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太田道灌亡き後の江戸城は、徳川家康が入城する迄の間、お城はもぬけの殻だったのでしょうか?

質問者からの補足コメント

  • これはどう?

    ジャンボマックさん回答ありがとうございます。
    家康は後北条家等を駆逐して入城したのでしょうか?

      補足日時:2020/11/29 15:15

A 回答 (2件)

道灌さんを殺した上杉&北条氏が住んでいました。



道灌が上杉定正に殺害された後、江戸城は上杉氏の所有するところ(江戸城の乱)となり、上杉朝良が隠居城として用いた。ついで大永4年(1524年)、扇谷上杉氏を破った後北条氏の北条氏綱の支配下に入る。江戸城の南には品川湊があり、更にその南には六浦(金沢)を経て鎌倉に至る水陸交通路があったとされていることから、関東内陸部から古利根川・元荒川・隅田川(当時は入間川の下流)を経て品川・鎌倉(更に外洋)に向かうための交通路の掌握のために重要な役割を果たしたと考えられている。

天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻め(小田原征伐)の際に開城。秀吉によって後北条氏旧領の関八州を与えられた徳川家康が、同年8月朔日(1590年8月30日)、駿府(静岡)から江戸に入った。一般に言われる話では、そこには、道灌による築城から時を経て荒れ果てた江戸城があり、茅葺の家が100軒ばかり大手門の北寄りにあった、とされる。城の東には低地があり街区の町割をしたならば10町足らず、しかも海水がさしこむ茅原であった。西南の台地はススキ等の野原がどこまでも続き武蔵野につらなった。城の南は日比谷の入り江で、沖合に点々と砂州があらわれていたという。
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この回答へのお礼

助かりました

頭の中で絵が浮かんで来ました。
詳しく説明して頂きまして、ありがとうございます。

お礼日時:2020/11/29 14:03

そんなことはないでしょ


戦国期には主に北条氏が支配していたはずですよ
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この回答へのお礼

ありがとう

回答ありがとうございます。

お礼日時:2020/11/29 14:01

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