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これには批判もあると思うが、超越や解放を目指すなら、という話。
生き残りに懸ける命は勿体ないと私は思うのだけれど、皆さんはどう思いますか。
生き残るために策を練り、生き残るために心を押し殺し、生き残るために命を削り、生き残るために我慢する。生き残るために戦う。生き残るために、、、の後にはどうも悲壮感が漂っている場合が多い気がする。命(存在)を懸ける対象としては、生き残りというのは不適なのではないか。

生き残るために楽しみ、とか、生き残るために喜び、とか、生き残るために安心し、とか、生き残るために協和し、というのは無いわけではないが、あまり聞かない。

太古から現代まで、ずっと存在してきたサバイバル原理というか、闘争原理を破壊して、超越や解放を目指すことはできるだろうか、という話。これは、雲の上の御伽噺だろうか。生存原理は存在原理に劣るという主張と捉えてもいい。

たまにはこういう話も振ってみようと思い立ち。それが今夜でしたという話。

追伸:
超越とか解放というのは、例えば、食べなければならないという生存のルールに支配されなければ、あなたは何をしますか?みたいな問いに対する答え。過去から現在までの生命の営みを無視することともとらえられますが、非現実的で意味がないと思うことなかれ。良ければ考えてみてくださいな。

最近マイブームの、岡本太郎的に言えば、 一瞬を生き切れ! と言う事も出来るかな。
存在を透徹しようとする哲学人たらんとするなら、こんな問いにも当たってみてもいいかもしれない。
知らんけど。

質問者からの補足コメント

  • それが無いから燃え上がる、と言うところのそれとは、歪さや欠けのことではなく、あるべきはずのものがないと言う意味です。

    No.34の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/03/19 23:48
  • 命を粗末にしろと言うのではない。
    後生大事に抱えていては、自分の血の一滴も流さないようでは、生きたとは言えないのではないか?
    いや、本来的に皆、流しているはずだ。その血潮の温度を無視するから、痛みの分からない痛い奴になってしまう。クールな、空白な奴になってしまう。
    その熱さを、痛みを、自分で感じて、生きている昂ぶりをむしろ誇りに思って、吠えなければならないだろう。

    透徹した視力を持った哲人であっても、この道の奥底を見据えることはできない。そこには悲しみなんてない。燃え上がった血の湧き出す、炉があるだけだ。
    その熱い中身が絶対的に冷たい世界に流れ出すとき、世界が華ひらくのではないだろうか。
    理哲な賢人にはわからないことだ。

    No.46の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/03/20 22:58
  • 僕は最近、自分に対する不満をふつふつと感じる。
    なんて下らない奴なんだと。胸の内にメラリと燃えるものがある。
    自己否定。これこそが、モチベーションなのではないでしょうか?

    No.61の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/03/22 12:46
  • No.61
    >これは、社会のシステムの問題でしょうなあ。

    なんでも商品化してしまう。この性分は問題になると思う。月の土地を販売した話など聞くと、本当に恥知らずだと思う。お前が月を作ったのか?お前が月に到達したのか?何もしてないじゃないか?お前は価値を付けただけ。
    これは、私の商性に対する懐疑でもあると思います。価値とは、お金とは何か、どうあるべきかの話になるかもしれません。

      補足日時:2020/03/22 12:51
  • しかし敢えて言うなら、その目的とは、酷で冷たい世界、酷で冷たい運命に対する、爆発だと言ってよいでしょう。

    No.76の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/03/22 17:14
  • 私の言う、「私は冷たかった」と言うのは、熱意を持てる対象を持ってこなかったというのではない。人間として、冷たかったという意味なのです。他者からは優しい人だと言われてきた。しかし太郎は言う。「好かれる奴ほどダメになる。」おもろいやんけ、と俺は思った。
    なかなかいいパンチをしてやがると。
    私は太郎の言葉に従っているのではなく、古より太郎が受け継ぎ、また自ら顕現した熱い生き方を、俺もしてみようと思っただけなのです。

    No.77の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/03/22 19:47
  • 俺は若いころこんなに働いたのに、年を取って邪険にされている。不公平だ!こんなことを言う大人は、はっきり言って凡俗以外の何物でもない。
    気持ちは分かるが尊敬の対象にはならない。
    そうではなくて、俺は若いころこんなに働いた、年を取って邪険にされている。だからなんだ。俺は俺の信念に従って働いたんだ。俺はそれに絶対の自信がある。お前ら若い者に同じような自信があるかね?ないならつけてから出直してきやがれ!
    とか、
    年取って邪険にされている。まるで役立たずと言わんばかりだ。うれしい限りだね。俺がいなくても、お前らはやっていける。それだけ成長したってことだ。俺も頑張った甲斐があったよ。
    とか、
    なるなら、威勢のいいおっさんだなwとか、やさしい大人だなぁ、とか、若い者もいろいろ思うところがあるでしょう。

    No.99の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/03/25 01:26
  • しがらみの多い世の中で、純に生きていく事は、ただ生きて行くことよりも難しい。しかし思える。純に生きるとは、決して打たれない生き方の事ではないし、汚れない生き方でもない。縛られない生き方でもないし、疲れない生き方でもない。打たれ、汚れ、縛られ、疲れ、それでいて純なんだと、思えるようになった。その意味で、私は今までただ生きていただけだったかも知れない。必要以上には打たれたくない、汚れたくない、縛られたくない、疲れたくない、でもそれらは本当は、語弊を恐れず言えば、気持ち良いんだ。正面から取り組めば、障害は生きがいになる。そう思えるのです。

    盲点からの打撃は失神を呼び易い。正面から、分かって受けた打撃はあまり失神しない。正面から受けて、気絶してみたい。どうかしてるのだろうか、俺は。

    心をゼロにして話を聞いてみる、これは大変良いことを聞いたと思いました。ありがとうございます。

    No.107の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/03/27 02:32
  • ここに人生をわずかにも告白し、痛みを感じて来たことを身をもって知っている人に、さらに痛みを感じるべきだなどと間抜けたことは言いません。ストイックになるべきとも言いません。自他の痛みを知って、闘志を起こし、自己を励起して、道を切り開くことが、私には必要だったし、時代の要請でもあると思う。

      補足日時:2020/03/29 02:38
  • 最後に補足しておきますが、これらの話は勿論、自傷や自殺を勧めたり、行使したりする話ではありません。
    履き違えのないように、念の為。

      補足日時:2020/03/29 05:59

A 回答 (121件中51~60件)

一番良くないのは「煮え切らない」事です


私は「実行不可能な理論」は「絵に書いた餅」と言いましたが
それと同じことです
実行せずにただいたずらに「煮え切らない状態」のままでいるなら結局何も変わりません
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この回答へのお礼

例えば下からガンガン火を焚く。鍋の中には水分が入っている。軽く蓋をして熱が逃げない様にする。しばらくすると美味しい煮物が出来上がる。重要なのはタイミングだ。生煮えでも、焦げても良くない。

地球が熱すぎれば、地上は火の海だし、ぬる過ぎれば極寒になる。ちょうどいい温度になったのは奇跡か何か知らないが、とにかく生命がそこに存在している。
世界と対等にぶつかるには、爆発くらいで丁度良かったのかも知れない。

お礼日時:2020/03/22 15:53

質問者さんは「自己否定」をモチベーションとして「爆発」させたいようですが


そうしたいならそうすればいいと思います
突き放すようですがそれも「限界突破」=「爆発」するための方法ですしね
過去に何人もの人達が質問者さんと同様の考えてそうされてきたようですしね
「爆発」を目的に自己否定されるなら質問者自身100%否定して見ることです
極論を言えば呼吸すること自体否定してみると言う事です 
大抵は自分自身を追い込みけど切れないのですが
追い込み切れた場合には
爆発して限界を突破する 
または 
精神が崩壊する
のどちらかです
お勧めはしません
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この回答へのお礼

案じてくださっている様で、ありがとうございます。しかし私の言っている事は、燃焼とは、血潮を滾らせるとは、もっと人間的な事柄なのであります。
爆発とは岡本太郎流の言い方でしょう。
僕より前に、同じことを考えた者が何人居るとか、実行したやつが何人いるとか、そう言うのは関係ないのです。

息を止めるとはやさしいことです。息の根を止めるので開けるのであります。肉体的に死ぬのでもなく、精神的に死ぬのでもなく、そう言った事は的外れで、全てが開闢するのであります。それが本当の人生ってやつだと、私は思います。

怠惰な自分を脱ぎ捨てた
抜け殻はもう息をしていない

お礼日時:2020/03/22 15:47

ここまで見てきて、思ったこと。



岡本太郎は、ピカソに出会ったから、吹っ切れたのではないでしょうか。

キサラギさんにも、そういう事柄に出会うことを願います。

No.67にgoodです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます^_^
私は今まで、人生で二度、失態を晒して来ました。最早取り返すこともできないが、そんな自分がゆるせないからこそ、生きていかねばならない。

お礼日時:2020/03/22 15:38

簡単に言えば


自分自身をあらゆる角度から「追い込める」かということです
この方法は「精神崩壊」を招く可能性はありますよ
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この回答へのお礼

俺は本当に下らないなとフツフツと思う時、メラリと内部に起こるこれはなんでしょう。

別に自分を追い込んでいるんじゃ無い。諦めたのでも無い。呆れてるんでもない、ため息も出ない。ただ、自身、ほんとクソだなと言う思いが自分に火を付けるんですわ。それだけ。自分自身をゆるせないってやつですかね。なんでお前(俺)はこんなに冷たいんだ!って、思っちゃうんですよ、仕方ない。だったら熱くなるしかないでしょ。

お礼日時:2020/03/22 15:34

「限界突破」=爆発となります


自分自身の「限界」を突破する=爆発するには、自分自身を全天球で捉えて自分自身を全天球から圧をかける
物質と同様に精神も力をかければ反発します
自分が自身に対して外から自分自身の全天球面に圧をかけると自身をまとっている「殻」を「内側から外側」に向かって反発します
それがうまくいとくと自分自身を覆ってる「殻」を自分自身で破れます
これが限界突破です
自分自身を覆っている「殻」を自分自身によって「内側」から壊すこと「爆発」すると言います
そのうえで
「短角的視点」からから「多角的視点」に変えるべきと言いましたがその対処は「自分自身」です
自分自身を「短角的視点」で捉え自分自身の一面だけ捉えても自分自身を正しく捉えていることにならりません
加えて「自分自身」の一面に「圧」をかけてもそれではその「圧力」は逃げてしまうのでそれでは「自分自身限界を突破」できません
「限界突破」=爆発したいなら、「精神崩壊」のリスクを背負った上で自分自身で自分自身を全天球で圧力をかけることです
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この回答へのお礼

なるほど。今度は、らしいご回答をいただけたように思います。
しかしどうも、ムカリンさんは僕よりもずっと計算が得意なようで、精神力学的な判断を下されているようです。

ところで、地球という火の玉の外殻は、程よい温度を保っています。それは、宇宙が冷たいからです。
外からかかる圧とは即ち冷たさであり、内側からかける圧とはつまりは熱さなのだと思います。
自分と言う外殻はその相克の間に勝手に形成される。もし燃焼しなければ、外の冷たさで死んでしまうだろう。
それで、計算ではなく生命力によって生きることが肝心なのだと私は言います。

お礼日時:2020/03/22 15:19

「抽象」=他者との共通項=共用文化=学習から得た思考、正解、価値観=常識という物差しという側面と、「具象」=抽象に囚われない、オレ流の文化=思考行動方法の側面があり、人は、生活のなかで、引き裂かれるという人間観は、私のなかで、とどめておきたい人間観です。

私は幼少期から、後者が好きです。抽象=標準に囚われない、爆発を、今後も心掛けます。
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この回答へのお礼

抽象と言うのは、刀やピストルの様な、強力な武器だと思います。一方で、具象と言うのは拳です。
ナイフやピストルを持てば、子供でも力を手にする事が出来ます。大人でもやられるでしょう。標準化された力は誰にでも使えるからです。しかしその力は、冷たい。
僕は素拳が好きです。
それは熱い。
生き方としては、拳を選びたい。
しかし現実の世には道というものが存在し、怜悧な武器を熱く扱う術が流布されてあるのであります。
闘えば、負けるでしょう。
だからこそ、爆発なんです。狙いは定めない。目的も定めない。燃焼するんです。
そんな炎を拳に溜めて、撃ち沈めたい奴がこの世にいるわけでも無いけれど。そんな拳を一発くらい浴びて、失神してみたいとは思う。馬鹿なこという友の、目を覚まさせてやりたいとは思う。

お礼日時:2020/03/22 15:29

心から同意します。

自分に誠実に思考行動を爆発させる。手抜きなし!ってやつですね。
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この回答へのお礼

手抜きなしです。限界を過ぎて手が上がらなくなるのは仕方ないとしても。

お礼日時:2020/03/22 15:20

システムというのは、社会内で共有する文化=効率的合理的に考え、行動する方法なんですよね。

いわゆるマニュアル、手引きなんですよね。確かに、それは手本とすべきもので、我々が社会の一員であるからには共有しないと機能できないので、賢明に学校に在籍しているときから教育という形でインプットアウトプットし、学習していくのですよね。その学習のなかでの、価値観とか正解というのを、習得してるかテストされるのですよね。けれど、そうした学習のなかでの「正解」「価値観」を物差しである、システム=マニュアルの「外部」に出て、新たな価値観=物差し、思考方法を考えてもよい、と思うのです。そのためにシステム化マニュアル化された自己に否定をかけ、「新たな文化」=思考様式=考え方-見方、行動様式を自分にたいして、自分なりに、創出=爆発してもいいんじゃないか?と思うんです。
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この回答へのお礼

今まで自分と思っていたものが、自分では無かった。いや、それは自分であったのだが、生まれた環境、社会から与えられたものであったかも知れない。
作られたものが、自分なのか?
そのようなものは壊してしまって、本心に近づいたなら、きっとユニークな自分自身が生まれてくるだろうと思います。
作るのでなく、生じる、つまりは創出であり爆発なのだと思います。

お礼日時:2020/03/22 14:23

オマケです


「2極思考」が浸透していますがそれで物事を正しく捉える事はできません。
しかしながら人の脳は「量的(情報量)限界」を抱えていいます
それが原因で「知的進化」が阻害されているのです
物事を正しく捉えるには「2極思考」から脱し「多極思考」をしなければなりません
「短角的な視点」から「多角的視点」に変わらなければならないのです
そのためには「脳(心)の量的(情報量)の限界」を突破しなければならないのです
これは「創作活動」においても同じです
創作者が真に自己表現出来ないのは己の「脳(心)の量的(情報量)限界」が突破できないからです
創作者が創作活動の「場」を変えるのは自力では出来ない「限界突破」を他力で行うなためです
「岡本太郎氏」のパリ留学はまさにそれにあたります
創作者が創作活動において「真に自己表現」出来るかどうかは「限界」を突破出来るかどうかにかかります
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この回答へのお礼

物事を正しく捉えるとはどう言うことだろうか。極を持つと言う事は、ある地点に定まると言う事であります。ニであろうが多であろうが。しかし、この世というのは基本的に定まらない。我々も定まらない。そのような定まらないものを捉えるには、定まらない世界で生きるには、自身も定まってはならないのです。そのような定まらないもの同士が織りなす和音や不協和音が、拍動や乱れる拍動が、生命力さの音楽であり叫びなのでは無いか。

若き岡本太郎がパリに行く前に自分の限界に挑戦していたかどうかは知りません。小学生時分から本を読み、中学の時にショーペンハウエルだったかに出会い、その主張に同意していたと言うから大変利発な若者であった事は伺えますが。

ムカリンさんも、どうやら利発なようですが、それを頼るのは、医療においてはメスや薬で患者を治そうとするようなものです。しかし本当の医者は、患者自身の生命力を立ち上げて、それが病に打ち勝つ元のものだと知っている。
自己否定とは生命力の喚起なのです。ウジウジする事ではなく、燃え上がる事なのです。

それは理を超えた事柄なのでありますが、本来、人はそのようなものなのです。
ムカリンさんの考えは、綺麗に過ぎる。

お礼日時:2020/03/22 14:18

創作において「自己否定」はマイナスに働く事が圧倒的に多いです


何故なら自己否定は自身の創作品を否定することになりひいては創作意欲を削ぐことになるからです
創造活動において重要なのは自己探求にほかなりません。
自己の存在を肯定した上で自己が真に追求している「何か」を見出しそれを「形」にすることです
創造活動を妨害するものは何か? 
それは「意味の無いオリジナリティー感」と「意味の無い他人から承認」です
しかしながら「商い」として「創造」をするのなら「生きるための糧」を作らなければならないその事実を認めることです
「生きるための糧」として創造をしたその「何か」が己の求めているその「何が」と違っていてもそれを安易に「妥協」として捉えるべきではありません
生きていなければ創作活動すら出来ないのですから。
そのうえで「自己探求の創作活動」と「商いとして創造活動」との「折り合い」をどう付けるか?です
「自己探求」こそが「モチベーション」になります
端的に言えば「見つけたい事」を見つけようとするその想いです
私が「知ろう」としてきたその真の理由は「自己探求」に他なりません 
人は「心と身体」の両面を有しています
であるなら「心と身体」を分けることは人それ自体「分ける」ことになります
ですから「心と身体」を「一体」として捉え「心的面と物質面」双方を多角的に探求すべきです
それこそが真に人の探求となりそれ即ち「真の自己探求」となります
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この回答へのお礼

私は、許容範囲が広いと言うのと、懐が深いと言うのは違うと思います。
私は今まで自己を肯定的に見て来ました。ですが大した人間では無かった。大したものも作って来なかった。心は平和で、季節の風に揺蕩うような生き方で満足していた。
だけれど、それで何がどうなったと言うのだろう。
まずは自分と言う枠組みを破壊して取り払い、中身を見なければならない、内奥の炉に火を付けて、滾る血潮を抱かねばならない。
生命力で生きなければならない。

賢い自分を否定しなければならない。
そう思うわけであります。

お礼日時:2020/03/22 14:00
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