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かつてギリシャの哲学者ヘラクレイトスはこんなことを言いました。
「万物は流転する」と。
これは深い真理である。

信仰も万物のひとつであり、そして万物が流転するのであれば、信仰もまた流転し、進化発展せねばならないのではないか。
信仰は祈るもの、拝むものと決めつけてよいのだろうか。
信仰も時代の発展とともに変化し、進化発展し、新しい革袋を必要とするのではないか。
21世紀の信仰は祈るもの拝むものから脱皮し、「真実を考察し、理解し、受け入れるもの」に向かうべきではありませんか?

A 回答 (14件中1~10件)

個人としての信仰は、まず「ただ信じてる」ところからはじまり、より優れた実践に入るべきだと思います。



その意味ではおっしゃるとおりだと思いますし、この中には「真実を考察し、理解し、受け入れる」ことも入ると思います。

仏教的には四向四果でのプロセスだと思います。

最初の預流向、預流果は「真理の流れに向う段階」「真理の流れに入った段階」で、信じる事に向かう段階と結果だと聴いてます。

この後により優れた実践に向かい結果を得ていきます。 

全体として、世界的には「真実を考察し、理解し、受け入れる」実践も存在すると思います。

そして、「信仰は祈るもの拝むもの」で留まる内容も多々あるとは思います。

その点では、21世紀においておっしゃるとおりより高い段階へ脱皮するのが良いことだと思います。

智性の進歩をなし、そして善行や功徳を高める信仰はとても素晴らしいと思います。

皆に利益のある質問、ありがとうございました。

皆が安全で正確な信仰を早く進められることを望みます。
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北朝鮮のスカッドミサイル


hwasongファイブ

これがイランとかミャンマーはブルマだったのですか。
腕がつかれたので、中途半端ですが。
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信仰こそ「変化し続けている」と思います。

仏教など変化しすぎて「山のように」宗派ができています。キリスト教だって、イスラムだって同様です。ただ、信仰が「質問者の方が考えるような変化」をしないだけです。そして「自分の考えに執着すると苦の生活が待っているだけだ」と仏教は言っています。この考えは変化していないようです。
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じゃあヘラクレイトスが死ねといったら死ぬんだな?


というロジックの話です
別に彼の言葉が真実であることが証明されているわけではありません
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信仰上の話ができるとは到底思えませんが…



神は世の中の働き。仏は命の境涯。

今あらゆる組織は、これを分かりやすいように具現化していますが、キリスト系、イスラム、仏教等の教義や実践活動から考えるにそのように捉えられます。いわゆる人物ではありませんので「どこにいるか」という表現自体おかしな話です。
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この回答へのお礼

>神は世の中の働き。

この認識はある程度正しいと言っておきます。
で、神や仏はどこにいますか?との問への答えは、
「神や仏は我々の周り至るところにおわします。」
となります。
このことが理解できれば、転じて神は信じるものではなく感じるものであるという真実に到達するのです。
これがまさしく信仰の弁証法的進化発展過程であり、正しい信仰のありかたなのです。

お礼日時:2020/12/17 15:41

それは、「経過」であり「手段」に過ぎません。

それは何でも言える事で、あらゆる学問は既にしている事。つまり、「ごくごく当たり前の事」です。

そもそもこの弁証法が質問者さんの議論において適切かどうか考える余地はありますが…
ともかく、
そこには、方向性、目的、結果がないと「手段の目的」になってしまいます。

追求するのは当たり前な話で、宗教学においても大事なのは、目的と実証といった的(マト)になる部分です。それが仮に間違った道に行った場合、その手段もまた間違っていきます。つまり、手段だけでは進行のコントロールが出来ません。これは、仕事上でまともな議論を経験してればわかる事。

目的や方向性といった目指すものは、その都度形が変わる弁証法とは違い、そんなに変わるものではありません。
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この回答へのお礼

ではあなたに信仰上の問いかけをしてみましょう。
神や仏はどこにいますか?
答えてみてください。

お礼日時:2020/12/17 14:12

アウフヘーベンはあくまでプロセス。


アウフヘーベンと言う言葉を使うならその先のジンテーゼ、つまり思考、生命論、その人の生活がどうなるか、それを証明できなければ同じ事。質問者さんの考えすら空論にすぎませんが。
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この回答へのお礼

テーゼ→アンチテーゼ→ジンテーゼ 1回目のアウフヘーベン
テーゼ→アンチテーゼ→ジンテーゼ 2回目のアウフヘーベン
テーゼ→アンチテーゼ→ジンテーゼ 3回目のアウフヘーベン
         ・
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         ・
このように真理の探求を続けて、アウフヘーベンを繰り返す。
これが信仰の弁証法的進化発展過程であり、正しい信仰のありかたです。

お礼日時:2020/12/17 13:45

1)実態にしたのは歴史や教義から見るに、分かりやすくする為。

大事なのは、そのような「働き」として捉える事かと。

2)考察し、理解し、受け入れて…その後は?
この先が重要で、受け入れるだけでは、「分かった」で終わってしまいます。それでは、既存宗教と同じでいわゆる念仏宗教、他力本願で終わってしまいます。何のためにあるのか…自分の人生に影響を与えられない宗教は、それこそ質問者さんが言われた「信仰もまた流転し、進化発展せねばならない」に反します。理屈ばかりで実証出来ないフラットアース並みに陳腐な考えて終わってしまいます。
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この回答へのお礼

考察し、理解し、受け入れたら自動的にアウフヘーベンします。

お礼日時:2020/12/17 13:16

昨日と同じ明日が楽だ。

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この回答へのお礼

信じることは楽だ。
しかし感じたときに初めてアウフヘーベンするんだよ。

お礼日時:2020/12/17 12:40

めちゃくちゃな議論。



パンタ・レイで流転すると言うが 痔も――同じ語ゆえ――血が流転するわけだ。へっへっ。



《信じる》は 超経験のナゾを無条件で無根拠にて心に受け容れること。

経験事象については 《考える》の。

ペテンたる奇跡も 経験事象なら 考えるの。

信じ〔て だまされ〕るものではない。



しっちゃかめっちゃか。よく哲学カテに出てるもんだ。こっちが恥づかしいわい。
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この回答へのお礼

ただただ信じることは盲信といってカルトへの最短経路。

カルトから脱却するには信じることを止め、感じることが必要。

お礼日時:2020/12/17 12:25

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