなれると思います。
また、世の中の状況にも左右されるのではないでしょうか。平和で何の不安もない社会においては、生き残るという終末的な発想自体起こらないのではないでしょうか。たとえば、戦乱のため人の心も乱れ、何を信じればいいのかわからなくなるような状況では、世の終わりを予感し様々な思念が起こってくるはず。人は環境によって左右される存在です。
だから生き残るために人がとる行動について、私は勿体ないとは思いません。また、今がどんな現状であれ、環境は変化を続けているものなので、今が平和であっても長く続くとは限りません。そういう環境の中に置かれている人間も変わり得ることを考えれば、備えあれば憂いなしでどんなことも無駄ではないと思います。生きることを放棄する行動をとる方が、よほど勿体ないと思います。考え抜いた結論ではないので、まだ推敲の余地がありますが。
良いですね。
ただ、この質問は生きることを放棄するのではなく、生きることに縛られるのは如何なのか?と言う問いなのです。
キャラさんのご説明では、今日よりも明日、明日よりも明後日が素晴らしくなるような、希望を見る生き方をしよう、という事だと思います。だから今我慢しよう、だから今努力しよう、だから今、命を削って働こう。
僕はこれに欺瞞を感じて仕方がない。
いつまで我慢すれば良い?いつまで努力すれば良い?いつまで命を削らなければならない?
これらは全て、良い果報が未来にはあるはずだと言う前提で成り立っています。でも仰るように、世界は常に変動している。単純に努力すれば報われる様な世界ではなくなった。
私は生き残りを考えるのをやめて、今が楽しければ良い様な生き方をしようと言っているのではなく、生き残りを考えるのをやめて、いまに全てを賭蹴るべきじゃないのか?と問うているのです。
お金持ちになったら親孝行しよう、とかではなく、今、ありったけの優しさを注ぎ込もう、と言う事であり、実力がついたら勝負しょうではなく、今、ありったけの力で自分に挑むんだ!と言う覚悟が、未来を切り開く可能性を持っていると思うんですね。
No.7
- 回答日時:
>人類が食物を生産しているという見方には懐疑的です
作り出すといっても、生物の持つ力を利用しているにすぎないので、創造とはいえず、
人工的に発現させているということになるとは思います。
蟻や蜂あるいは猿などが作る集団の機能性を文明と呼んでも構わないでしょうが、人間
のそれとはあらゆる点で比較にならないと言えましょう。
では、人類のその高度な文明は何故作り出されたのか?とても難しい問題ですが、形而
上の概念を認識する能力によるのではないかと考えています。
つまり、「イデア」を認識することができるので言葉というものを作り出し共有するこ
とができ、食物を生産したり、建物を作ったり、高度な文明の建設が可能になったので
はなかろうかと思います。
人間以外の生物、知能が高いといわれているイルカとか類人猿などは色々できそうな気
がするのですが、できないということは、その能力が全くないか、ほとんどないか、の
どちらかなのではないか、と。
言葉を「イデア」とすると、それと相対する正反対のものとは「物質」だと思うんです。
岡本太郎は次のようなことを言っています。これも、ぶったまげたんですが、
「抽象と現実のぶつかりあい、引き裂かれたところに人間の本当の存在があるので、私は
抽象的であると同じに具象的な絵を描いた」と。(彼の作品は抽象画だけではありません)
この言葉、キサラギさんはどう理解しますか?
ともあれ、今回のご質問は以前述べた私の哲学に対する定義である、
『人間は他の動物と違い、行為の選択の自由を持っている。だから、その基準を持つ
べきである。それが、人生観・世界観であり、それを哲学と呼ぶ。』
そのものに対する問いであると言えると思うのです。ですから、大いにお話したいところ
です。
>まだ俺に遠慮してるでしょう?
ご存知のように、私は長話が好きですし、余計なことも言いますし、啓蒙的でもありので、
そのあたりを気をつけようとしているというのはあります。
抽象と現実のぶつかり合い、引き裂かれた間に人間の本当の存在がある!
これはその通りだと私は思いました。驚くと言うより、肯ける言葉です。そして言葉を重ねるのなら、太郎作品の生き生きしさと存在感は、こう言う認識によって説明できると思います。
僕は、イデア(言葉)に対するものは物質ではなく血潮(命)だと考えています。何故なら物質と言うものは、極めて合理的なものの捉え方によって生じた、科学的思考の産物以外の何物でもないからです。
もし宇宙を物質質的なものとイデア的なものの合成物だと考えたなら、その宇宙は生きてない。そこに、全く不可解なエネルギーの様なものが在るので、生きた宇宙になると思うんですよ。そのエネルギーが、いわば生命力なんだと思います。力で在るからいつかは尽きる。いつかは尽きるので、今、限りなく燃焼しなければならない。限りなく燃焼するので、次の世界を啓くことになるのではないでしょうか。
僕は今まで智慧こそ素晴らしいのだと思って生きてきた節があるし、それこそが求められるべきだと思って来たけれど、これは良い意味での事故、遭遇ですね。今まで不可解と定義してきたものが、急に鮮烈な色彩を帯びて眼前に現れたような、そんな体験をしているのです。今。
No.6
- 回答日時:
私は子供の頃アニメ「あしたのジョー」の主人公「矢吹丈」に憧れていました。
「人並み幸せ」を拒否し「完全燃焼」を目指し最後に言った彼ら名セリフ「燃えたよまっ白に燃え尽きた真っ白な灰に」に私の子供心は奪われ自分もジョー述べさせる様に生きたいと思った事もありましたね
実際に全然だめでしたけどね
色々な人々を見てきて思うのは「矢吹丈」の様な生き方は「天性」のもので努力して出来るものでは無いんだとね
ですから私自身灰に駄目でしたけど質問者さんが仰っていることに賛同します
この一瞬に命を賭けろ。
最近聞いた言葉ですが、わたしは、良いなあと思いました。
年齢は関係なく、過去も関係ない。この一瞬に爆発させるんだと。
心の覆いを吹き飛ばして。
No.5
- 回答日時:
キサラギさんの質問だから、何度も読み返しました。
何が云いたいんだろうと。付いた回答とそれへの返事も。
質問のタイトルは、今の日本の社会だからこそ、と思いました。
ごく普通に仕事を持っていれば、ボーとして生きていけますから。
この社会で、我が身に起きる問題と云えば、多くは経済的な事柄であって、それさえなければ、ほぼ楽ちんに生きられるのではないでしょうか?
“生存のルールに支配されてない社会”と云えると思います。
そうした中で心ある人達は、どのように生きるかを、考えるのだろうと思います。
そこで想像しました。才智ある人達はどうなのだろうかと。
でも私の頭はここまででした。才智に恵まれてないから。
ただ、必死さは感じられませんね。
「心の余裕」が、それを生み出すように思います。
☆質問を通して考えたことです。 回答ではなくてすみません。
何度も読み返してくださったと言うことで、ありがとうございます。
この質問は、一言で言えば、覚悟はあるか?ってことです。
仕事のない人は大変ですし、仕事があっても仕事に追われ、息も絶え絶えって人は少なくないです。仕事は何のために?
それは、生きるために、他者を生かすために、何て答えでは、生存しなければならぬと言う強固なルールに縛られているままと思います。
生存を否定するわけではないですが、生き残るというワードには何か、悲壮なものを感じるんですよね。
どの企業も言ってますよ、生き残り戦略とか。
で、思う。本当にそれで良いんかなと。
もっと存在の起源に迫るような生き方、在り方があるんじゃないのか?と。
生き物は必ず死ぬ。人間も例外ではないのに、どうしてそれを超えようとせずに、生き残ることを目指すのか?という問いです。命が勿体無いと思ったんですね。
No.4
- 回答日時:
原始以来、人は常に競い合い、凌ぎ合い、いのちを賭けて戦った。
その闘争本能と生存本能のせめぎあいの中で、人は知能を磨き
力を養い、心と体を鍛え、
一面で道徳律を築き上げた。
その結果、文明が築かれ
文化が創られた。
檀家制度により競争原理が失われ、
葬式仏教に堕落したのが、日本仏教です。
人間というのは、1より小さいのです。
だからかけ算すると、更に小さくなるのです。
だから常に競っていないと、ダメなのです。
なかなか面白いです。
人間というのは1より小さい。
面白い。
命を懸けて戦った。何と戦って、どんな勝利をしてきて、これから何と戦い続けるのだろうか。
自分と戦う、よく言われることだけれど、できてる人は少ない。
敵と戦う。常識だし、たくさんの人がやってる。
うーむ。
No.3
- 回答日時:
人は長期的展望をもって、椅子取りゲーム、残されたものの=資源の取り合いをしますが、同時に、そんな椅子取りゲームなんかよりも、椅子取りに必要な我慢と冷静さを忘れて、心の赴くまま、一瞬のとらわれに行動するときもあります。
私自身の生活を観察してると、どちらもやってますよ。またそうでなくては、正気を保って生きていけないですよ。とてもよくわかります。しかし保てているのは果たして正気だろうか?という気もする。
小学生低学年のころ、こういう場面に出くわしました。
椅子取りゲームでのこと。最後のイス。残りは二人。すると一人の子供が立ち上がり、言いました。
「座りぃや。いいで。」
それを目撃して以来、私は椅子取りゲームの下らなさに参加することができなくなりました。
No.2
- 回答日時:
人生をマラソンにとらえるか!
短距離走にとらえるか!
その違いが!
連想されましたよ
実際のマラソンや短距離走なんかでも
記録は塗り替えられるのが
記録の定めなんですけどね
記憶に残るって意味なら
カールルイスは凄かったですよ
幼心に見とれてましたね
今ならボルト?なのかな?
マラソンなら、高橋尚子さんの勝利の頬笑みなんかが!
メダルを噛んだのも
彼女やったかな?
どちらが優れてるとか優越をつける議題ではないけど
生き残る為だけなら
人生なんて
つまらないものですもんね
だからといって
誰でも、カール・ルイスや高橋尚子になれるわけじゃないけど!
自分自身で
人生のメダルを
獲得する努力は、忘れたく無いですね
どんな評価で
どんなメダルを用意するのかも
自分自身で悩んで!苦しんでこそ
価値がありますもんね
( ̄▽ ̄;)自己満足を奨励してる訳じゃないけど
生き残る為だけじゃなくて
ささやかな自己満足や充実感
必要ですもんね
質問から
人生を繋げてみたけど
質問の趣旨にズレてたら
m(._.)mです
(  ̄▽ ̄)にっこり
素晴らしいと思う。
だけれど、ささやかな自己満足や充実感ではなく、何にも代えがたい満足や、充実感であると言ってほしかったですね。
誰に遠慮することもない。自分の一生ですよ。
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命を粗末にしろと言うのではない。
後生大事に抱えていては、自分の血の一滴も流さないようでは、生きたとは言えないのではないか?
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自己否定。これこそが、モチベーションなのではないでしょうか?
No.61
>これは、社会のシステムの問題でしょうなあ。
なんでも商品化してしまう。この性分は問題になると思う。月の土地を販売した話など聞くと、本当に恥知らずだと思う。お前が月を作ったのか?お前が月に到達したのか?何もしてないじゃないか?お前は価値を付けただけ。
これは、私の商性に対する懐疑でもあると思います。価値とは、お金とは何か、どうあるべきかの話になるかもしれません。
しかし敢えて言うなら、その目的とは、酷で冷たい世界、酷で冷たい運命に対する、爆発だと言ってよいでしょう。
私の言う、「私は冷たかった」と言うのは、熱意を持てる対象を持ってこなかったというのではない。人間として、冷たかったという意味なのです。他者からは優しい人だと言われてきた。しかし太郎は言う。「好かれる奴ほどダメになる。」おもろいやんけ、と俺は思った。
なかなかいいパンチをしてやがると。
私は太郎の言葉に従っているのではなく、古より太郎が受け継ぎ、また自ら顕現した熱い生き方を、俺もしてみようと思っただけなのです。
俺は若いころこんなに働いたのに、年を取って邪険にされている。不公平だ!こんなことを言う大人は、はっきり言って凡俗以外の何物でもない。
気持ちは分かるが尊敬の対象にはならない。
そうではなくて、俺は若いころこんなに働いた、年を取って邪険にされている。だからなんだ。俺は俺の信念に従って働いたんだ。俺はそれに絶対の自信がある。お前ら若い者に同じような自信があるかね?ないならつけてから出直してきやがれ!
とか、
年取って邪険にされている。まるで役立たずと言わんばかりだ。うれしい限りだね。俺がいなくても、お前らはやっていける。それだけ成長したってことだ。俺も頑張った甲斐があったよ。
とか、
なるなら、威勢のいいおっさんだなwとか、やさしい大人だなぁ、とか、若い者もいろいろ思うところがあるでしょう。
しがらみの多い世の中で、純に生きていく事は、ただ生きて行くことよりも難しい。しかし思える。純に生きるとは、決して打たれない生き方の事ではないし、汚れない生き方でもない。縛られない生き方でもないし、疲れない生き方でもない。打たれ、汚れ、縛られ、疲れ、それでいて純なんだと、思えるようになった。その意味で、私は今までただ生きていただけだったかも知れない。必要以上には打たれたくない、汚れたくない、縛られたくない、疲れたくない、でもそれらは本当は、語弊を恐れず言えば、気持ち良いんだ。正面から取り組めば、障害は生きがいになる。そう思えるのです。
盲点からの打撃は失神を呼び易い。正面から、分かって受けた打撃はあまり失神しない。正面から受けて、気絶してみたい。どうかしてるのだろうか、俺は。
心をゼロにして話を聞いてみる、これは大変良いことを聞いたと思いました。ありがとうございます。
ここに人生をわずかにも告白し、痛みを感じて来たことを身をもって知っている人に、さらに痛みを感じるべきだなどと間抜けたことは言いません。ストイックになるべきとも言いません。自他の痛みを知って、闘志を起こし、自己を励起して、道を切り開くことが、私には必要だったし、時代の要請でもあると思う。
最後に補足しておきますが、これらの話は勿論、自傷や自殺を勧めたり、行使したりする話ではありません。
履き違えのないように、念の為。