ハマっている「お菓子」を教えて!

かつて、神の息吹によって人は生きると言われた。
しかし今は逆に、
神に血を流させる(与える)ことによって、人が神を生かすのであると私は思う。

これまで、神に血は流れていなかった。だから神と人は隔たっていたのである。
神が血を流す今は、神に血が流れている今は、もう隔たりは存在しない。

さて、神や仏に生かされてばかりの人は、この質問を正面には受け取れないかもしれないが、人が神を生かすことについて、自分が神を生かすことについて、思索してみてほしい。
その思索内容を、回答として寄稿していただければと思う。

質問者からの補足コメント

  • 言語置換ソフトウェアみたいなものもあった。
    これの事だとすると・・・

    No.22の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/04/01 14:57
  • また、エジプト神話に出てくる神々は、優れた文化科学を有した人々であったと私は推察しています。地図を描けるとか、天秤で計量できるとか、天体の運行から季節と暦を導き出せるとか、農耕とか、そういった科学技術を持った人々が神々であったのではないかと。彼らの頭が時に動物であることにも、それぞれの職業の人々と縁の深い動物をモチーフにしたのではないでしょうか。鷹を飼っていたとか、羊を飼っていたとか、昆虫観察してたとか。http://www.ai-l.jp/HtEgy/chap6body-kami2.html

    そのような人々と、未開の人々が出会ったときに、王国が生まれたのでは?と私は想像しています。

    ニャンポコさんへの補足2に続く

    No.46の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/04/05 18:09
  • ニャンポコさんへの補足2
    天皇についてはほとんど知らないのですが、日本の天皇も元は武によって日本を統べた武王であったでしょう。また道教的な知識から天皇という語と語感を得たのであって、それは当時の日本の置かれた外交状況(対中国)から必要的に生み出された王位の一種であるでしょう。また、王が、神の権威を笠に着るのは民衆を制御するのに都合が良いからです。或いは天皇そのものを神とする見方は、より古代的と言えると私は思います。

    ところで日本神話の起源は、グレートジャーニーによって日本列島に到達した祖先から伝わる口伝がもとになっていると推察されます。イザナギとイザナミが舟を櫂で漕いで島に到達したところから始まるのはいかにもな感じが私的にはしています。

      補足日時:2020/04/05 18:13

A 回答 (82件中31~40件)

失礼します。

私は№42のわしさんの回答の中の
「自然の恵み=神の息吹 神の息吹が感じれなくなってしまっているから 変な宗教に神って概念を独占されたのかもしれないですね」
そして№43のキサラギさんのお礼欄の
「私は、それは意志であると思います。無より元に起こったのは意志ではないかと。この意志が、言うなれば神の元、であると考えました。そういう意味で、神の本質は力ではなく意志にあると私は言おうと思います」
両者のコメントに賛成です。

私たちは真実の神を見失って久しいようです。アダムとイブが楽園を追われてから、人は神との交わりを喪失しました。神は人を祝福、万物を支配し管理するようにつくられたのに、人は神よりも賢くなろうとあらゆる知恵を用いて今日に至っています。利便性効率性が重視され、地球環境は悪くなるばかり。私たちは神を見失っています。
しかし、どんなに人間が傲慢になり、魂の中にあった神さまとのチャンネルを失っても、神さまは繰り返し繰り返し、長い歴史の中で預言者を通して、私のもとに帰るようにと人間に語られました。
創世記の1章には、神が世界を創造されたはじめのことが書かれています。光をつくり、光と闇とを区別され、海と大地、そこにあらゆる植物をつくり、太陽と月、星をつくり、すべての動物をつくられた。そして人間をご自身のかたちに創造された。それは神の愛、神の意志による創造です。無から有の創造でした。
自然の恵みとは、神の息吹です。自然よりもどんどん人工物がシェアを伸ばしている時代にあって、神の息吹も失われているかのように見えますが、これからの時代、神の意志による回復が起こります。人間がバベルの塔のごとく、神をつくってきた歴史において真実の神はそれを黙って見ておられたのかもしれません。神をつくってそれを生かそうと躍起になっている人間の愚かさを黙って見過ごしていたかもしれません。
「あなたは、自分は富んでいる。豊かになった。乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、あわれで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない」黙示録3:17
文字通り、神を生かそうとすることは、私は傲慢なことだと思います。人間の小手先の技ではなくて、天地万物をつくられた神を畏れて神に立ち帰ること。これが言うなれば、神を生かす、ということに繋がると思います。
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この回答へのお礼

なるほど、キャラさんは根っからのキリシタンのようですね^^
キャラさんは親切だから、私のお礼やわしさんの回答を最初に出して、初めに理解を示してくださったのでしょうか。
神というものが多義化して、人ぞれぞれに神があるとか言ったり、普遍的な神にしても、その神観には幾つかの太い枝があって流派が存在し、その現状はある意味で、神の発展とも捉えられますが、それだけ神というものにポテンシャルがあったのだとは思います。
同じキリスト教でも異端とされたグノーシス主義においては、造物主はデーミウルゴスであり偽りの神とされています。真の神はデーミウルゴスではなく叡智界に存在するのであると。そういった思想も存在しますね。

確かキリスト教の聖書には、はじめに言葉あり。言葉は神であった。と書かれていたかと思います。聖書にあるフレーズの中ではかなり突出した箇所であると私は思っております。このフレーズを書きつけた人は、確かに智慧のある者であったと思います。

さて、私が意志という言葉に託した意味は、意志が神を生み育てたのであると言う事です。神を始原と考える人には中々受け入れがたいと思います。意志というからにはその主体があるはずではないか?その主体が神なのではないか?と思うかもしれません。どういうことかを説明するために譬えを一つ出します。

ここに少年が一人います。彼の夢は世界一の野球選手になることです。
少年は、そんな人になりたいと言う意志を発揮して、そのような人を目指すのであるが、まだ成っていません。少年は、少年時代、青年時代を過ごして、大人になり、その時彼は何者であるかという事実の起源を求めたときに、実は、小学一年生の時は世界一の野球選手になることが夢だったんだ。以来、一生懸命野球に打ち込んできたんだ。という過去に起こし、そして持ち続けて来た意志のあったことが確認されるでしょう。
そして、彼が大人になった現在、彼が意志した通りに成っているかどうかというのは、問題ではありません。意志した以上に成っているかも知れませんし、意外な形で意志が結実した場合もあるでしょう。
大事なのは、彼が意志を抱きつつ青少年時代を過ごし、何者かに成ったと言う事です。

無より起こした意志がどの様な神を生み育てたのかはここでは問題ではなく、意志が初めにあったことが、後を成したと言う事が言いたかったのです。

お礼日時:2020/04/06 22:38

>もしかしたら、神と呼ばれているのは、勝者サイドの神で、敗者サイドの神は、悪魔と呼ばれているかも。


そのとおりです。
でも、一部のおつむが悪い人間は悪魔を(スター・ウォーズ風に言えば)光の側の神より優れていると思っています。

それより、キリスト教、イスラム教、仏教と、現れたならば、悪魔もこれこれ居るとされます。
どうして、でしょうか。
お答え願いします。
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現在、神と呼ばれているのは、勝者サイドの神で、敗者サイドの神は、悪魔と呼ばれているかも知れません。

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この回答へのお礼

征伐した異民族の神は悪魔と呼ばれて貶められたというのはあるようですね。

お礼日時:2020/04/06 21:55

無って何ですか。


"無"っ有るんですか。
お前らは、馬鹿だな。
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この回答へのお礼

お前にはわからんことだ。
礼節を弁えない孔家の者だと?
そんな奴を俺は知らない。

お礼日時:2020/04/06 01:19

日本ばかりでなく、もしかしたらシュメール(スメル)→ユダヤ人の王国→日本にきたユダヤ十氏族まで、(キサラギさんならぬ)スメラギの統治の影響かも知れませぬ。

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この回答へのお礼

うーむ。ちと私の知識では理解できないご回答ですが、言いたいことの雰囲気は伝わってると思います。
ウルの遺跡とか訪ねてみたいと思ってた頃もありました。今でも少し思うかな^_^

お礼日時:2020/04/06 02:36

大学時代、友人5人揃って、大学ラウンジとファミレスで、太郎と安吾を読み、翌朝まで毎日討論してました。最近、思い出しました。キサラギさんのおかげです。

有り難うございます。
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この回答へのお礼

きっと、素晴らしい思い出なのでしょう^^
心温まるそれであったり、初心を思い出せるそれであったり、道のりを回顧できる思い出があるというのは人間としての財産を持っていると言う事だと思います。

お礼日時:2020/04/05 18:16

意志である、と。



近頃は年齢のせいか、結論を求める性急さと同じくらい、その結論に対する説得力を
求めるようになりました。
20代・30代の人にはまどろっこしいかもしれませんが、「神」というものを人々は
どのように考え、現在に至っているかを簡単に考えてみたいと思います、キサラギさ
んのご意見を聞きながら。

古代国家では、概ね多神教であったといいます。例えばエジプトでは、太陽神を中心
に多くの神が存在し、人間世界の社会関係を反映させたような神々の世界が構成され
ていたということですが、それは、人々の自然崇拝が、権力者・支配者崇拝に移行し
た、というか、させられた結果ではないかと考えています。
つまり、祭政一致・政教一致です。

日本の「神道」も正にこれで、天照大神の子孫である天皇を「現人神」として崇拝さ
せられていたわけです。
そして、それが、1945年まで続いていたのです。欧米に比べ何百年も遅れていた我
が国が存在していたということですね。
当時の軍部の愚劣さは、その一点にあったのかも知れません。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

にゃんぽこさんとはいつか打鍵ではない長話をしたいと思っているのですが、教えてGOOの仕様さえも変わり、お礼欄では短文しか書けなくなってしまいました。またharu27さんの短文運動も影響したのか、或いはSNS離れの意識がそうさせるのか、ここで長文を読み書きする動機が薄くなってしまったようです。そのせいで、緻密な構造を持ったやり取りをすることは難しくなり、ロジックよりも直観にたよったミュトスに寄った表現をよく用いるようになりました。それでも、たとえ話や抽象表現では誤解も生じますので、できるだけ現代的な話し言葉で書くようになったと言うのが私の現状であります。単刀直入に、という意識で、ニャンポコさんには荷物(解釈せねばならない言葉)を渡す格好になるのですが、有難く思っております。

まず、人間における原始宗教を考えるにあたっては、古代国家成立よりもはるか以前の人類の営みを想像するところから始めたいと私は思います。
アマゾンの奥地には、ワニやコンゴウインコを自分たちの祖霊とする原始的な暮らしをする部族があるそうです。また、アイヌやネイティブアメリカンの民話ではクマやワシが神とされていました。さらにハワイでは火山の女神がいるようであります。専門的にはもっと幅広い神や悪魔が、世界中に見られると思います。
原始的な人類生活においては、霊感を持った呪術師や薬師が祭祀を執り行い、部族をまとめていたことが推測されます。
そして、さらにそれとは別に、これら原始宗教、これらはある種の妄想でもありますが、これらに傾かない部族群が原始より存在したと私は推察しています。
 彼らがなぜそうだったのかは分からないですが、例えばギリシャ神話において医術の神とされるアスクレイピオスを教育したケイローンは半人半馬のケンタウロス一族の賢者だそうで、このケンタウロスが騎馬民族であったことは容易に想像がつきます。
この騎馬民族は、馬術に長けただけでなく、医学を開発していて、それを文明人の祖であるギリシャの神に教えたと言うのだから、神の神であるわけです。

補足に続く

お礼日時:2020/04/05 18:08

キサラギさん、今、読み時かもしれません。

新潮文庫で良かったらどうぞ。本屋か、ネットの青空文庫でちょい読みできるかも。
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この回答へのお礼

なるほど、ウィキを読み、堕落論と安吾について少し知識を仕入れ、千夜一夜というブログで彼の日本文化私観を知り、アマゾンを開くと、kindleで0¥でしたので、日本文化私観を買い、読んでいる最中です。半分近くまで来ました。改めてアマゾンを見ると、堕落論も¥0でしたので、迷わず仕入れました。
いいタイミングで教えていただきありがとうございます^^

お礼日時:2020/04/05 17:17

キサラギさん。

無頼派の坂口安吾の「堕落論」お読みになったことあります?
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この回答へのお礼

読んだことはありません。坂口安吾は名前だけ知っていますね。

お礼日時:2020/04/05 15:44

前回サラリと述べましたが、哲学的にはとても難しい問題ですね。



「神」ってなんだ?と改めて考えると…

銀河や恒星、惑星、自然、人体を作る力、そして、それらを変化させる力。
そう定義したいと思います。
勿論実在するもので、その力がなくて、自然にできてくるなんて言うのは非科学的な
考え方だと思います。

キサラギさんはどう考えていますか?(以前訊いたかも?)
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この回答へのお礼

私は、それは意志であると思います。
無より元に起こったのは意志ではないかと。
この意志が、言うなれば神の元、であると考えました。

そう言う意味で、神の本質は力ではなく意志にあると私は言おうと思います。
語弊を恐れず言えば、意志こそ力なのです。

お礼日時:2020/04/05 05:24
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