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世界史の中で4世紀ごろに起こったゲルマン民族の大移動について素朴な疑問です。
疑問は4つあるのですが?
1 民族移動はフン族の侵略、気候変化等あると思いますが、なぜ各民族がドミノ倒しみたいに移動したのですか?
 普通、侵略や気候変動を受けて定着していた土地を離れなければならない民族は現在でいえば、難民です。
 難民といえば、移動先でも土着の民族に同化するか、奴隷化される、殺害されるなど迫害されるかのどちらかだと思うのですが、なぜ民族移動先で先住民を追い出すまで軍事力を得たのでしょう?
かりに攻め込む方の軍事力と攻め込まれる軍事力が同じ程度であれば、攻め込まれる方が土地の利があり圧倒的有利だと思いますが

2 アングロサクソン人はなぜ海を渡ることができた?
 20世紀の第2次世界大戦と時でさえ、ドイツ軍、またナポレオンの時でさえ、制海権もしくは船の調達がなくブリテン島侵攻は不可能でした。まだ唯一成功したオーバーロード作戦でさえ、膨大な船舶の確保、侵攻先での食料備蓄等の確保、膨大な資源が必要になるかと思います。この場合、ブリテン島の移動元に巨大な拠点があり、資源の輸送が可能であることが条件にも関わらず、アングロサキソン人はもともとのフランス地方の土地をはなれ、ブリテン島に移動しました。その際の船舶、食料確保とかどうしたのでしょう?船舶もなく泳いでいけば、侵攻先である島ではなにも道具もなく暮らすことは困難です。また船舶があったとしてその先の食料確保はどうしたのでしょう。原住民(ケルト人)から略奪を行えば食料確保もできず先住民の攻撃の餌食となるとおもいますが
 16世紀の新大陸移住でさえ、ヨーロッパに本拠を置いており、徐々に侵攻することができたことを思えば不思議です。

3 ゴート人はなぜ、イタリア半島を横断し、イベリア半島に移住することができた?
 当時イタリアはローマ帝国の本拠地です。そのような土地に民族が大移動できたのはなぜですか?
 侵略すれば、土着民の攻撃の餌食となりますし、かりに国土に対する人口がスカスカで移動できたとすれば、移動する際の食料確保とかどうしたのでしょう。
 たとえていえば、現在の朝鮮民族が中国人に追われ、日本本土に侵攻。日本の各地を民族単位で移動し、樺太に移住したようなものです。そんなことを現在の日本ですれば、日本本土が殺戮の嵐となるでしょう。

4 ゲルマン民族大移動以前の民族に国家がなかったのはなぜ?
 ゲルマン民族の大移動が起こる前の地図に国家は存在せず、また英雄となるべき存在も不明です。
移動した直後から国家として成立し、英雄が名をはせ、それが文献として存在する。それ以前にゲルマン民族に文字、歴史はなかったのでしょうか?かりになかったとしてもローマ帝国側でそれらしい記述、たとえば中国での日本の倭王や邪馬台国などの記述があってしかるべきだと思いますし、あれだけ民族が集団で大移動するとなれば、それを率いる英雄がいてもしかるべきだと思うのですが

A 回答 (3件)

1. 原因は寒冷化です。

それによってユーラシア北方に住んでいた民族が南下して、それに押される形で、民族が東西に移動した。東に移動した民族は中華文明を圧迫して、西に移動した民族はローマ帝国を圧迫した。

遊牧民族というのは、土地に土着するよりは、自分達が不利と見るや撤退する戦い方をします。それだから移動が連鎖しやすかったのでしょう。

また生き場所を求めて死ぬ気で挑んでくる人々を相手に戦うのは大変にしんどい事です。


2. 制海権というのは、防御側に十分な偵察能力と防衛する軍事力があって、成立する概念です。昔ユリウス・カエサルは船団を率いてブリテン島に攻め込んだ所、嵐にあって船3隻だけ、かろうじて難破。上陸して現地人の猛攻に耐えながら3ヶ月かけて船を修理して、ガリアに逃げ帰りました。ドーバー海峡は海峡が良ければ泳いで渡れる海です。


3. ローマ帝国領土には小麦畑や穀物倉庫など広がっていました。ハンニバルだって蹂躙したじゃないの。


4. 遊牧民の祖としてはソグド人やスキタイ、匈奴など知られています。彼らはしばしば、ギリシアやローマ、中華や中等の文献に登場します。彼らの集団には文字こそ無けれ、文明がありました。近年の研究でアイアン・ロードと呼ばれる文明の交易路も、彼らが関係しています。興亡の世界史シリーズに、ソグド人やスキタイについて書かれた巻がありますから読んでみて下さい。
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この回答へのお礼

やっぱり、農耕民族は日ごろ狩りをして訓練している騎馬民族には勝てないってことですね。
騎馬民族は移動する以上、文字、文献をもたず逆に定着する民族ほど文字文献をもつってことかもしれません。

お礼日時:2020/04/03 21:59

1.


一般に定住民族より非定住民族の方が強い。
農耕民族対騎馬民族の抗争の歴史がそれを示している。
非定住民族は移動に力を割かなければならない分、文明度は低くなる。
それは人命の価値に鈍感になるということであるしハングリーになるということでもある。
人口も増える。
ローマ帝国も3世紀までは持ちこたえたが、それ以後は押される一方になった。

2.
もともとドーバー海峡は渡航困難な海ではない。
その気になれば泳いでも渡れる。
当然古代から行き来があった。
軍団のような大人数や物資を運ぶのが大変だった、それだけの話である。
守る側が弱体なら、本格的な準備は必要ない。

3.
当時の西ローマ帝国はもう瀕死だった。
ライン防衛線は既に形を成さず廃墟と化していたし、ドナウ防衛線も、敵に深く攻め込まれたのち初めて反撃する、という状態だった。
ゴート人だけではない。
フン族もローマ深く侵入した。(しかしそこでローマ軍に撃滅された)
ヴァンダル族もローマを横断しイベリア半島からアフリカに達し、そこで王国を築いた。
西ローマはもはや駐ブリタニア軍と連携する余力もなく「各自奮闘せよ」というしかない状態だった。
食料確保は当然掠奪である。
ローマの保護はない。
原住民は、殺されたくなければ差し出すしかなかった。
自分が飢えたとしても。

4.
文明度が低いとはそういうことである。
各部族が独立し、連携するということがなかった。
ゲルマン人の間でも戦闘は日常茶飯事だった。
だから近ローマ部族は遠ローマ部族に押し出されてローマ領に侵入したのである。
英雄はいた。
トイトブルク(テウトブルク)の森でローマ3個軍団を全滅させたアルミニウスなどがそうである。
しかし各部族を統合するところまでは持っていけなかった。
この事情はローマの属州になる前のガリアやヒスパニアと同じである。
ガリアには部族はあってもそれを統合した国家というのはなかった。
部族会議はあっても、行動の主体は部族にあった。
だからカエサルは6年かけてガリア人を追い詰め統合させ、アレシアの決戦に持ち込んだ。
その時最初にして最後にガリア人を統合したのがヴェルチンジェトリクスである。

というわけで、当時は非文明人は部族ごとに行動するのが常識だった。
現在でも開発途上国では国よりも部族のきずなの方が強い地域が多い。
それと同じである。
都市国家としてまとまったギリシャ・カルタゴ、王国として統合されたオリエントやペルシャの諸国、帝国として発展したローマ。
それらは高度な文明があって初めて可能な形態だったと言える。

あと、大和民族にも文字はなかった。
だから3世紀(4世紀)以前は「歴史の暗黒時代」なのである。
倭国王も卑弥呼も、その存在は中国の文献に記されているに過ぎない。
当時はその方が多数派だった。
ギリシャやローマ、カルタゴのように律義に書物を残す民は少なかったし、文字はやはり文明の賜物なのである。
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この回答へのお礼

当時のローマ帝国は国家が膨大となり中央の目が届かない割に地中海に近いため、食料は豊富であり、当時のゲルマン民族は騎馬民族であり、彼らから見ればローマ帝国は宝の宝庫であり略奪対象だったのかもしれませんね。
たしかに、現在の発展途上国では国よりも民族のきずなの方が強いかもしれません。日本みたいに一民族一国家というのはめずらしいですし・・・(正確にいえば日本だって少数民族はいますので一民族ともいえませんが・・・)
歴史は後世の支配者が正義となるために書くものであり、文字も文明のたまものといえば、非支配者だったり、統一部族国家がなければ歴史は不明なのかもしれません。所詮人間の祖先といっても3代も離れればどんな人なのかは不明ですしね。ありがとうございました

お礼日時:2020/04/03 22:07

追記



ヴェルチンジェトリクスもアルミニウスも、実はローマの記録によってその存在が知られている。
日本でいう卑弥呼のようなものである。
カエサルのように『ガリア戦記』を記した人物もいた。
また、ローマの最高神祇官には、その年の出来事を記録し公文書館に収める職務があった。

ローマ時代のことがかなり詳しくわかるのは、これらの記録があるからである。
しかもかなり客観的にわかる。
ローマ人が客観的に記したからである。
当然敵側の人物についても、記述は客観的で公正公平である。

別にヒューマニズムからではない。
教訓にするためである。
過去の出来事を今後に最大限に生かすには客観的に記述するしかなかった、というだけの話である。
そしてそれが正解だったかは、ローマ千年の歴史が示している。

後年これに碑文などの発掘成果が加わり、より精度が増すことになる。
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