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これには批判もあると思うが、超越や解放を目指すなら、という話。
生き残りに懸ける命は勿体ないと私は思うのだけれど、皆さんはどう思いますか。
生き残るために策を練り、生き残るために心を押し殺し、生き残るために命を削り、生き残るために我慢する。生き残るために戦う。生き残るために、、、の後にはどうも悲壮感が漂っている場合が多い気がする。命(存在)を懸ける対象としては、生き残りというのは不適なのではないか。

生き残るために楽しみ、とか、生き残るために喜び、とか、生き残るために安心し、とか、生き残るために協和し、というのは無いわけではないが、あまり聞かない。

太古から現代まで、ずっと存在してきたサバイバル原理というか、闘争原理を破壊して、超越や解放を目指すことはできるだろうか、という話。これは、雲の上の御伽噺だろうか。生存原理は存在原理に劣るという主張と捉えてもいい。

たまにはこういう話も振ってみようと思い立ち。それが今夜でしたという話。

追伸:
超越とか解放というのは、例えば、食べなければならないという生存のルールに支配されなければ、あなたは何をしますか?みたいな問いに対する答え。過去から現在までの生命の営みを無視することともとらえられますが、非現実的で意味がないと思うことなかれ。良ければ考えてみてくださいな。

最近マイブームの、岡本太郎的に言えば、 一瞬を生き切れ! と言う事も出来るかな。
存在を透徹しようとする哲学人たらんとするなら、こんな問いにも当たってみてもいいかもしれない。
知らんけど。

質問者からの補足コメント

  • それが無いから燃え上がる、と言うところのそれとは、歪さや欠けのことではなく、あるべきはずのものがないと言う意味です。

    No.34の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/03/19 23:48
  • 命を粗末にしろと言うのではない。
    後生大事に抱えていては、自分の血の一滴も流さないようでは、生きたとは言えないのではないか?
    いや、本来的に皆、流しているはずだ。その血潮の温度を無視するから、痛みの分からない痛い奴になってしまう。クールな、空白な奴になってしまう。
    その熱さを、痛みを、自分で感じて、生きている昂ぶりをむしろ誇りに思って、吠えなければならないだろう。

    透徹した視力を持った哲人であっても、この道の奥底を見据えることはできない。そこには悲しみなんてない。燃え上がった血の湧き出す、炉があるだけだ。
    その熱い中身が絶対的に冷たい世界に流れ出すとき、世界が華ひらくのではないだろうか。
    理哲な賢人にはわからないことだ。

    No.46の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/03/20 22:58
  • 僕は最近、自分に対する不満をふつふつと感じる。
    なんて下らない奴なんだと。胸の内にメラリと燃えるものがある。
    自己否定。これこそが、モチベーションなのではないでしょうか?

    No.61の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/03/22 12:46
  • No.61
    >これは、社会のシステムの問題でしょうなあ。

    なんでも商品化してしまう。この性分は問題になると思う。月の土地を販売した話など聞くと、本当に恥知らずだと思う。お前が月を作ったのか?お前が月に到達したのか?何もしてないじゃないか?お前は価値を付けただけ。
    これは、私の商性に対する懐疑でもあると思います。価値とは、お金とは何か、どうあるべきかの話になるかもしれません。

      補足日時:2020/03/22 12:51
  • しかし敢えて言うなら、その目的とは、酷で冷たい世界、酷で冷たい運命に対する、爆発だと言ってよいでしょう。

    No.76の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/03/22 17:14
  • 私の言う、「私は冷たかった」と言うのは、熱意を持てる対象を持ってこなかったというのではない。人間として、冷たかったという意味なのです。他者からは優しい人だと言われてきた。しかし太郎は言う。「好かれる奴ほどダメになる。」おもろいやんけ、と俺は思った。
    なかなかいいパンチをしてやがると。
    私は太郎の言葉に従っているのではなく、古より太郎が受け継ぎ、また自ら顕現した熱い生き方を、俺もしてみようと思っただけなのです。

    No.77の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/03/22 19:47
  • 俺は若いころこんなに働いたのに、年を取って邪険にされている。不公平だ!こんなことを言う大人は、はっきり言って凡俗以外の何物でもない。
    気持ちは分かるが尊敬の対象にはならない。
    そうではなくて、俺は若いころこんなに働いた、年を取って邪険にされている。だからなんだ。俺は俺の信念に従って働いたんだ。俺はそれに絶対の自信がある。お前ら若い者に同じような自信があるかね?ないならつけてから出直してきやがれ!
    とか、
    年取って邪険にされている。まるで役立たずと言わんばかりだ。うれしい限りだね。俺がいなくても、お前らはやっていける。それだけ成長したってことだ。俺も頑張った甲斐があったよ。
    とか、
    なるなら、威勢のいいおっさんだなwとか、やさしい大人だなぁ、とか、若い者もいろいろ思うところがあるでしょう。

    No.99の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/03/25 01:26
  • しがらみの多い世の中で、純に生きていく事は、ただ生きて行くことよりも難しい。しかし思える。純に生きるとは、決して打たれない生き方の事ではないし、汚れない生き方でもない。縛られない生き方でもないし、疲れない生き方でもない。打たれ、汚れ、縛られ、疲れ、それでいて純なんだと、思えるようになった。その意味で、私は今までただ生きていただけだったかも知れない。必要以上には打たれたくない、汚れたくない、縛られたくない、疲れたくない、でもそれらは本当は、語弊を恐れず言えば、気持ち良いんだ。正面から取り組めば、障害は生きがいになる。そう思えるのです。

    盲点からの打撃は失神を呼び易い。正面から、分かって受けた打撃はあまり失神しない。正面から受けて、気絶してみたい。どうかしてるのだろうか、俺は。

    心をゼロにして話を聞いてみる、これは大変良いことを聞いたと思いました。ありがとうございます。

    No.107の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/03/27 02:32
  • ここに人生をわずかにも告白し、痛みを感じて来たことを身をもって知っている人に、さらに痛みを感じるべきだなどと間抜けたことは言いません。ストイックになるべきとも言いません。自他の痛みを知って、闘志を起こし、自己を励起して、道を切り開くことが、私には必要だったし、時代の要請でもあると思う。

      補足日時:2020/03/29 02:38
  • 最後に補足しておきますが、これらの話は勿論、自傷や自殺を勧めたり、行使したりする話ではありません。
    履き違えのないように、念の為。

      補足日時:2020/03/29 05:59

A 回答 (121件中21~30件)

ご返信ありがとうございます。


なるほど、そういうことですか。
残念ながら話が行き違っていたようですね。
つまり、「他者と争う時間を割くよりも、個人個人が何かを極めることに人生を捧げるべきではないか」ということを質問なさりたかったのですね。

人生はそう単純ではないと思いますね。
芸術家の話こそ、まさに破壊と創造ですよ。

葛飾北斎の生きた時代、画派が確立されていたため北斎もまた師事していました。
ある日、若かりし北斎が描いた看板を街中に立てていると、それを見た兄弟子に絵を酷評され破り捨てられたのです。
北斎はその時、プライドを傷つけられ非常に怒り、日本一の絵師になることを決心したのです。兄弟子との争いが当時の北斎の心に火をつけたということですね。生涯に渡る動機付けをされたわけです。
その後、北斎はあらゆる流派を渡り歩き、画力の腕を磨きました。つまり、90年が北斎にとっては鍛錬だったわけです。

岡本太郎は父と、母岡本かの子とその愛人のいる家で幼少期を過ごしました。
その影響か、岡本太郎は妻になるべき女性を養女にし、生涯結婚はしませんでした。
また、岡本太郎はパリで学び帰国後、日本の二科展に入会し、二科展での活躍により日本で有名となりました。
ただ、その後、岡本太郎は二科展との関係に非常に悩み、何度か入会と退会をしたはずです。
晩年はパーキンソン病を患いながらも、「岡本太郎」らしさを表すために養女によってテレビ番組に出演しつづけました。


様々な経験を経て、人の生き方は変わるのだと思います。
石が川の中で転がり、角が削られるように磨くからこそ丸くなっていく。
凡人であろうと偉人であろうと、時には痛い目をみて、時には幸福も感じなければ、人間的成長は見込めず。
極めるにも至らないと思いますが。それは個人的には「死んでいる」のではなく、「感じる幸福度の違い」だと思いますよ。
小さな幸せで満足できる人を責めてはいけませんよ。
より大きな幸せを求めるならば、尚一層器を大きくし自己改革は大切だと思います。


これからも様々な人々と出会い、良くも悪くも刺激を受けてください。
質問者様が望むことができることを願っております。

失礼いたします。
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この回答へのお礼

ご丁寧なお返事をありがとうございます。
100件の回答を超えましたので、過去のやり取りを見るのは大変だと思います。その100件の間に、あしたのジョーなどの話も上がっております。ただ、人と競うなというような軽薄な問いではないことを理解していただきたいと思います。もし、このように軽薄な意味でしかこの質問をご理解されていなかったのであれば、残念なことです。
繰り返しになりますが、当質問では、他人と争うな、というようなことを取りざたしているのではありません。むしろ大いにぶつかるべきだろう、本音で生きるべきだろうと言うような話が上がっております。
この質問では当初より、生き残りのために懸ける命は勿体ないのではないか?と尋ねているのであります。
私は誰も責めてはおりません。
ただ自分に無性に腹が立った、と言う事なのです。
何故熱く生きないのかと、言う事なのであります。
もし同じように、今の自分に満足していない人々がいるならば、
それは、生き残りを意識しているが余り、命の奴隷になっているのではないかという疑問なのです。
生命力を噴出させるとはどういう事だろうか。
それは、生存を勝ち取ると言う動機で現れてくるのだろうか?
私は違うと思う。
生き延びることではない、もっと高潔な生き方があるだろうと言う話なのでした。
勿論別に、死ねというのではありません。しかし太郎はこうも言っています。
「分かれ道においては、危険な方を選べ。」
生存を目的とするならば、安全な方を選ぶのが普通です。しかし、自分の本来やりたいことというのは、危険な方にあると言うのです。

生きているという事実を懸けて、燃えるんです。

お礼日時:2020/03/25 20:54

人の心というものは、そう分かるものではないと思っています。

ですから、
「おそらく」という言葉をつけねばなりませんが、キサラギさんは「ホモ・デウス」
の方向へ向いているのではないかと、敢えて言います。

>ピカソの絵画もやはり絵画を超えていた

例えばこれですが、ピカソの絵画は「これまでの絵画を超えていたかもしれない」け
れど絵画には違いなく、絵画以外の何物でもないはずです。
「いやそれは絵画ではなくピカソそのものである」というのかも知れませんが、ピカ
ソであるというのは正しいが、絵画ではない何物かであるということが、間違いだと
思います。

>太郎は明らかに芸術家を超えている

これもそうです。太郎はこれまでの芸術家を超えていたかもしれませんが、芸術家に
は違いなく、芸術家を超えた何者かではないのです。

芸術家を超えた何者かであるなら、人間を超えた何者かになってしまう。つまり、ホモ
デウスに。

太郎の解釈を誤っているのではないかと思うのです。いや、太郎自身がそういう考えな
のかも知れないけれど、今のところ私にはそうではないと思えます。

>○○屋、とか、○○家、というのは、人間をより狭い何者かに規定するもの以外の何物
でもない

その通りですが、人間は社会人としては、その中でしか自分を発揮することができないと
も言えます。
人間は無限の可能性がある、と私は今でも思っていますが、今のこの瞬間では枠の中に入
っているものだと思います。本質は枠の中に入りきれなくても。

勿論、その本質を追求し、より自由に生きるべきだと思いますが、そのことと、自分が何
か特別なものであるという意識というものが、混同され区別がつかなくなり、易きに流さ
れるということが歴史上多くあったのだと思います。そして生まれたのが「増上慢」であ
り、社会に害をなしてきた、と。

それから、№99で述べたことは、「尊敬の念」が共同体の中でどう働くかを述べようとし
たもので、女が男を尊敬するべきだとか、年配者を敬わなくてはならない、なんて言った
のではありませんよ。

男は女に尊敬されるべきだということ。ただじゃ尊敬なんてしない訳です、子供だってね。
男が腑抜けなら、どうあっても社会は衰退するということです。だから、男次第だし、男を
育てる女次第だということです、社会は。
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この回答へのお礼

色々と私の理解不足について踏まえていただきありがたい限りです。
ところで、日本の伝統産業、取り分け建築界などには、「師を超えて、初めて弟子になれる。」と言うような精神的しきたりがあるそうです。なんのこっちゃ?と思われるかも知れません。それは、師というものは、彼自身を常に超えて来ている存在であり、追いかけても追いつかない存在であるからだと思います。それで、師を超えたくらいで、初めて師弟関係というくらいになり、そんな弟子が弟子自身を、自分を超えて、初めて独立できるのであります。
ピカソの絵画がこれまでの絵画を超えていたということ自体が、絵画を超えるという意味であり、現代では当たり前になった抽象芸術の観点で、ピカソを絵画的に評価するのは、極論すれば、未来の武器で江戸時代の武士を撃ち殺す様な卑怯で冷たいことなのです。それこそ、尊敬が足りて無い訳であります。

にゃんポコさんは人間と言うことに焦点を当てておられる。私は、人間が克己をやめてしまえば、人間ではいられないと思う。走り続けているのが生命の通常状態であると私は思います。そういう意味で、人間の内なる炉の炎を絶やして仕舞えば、人間は生命力を失って形骸化してしまうと思います。
一方、ホモ・デウスとはなにかと言えば、遺伝子改良やサイボーグ化などによって人為的に人体に改良を加えて、より感情豊かに、より賢く、より活力ある様になった存在です。
太郎は違う。下手なら下手で、もっと下手な方が良いんだと言う。それでいて、平気でやれと言う。私には太郎の温かさが分かる。太郎が未来ではなく、源流に向かって遡上したのが分かる。だからこそ彼は彼の生きた時代を超えたものを創り出す事ができたのだと思う。

私は、社会がある人間に害を為しているのでないかと言う観点を、ある人間が社会に害を為しているのではないかと言う観点と同等に、或いは今は、同等以上に大事にしなければならないのではないかと思う。太郎が画壇を超えて社会にぶつけた「重工業」と言う作品は、人間が機械の奴隷になっていると警鐘を鳴らしたものでありますが、いい例だと思います。
自分は特別ではない。人はこの様に言って慎ましくあろうとするが、現実には人は特別なのです。掛け替えの無い存在であり、一人一人が固有の炎を燃やすべきなのであります。

お礼日時:2020/03/25 14:55

物理法則が様々あるのと同様に、精神的な世界の法則というものも様々あると


考えています。
仏教哲学では色法と心法と呼んでいる訳ですが、心法の方は科学的にほとんど
分かっていないようです。

その中に人が人を尊敬するというものがあると思うんです。これは、共同体を
構成するうえで大変に役立っていると考えます。

例えば男と女の関係でうまくゆくのは、女が男を尊敬している場合のみである、
とトルストイは言いました。
岡本敏子さんは、女が男を誉めるとうまくゆく、と言いました。

また、経験者や功労者を尊敬すること、親を尊敬することで、組織や家庭がう
まくまとまる、ということは大いにあると考えます。
昭和の組織・地域社会、家族は今よりも遥かにいいものでした、これは私自身
が経験してきたことです。

ただ単に長所を吸収するということだけではないもっと複雑な精神の世界があ
るであろうと思っています。

それから、太郎は芸術=人生、と言っています。つまり、生きるとは芸術その
ものですから、芸術家とは人間のことである。
ですから、太郎が芸術家を超えているという表現はどうかとは思います。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

なるほど。
太郎が芸術家を超えているという表現が的確かどうかなんて、ここではどうでもいいんですよ。
しかし私は、敢えて言いますよ、にゃんぽこさん。
ピカソの絵画もやはり絵画を超えていた。
○○屋、とか、○○家、というのは、人間をより狭い何者かに規定するもの以外の何物でもない。それは社会的役割であって存在そのものではない。もっと言えば、人間という言葉さえ人間存在をより狭いものに規定するものに過ぎない。人間は自らを制して自立し、道を歩むのは本当のことだが、自分以外のものに制されたならそれは従属と言われる。

太郎は明らかに芸術家を超えている。芸術という枠を破壊しているし、太郎はそれを意識してやっています。
生きることが芸術であるべきだと言うのは、そのままの意味ですよ。太郎的には、芸術が爆発なら、生きることが爆発なら、絵だって、彫刻だって、爆発だし、生活そのものが生きていなきゃいけないんですよ。
芸術なんて、道端の石ころと一緒だとは太郎自身の言葉ですが、この宇宙でほんのちっぽけな自分自身、という言葉も太郎が繰り返した言葉です。
伝統とは創造である。創造とは破壊なくしては存在しない。アヴァンギャルドが生きていたころの、アーティストが太郎だとするなら、太郎は何を壊そうとしたのか?
曰く、「私は闘い続けてきたが、世の中は変わらない。むしろつまらなくなった。」
太郎は明らかに芸術家という枠にははまっていない。彼を気鋭の芸術家などと呼ぶから、彼自身から、「私の本業は人間だ」というような言葉が出てくるのだと思います。

そもそも、うまくやろう、うまくいかそう、うまくゆくように、そのように考える打算と計算が卑しいものとまではいわないが、弱さであるのです。なぜ悔しくない?
計算しなければ、うまくいっていることにしか安心できない自分が、その精神の卑屈さに、自身腹が立たないだろうか?何故もっと伸び伸び生きない?
女房が俺のことを褒めない。だからうまくいかないんだ。こんなことを太郎が言うだろうか?ソクラテスに至っては、悪い女房をもらった男は哲学者になる、などとユーモアとアイロニーをかますほど余裕がある。経験者や功労者とは、当時太郎を最も非難、批判した連中ではないか。

補足に続く

お礼日時:2020/03/25 01:24

質問者様の目に世界が開かれて見えているのは、精神的に豊かだからこそ可能な事です。


幸いなことだと思います。

ただ、仰っているのは幽霊の話ですか?
個人的に、死は無になることだと思います。ですから、故人は何も感じることはできないと思いますね。
こちらが申し上げたのはもっと単調な話ですよ。
「求める」ことが可能であるのは、それはある一定の知能があるからです。
「感情」を持っているのは知能があるからです。

私たち生物を形作る細胞は知らぬ間に毎日コピーを繰り返して身体を維持しています。ですから、私たちには細胞にトラブルが起こらない限り(炎症による痛みなど)、成長や老いを感じない限り意識することはありません。これが有限たる意味ですね。日々、知らない間に破壊と創造が繰り返されています。すべての生き物は遺伝子に組み込まれた法則に従って生きているわけです。
ですから、そもそも囲碁はどんな感情を抱いているにせよ人間にとっては必要であっても、海にいるヒトデなどにとってはただの木であって、石でしかないのです。ヒトデは食事と子孫を残すことだけに知能を使い、囲碁に対して働かせる知能の余裕がないからです。

知能があるこそ効率性を求め、策略などを練り争うわけです。
ただ、その知能が何歳まで成長が可能であるかの話ですよね。
現代は100歳時代となりました。将来テクノロジーによって老化のない健康な100歳が存在できたとき、彼らが考えることと、50歳以下の現役の若い人々では考えることはまるで違うはずです。精神的若さは生物的には美徳ですが、未熟さの表れでもあるわけです。
ロボット化により知能の長寿が可能になれば、精神的満足度を上回るものを獲得できるのかもしれません。
一説に人間のロボット化が成功すれば、1万年生きられるという人もいますね。
脱線して途方もない話になりましたが。

虚しいと思うのは、この先新時代のハイテクノロジー化が進んだとしても、その頃は生きていないだろうと思うからですね。
もし幽霊になってみることができたとしても、何も理解できないでしょうね。
生きているからこそ理解ができるからです。知能は大事ですよ。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
生きていない人と言ったのは、幽霊の話では無いのです。
生きていない人、とは次の様な説明をする事が出来ます。
例えば書道や絵画においては、"生きた線"というものが取り沙汰されることがあります。
死んだ線を引いては作品にならないのでありますが、この生きた〇〇と言うところに、様々作者の個性などが現れてくるのです。
人も同じ様に、ただなんとなく、惰性で生きていると、死んだ様な人生を送ることになってしまう。それを、生きていない人、と呼ばせて頂きました。

老いや寿命について。
歳を取れば取るほど、若くなっていっている実感がある、とは岡本太郎の言葉です。以前、自分が身につけたこと、形式、成果、技術、精神性、そう言ったものから自由になっていくんですね。
また、北斎は言います。
「6歳の頃から絵を描いてきたが、70歳以前までに描いた絵は取るに足らないもので、73歳にしてようやく動植物の骨格や出生を悟ることができたと述べています。そして、80歳ではさらに成長し、90歳で絵の奥意を極め、100歳で神妙の域に到達し、百何十歳になれば1点1格が生きているようになるだろう」
人は思います。所詮、私は偉人とは違う。才能も運も努力も無い。そう思って、人生をほどほどに済まそうとする。なぜ極めようとしない?凡俗だからというのは理由にならない。自分自身の人生に、真剣に取り組む事に、誰に遠慮もいらない。一番ブレーキをかけているのは自分では無いのか?
人生を極めたらどうなるか。大変楽しみではありませんか。
まずは生きた時間を獲得するところから、私は始めます。

お礼日時:2020/03/24 20:04

1982年の沖縄での講演の音声がありますが、どうも漫談を聞きに来ているような


雰囲気が感じられ、どこまで理解がされたのかという思いがあります。
you tubeにアップされていますが、彼の考え方が端的にまとめられていると思い
ます。

偉大なる魂が引き継がれることは稀でしょうと思う。

ソクラテスにはプラトンがいたけれど、岡本太郎には?
太郎にとってはピカソが偉大な先輩でありました。尊敬をしたと。そして尊敬をす
るということは「その人を乗り越えるということだ」と言っています。また、「私
はピカソを乗り越えたつもりでいる」とも言っています。

これは凄い言葉だと思います。「尊敬をする」ということは、その人の欠点を補い
間違いまでも修正することなのかと、思いました。

矛盾を見つけ出して、我尊しとしている輩には想像もできない気高さだと思います。

文化を「引き継ぐ」ということを近頃考えています。それは、まずは人を尊敬する
という高い精神性が必要なのかと痛切に思いました。
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この回答へのお礼

尊敬するのと奉じるのとの根本的な違いがあまり知られていないような気がします。
私は、人を丸々尊敬すると言うことがなくて、この人のここは素晴らしい、あそこは素晴らしい、という感じで見ています。
尊敬する人を乗り越えるのだ!と言う決意は本当に貴ばれることだと思います。こんな決意は、平然と、背水に臨むようなものだと思います。
仰るように、大変な驚きだと思います。よくぞ言った!と感銘を受けますね。
そう言う姿勢を、大体の人は馬鹿にする。
お前には無理だとか、偉そうに何を、とか、意気地の無い奴らがガヤガヤするが、決意した彼を誰も止めることができない。
「孤独であって、充実している。それが人間なんだ。」
太郎はこのようにも言います。
また、「俺の本職は人間なんだ」とも言っています。
芸術家たる事を太郎は超えていたと思います。
超えるということ、計らずもこの質問の本題に着地したようです。

お礼日時:2020/03/24 19:41

年が8歳も離れている姉と弟がなぜ並んで歩くと夫婦に見えるのでしょうねと考えています。



意味の分かる人は教えてほしいものです。これはずれた答えかな。
性交も長い人生一度も経験せずはもったいないのですか。
独身貴族や童貞は笑うべきことですか。
自分で稼いだ金は自分のために使わず、子孫を増やすために使うのが自然でしょうか。
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この回答へのお礼

人は他人のしている事を羨むことがある。
自分のできないことに囚われを起こすことがある。
俺には金がないがあいつにはある。
俺に女はいないがあいつにはいる。
俺には家族はないがあいつにはある。
俺には家が、容姿が、能力が、運がないが、あいつらにはある。
そのように、自分に無いものについて煩悶し苦悩するのもまた人だろうと思う。
場合によっては、体の一部が欠けているとか、知能が少ないとか、そう言うこともあろう。
しかし持たざる者が持っていて、持てるものが持ち得ないものがある。
それは純粋さである。
持たざる者はそれを持っていながら、それより劣るものを欲して嘆く。
例えば子のある人は、我が子をどうしても他の子に比べて贔屓せざるを得ない。愛執が働くからです。しかし子の無い人は、等しく、どのような子についても、どこの家の子についても想うことができる。つまり親心として、子の無い人の方が、ある人よりも秀でている面がある。
金のない人が見出す豊かさが、金によって見出すそれよりも普遍的なように。
容姿の優れない人が到達する美しさが、容姿による美しさに勝るように。
この様に、無い人と言うのは本来、挑戦しさえすれば非常なものを手にすることができる境遇にあると言えるのではないか。

人並みの幸せが俺には無いと嘆く人には、人を超えた幸せを求められる土壌があるのだと見るのです。
持てる人には、それ故に執著を起こすべきでは無いと説かれる。
持てる人はどうしても、金に、物に、人に、自身の何某に執著を起こしてしまう。それは避け難い。
持たざる人も、想い馳せてはその思ったものに執著を起こす。思ったものはその実際とは異なるにも関わらず。

しかし、俺には徳がないが、あいつにはある。そう思えた時には、よし、俺も徳を得ようと決意出来るものです。徳は、人の持つものの内で最上である。それが他を貶めるので最上なのでは無い。他を一切損なわずに誰でも得られ、得た者を真に満足させるので最上なのです。なのにそれを求めない理由があろうか。

お礼日時:2020/03/24 11:55

よろしければ、教えてください。



キサラギさんは実在する、あるいは実在した人物でこの人は、と思うような人は居ますか?

岡本太郎は、そのうちの一人に入っているとは、思っていますが。
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この回答へのお礼

いると言えばいるが居ないと言えば居ません。どう言うことかと言うと、

私は名で人を見ません。
では何を見るのかと言うと、語られた言葉、為された行い、振る舞われた態度、眼の光、そのようなものを見ます。
従って、誰々がああ言ったからこうだ、と言うような事が私にはないのです。

例えば岡本太郎にしても、彼のすべての言葉を受け入れることはありません。岡本太郎が言ったからこの台詞は良いんだ、と言う様なことは無いのです。語られた言葉の、或いは創作物の、本質だけを捉えて後は贅肉だと思っています。
ただ太郎の言葉には比較的贅肉が少ないようです。お釈迦さんぐらいになると贅肉は見当たらなくなって、言葉は必要なだけしか語られなくなる。しかしここでも、お釈迦さんが言ったから間違い無いんだ!と言うような断定を私は下せない。

本題、汽笛さんが何を探しているのかで、答えは変わって来ます。

立派な言葉を知っているかと尋ねられたら、それは知っている。
そのような言葉が集積、流出する場所も知っている。それは経典とか、書籍とか、人物という事になります。
ただ、たとえ私がその場所を汽笛さんに教えたとして、汽笛さんがそれにヒットするかどうかは分からない。
喩えればそれは、キサラギさんの好きな食べ物は何ですか?と尋ねているようなものです。青森県の〇〇農園のシーズンインした朝摘みリンゴです、と具体に答えたところで、汽笛さんがそれを食べてしあわせになるかどうかは責任が持てない。もし汽笛さんにリンゴアレルギーがあったとしても、それは私には分からない。
こういうのは出会い、縁に任せた方が良いのであって、他者に軽々に尋ねることでは無いと思う。私もかつて他人に、聖は誰ですか?何処にいますか?と尋ねたことは一度も無い。一度も無かったが、見つけることができた。そう言うものだと思う。教科書の中に、経典や解説書の中に、或いはネット上で、或いは身近な人、出会った人の発する言葉や振る舞いの中に、そして自分自身の中にもそれは見出すことができる。

例えば名曲ばかりを書く作曲家はかつて存在していない。たとえ大バッハと言えど、名曲も佳作も、練習曲も、未熟な曲もあろう。

私が、彼に一目も二目も置いてます、と言うような人物を挙げたからと言って、その彼の全てが完璧なのではないし、彼の言葉の内に素晴らしいものがあった、と言う事実しか無い。

お礼日時:2020/03/24 02:58

二階目です(媚中国賓禁止)長生きなさって下さい

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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2020/03/24 02:25

小学生のころ、「真っ赤なスカーフ」大音量で歌ってましたよ❗

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この回答へのお礼

私は、意味もわからず、さらばー♪ずここえー♪と歌っていましたw
さらば地球よ、と、必ずここへ、が混ざってしまってたんですね^_^

お礼日時:2020/03/24 03:02

生きてこそ、人生です。

生き残りが戦後の日本を成長させました☀️生き残りが有り国家を守り発展させます。勿体なく生きてこそ、人生です‼️
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この回答へのお礼

それもそうだろうと思います。私はそれを否定しません。
しかし、岡本太郎は戦後の経済成長に、西洋文明への追随に、疑問を呈し警鐘を鳴らしました。その言葉は現代において浮き彫りになっています。

私は怒っているのです。自分自身に。

お礼日時:2020/03/23 21:18
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