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日々信仰を捧げておいでの高潔なる皆様.こんにちは.

正しい信仰とは,どのような行いでしょうか.

日常の生活に於いて,神をたたえる行いに終始することでしょうか.

会社員である場合,むづかしい気がするんですが.

解決方法などありましたら,教えてほしいのです.
よろしくお願いします.(´ω`;)

A 回答 (9件)

こんにちは。



まず、お金が全てであると言う考えの方を排除しなければいけません。お金は、生活に足るだけあれば基本的にいいのです。しかし、自分の人生が分からないために、人は、お金を欲するのです。
自分が楽しく生活できるように、常に規則正しい生活を心がけなければいけません。そして、楽しいことを行えばいいのです。其の楽しみ方をみんなに教えてあげればいいんですよ。ある人にとっては、仕事かもしれません、またある人にとっては娯楽、勉学かもしれません。そうすれば、自分の周りに仲間が集まります、家族もその一つです。
人は、人生においてどうしようもなく苦しくなる時もあるでしょう。それを、聞いてくれる方がいるだけでも心は安らぐのです。我々は、常に勇敢さと謙虚さを持っていなければならない。
全ての人が私が神の再来であると言えば、この世界は終わる。信仰とは、自分の楽しみを他人に教えてあげることではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ありがとうございます.

>自分の人生が分からないために、人は、お金を欲するのです。

○ボクは目安が分からないので,実際に足りているのですが,
もっとあればあるほど良い気がしてしまいます.
残業までしています.

>自分の楽しみを他人に教えてあげることではないでしょうか。

○やはり ≪あ。げ。る。≫ というキーワードが信仰を支えて
いるんでしょうか.

ボクは山岳信仰なので,山に入るときだけは信仰に従うのですが,
会社に居るときや,街へ行くときには,まったく信仰を気にして
いません.山の神様は街には興味がないようなので.

ボクが実際に困っているのは,山に入る前の晩には,
彼女とイチャイチャしてはいけないという,一風変わった
約束事が,山岳信仰には含まれているということです.

約束事を破って,実際にバチがあたった人もいるんですよ.
困りますよね.

お礼日時:2012/02/05 15:00

あくまで私個人の考えですが・・・



ご自身が神(仏)であると仮定してみてください。
人々がどのような生き方をされる事を望まれますか?

「嗚呼、神様仏様」と一日中、縋って称えて祈り続け
る事を望まれますか?

そうではない筈です。では神として仏として衆生に何
を求めるか・・・。

それは思うに、衆生が神仏の御心に副った生き方をす
る事を望まれると思います。

例えば感謝と反省の精神を大切にし、日々謙虚にそし
て明るく、慈愛の精神を育み、利他愛を持って生きる。

地位や名声、金銭に執着する事なく、心の宝を重んじ
道徳規範を遵守し、社会に進んで奉仕し、常にお陰様
の心を大切にする。

こういう生き方をする人間が居たとしたら、神仏はあ
えて祈らずとも、その人間を守護するものだと思いま
す。

神仏の御心は子を想う親心にも通じるとも思えます。

親として子にどう生きて欲しいか・・・。
お父さんお母さんといつも助けを求める生き方をして
貰いたいかどうか。
上述した事はもとより、その他にも損得勘定などせず
困った人へ進んで手を差し伸べられる勇気と友愛の精
神を育んで欲しいと願う筈。

真の信仰とはお経を何回唱えたとか、祝詞をどれだけ
奏上したとかそういう事ではないと私は考えます。

それ等はあくまで精神を高める為の補助的な行であり、
肝心要なのは神仏の御心に適った日々の生き方にある
と思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます.
>それ等はあくまで精神を高める為の補助的な行であり、
肝心要なのは神仏の御心に適った日々の生き方にある
と思います。

○心がけを忘れないための ≪補助的な行≫ として
信仰の『かたち』があるのですね.納得です.



>例えば感謝と反省の精神を大切にし、日々謙虚にそし
て明るく、慈愛の精神を育み、利他愛を持って生きる。

>地位や名声、金銭に執着する事なく、心の宝を重んじ
道徳規範を遵守し、社会に進んで奉仕し、常にお陰様
の心を大切にする。

○これはむづかしいですね.ボーナスが少なかったとき,
正直がっかりしました.

お礼日時:2012/02/05 16:05

バルト(カール・バルト)的言い方をすると、



信仰という「行い」を「信仰」とみなす恵みによって、救われている。

この回答への補足

ついでに,その言葉を残した人の名前も思い出しました.
聖ベネディクトゥスです.ベネディクトゥス修道会の創始者でした.

補足日時:2012/02/05 16:39
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この回答へのお礼

ありがとうございます.

そういえば,どこかの牧師さんが言ってました.
「労働は,神に捧げる信仰である」
これはとても古い言葉なんだそうですが,
古いキリスト教には立派な ≪おしえ≫ があったんですね.

おかげさまで,今その言葉を思い出しましたよ.

お礼日時:2012/02/05 16:17

 信仰が人のためにあるのであって、人が信仰のためにあるのではない、とわきまえておくのが正しい信仰なのではないでしょうか。



 例えばユダヤ教の安息日。
 週に1日絶対に休む、一切の労働をせず照明をつけてもダメ、というのは労働に対して休息をとるべきという考え方としては結構ですが、病院や警察、軍隊までそんな調子では困ります。
 また一神教だからといって多神教の国を攻撃するようでは迷惑です。

 大事な局面を前に女とイチャイチャしない、というのも、ポテンシャルを高める意味で格闘系アスリートには常識かも知れませんが、彼女からは良い顔をされず、迷信扱いになるでしょう。

 教訓を含む良い部分は尊重し、原理や他と競合・軋轢を生む部分は譲歩したり柔軟に対応する、というのが、現代における正しい信仰だと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます.

>教訓を含む良い部分は尊重し、原理や他と競合・軋轢を生む部分は譲歩したり柔軟に対応する

○ごもっともです.柔軟さが必要ということですね.

お礼日時:2012/02/05 22:22

正しい信仰とは釈尊の仰せのごとく神の話をせず、絶対と同化=成仏することです。

当たり前のことですが、キリスト教や神を拝んで成仏はありません。簡単なことです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます.

仰る通り.仏教ではそうでしたね.
バガヴァッドギータにおいてもその通りでした.

お礼日時:2012/02/05 22:29

正しい信仰とは、信仰によって自分自身を自分自身で育てていけるようになれるためにあるものだと思います。


結果的にそうなれば、プロセスはその人次第で良いと思います。
そもそも信仰とは、人々が常に幸せを感じられるようになれることが目的だと思います。
信仰を通じて本人が何を感じるかがテーマだと思います。
神をたたえただけでは、例え心理的にクリアになっても、そこから具体的に本人が本人の生活に活かしていかないと意味がありません。
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この回答へのお礼

ありがとうございます.

>信仰を通じて本人が何を感じるかがテーマだと思います。
>生活に活かしていかないと意味がありません。

○イデオロギーに迫る,高尚なるお考えと存じます.
実践なくして信仰はないという,ありがたいお言葉です.

お礼日時:2012/02/05 22:37

神の教えを実践することだと思います。



プロじゃないんですから、日常生活に
おいて実践すればよいのではないですか。

念仏だけなら誰でもできます。

実践して、はじめて意味があると思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます.

個人の日常において実践するというお考えですね.
≪個人の日常≫ ここがポイントではないかと思いました.

お礼日時:2012/02/05 22:44

 こんにちは。



 変わった角度からです。


 信仰とは 信じさせることである。

 信仰とは 背景へとしりぞいてこそ生きている。

 前景にあるのは 共生あるいは共同自治である。

 コミュニケーションに収斂するのでは? 信仰はです。


 よって 信仰とは 神はどうでもよいというところにまで来たとき おもしろくなる。こう思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます.

>信仰とは 背景へとしりぞいてこそ生きている。

○それこそ,『ひととなり』と不可分な領域まで
高められた状態であり,≪わたし≫ と ≪信仰≫ が
一体をなしていると思います.

それから先は,信仰については無意識にまかせて
コミュニケーションに没頭(背景を含んで収斂)
する.

現象学的にいえば,共同運命に頽落をはたす.

≪わたし≫ を ≪非のあるわたし≫ へ と
あえて投げ出す(被投性をもつ)行為によって
共同自治を目指すということのようです.

≪昇華≫ ≪再生≫ そして ≪新たなるテーゼ≫ を
予感させるものでもあります.おもしろいです.

お礼日時:2012/02/05 23:23

信仰というのは一定の宗教団体に入ることでも、神社で二礼二拍手することでもありません。



一言で言えば『敬神崇祖』です。
敬神崇祖は第一に感謝することです。
朝起きたら「おはようございます。」
食事のときには「頂きます」と「ご馳走様でした。」
夜寝るときには「今日も一日有難う」あるいは「おやすみなさい」

たとえ一人暮らしでも、たった一人でも声をかける、
誰にではなく、そこにいる誰かに。

それが信仰です。

道端に地蔵があれば会釈する、鳥居が見えたら会釈する。それが本当の「参拝」なんです。
作法だとかマナーだとか関係ありません。

会社に入るとき軽く一礼する、会社を出るとき軽く一礼する。
それも信仰です。相手の中に・・それが人でも物でも場所でも空間でも・・そこに神を感じ、自分の心に神を感じ、自分を律し、相手を敬い感謝する。

それが信仰です。
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この回答へのお礼

ありがとうございます.

>朝起きたら「おはようございます。」
食事のときには「頂きます」と「ご馳走様でした。」
夜寝るときには「今日も一日有難う」あるいは「おやすみなさい」

○これは,山の神様への感謝に似てますね.
食事の前に,先におかずを神様にお供えするし,
会社に居るときには弁当の隅っこに少し盛っています.
身に付いたことなので,無意識にやってますが.

さすがに空間に感謝したことはないです.
奥が深いですね.勉強になります.

お礼日時:2012/02/05 23:55

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