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1. 《日本教=クウキ教》に乗っかっている場合は その思い込みが
半端ぢゃないようなのです。

2. 《押し籠もり》。引きこもりに対して 《押し籠もり》。あるい
は 《突っ張り籠もり》。

3. 《押し / 突っ張り》というのは ここで 要するに生活において
仕事においてあるいはコミュニケーションにおいて 活発であることを
意味します。ただし心は 《籠もっている》。

4. どういうことか?
 
5. ひとに対して送信はするが ひとからの受信はしない。
発信ではなく ただの送信にしかならない。
でも活発である。押している。突っ張っている。

6. これは おそらく現状における社会力学のあり方に棹差している
状態だと思われます。=1.

7. 《送信》としては いくらでも既成の社会のあり方とその流れに
棹差して コミュニケーションを推し進めている。と自分では思ってい
る。

8. けれども浮いてしまったというよりは そうではなく みづから
が周りからの見方考え方を受けつけない。むろん自分の送信している内
容と同じであるならば 受け留めている。援軍は 歓迎するらしい。

9. 半ば鎖国状態のようになっている。けれども 社会力学上 有力
な勢力の中に身をおいているようなかたちであることによって その送
信だけの言葉も 或る程度は 人びとによって聞かれている。

10. また 経済は言わば待ったなしであるから その流れの中に位
置するかぎりで 送受信は回って行く。らしい。




11. ちなみに 《引きこもり》の場合は あくまで 時代の・つま
り未来社会の先取りである。

12. 現状の社会力学のあり方に対してすでにそれを乗り越えて 将
来のコミュニケーションのあり方を見つめつつ 時代を先取りしている。
ただし わづかにそれは 今は陰画としてである。

13. 言いかえると 引きこもりは 未来社会のネガとして いまは
生きることを余儀なくされている。



14. オシコモリを援助する向きについても警戒しよう。というのが
問い求めの主題です。自由なコメントをどうぞ。

A 回答 (5件)

「押し籠もり」とは巧みなネーミングですね。

自由にコメントをさせていただきます。

>ひとに対して送信はするが、ひとからの受信はしない。発信ではなく、ただの送信にしかならない
発信ではないから送信です。一方的。
「語り」には、聞くことと沈黙することも含まれます。そして、「語り」には、初めがあり終わりがあり、句読点も、行間も、言外の意味も、その総合的なものが「語り」というのだと思います。
私たちは語ることで、他人にまた自分自身に聞き入って、議論を深め互いに成長していくというのが人間的なひとつのあり方だと思います。

しかし、日常的な場面において、どれだけこの正常な会話が成り立っているかは不明確です。
私たちの日常はいつも気分づけられています。日常生活の配慮が妨げられていないときには落ち着きがあり、妨げられたときは不機嫌になります。あるときには不安、恐怖に襲われ、あるときには喜び、楽しみ、私たちはいつも何らかの気分に満たされています。
たしかに私たちは同じ調子で持続し、何の高揚も沈滞も感じないような状態、なんの気分も持っていないような虚しい状態に陥ることもあります。このような無気分も決して気分がないのでなく、自分の存在に飽き飽きし、重荷としてあきらかになっているのだと思います。

話が逸れましたが、「押し籠もり」もコミュニケーションとしては不完全だと思います。自分の主張だけをふりかざした態度は反発を招く。伝達しようとするときは、時間や余白や、心の静けさ、落ち着きなどが大事な要素です。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 「押し籠もり」とは巧みなネーミングですね。
☆ それは よかったです。通じただけでなく よさそうだと受け留められて。

★ 発信ではないから送信です。一方的。
☆ ・・・なんだと思います。自分の考えていること・伝えたいこと・あるいは
どのように伝えるかについて 軽すぎます。大事にしていないのだと思われます。

順序が前後しますが:
★ 「押し籠もり」もコミュニケーションとしては不完全だと思います。自分の
主張だけをふりかざした態度は反発を招く。伝達しようとするときは、時間や余
白や、心の静けさ、落ち着きなどが大事な要素です。
☆ あと 確かに同じ概念としての言葉を互いに用いているということも 大事
でしょうね。



★ 「語り」には、聞くことと沈黙することも含まれます。そして、「語り」に
は、初めがあり終わりがあり、句読点も、行間も、言外の意味も、その総合的な
ものが「語り」というのだと思います。
私たちは語ることで、他人にまた自分自身に聞き入って、議論を深め互いに成長
していくというのが人間的なひとつのあり方だと思います。
☆ ま 《語り合い つまり 対話》なのでしょうね。それが 産婆さんのよう
になって互いにとってのよき赤子を産み出すと言ったひとがいたようです。


★ しかし、日常的な場面において、どれだけこの正常な会話が成り立っている
かは不明確です。
★ 私たちの日常はいつも気分づけられています。日常生活の配慮が妨げられて
いないときには落ち着きがあり、妨げられたときは不機嫌になります。あるとき
には不安、恐怖に襲われ、あるときには喜び、楽しみ、私たちはいつも何らかの
気分に満たされています。
☆ そこでわたしは そのような感覚は起きているが・そしてそれを認識した言
葉もあるが その気分としての心は 特にはないのではないか? とも問いまし
た。まだ はっきりしません。


★ たしかに私たちは同じ調子で持続し、何の高揚も沈滞も感じないような状態、
なんの気分も持っていないような虚しい状態に陥ることもあります。・・・
☆ そういった雰囲気とそれにつつまれる《心》 そういう現実は ないのかも
知れない。あるのは その時間のたゆたひ だけではないかと。幻想と言っても
よいかも知れません。(なお論拠がよわいですが)。

お礼日時:2019/04/21 13:22

「正しい言葉遣い」というのは語弊がありました。


「良い言葉遣い」でしょうか。
べらんめい口調というと、ブラジュさんは江戸っ子ですか?
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この回答へのお礼

言葉遣いの件 分かりました。


べらんめーは 江戸っ子でも何でもないのに そう言ってしまい
ました。

しばしば けんか口調になります。挑戦者という立ち場に立たな
ければならないと思った時期があって 絡み合いになるのをため
らわない傾向があります。(ありました)。

伊勢の北部の K 市出身で いま 近くの大都市 N 市に住んでい
ます。



ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2019/04/22 21:59

責任重大ですよ!言葉が発せられ、世の中が動いていきます。

正しい言葉遣いは未来を開きます。
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この回答へのお礼

そうですね。――まづは ご回答をありがとうございます。

★ 言葉が発せられ、世の中が動いていきます。
☆ というまでの《その後の経過》は わたし自身としてはまだ体験
していません。


相手の人とのやり取りの充実や――互いの見解をまとめ合わせて 定
理のような内容をも得ることが出来たというように――成果を享受す
るまでになったのですが そのあと:
★ 世の中が動いて行く
☆ までの経験をしたことは 残念ながら ないですね。


《押し籠もり》やあるいは《アース役〔とガミガミ役〕》といったあ
たらしい言葉が 広く使われるようになったら 世の中が動いたと捉
えるでしょうね。


あっ。アマテラス公民のお二階さんとか あるいは社会が二階建て構
造であるといった見方は そのまま使ってくれる人がいますが。


と言いますか こんなコンタンを持ってはいますが 総じてわたしは
能天気です。



★ 正しい言葉遣い
☆ いま【Q:あなたは 何語をしゃべっていますか】を問うています
が 《ただしい》という言葉を持ち出すと わたしは萎縮します。べ
らんめえ口調のほうに片向いていますし。

お礼日時:2019/04/21 22:53

★その場合の《心》は、注意力や観察の精神といったハタラキをいっていて、《気分としての心が ある・ない》とは別なように思うんです。


☆注意力や観察の精神、とは物事を理解しようとする働きですね。しかし、私はこのような理性とも言える理解の分野にも、気分は反映されていると思います。つまり、理解にも気分が作用しているということです。
たとえば、目の前に置かれているものが鉛筆だと「理解」したとしましょう。それはおのずと、それを使って何かを書くことができるということです。「理解」することには、「そのようなあり方をすることができる」という実存論的な内容が含まれています。それは一つの可能性を提示しています。
しかし、それはやはり一つの可能性であって、いつもそうできるとは限らない。なぜかと言うと、私たちには気分があるからです。やりたいときはできるが、やりたくないときはできない。私たちはそういう気分づけられたものとして存在しています。なので、すべての可能性の中に分け入っていますが、ある可能性をとらえたり、とらえそこなったり、あるいは放棄したりしています。

★昔と比べると、思想やその表現の自由についての意識は、格段に違うとは思います。
☆世の中の流れが急流になっているから、人々の意識も鋭くなっているのだと思います。流されまいと。

★十字路で対話を重ねることは、貴重だと思います
☆選択をしていなかければならない時代だからこそ、本質的な対話が必要だと私も思いますよ。
 知識の泉のようなブラジュさんとの対話はとても良い学びになります。いろいろなことに気づかせてもらえますから。
「《押し籠もり》に警戒しよう」の回答画像3
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

☆ 注意力や観察の精神、とは物事を理解しようとする働きですね。しかし、私は
このような理性とも言える理解の分野にも、気分は反映されていると思います。
つまり、理解にも気分が作用しているということです。
★ たぶんそれは 慣性の法則によってのように心(精神)全体に帯びることにな
った生活のリズムだとか それの変調した感覚だとかではないかと思うのです。


☆ たとえば、目の前に置かれているものが鉛筆だと「理解」したとしましょう。
それはおのずと、それを使って何かを書くことができるということです。「理解」
することには、「そのようなあり方をすることができる」という実存論的な内容が
含まれています。それは一つの可能性を提示しています。
★ ここまでは 事物の用途でありそれの応用・拡張の可能性でしょうね。


☆ しかし、それはやはり一つの可能性であって、いつもそうできるとは限らない。
なぜかと言うと、私たちには気分があるからです。やりたいときはできるが、やり
たくないときはできない。私たちはそういう気分づけられたものとして存在してい
ます。なので、すべての可能性の中に分け入っていますが、ある可能性をとらえた
り、とらえそこなったり、あるいは放棄したりしています。
★ よい生活のリズムなら・つまりはよい気分であるなら 鉛筆とその活用の可能
性について そのまま《〈よく〉気分づけられた》取り扱いになるのでは?


☆ 世の中の流れが急流になっているから、人々の意識も鋭くなっているのだと思
います。流されまいと。
★ あなたの質問にもありましたが わたしは A I をめぐってはいまだに鈍感で
います。褒めたことではないですが。


★ 十字路で対話を重ねることは、貴重だと思います
☆ 選択をしていなかければならない時代だからこそ、本質的な対話が必要だと私
も思いますよ。
☆ 知識の泉のようなブラジュさんとの対話はとても良い学びになります。いろい
ろなことに気づかせてもらえますから。
★ うわぁ 責任重大ですね。先ほどの人工知能のばあいのような事態もわたしに
はありますから そこは割り引いてやってください。

お礼日時:2019/04/21 22:03

そうですか。

そういえば「忙」とは「心を亡くす」と書きますね。
気分としての心を亡くした状態ということですね。
このような心の状態は、実際どんどん私たちの日常に浸透しています。
深く考えたり、考えすぎるとしんどい。何事もスルーしておいた方が世渡りがしやすいんです。

社会の中では私たちは部品にすぎない。いくらでも取り換えができるものです。この考え方はもうずいぶん私たちの心を平均化し、主体的な意識を奪ってきました。娯楽、趣味、政治、思想などあらゆる領域で私たちが関心をもつ事柄の多くは、新聞やテレビで伝えられた世間一般の話題。それらについて抱く意見も、マスコミによって解説的に伝えられた世間一般の意見。なんか人と違った意見を持つことがタブー視されるような雰囲気もありますよ。この頃。

だから、私たちは本来的な自己を見失いがちになっているのかもしれませんね。この平均化、平坦化という人のあり方が、そもそもおかしいと思います。
人間の自由を奪っているからです。操作されコントロールされ、縛り付けている。
公共性ともいえるものかな。知らず知らずのうちに型にはめられています。日常生活に埋没し、非本来的といえる自己の姿にもかかわらず、それで良しとして毎日を送っています。

ブラジュさんが定義した「押し籠もり」という言葉、なんか今の世の中全体の空気感も表していませんか?
「《押し籠もり》に警戒しよう」の回答画像2
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 気分としての心を亡くした状態ということですね。
☆ ここは 厳密に行きたいと思います。

その場合の《心》は 注意力や観察の精神といったハタラキを言っていて
《気分としての心が ある・ない》とは別なように思うんです。


★ 社会の中では私たちは部品にすぎない。いくらでも取り換えができる
ものです。この考え方はもうずいぶん私たちの心を平均化し、主体的な意
識を奪ってきました。
☆ たぶんですが 《ひとは社会の歯車に過ぎないといった見方》は 心
ではなく 非力感のようなもので 人間関係やそこにおける自己の意識が 
希薄化しているという身(肌)の感覚を言っているのではないでしょうか。

《こころ》は もっと広いものだと思うからです。大海でしょう。


★ 主体的な意識
☆ これは 知解力や意志としての精神であり 厳然とした心のハタラキ
でしょう。(それと 感情としての心とは 別ではないかと言っています)。



★ 新聞やテレビで伝えられた世間一般の話題。それらについて抱く意見
も、マスコミによって解説的に伝えられた世間一般の意見。・・・
☆ 昔とくらべると 思想やその表現の自由についての意識は 格段にち
がうとは思います。

昔は 専門家しか出て来ませんでした。ですが今 それにもかかわらず 
みなさんの意見は けっこう似たり寄ったりなところが多いように感じま
す。


★ だから、私たちは本来的な自己を見失いがちになっているのかもしれ
ませんね。この平均化、平坦化という人のあり方が、そもそもおかしいと
思います。
☆ それは そうでしょうね。身分制で雁字搦めになっていた時代は そ
れも世襲制でしたからね。

今では 民主・自由がひろまったと思われると同時に なかなかその成果
が出て来ないのかも知れませんね。

個人の表現の場たるブログ等々は 花盛りですが。



★ 人間の自由を奪っているからです。操作されコントロールされ、縛り
付けている。
☆ いや。これは そうだとしても もう愚痴っているときではないんだ
と思います。自分たちで 変えて行かないことには と。


★ 日常生活に埋没し、非本来的といえる自己の姿にもかかわらず、それ
で良しとして毎日を送っています。
☆ その点では 十字路で対話を重ねることは 貴重だと思います。

お礼日時:2019/04/21 19:02

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