次の試論を問います。
§1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと
世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。
Y=考えれば分かること。
・ いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行
為によって分かるようになると考えられること。
・ 科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する
場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明
しうることがら。
X=考えても分からないこと。
・ いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと。
( 非知。incomprehensible incomprehensibility )
・ 人間の知性を超えていて もはや経験合理性によってはそ
のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら。
・ もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておく
ことがら。
ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。
経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。
だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて
超経験の領域= X
超自然・非経験・絶対・無限・永遠・
〔そしてこのような意味での〕神・
〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空
人間の精神は 絶対 X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり 経験世界 Y に属す。
《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― マチガヒである。《絶対としての霊性》の意味で 《精神》と言うばあいがあるけれど。(→§3)
さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。
§2 《考える》と《信じる》
考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通を図るのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。
人間存在 = Z
とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える( Y-Z )》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。
《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。
これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。
そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonXであり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。
したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を
《空(欠如) 》 X-Za と言おうが
《アミターバ(無量光)・アミターユス(無量寿)・ブッダ》 X-Zb と言おうが
自由であろうし
《神》 X-Zcとも
《ヤハヱー》 X-Zd とも
《アッラーフ》 X-Ze 等々とも
言い得る。
逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの精神によって思考し想像して抱く神の像では ない ということである。すなわち《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。
人間 Z が信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく むろん k-a-m-i という発音でもない。
X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神とその産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-Z )とは峻別しなければならない。後者は 普遍神と呼びうる。
§3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の歴史( ΣY-Zn )に介在しうるか。
これに対する答えは むしろ簡単である。
絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )において 関係が想定されている。
介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。 閉じられていないということが 重要である。考えても分からないことなのだから 締めたり閉じたりするわけには行かない。
しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入のあり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。(宗旨替えなどと言われることが起こる)。
議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても・変化を経ながらも その《信仰》の形態を自分のもとで つねに 確認し得ていることではないだろうか。
信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi ) か これが いま確認すべき基本の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は変更しうるけれど その時々の現在において明確に保持していることが 重要ではないだろうか。
いま一歩進めるならば このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度明らかにしておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。
信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史(人生)の過程 つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・かのように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)では 埒が開かないものである。
もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目もくれないのだという見解の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の《神( X )体験》ないし神学ないしいわば《 神 X 史観》については 自由に話し合えばよいと言える。
そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは はじめの大前提としての信仰の基本形態に合致しているかどうかによって判断されるものと思われる。
もし問題があるとすれば その大前提についてあらためて 想定の仕方や規定の内容を 議論しなおせばよい。
以上の定義だけの理論は 次が その心である。
吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーシ
ョンを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。
A 回答 (21件中1~10件)
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No.1
- 回答日時:
神はいない。
人間の都合で作られた偶像だ。世界の人々が世界平和を願ってるが、戦争は絶えない。もし神が東北大震災で私は家族を失っていない。信じてれば?チャンチャラおかしいですね。くそ食らえです。
ご回答をありがとうございます。
★ 神はいない。
☆ と証明することは出来ない。と同時に 神はいると証明することも出来ない。
★ 人間の都合で作られた偶像だ。
☆ と解釈することは 自由ですが・つまり神という概念を取り上げて論じるなら そうとも言えそうですが なにしろ非知なる絶対性なんです 神は。
だとしたら 相対存在である人間が その能力によって絶対性をどうしてこしらえることが出来るか? せいぜい発見したと言うべきでしょう。
★ 世界の人々が世界平和を願ってるが、戦争は絶えない。
☆ それは いろいろです。
★ もし神が東北大震災で私は家族を失っていない。信じてれば?チャンチャラおかしいですね。くそ食らえです。
☆ もし神が――つまり知り得るか知り得ないかが知り得ない非知なるナゾの絶対性なる神が 人間には それが何であるかが分からないのに―― その人間へどんなハタラキカケをおこなっているか(つまり 幸不幸を直接に人びとに配り与えているかどうか)が分かったなら オテントサマは西からのぼるわい。
このオタンコナスのパレオロガス。
No.2
- 回答日時:
信仰は「命題」である。
とのことの前提としての質問であると読んでいいのでしょうか?ご回答をありがとうございます。
★ 信仰は「命題」である。とのことの前提としての質問であると読んでいいのでしょうか?
☆ そうですね。たしかに この《神とは何か》がもし分かったとしても では 《信仰とは何か》は必ずしもまだ明らかにならないかも知れないですね。
ここでずばり言いますが 《信じる》とは 《分かるか分からないかが分からない非知なるナゾを 無条件で無根拠にてわが心に受け容れること》です。
つまり 神を受け容れることですがそれは たとえば或る日或る時こころの窓をノックするものがある〔と感じる〕。これをもし神のおとづれだと受け取ったならば そのまま受け容れるということ。はっきりと領収証を発行する。こんな《事件》なのだと思います。
(勘違いだとあとで分かったら 修正すればよいだけです)。
No.5
- 回答日時:
「命題」としての神が存在しないことが、数学的に証明されたのは、もう十数年か前でしょうか。
ごめんなさい記憶が定かではありません。
次なる「命題」は、あなたが言うところの「信仰」それがあるのかないのかでいいますと。
あるかないかによらず、それに到達することを「人」が開拓するのだという現象が起きていると思います。
それは、「信心」とは差異なるものです。信じているなら、開拓する必要がありませんし、証明する必要もありませんから。
開拓者にとって、「疑問」は否定と同じです。そこにあるから開拓するんですからね。ないものを掘り起こしはしないのです。
あるいは、ないことを証明したいがために開拓する人も「信仰」の人ですよ。あるかも知れないと思えるから、証明しなくてはならないのです。
神を信じる人も、信じない人も、「信仰」の当時者です。
その「命題」は、存在するかしないかではなく、存在を余儀なくされている。
そうなように、私は回答します。
★ 「命題」としての神が存在しないことが、数学的に証明されたのは、もう十数年か前でしょうか。
ごめんなさい記憶が定かではありません。
☆ こちらもごめんなさい。知りませんでした。
★ 「命題」としての神
☆ というのは 人間の判断として捉えた概念〔としての神〕のことでしょうか。それは それとしてただの言葉≒概念だとは思います。(存在するかどうかは分からないという意味で言っています)。
★ 「信仰」それが・・・あるかないかによらず、それに到達することを「人」が開拓するのだという現象が起きていると思います。
☆ むつかしい言い方をなさるのですね。
非知なるナゾを心に受け容れるというのは あたかもエイヤッと飲み込むかのように受け容れるのだと思います。
★ それは、「信心」とは差異なるものです。
☆ いえ それは 信心と言おうが信仰と言おうが 表現の問題だけではないでしょうか。
★ 信じているなら、開拓する必要がありませんし、証明する必要もありませんから。
☆ 信じるというのは 言わば考えるおよび感じるを超えているところで成されます。
信じる:(対象=)非経験の場:霊性=非思考の庭
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
考える:(対象=)経験世界 :知性=思考の緑野
感じる:(対象=)経験事象 :感性=感性の原野
★ 開拓者にとって、「疑問」は否定と同じです。そこにあるから開拓するんですからね。ないものを掘り起こしはしないのです。
☆ 《証明する必要がない》のではなく 《証明し得るかし得ないかが 知り得ないナゾ》なんです。
★ あるいは、ないことを証明したいがために開拓する人も「信仰」の人ですよ。あるかも知れないと思えるから、証明しなくてはならないのです。
☆ 非知なるナゾは 経験事象としての《有る無し》や因果関係を超えているわけなんです。
★ 神を信じる人も、信じない人も、「信仰」の当時者です。
☆ ええ。そのとおりに思います。
★ その「命題」は、存在するかしないかではなく、存在を余儀なくされている。
そうなように、私は回答します。
☆ ですから 《神を信じない》は《信じないと信じる》です。または《無い神を信じる》でしょう。
No.10
- 回答日時:
いえね。
「信仰」とは「神を信じることだ」と同義ではないのですよ。一神教においては特にそうです。
一神教においては、神の存在をあるものとして感じることは、それが聖なる証しですから、それを感じたと見做された人達を「聖人」として扱い、神を信仰する人達が、それにあやかりたいと崇めます。
これは、つまりね。神をあるものとして感じることが出来ない人達の、神の存在を確たるものとしない人達が、救いの方法として、手段として「信仰」があるということなんです。神の存在を確たるものとして、実感出来ない人達の為の救済手段なんです。
なので、開拓が必要なのですよ。
「信心」は疑う余地のないものです。神の存在を無視できない状態にあるということです。 無視したら相手が怒りそうだから、拝みますよ、です。つまり、疑いながらであろうが、とりあえず拝むという、行動様式です。そういう行動をしたということ。無視できたなら、そんなことはしないでしょう、ということです。
私が、この質問を面白いと思ったのは、神たる存在の証明によらず、「信仰」そのものを命題としているからです。
そもそも、「信仰」とは、神を信ずることが出来ない人達のためにあるものですからね。
★ 「信仰」とは「神を信じることだ」と同義ではないのですよ。一神教においては特にそうです。
☆ 一神教も多神教も汎神論も無神論もないです。普遍神という命題は そういう意味です。
八百万の神々といった場合 それぞれが普遍神の分身なわけです。
★ 一神教においては、神の存在をあるものとして感じることは、・・・(中略)
☆ それは ただのオシへです。哲学として妥当かどうかは 別です。
★ これは、つまりね。神をあるものとして感じることが出来ない人達の、神の存在を確たるものとしない人達が、救いの方法として、手段として「信仰」があるということなんです。
☆ 信仰は しかしながら 神から―― 一方的に――あたえられるものですよ。(それを受け取り受け容れるのは 人間の行為だとしても)。
★ なので、開拓が必要なのですよ。
☆ 《開拓》というのは たしかによく分からないですね。まだ。
★ 「信心」は疑う余地のないものです。
☆ 信仰と言おうが 同じです。
★ 神の存在を無視できない状態にあるということです。
☆ そんなことは 人間の勝手です。無視すると言おうと無視できないと思おうと 神にはどうってこともありません。
★ 無視したら相手が怒りそうだから、拝みますよ、です。
☆ 神は 人間がほめたたえようが ののしろうが 痛痒を感じません。
★ つまり、疑いながらであろうが、とりあえず拝むという、行動様式です。
☆ 自由勝手です。どうでもよいことです。
★ そういう行動をしたということ。無視できたなら、そんなことはしないでしょう、ということです。
☆ 神から信仰はあたえられるものだということが分かっていないようです。
★ 私が、この質問を面白いと思ったのは、神たる存在の証明によらず、「信仰」そのものを命題としているからです。
☆ 存在も不在も 人間は証明し得ないということです。ですから 想定(仮定)してなお仮説演繹法にて 神について説明をこころみているわけです。
★ そもそも、「信仰」とは、神を信ずることが出来ない人達のためにあるものですからね。
☆ 信じることがあたえられた者も 信じています。
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