10秒目をつむったら…

江戸時代から続く「紀尾井坂」。
徳川御三家の内、何故、水戸家は将軍家から
「憂き目」を合ったのですか?

紀尾井坂。。。
「紀伊(和歌山)」。
「尾張(愛知)」。
「井伊(彦根)」。

何故、あからさまに、水戸家は、
将軍家から「梯子を外された」のでしょうか。

「尊王攘夷」運動と関係ありますか。。。?

質問者からの補足コメント

  • どう思う?

    補足です。

    その割には、徳川十五代将軍は、

    水戸家出身の「一橋慶喜」。徳川、最後の将軍です。

      補足日時:2020/05/30 21:25

A 回答 (1件)

紀尾井坂の件は単にその周辺に紀伊・尾張・井伊の屋敷があったので


そういう愛称で呼ばれたというだけではないでしょうか。

御三家の中で水戸家が邪険にされていたとお思いのようですが、別に
そのようなことはないと思います。
もともとは徳川家の血筋を絶やさない為に家康の九男・義直を尾張家
として、十男・頼宣を紀州家として分家したものであって、当初は
江戸本家・尾張・紀州を御三家と総称していたようです。

その後、十一男・頼房を水戸家として徳川姓を名乗るようにし、次第に
紀州・尾張・水戸を御三家と呼ばれるようになったということです。

ただし、もともと江戸本家に世継ぎがいない場合は、尾張家か紀州家から
将軍を擁立するという決まりがあり、家格も尾張と紀州は大納言ですが、
水戸は中納言であり、尾張62万石、紀州56万石に比べ水戸は35万石と
明らかに差があります。

水戸家は尾張や紀州に比べ江戸に近い為、参勤交代もなく江戸常駐と
して将軍家の補佐をする役目という位置付けの家と考えるべきです。
その為、TVドラマで『先の副将軍、水戸光圀公にあらせられる』と
言っているのは、正式には副将軍という役職はありませんが、常に
将軍の近くにいて補佐している役職だと認識されているからです。

なお、15代将軍慶喜はあくまでも一橋慶喜として将軍に擁立されて
います。
一橋家は八代将軍・吉宗の血筋である「御三卿」の一つであり、吉宗以降
は江戸本家に後継ぎがいない場合は、御三家と共に御三卿から将軍を擁立
するというルールになった為、慶喜はあくまでも一橋家として将軍職が
廻ってきたということであって、水戸家から将軍が擁立されたのではあり
ません。
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この回答へのお礼

解決しました

なるほど。。。
幕末は、学校でも勉強しますが、ここまで詳細には学びません。

ただ、慶喜の実父は、水戸家の「徳川斉彬」ではなかったでしょうか?

仰る通り、「一橋家」は、吉宗が作った「御三卿(ごさんきょう)」ですね。。。
他には「田安家」などもあり、今は、東京の大学名や、皇居の門の名前にもなっていますね。。。

詳細な解説、ありがとうございました。。。

お礼日時:2020/06/01 21:22

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