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これには批判もあると思うが、超越や解放を目指すなら、という話。
生き残りに懸ける命は勿体ないと私は思うのだけれど、皆さんはどう思いますか。
生き残るために策を練り、生き残るために心を押し殺し、生き残るために命を削り、生き残るために我慢する。生き残るために戦う。生き残るために、、、の後にはどうも悲壮感が漂っている場合が多い気がする。命(存在)を懸ける対象としては、生き残りというのは不適なのではないか。

生き残るために楽しみ、とか、生き残るために喜び、とか、生き残るために安心し、とか、生き残るために協和し、というのは無いわけではないが、あまり聞かない。

太古から現代まで、ずっと存在してきたサバイバル原理というか、闘争原理を破壊して、超越や解放を目指すことはできるだろうか、という話。これは、雲の上の御伽噺だろうか。生存原理は存在原理に劣るという主張と捉えてもいい。

たまにはこういう話も振ってみようと思い立ち。それが今夜でしたという話。

追伸:
超越とか解放というのは、例えば、食べなければならないという生存のルールに支配されなければ、あなたは何をしますか?みたいな問いに対する答え。過去から現在までの生命の営みを無視することともとらえられますが、非現実的で意味がないと思うことなかれ。良ければ考えてみてくださいな。

最近マイブームの、岡本太郎的に言えば、 一瞬を生き切れ! と言う事も出来るかな。
存在を透徹しようとする哲学人たらんとするなら、こんな問いにも当たってみてもいいかもしれない。
知らんけど。

質問者からの補足コメント

  • それが無いから燃え上がる、と言うところのそれとは、歪さや欠けのことではなく、あるべきはずのものがないと言う意味です。

    No.34の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/03/19 23:48
  • 命を粗末にしろと言うのではない。
    後生大事に抱えていては、自分の血の一滴も流さないようでは、生きたとは言えないのではないか?
    いや、本来的に皆、流しているはずだ。その血潮の温度を無視するから、痛みの分からない痛い奴になってしまう。クールな、空白な奴になってしまう。
    その熱さを、痛みを、自分で感じて、生きている昂ぶりをむしろ誇りに思って、吠えなければならないだろう。

    透徹した視力を持った哲人であっても、この道の奥底を見据えることはできない。そこには悲しみなんてない。燃え上がった血の湧き出す、炉があるだけだ。
    その熱い中身が絶対的に冷たい世界に流れ出すとき、世界が華ひらくのではないだろうか。
    理哲な賢人にはわからないことだ。

    No.46の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/03/20 22:58
  • 僕は最近、自分に対する不満をふつふつと感じる。
    なんて下らない奴なんだと。胸の内にメラリと燃えるものがある。
    自己否定。これこそが、モチベーションなのではないでしょうか?

    No.61の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/03/22 12:46
  • No.61
    >これは、社会のシステムの問題でしょうなあ。

    なんでも商品化してしまう。この性分は問題になると思う。月の土地を販売した話など聞くと、本当に恥知らずだと思う。お前が月を作ったのか?お前が月に到達したのか?何もしてないじゃないか?お前は価値を付けただけ。
    これは、私の商性に対する懐疑でもあると思います。価値とは、お金とは何か、どうあるべきかの話になるかもしれません。

      補足日時:2020/03/22 12:51
  • しかし敢えて言うなら、その目的とは、酷で冷たい世界、酷で冷たい運命に対する、爆発だと言ってよいでしょう。

    No.76の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/03/22 17:14
  • 私の言う、「私は冷たかった」と言うのは、熱意を持てる対象を持ってこなかったというのではない。人間として、冷たかったという意味なのです。他者からは優しい人だと言われてきた。しかし太郎は言う。「好かれる奴ほどダメになる。」おもろいやんけ、と俺は思った。
    なかなかいいパンチをしてやがると。
    私は太郎の言葉に従っているのではなく、古より太郎が受け継ぎ、また自ら顕現した熱い生き方を、俺もしてみようと思っただけなのです。

    No.77の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/03/22 19:47
  • 俺は若いころこんなに働いたのに、年を取って邪険にされている。不公平だ!こんなことを言う大人は、はっきり言って凡俗以外の何物でもない。
    気持ちは分かるが尊敬の対象にはならない。
    そうではなくて、俺は若いころこんなに働いた、年を取って邪険にされている。だからなんだ。俺は俺の信念に従って働いたんだ。俺はそれに絶対の自信がある。お前ら若い者に同じような自信があるかね?ないならつけてから出直してきやがれ!
    とか、
    年取って邪険にされている。まるで役立たずと言わんばかりだ。うれしい限りだね。俺がいなくても、お前らはやっていける。それだけ成長したってことだ。俺も頑張った甲斐があったよ。
    とか、
    なるなら、威勢のいいおっさんだなwとか、やさしい大人だなぁ、とか、若い者もいろいろ思うところがあるでしょう。

    No.99の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/03/25 01:26
  • しがらみの多い世の中で、純に生きていく事は、ただ生きて行くことよりも難しい。しかし思える。純に生きるとは、決して打たれない生き方の事ではないし、汚れない生き方でもない。縛られない生き方でもないし、疲れない生き方でもない。打たれ、汚れ、縛られ、疲れ、それでいて純なんだと、思えるようになった。その意味で、私は今までただ生きていただけだったかも知れない。必要以上には打たれたくない、汚れたくない、縛られたくない、疲れたくない、でもそれらは本当は、語弊を恐れず言えば、気持ち良いんだ。正面から取り組めば、障害は生きがいになる。そう思えるのです。

    盲点からの打撃は失神を呼び易い。正面から、分かって受けた打撃はあまり失神しない。正面から受けて、気絶してみたい。どうかしてるのだろうか、俺は。

    心をゼロにして話を聞いてみる、これは大変良いことを聞いたと思いました。ありがとうございます。

    No.107の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/03/27 02:32
  • ここに人生をわずかにも告白し、痛みを感じて来たことを身をもって知っている人に、さらに痛みを感じるべきだなどと間抜けたことは言いません。ストイックになるべきとも言いません。自他の痛みを知って、闘志を起こし、自己を励起して、道を切り開くことが、私には必要だったし、時代の要請でもあると思う。

      補足日時:2020/03/29 02:38
  • 最後に補足しておきますが、これらの話は勿論、自傷や自殺を勧めたり、行使したりする話ではありません。
    履き違えのないように、念の為。

      補足日時:2020/03/29 05:59

A 回答 (121件中1~10件)

危険というのか、面倒というのか、私自身、34歳時、おそらく他人様から見れば、それこそ危険な道を選び、そこから10年は大病、リハビリ、と共に転職の繰り返し、ごく最近51歳になり、もとの軌道に乗り直した感じです。

もちろんその代償で得ることも多いです、けれども、未だに一兵卒気分が抜けず、半ジェネレーション大変でしたし、今もですが。環境が安楽することを許してくれません。けれど毎日が楽しいです。
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この回答へのお礼

毎日が楽しい、充実している、素晴らしいことだと思います。
私も同じです。危険な道を選んで、転落があって、今がある。はたから見れば、あいつは馬鹿だと言われる。いい道を捨てて、粗悪な道を選んだと言われる。レールに乗ってりゃいいものを、と。しかし、だからどうだというのだろう。上手にやれてない他人を批判して自己の安寧を得るような奴は臆病者です。燃焼している奴は他者批判には興じない。

一兵卒、上等じゃないですか。
彼には純粋さがある。むしろ下手なことを誇りに思うべきです。私は打算で生きたのではないのだと。

お礼日時:2020/03/28 23:47

キサラギさん。

「あしたのジョーの幻のラストシーン」と入れたら出てきましたよ。あしたのジョーのホセ-メンドーサとの闘いの後日談のワンシーンです。ちばてつやが、ある民放番組出演時に描いた絵です。結論から言うと、ジョーは白木家の婿入りを果たしていました?あの試合のあと、ジョーは白木家で居候になってますね。その後の絵、ご自身でご確下さい。婿入りです。
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この回答へのお礼

ジョーのラストシーンのフィギュアが販売されてるのですね。
絵、見ました。左にようこの顔がある絵ですね。
ファンにとっては、ジョーが生存していると言う事が大変うれしいのでしょう。

ジョーの余生が如何なるものか、ファンは知りたいかもしれないが、私はそっとしておきたい。そっと本を閉じて。
脳裏に走るのはジョーの激闘と歩んだ人生であり、決して彼の以後の人生をのぞき見したいとは思わない。
それほど、あの物語のラストシーンはよく出来ていたと思う。
その後、誰かと幸せな人生を歩んだとか、車いすになったとか、ジムを開いたとか、旅人になったとか、旅先のスラムで偉大なボクサーの原石を拾ったとか、その原石を護ろうとする自分と、爆発しようとする原石との間で起こる軋轢とか、良い大人になった自分とかつての団平を重ねてみるとか、いろいろと想像は出来ます。

・・・
ボコボコにやられた彼に近づき矢吹は、
「おい坊主、拳ってのはこうやって作るんだぜ」
そう言って彼の手のひらを握り、その指を一本一本折り曲げて、拳握らせた。しっかりと。

彼の拳に握られたのは何だろう。
それは明日だと思う。
明日ってのは、こうやって掴むんだぜ。ジョーはそう、教えてくれた。団平がジョーに教えたように。
どっちにあるか分からない、明日を。

・・・・・

岡本太郎は言っています。
人は常に岐路に立たされている。
右か、左か。
その時には、危険な方を選べ。
危険な方が、本当はやりたい道なんだと。
危険な道とは自分が生きる道だ。
安逸な道とは自分が死ぬ道だ。
闘うんだ。
自分の運命と。

お礼日時:2020/03/28 22:57

お話いただき、ありがとうございました。



ご自身を卑下していないと知ることができ、ただただ安心しました。
少なからず、希望を抱きならもその一方で「死」を見つめていらっしゃるように見えたからです。

こちらもキサラギ様と書かせていただきますが、失礼ながらキサラギ様のお気持ちは嫌というほどわかりますよ。
私もまた人生のほとんどを持病に悩まされてきたからですね。恐らく、将来その重荷はさらに重くなるでしょう。
人間の善と人間の悪を嫌というほど見せられ。努力を繰り返すほどに、崖から何度も突き落とされ努力を水の泡にされる絶望と挫折を何度も繰り返しました。ですから、夜の優しさも、その疲れも、眠りたいと思うお気持ちすらもわかります。

私は長い歳月、精神的にも物理的な助けも受けることができませんでした。
そのうえ、正しいことを言っていたとしても一方的に責められ、誰も信じてもくれませんでした。ですから、私は嘆くのをやめ、自分を信じ行動によって周囲に証明したのです。
証明することによって、少しずつ多くの人に認めてもらえるようになりました。多くの人が手を差し伸べてくれるようになりました。
すべてにおいて私が最終的に言いたかったことはこの「行動による証明」の重要性です。
また、その後、多くの人々との出会いによって、この苦難は自分にだけ起こりうる悲劇ではなかったのだという認識を持ちました。
また、誰かがたとえ助けてくれず何もしてくれなくとも、傍にいてくれただけで、言葉をくれるだけでどれだけ幸せであったのかも思い知りました。罵倒を除く、他人からの嫌な言葉ですら取りこぼしてはいけないのです。
ただただ、人は自分に課せられた課題を見つめなければならないからです。

「行動による証明」を達成することは自信に繋がり、その自信はその後失敗をしたとしてもへこたれない度胸を身につけさせてくれるのです。今ではこの病があったからこそ、私はこの人生を生きることができているのだと思う事ができました。
完璧ではない欠落しながらも、平凡な人生です。しかし、すべてには意味があり。すべてに対して喜怒哀楽できることは自分への生きている証明です。ですから、世の中に存在するものをどれだけ拾えるかで、幸せにも不幸にもなるのですよ。

岡本太郎さんが尊敬したピカソ、そのピカソが絶賛したのはフリーダ・カーロという女性画家です。
彼女の人生はまさに衝撃的なものですが。彼女の描く絵はさらに衝撃的です。
20歳の頃、私は彼女のけして美しいとも奇抜とも言い難い強烈な世界観を見て、彼女の強さに強い刺激を受けました。
恐らく、キサラギ様にとっての岡本太郎さんのような存在でしょう。
彼女は彼女の目で見た真実を描いていたからです。
真実を見ることは時に辛く残酷なことです。しかし、その真実は最も欲しい答えに導てくれるのです。

絶望をご存じであるならば、既にお持ちのその炎を行動によって大きくして、周りを照らすべきですよ。
以前仰ったように、私もまた誰かによって様々な教えを受けました。ですから、今度はなんらかの形で受け取ったであろうキサラギ様がご本人の新しい経験や言葉で私に対してではなく、困っている誰かに紡いでいただかなければならないのです。
私が申し上げたいのは、どこかにある鍵を見つけて閉じられた扉を開くべきだということです。
目の前に立ち塞がる扉は一つではありません。燃焼するにはその扉を一つ一つ開けていかなければなりません。
何が言いたいかと言うと、その扉を開けた先に行かなければ、次のステージには進めないという事です。
そのステージにはそのステージに適したテーマや話があるのです。

キサラギ様がそのステージにあがった時、ぜひまたお話しさせていただきたいですね。
これほど多くを見ることができる方であれば、「違いを楽しむ」有意義さも理解できるはずですよ。
できていないという指摘ではなく、この場合はより高度な「対立と調和」を指しているのです。
それは互いの持っている引き出しをより多く開けさせなければなりませんからね。
実に楽しいものですよ。
その次元までぜひ駆け上っていただきたいですね。
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この回答へのお礼

まったく啓眼をお持ちのようですね。
seeさんには鋭く影が差していると思っていたのですが、seeさんも幾多の壁を乗り越えてこられたことが分かり、やはりそうだったかと思いました。
もはやあなたには僅かにも飾る言葉をかける必要はないようです。

>今ではこの病があったからこそ、私はこの人生を生きることができているのだと思う事ができました。
>真実を見ることは時に辛く残酷なことです。しかし、その真実は最も欲しい答えに導てくれるのです。
>私が申し上げたいのは、どこかにある鍵を見つけて閉じられた扉を開くべきだということです。

まったくその通りであります。
その通りなのであると言う事は、仰るように体現して、その通りとなるのです。
言葉でいくらも語り、また聴くだけで何か成ると言うわけではありませんね。まったく仰るその通りです。
しかしながら、生きた言葉が世に存すると言う事もまた事実。生きた言葉には、血が通っている。

幾度も回答を要請することになってしまい、またお付き合いいただきありがとうございました。

記念に、誰宛というわけでもなく、言葉を少し書き記しておきましょう。

痛みを感じろ
血を流すべきである
生命の炉心に火を灯し
無自覚だった自身に怒れ
闘志がわいてくるから
温かい手を持つ
人間になれるから

お礼日時:2020/03/28 18:30

煩悩払う暇あったら、燃焼爆発しな❗あの金平糖の鐘は、その事を教えてくれていると思います。

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この回答へのお礼

煩悩とは、本能に基づく心の動揺だと言います。
今、伝染病で世間に恐怖が広まっていますが、それも煩悩です。
その煩悩を払うのではなく、恐怖したなら、勇をもってそれを克服すべきです。
あの鐘が、寺にあるのが実に素晴らしい。ぶつかってる。あの鐘は、決して甘くない、厳しいけれど、本当の意味でやさしい。
自分を叱咤激励するような鐘ですね。

お礼日時:2020/03/28 14:22

ニャンポコさんの言及されている「正反対のものがぶつかることによって両方の花開く」、凄い言葉です。

相容れないもの同士が、出会って、向き合い、真剣勝負したときこそ、互いが互いの「才能の花」を開かせる、ということになると思うんです。しかも、そこには、もうひとつ別の思想が言われているんです。歴史は、相対立するものが闘うことによって開かれる。相対立するものが闘うことこそ、歴史の原動力である、エンジンである、という哲学者ヘーゲルの教え、「弁証法」のモチーフです。秘密結社アセファルに所属していたとき盟友バタイユとコジェーヴとの語り合いから太郎さんが理解した、歴史の原動力、エンジンのモチーフを裏で語っているんですよね。、
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この回答へのお礼

へー、そうなんですね。
秘密結社ですか。
俺も結成しようかな。たった一人の秘密結社w

太郎を知って、このぶつかるということを自分自身の中でやってみたいと思ったのが、始まりだったかもしれません。
自分の心の中には、高峰、すなわち仏陀とか菩薩とか、諸々の聖人、スター達が居座っていて、存在感を示しているが、生身の自分は実は、それに反感も持っていた。
それがなんぼのもんやねんと、ずっと思ってきた。それに従うだけの俺ではないと。
そこに太郎ですよ。燃焼するんだ、自己を。ぶつかれと。
やってやろうじゃないのと、思いましたね。
それこそ本当の、自己の目覚めなんじゃないのかと。
立派な人々の教えに付き従うだけの人生は、燃焼じゃない。それは、自立しているとは言えない。

お礼日時:2020/03/28 13:42

今でも忘れないのが昼間のワイドショーで、たまたま、話題の太郎さんのアトリエを紹介したんですよ。

太郎さんが最近依頼作成した、寺の鐘をテレビカメラが全国放映したんです。そのかたちが大きな球体に、沢山のトゲが付いているんですよ、太郎さんの作品知っている人なら、エネルギーの爆発のモチーフなんだ、と分かるわけですよね。ところが総合司会していたうつみ宮土理が、「太郎ちゃん、そのトゲの部分取ってもいいじゃない?」と宣ったですよ。恐らく周囲のテレビクルーはそのコメントに凍り付いたと思います。そうしたら穏やかに「トゲとったら作品じゃないんだよね」と優しく返答してました。そうしたら、みどりは、阿呆ですから、何度も「太郎ちゃん、やっぱりトゲ取った方がいいんじゃない」と何度もアドバイスするわけですよ?その度にテレビクルーは、汗を大量にかいていたと思います。けれど太郎さんも人が悪いんですよ。作品の名前「金平糖にしようかな❗」と言ってるんですよ。みどりは、その後調子にのって、太郎さんの根幹の思想、燃焼爆発のモチーフのトゲを何度も「取り除け!」と攻め立てていたのを今でもハッキリ覚えています。
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この回答へのお礼

ああ、あの鐘ですね^^
小心者は、多分あの鐘を見てぎょっとすると思います。
煩悩を払う除夜の鐘として鳴らされているそうですが、煩悩もくそもないw一つ一つがギンギンに際立った生の主張に私には見えました。しかもあのとげ、結構とがっていますよね。危ない。危ないのが、太郎的にはとてもよかったのでしょう。私もそう思います。

お礼日時:2020/03/28 13:30

ありがとうございます。



質問者様は非常に聡明だと思います。ですから、猶更、仰っている言葉の意味をもう少し考え直された方がよろしいですよ。

多くの人は何の抵抗もできずにただただ、正面から打撃を受けるのです。これは明らかな「不運」です。
そして、気絶するのは、徹底的に打ちのめされて「絶望」するからです。
誰も望んでそうなるわけではないのですよ。

ある人は最愛の人を失い。ある人は職を失い。ある人は金を失い、ある人は生気を失います。
岡本太郎さんの場合は実際に何を失ったのかは知りえませんが、憶測が許されるならば世間一般的な「母」や「妻」という存在でしょう。
皆、精神的に「何をしていいのかわからなく」なり、苦しさのあまり現実から逃れたくて死を望む人もいるわけですね。
仰るように正面から取り組めば、障害は生き甲斐になります。しかし、それは精神面での九死に一生を得たからこその苦肉の策です。
この不幸を望むのは人生を180度変えるほどの「絶望」を知らないからです。
それは実は幸運なことですよ。ただ、その幸運をすべて質問者様が失うことでもなければ、有難さがわからないかもしれません。

質問者様はただ闇に見とれているからです。眠っていると感じると仰るのもその為です。
私が申し上げたのは光です。明るい未来です。
人の言葉ではけして得られないものを求めてはいけませんよ。

どうかしているというよりも、仄暗い水中で息をなるべく止めつづけたいと仰っているにしか聞こえないのです。
呼吸を止めれば、いずれ死んでしまいます。岡本太郎さんはそんなことはしませんでした。むしろ、岡本太郎さんは呼吸のできる日の当たる広い場所で思いの丈を大声で叫ぶかの如く表現して世界中に知らしめようとしました。太陽の塔しかり、明るい未来を思い描いた人です。
今もまだ質問者様が見ている世界と、岡本太郎さんの見ている世界はずれているのです。

今あるものをわざわざ失う必要などありません。ただ、質問者様なりの明るい未来を思い描くべきですよ。
誰かと比べる必要もなく、ただあるがままを認めて何をしたいのかどうしたいのかを考えた方がいいですよ。
小さな幸せを抱きながらも多くの努力をして成功した偉人は沢山います。
ご自分の境遇を投げ出してまで、あえて不幸になるのは演技でしかないと思います。
もっと質問者の人生を大切になさってください。大切にすればするほど、努力すればするほど質問者様の望む形に変えられるのですよ。ただ、他人の中にしかないものを求めない方がいいですよ。
質問者様だけの人生にピントを合わせてください。
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この回答へのお礼

あなたは大変お優しい方です。
申し上げられた事に素直に聞き入ってしまいましたね。
私についていくらか話さねばならないかもしれません。他の人には他の人の、個人史が存在するからです。
私は大変明るく青年期を過ごしておりました。しかし25歳のある時、病気になります。大病です。それから立ち直るのに一年を費やしましたが、さらに二度、再発します。闘病が終わった頃には35歳を過ぎておりました。およそ十年、病気と一緒に過ごして来たわけです。今38歳なのですが、また再発しないとも限りません。後遺症もあります。親にも大変な苦労と心配をかけました。友達もまともな仕事も、金も、立場も失いました。
だが私は運命と闘って来た。悪戦苦闘して来た。眠りたいと思うのは、疲れているからであり、闇に見惚れてしまうのは、夜がやさしいためである。

私が太郎に惹かれたのは、決して明るい未来を太郎が示唆したからでは無いのです。彼が、絶望をファイティングスピリットに変えて人生を燃焼し尽くすと同時に、運命に対する恨み辛みをも燃料にしてしまう意志の強さに、心を打たれたのです。

seeさんと呼ばせていただきますが、seeさん、私は決してこのような自分を卑下してはいない。むしろ誇りあるサバイバーだと思っている。もちろん不幸も目指してはいない。だが幸福だとも思わない。恵まれてるとも恵まれてないとも思わない。ただ、私は、自分を乗り越えなければならないと感じていて、その運命ごと超克せねばならぬ、と、固く思っているのであります。この先私の未来が明るいか、成功するかどうかなんて、興味は無い。ただ、燃焼するという択一性だけが存在しているのです。

私は得るどころか多くのものを失った。しかしそれがなんだというのだろう。
私は失ったが決して得てこなかったのでも無い。
心に火が灯っている。この火は、有用なもの、幸福の資源を燃料にするのではなく、無用なもの、壊れたもの、あるべきなのに無いもの、全く無いもの、つまりその最たるものは自分なのであるが、その自分を燃料にして、自分自身を励起する炎なのであります。

お礼日時:2020/03/27 21:50

「正反対のものがぶつかることによって、両方が花開く」、卓見ですよね。


尊大で生意気くらいが丁度いいんです。それは、誇りですから。誇りがあるから
ぶつかることができる、とも言える。

私は実はぶつかることが好きなんです。下手くそですけど。日本人は相対的にそ
の傾向はありますが、上手くぶつかれるようになったら、日本は大発展できるの
ではないかと思います。

誇りは青年が持つもの、慢心・保身は老人が持つもの。30代後半から40代にかけ
て分岐点が来るという話を聞いたことがあって、だから。お節介でキサラギさんに
言ったわけであり、軽蔑なんかしていません。寧ろ、以前言った通り敬意を持って
います。

自分が生きている文明の中で、その中のコンテンツを吸収して、役割の一端を担っ
て生きてゆく、というのが人生であるという認識は何千年の歴史の中で民衆が共有
してきたものです。

それを、あっさりとぶった切ることができた太郎は、天才としか言いようがない。
でなければ「人類の教師」の一人と言いたいですね。
ソクラテスの「無知の知」ということも、デカルトが一切の学問に疑いを持ったの
も全く同じことだと思います。

仰る通り、太郎は「既存のものを教え込む」という意味での教育を否定しています。
これも、恐ろしく正しいと思う。
本当の意味での教育です。それは、主体性を持たせること、つまり、人間を作るこ
と、と言っていいと思うのですが、それを日本人に教えようとしたのだと思います。

大事な点は、「何のため」かということです。太郎が仮に自分を爆発させ、燃え尽
きることが目的であったとしたなら、私は尊敬しません。
それは、小乗的だからです。

偉大な人たちに共通するものは、世の中を何とかしようとか、苦しんでいる人を助
けたいとかいう心、即ち「愛」があると思っています。だから、余計に苦労がある。
土着の祭りを復活させようとした運動を支持したなどということは、それを物語っ
ていると思います。

「愛」「慈悲」というものが、私の中で一層根源的なものになってきています。

知れば知るほど、岡本太郎という人間は一流の人間であったと思います。逆に自分
らの小さな目的のために他者の足を引っ張ろうなどという根性を持った人間は軽蔑
しますし、憎しみすら感じます。
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この回答へのお礼

もちろん、にゃんぽこさんが、キサラギをけいべつしているなどと思ってはおりませんので、その点はご安心ください。
ただ、出る杭を尊大だと言って、軽蔑するような風潮に肩を貸してはならぬと言う思いからの発言でした。

岡本太郎は温かい人だと思う。世のことを思っていたし、人々を束縛から解放せんと闘った。それ故の"無条件に生きる"と言うことなのであり、一瞬に懸けるエネルギーは鮮烈だった。
太郎は、俺が世の人々を解放するのだ!とは言わずに、ただ、"燃えろ"と言ってくれた。つまり自己解放の勧めであり、他者解放では無かったのです。
本来仏道は一乗であって、乗り物に大小の差異はなく、その座に上下は存在しない。

太郎の言葉の奥に燃燈仏を観るのは私の勝手に過ぎないが、彼が菩薩的だったと言われても不思議はない。事実、京の禅僧相手に講話をした時は拍手喝采だったそうです。

しかし今は敢えて太郎に仏教の話は絡めたくないと言う思いもある。太郎は太郎であって純粋に打たれ、純粋に傷つき、そして純粋に爆発して、走り切ったのだから。

太郎はパリ時代に迷走したそうです。圧倒的な歴史の厚みの残るヨーロッパに圧され、その燦然とした芸術を真似するだけの画道にひたすらに懐疑に揺れた。絵筆を放り出し、歴史や社会学、果ては民俗学まで勉強した。信念を発揮できずにいた。アイデンティティを模索した。そこで、ピカソの絵との出会いや、映画館での開明を通じ、やっとこさで、自分の道を見出して日本に帰って来たら、今度は徴兵です。決してあっさりと既存の常識をぶった斬れた訳ではなく、時に打ち沈められ、翻弄され、疎外された。だが太郎は闘った。経済的な問題もあった。と言うのも、血の繋がらない親戚を養わねばならない立場に立たされていた時もあったらしい。パリ時代に母を亡くし、直後には精神的支柱も細くなっていたかもしれない。しかし、母は我らの中に生きている、と言うような手紙を父に書いて、父を励ましたそうだ。
太郎は気骨のある太い人だが、幼少からその傾向はあったにせよ、完璧超人なんかじゃ決してない。

ぶつかりたい。これは、現代人の隠れた欲求であると思います。承認欲求がどうとかみみっちい話が巷の若者の間に沸いていますが、本気でぶつかれたなら承認欲求なんて消し飛んでしまうはずです。

お礼日時:2020/03/27 21:21

サクラの花ひとつにしても、家は森の中にあるので、朝4時ぐらいからウグイスが鳴き出すんですよ。

どれみてもどれ聞いても、美しいのですが、しかし、どれもがエネルギーを内側からの燃焼させれているんですよね。天体から、小生物にいたるまで、内なるものの燃焼なんですよね。一つの宇宙論の展開が眼前に展開されるわけです。太郎さんもゴッホも彼等の作品は一貫して存在の燃焼爆発であったと思われます。キサラギさんの夢の中の乗客も危機から脱出するのに、特に、燃焼爆発は必要なんですよね。現代人の合理利便性への退却は、内なるものの燃焼爆発を回避し、車両の乗客のように新展開に向かうことに萎縮してしまう傾向にあるのではないか、自分自身を含め、キサラギさんの夢の話を伺って反省してます。
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この回答へのお礼

まったく、ご理解されている通りだと思います。同意。

お礼日時:2020/03/27 14:47

仰るように慣れた場所、考え方、見方、風景から離れることを残念に思ったり、拒否感を覚える方もいますよね。

でもそこから立ち去ることで得るものも多いのだと思います。夢の中の列車の乗客は、先の人びとの傾向を映し出していますね。
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この回答へのお礼

立ち去る事で得るものも多い。
勇気の出る言葉です。

お礼日時:2020/03/27 14:38
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