これ何て呼びますか

次のように考えます。添削をよろしくどうぞ。



1. エワとアダムの物語――意志自由について――

エワという女が 光も曲がることに気づいたとか。
わが心にちょっと逆らってみようかと思ったとか。

その前には 自分の感じや思いをそのまま表わしていたかも。
夫のアダムに逆らう場合にも わが思いをそのまま表出していたから 
言ってみればまだまっすぐであった。
 
言いかえると 言葉は わが心・わが思いをそのまま表わすとは限ら
ない。もっと早くいえば ひとはウソをつくことができる。

そういう意味でも 自己表現は自由なのだ。このことを やがてエワ
だけではなくアダムも知ったし そういう振る舞いにそれぞれが自由
に及ぶこととなった。



2. われあやまつなら われあり――哲学のはじまり――

ひとは 言語による表現をもって意思疎通を図る。その必要が現われ
たとも言い得る。(ひとが社会生活をいとなむということでもある)。

その言葉の海を航くとき 大きなウソ・イツハリという嵐に遭い 難
破することも生じ得る。
 
こうなると ひとの自由あるいは自由意志を擁護したい向きは たと
えば《欺かれるなら われ有り》という《哲学》を生む。

――世界を知り 世界を変えることをも考える行為である。
――《あやまつなら われ有り》と堂々と宣言する。

あやまちに気づいたなら われに還る。そこには 生まれつきそなわ
った自由意志とその自由がある。したがって 自己表現の自由は そ
こに同時に 表現した内容についての答責性を帯びることになった。
 
このとき もし哲学をもう一歩伸ばすなら――超哲学ないし超経験思
考として――この自由を アートマン(霊我)ともブッダター(仏性)
ともあるいはルーアハ(霊性)とも言った。



3. 超経験思考としてのわが自由:非思考としての《信仰》

すでに非思考の領域へと飛躍している。身(感じる感性)と心(考え
る知性)を超えているので 霊性は 信じるという言葉を当てる。

この個人の信仰を いわゆる観想・瞑想において それは思考に非ず
であるにもかかわらず 人間の言葉で(言葉をシルシ・代理物として)
思考の次元に置きかえて言い表わすことが起こる。

アダムらの子孫であるアブラハムなるぢいさんが この空想とも呼べ
る飛躍の中で こう思った。:

  神の霊の宿ると言われる身と心において その自由に従っている
  ならば――つまりは へそを曲げウソをつくこともあるのではあ
  るが これをあやまちとして気づくときそのわれがわれである自
  由に留まるならば―― ひとは ひとを殺すこともなければ む
  さぼることも裏切ることもなかろう。

この命題を どう思ったか 格言として受けとめ規範化しようとする
ウゴキが現われる。



4. 信仰内容の思考化・思想化:宗教

《殺すなかれ(不殺生戒)・むさぼるなかれ(不慳貪戒)・姦淫する
なかれ(不邪淫戒)》という戒律としてまた道徳として 神の霊〔へ
の信仰〕に代えて崇拝するやからが現われる。

つまりそのときこれを神のおきて(法)として説き始めたのが 《宗
教》である。
 
一般に 集団をつくりその集団の振る舞いにかんする規則をもこしら
え この規範道徳と組織運営上の規則という物指しで人間の自由を捌
(さば)こうと言うのだ。(宗教者は 自由のためだと抗弁する)。

やがてこれが権威とさらに権力を持つようになると――つまり それ
にあざむかれて従うわれら阿呆な人間がいるということだ(欺かれる
なら われ有り)―― 人間が人間を勝手に裁くというあやまちを繰
り広げるようになる。宗教は 個人の信仰の自殺行為である。信仰と
いう蝉の抜け殻である。屁の河童なり。



5. 《科学》としての哲学の展開

科学は 哲学をさらに詳しく問い求めたものである。

それでも哲学と分けるのは たとえば人間の社会について・そして中
でも殊に経済活動については 或る種の仕方でその活動領域として分
立しうると考えられるからである。

利害関係をどのように――個別的にも総体としても――捉えるかによ
って 見方が分かれ得るからだと考えられる。哲学は 社会科学とな
る。
 
あるいは 誰れの思考や行為であるかにかかわらず ひとしく認識し
うるモノ・コトの世界がそれとしてあるとなれば この世界をやはり
分立させそれに対しては 自然科学という領域を 設定している。



6. 《芸術》と哲学

果てさて 《芸術》は――文学をふくめて――これらの哲学・科学・
宗教の定義や分野の設定などなどをすべて取り払ってまったく自由に
表現の自由を追求する人間の自己表出および自己表現なる行為である。

ゆえに手段は 言葉に限らない。あらゆる表現方法を模索する。

哲学に通じる人間の真実がそこに描かれていると人が感じ得るなら 
よいものだと言われる。
 
ということは われわれおのおのの日常生活における一挙手一投足が 
芸術行為であると考えられるかも知れない。けれども その根っこは
哲学である。

つまりは このわれわれの生活日常がおのおのの芸術行為であり ひ
ょっとすると 科学の芽は 科学者の芸術行為にあるだろうか。

しかし 考えてみれば 誰もがひとりひとり哲学する人間である。



7. 哲学って?

――というふうに いま・ここにあるわれが その世界における位置
関係を精神的に捉えようとする自己了解が 哲学の核心である。

知性における哲学的な自己了解が 哲学の仕事である。
感性における自己表現たる芸術行為と同等であると考えられる。

質問者からの補足コメント

  • №13つづき

    非経験の場(普遍神)と経験世界(ひと)とのカカハリは如何に?

    わたしの場合 飛躍した表現を用います。

    神の側からの一方的なハタラキカケがある。これを人間が受け留め受け容れる行為がある。という見方です。

    しかも 《直接に触れ得るかどうかが分からない――分かるか分からないかが 分からない――何ものか》とわれとのカカハリについては その神をわれが心に受け容れる(または 受け容れないと心に決める)とき 実際にほんとうに:
    ★ こころにおさめる〔☆ または おさまる〕、いただくことになる
    ☆ かどうかは これも人間には不確かであり 基本は 向こう岸なる何ものかさんのシワザである。となります。


    ▲ 道元:現成公案 ~~~
    自己をはこびて万法を修証するを迷とす
    万法すすみて自己を修証するはさとりなり。
    ~~~

    No.13の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2021/03/18 05:01

A 回答 (21件中1~10件)

今回は、尽きていると言うこともまた、無限なのであると言うことを持って帰っていただけたら良いなと思いました。


そのことによって、むしろ一層深い、その謎と表現されるものの様相を抑える事が出来るからです。

ふむ。今回はこれくらいかな?
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この回答へのお礼

★ 尽きていると言うこともまた、無限なのである
☆ それは:

○ 有限なるもの――たとえば ひとの生涯――が 無限なるものにふくまれる。

☆ ということでしょうね。


だけど:
★ そのことによって、むしろ一層深い、その謎と表現されるものの様相を抑える事が出来る
☆ というのではないですねぇ。

○ 無限なるナゾが 有限なる定形や定量・さらには心といった定性を 包含する。

☆ これは 絶対性の定義にそのまま含まれる意味内容ですよ!!




★ ふむ。今回はこれくらいかな?
☆ 分かりました。おつかれさま。

お礼日時:2021/03/18 21:58

>絶対性は 相対性なる経験世界――つまり 有るまたは無いという有限性――を超えているので 《有る神》と呼んでも《無い神》と言っても 同じことです。



つまり、尽きるとか、尽きないとか、そういうのも言えない(不可)と言う事でしょうか?
それとも、無限性・絶対性も又、尽きていると言って可いのでしょうか?
なぜなら、無限性・絶対性は尽きることが無いと言うことも可であるのなら。

>この神論で じゅうぶんなんです。

この神論は、ブラジェさんにおいて体現されていますか?
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この回答へのお礼

☆☆ >絶対性は 相対性なる経験世界――つまり 有るまたは無いという有限性――を超えているので 《有る神》と呼んでも《無い神》と言っても 同じことです。

★ つまり、尽きるとか、尽きないとか、そういうのも言えない(不可)と言う事でしょうか?
☆ 有る無いを超えていて 有ると言っても間違いではなく無いと言っても間違いではないナゾのものは それが尽きるとか尽きないといった概念が当てはまるものであることをも超えています。という意味です。


★ それとも、無限性・絶対性も又、尽きていると言って可いのでしょうか?
☆ 《尽きることがない》というのが 定義です。

絶対性を 有るとも無いとも言えるというのは 〔主観においてですが〕経験的に有ることも・経験的に無いということをも 包含しているからです。どちらで表現しても 部分的に合っています。

そういうナゾの何ものかは 経験的な表現で《尽きることがないナゾ》と言ってもあてはまります。

★ なぜなら、無限性・絶対性は尽きることが無いと言うことも可であるのなら。
☆ そういう表現を仮象として当てはめることが出来るという意味です。


《無い》ほうだけで表わすのは経験的相対的な表現になるけれども 絶対性を無限と言うことが出来ます。ただしこの場合は 有限とも言えるとはなりません。有限は 相対性と対応しています。


《尽きる・尽きないの次元を超えているナゾ》を 無限だとか《尽きることが無い》と単純に一方だけの概念で表現してもよいのは ――おそらくたまたま――そうしても差しさわりがないからだと思われます。




☆☆ >この神論で じゅうぶんなんです。

★ この神論は、ブラジェさんにおいて体現されていますか?
☆ 言葉による表現は 自身が現実に体現しているに到っていない場合にも そののぞみや予期において持ち得ると言えます。

お礼日時:2021/03/18 17:26

>☆ 絶対性は 無限と同じように 《尽きることのないチカラであり場》です。

これは 誰もが共通の前提とする命題です。ゆるぎません。

無い神と有る神は等しいって言ってたような。

>☆ 仮象として出来るだけのことをやっているのです。
 
そうですか。出来るとこまではやる、それ以上は無理と言うスタンスなのですね。
わたしも無理強いは致しません。
今は、ブラジェさんの限界がここであったのでしょう^^

やっぱ超えられないのかー。多くの人がここで退く。
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この回答へのお礼

>☆☆ 絶対性は 無限と同じように 《尽きることのないチカラであり場》です。これは 誰もが共通の前提とする命題です。ゆるぎません。
☆ これでいいんですよ。

★ 無い神と有る神は等しいって言ってたような。
☆ 無い神も有る神も 絶対性なる普遍神であり 捉え方の違いによる呼び方の違いです。

絶対性は 相対性なる経験世界――つまり 有るまたは無いという有限性――を超えているので 《有る神》と呼んでも《無い神》と言っても 同じことです。

つまり 神はいるとか いないとか 経験世界での存在であるかのようにその呼び名をつけたいという欲求から来ています。




>☆☆ 仮象として出来るだけのことをやっているのです。
 
★ ~~~
そうですか。出来るとこまではやる、それ以上は無理と言うスタンスなのですね。
わたしも無理強いは致しません。
今は、ブラジェさんの限界がここであったのでしょう^^

やっぱ超えられないのかー。多くの人がここで退く。
~~~
☆ いえいえ。次の理論で じゅうぶんなんです。

★★ (№18) そこにおいて、ダルマと自らの本心の等しいことを知る。
☆☆ (同お礼欄) ~~~
人間たるわれ《自らの本心》に ダルマなる《絶対性ないし霊性》が宿る・そしてこの霊性がわが存在にあってはたらいてくれる。

その霊性のチカラによれば――わが人間性としての能力の限界を超えて――あたかも尽きることなくはたらいてくれる。

これが(このハタラキが) スクヒであり その永遠性をあたかも保証してくれるチカラであり場であるとなるのです。
~~~~

☆ 証明は出来ない相談ですが この神論を否定しきることも その証明など出来ないのです。

この神論で じゅうぶんなんです。

お礼日時:2021/03/18 15:36

絶対性もまた、実は尽きているのだと知らなければなりません。


そこにおいて、ダルマと自らの本心の等しいことを知る。

論理性によってはどうにもならない。言葉の真義を用いなければならない。

もう此処は哲学の領域を超えています。しかし哲学が目指した領域であるのです。
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この回答へのお礼

★ 絶対性もまた、実は尽きているのだと知らなければなりません。

☆ 絶対性は 無限と同じように 《尽きることのないチカラであり場》です。これは 誰もが共通の前提とする命題です。ゆるぎません。


★ そこにおいて、ダルマと自らの本心の等しいことを知る。
☆ 人間たるわれ《自らの本心》に ダルマなる《絶対性ないし霊性》が宿る・そしてこの霊性がわが存在にあってはたらいてくれる。

その霊性のチカラによれば――わが人間性としての能力の限界を超えて――あたかも尽きることなくはたらいてくれる。これが(このハタラキが) スクヒであり その永遠性をあたかも保証してくれるチカラであり場であるとなるのです。



★ 論理性によってはどうにもならない。言葉の真義を用いなければならない。
☆ 無理です。仮象です。ただ月を指し示す《ゆび》にすぎません。



★ もう此処は哲学の領域を超えています。
☆ これが 哲学なのです。

★ しかし哲学が目指した領域であるのです。
☆ 仮象として出来るだけのことをやっているのです。

お礼日時:2021/03/18 14:45

尽きたところから生じるので無尽蔵と知られます。



> 自力は 無理なんです。その限界内ではたらきます。

此処がブラジェさんのあきらめでしょうか?

無分別、この意味をさとるのが難しい。主客未分。
さぁ、行き止まりだ。どうしますか?^_^

そもそもブラジェさんは、ただ自己救済のために求めを起こしたのだろうか?違うはずです。その様な人は互いに善知識たる、と言う様な事は言えない。

ベクトルは、真っ直ぐなそれは持っておかねばならない。まさしく八方塞がりのその時に、そのベクトルが決心に転じた時、その智慧が明らかになる。
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この回答へのお礼

★ 尽きたところから生じるので無尽蔵と知られます。
☆ ですから この命題(判断)は 《尽きることのない絶対性》と《尽きるさだめにある相対存在》とを ごっちゃにしています。


☆☆ > 自力は 無理なんです。その限界内ではたらきます。

★ 此処がブラジェさんのあきらめでしょうか?
☆ これは 合理性にもとづく世界認識です。

《自力が あたかも絶対他力と同じように 経験世界においてチカラを発揮する》となればそれは 基本としては(哲学としては) 扱い難い奇跡ないし神話の話となります。

ですから ただ《明らめた》だけの命題です。



★ 無分別、この意味をさとるのが難しい。主客未分。
☆ ですから 《主客――神か人かどちらが主で客であるにしても――未分》というのは 人間の想定です。のぞみです。

あるいは 神の心を忖度したその内容です。そのままを推論には使えません。

《ブッダターがみなに宿る》という想定です。


★ さぁ、行き止まりだ。どうしますか?^_^
☆ ですから 絶対性の側には 行き止まりはありません。


★ そもそもブラジェさんは、ただ自己救済のために求めを起こしたのだろうか? 違うはずです。その様な人は互いに善知識たる、と言う様な事は言えない。
☆ 《すくひ》は 主観です。もし持ち出すのなら みなが納得ゆくように説明しなければなりません。

想定までなんです。

すべては 仮象であるという命題を共有したぢゃないですか。人間の言うスクヒは 仮象なんです。(仮象として現実です)。



★ ベクトルは、真っ直ぐなそれは持っておかねばならない。まさしく八方塞がりのその時に、そのベクトルが決心に転じた時、その智慧が明らかになる。
☆ 《限界がある。力が尽きる》と言ったぢゃないですか? すでにその地点にあるという話です。

それとも ダルマがダルマのほうから われにハタラキカケを成すのだという想定で逃げるよりほかないのです。

これなら 経験合理性にあっても なおのぞみはあります。

その想定を否定しきることは人間に出来ない相談だからです。



このわづかな隙間に――人間の理論の問題としては―― 神の生きる道があるようです。

お礼日時:2021/03/18 14:16

> チカラが尽きているのに どうして? 無尽蔵なるチカラが その限界地点に来ていたとしても その食物を食べるには もうわがチカラは尽きています。



ダルマのダルマたる所以は、尽きたところから生じるのであります。

「もう、終わってんじゃん?」
その様に思う自身がいる限り、それは尽きたことにはなりません。

正しくその終局に立たねばならない。
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この回答へのお礼

★ ダルマのダルマたる所以は、尽きたところから生じるのであります。
☆ ダルマは 神ないしその霊性のことでしょう? つまり 《尽きることのない場ないしチカラ》ですね。 人間たるわれとは 別です。

そのわれなる人間に ダルマの霊性がやどるとしても まだ《チカラの尽きたわれのその限界なる地点》に到ったという状態までです 話は。


★☆(編集するとしますと) ~~~
わが人間としての行為能力の尽きたこの地点は――初めからそうであったように―― 絶対性なるダルマが覆い包んでいる。

つまり このわが限界点に ダルマが来ている。

そこで このダルマは――あたかももともと(生まれつき)わが自然本性にそのチカラがやどっていたかのようにそれが―― この限界点においてこそわが存在にはたらきかけ始める。
~~~
☆ と言おうとしているようですよね?



★ ~~~
「もう、終わってんじゃん?」
その様に思う自身がいる限り、それは尽きたことにはなりません。

正しくその終局に立たねばならない。
~~~
☆ 《〈わが神 わが神 なにゆえわれを見捨てたまいしや?〉と言うということ。そこでこそ 神はわれを見捨てているのではなかったと分かった》・・・こういうことでしょうか?



☆☆ (№15お礼欄) ~~~
 ★ 無分別智と言われるところのそれが、そこから露になるのです。
 ☆ なりません。絶対性の側からあたえられるとすれば まだしもですが。
~~~
☆ この指摘が活きますが そういうことですか?


自力は 無理なんです。その限界内ではたらきます。

お礼日時:2021/03/18 13:42

なるほど。

大人の食べ物の譬えのあれですね。
「私は大人の食べ物である。(食べ物がお前に身につくのではなく)お前が私になるのだ。」

ふふ。その通りです。しかしながら、私は次のように言いましょう。

この尽きることの無い立場は、”一なる他の立場(一仏乗)”として法華経などに語られるところであります。金剛般若経では、「住するところなくしてしかもその心生ずべし」と語られるところです。

それは絶対であるがただ他力とは言えないのであります。しかしながら有限たる自身の尽きた立場でもあるのです。つまり、ブラジェさんの考える分別たる自力ではない。そこから、其のこころを生じせしめるのです。それが”一大事決心”と言われる所以なのですね。無分別智と言われるところのそれが、そこから露になるのです。

この立場、無住に立ち、しかもそのこころを生じるには、決心が必要なのです。

ここが今回の佳境でしょうか^^
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この回答へのお礼

分かんない。――が 第一声です。


★★ 慧能曰く
行くと来るとが共に尽きたとこまで話を進めなければならない、と。
☆☆ 道元の公案の言うところでは:
▲ 《万法がすすみて来る》と《自己をはこぶ》
☆☆ の事例であり このつてで言えば 絶対他力には 《尽きるところが 無い》んです。・・・

★ この尽きることの無い立場は、”一なる他の立場(一仏乗)”として法華経などに語られるところであります。
★ 金剛般若経では、「住するところなくしてしかもその心生ずべし」と語られるところです。

☆ ピンとこ来ないので さらに続けて読み継ぎます。

★ それは絶対であるがただ他力とは言えないのであります。
★ しかしながら有限たる自身の尽きた立場でもあるのです。

☆ いや。《有限であるわれの〔チカラの〕尽きた》状態は 別に《立ち場》ではないですね。まして 《絶対性》の場に到達もしていないです。


★ つまり、ブラジェさんの考える分別たる自力ではない。
☆ いや はっきりしていますよ。《わがチカラの限界〔なる地点〕》です。《分別たる自力の尽きたところ》です。

つまり それは 《尽きるところの無い場ないしチカラ》では ありません。

(その無尽蔵というチカラが 《限界を持つわれのチカラのすべて》を覆い包むとは 言えますが)。



★ そこから、其のこころを生じせしめるのです。
☆ 分かりません。(神の霊性が われを包み込んだ状態になったまでです)。

★ それが”一大事決心”と言われる所以なのですね。
☆ 《決心》ですか? つまり 人間の・われの能力行為としての意志決定および実行なんですか?

チカラが尽きているのに どうして? 無尽蔵なるチカラが その限界地点に来ていたとしても その食物を食べるには もうわがチカラは尽きています。

★ 無分別智と言われるところのそれが、そこから露になるのです。
☆ なりません。絶対性の側からあたえられるとすれば まだしもですが。

★ この立場、無住に立ち、しかもそのこころを生じるには、決心が必要なのです。
☆ もうチカラが尽きています。

???

お礼日時:2021/03/18 12:57

素晴らしいですね。


お礼欄、さすがと言ったところでしょうか。

補足をもって説明していただいた事は、ある種の絶対他力を彷彿とさせますが、受け入れる時には自身で決める瞬間があると仰ってますね。

私は、覚りには決心が必要だと言います。
決心がなくては道は完成しない。
しかし、自力だけで終局に導く事はできず、法が無ければ覚りは無い。この、自らと法の交わるところ、此処こそが焦点となるでしょう。

慧能曰く
行くと来るとが共に尽きたとこまで話を進めなければならない、と。

私は自力よりから、ブラジェさんは他力よりから、その焦点に向かったと見れるのですね^_^
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この回答へのお礼

褒めてもらって 光栄です。ありがとう。


一点です。
★ ~~~
私は、覚りには決心が必要だと言います。
決心がなくては道は完成しない。

しかし、自力だけで終局に導く事はできず、法が無ければ覚りは無い。この、自らと法の交わるところ、此処こそが焦点となるでしょう。
~~~

☆ いつもなのですが 次のよう言うと d_y_n さんとかかれとの絡みで発言する人は ぶらじぇはまたマウンティングしていると言うようになると思います。

でも 言います。

○ 他力と自力
☆ は 同じ次元ではないですね。
★ 絶対他力
☆ とまさにおっしゃったように 絶対性(無限)と相対性(有限)とであり 両者は隔たりを持ちます。

――という言い分なんです。


★ 慧能曰く
行くと来るとが共に尽きたとこまで話を進めなければならない、と。
☆ どっちが行くか来るか分かりにくいですが 道元の公案の言うところでは:

▲ 《万法がすすみて来る》と《自己をはこぶ》
☆ の事例であり このつてで言えば 絶対他力には 《尽きるところが 無い》んです。・・・



もうきさらぎさんには つたわったと思うんですがねぇ。

お礼日時:2021/03/18 10:22

直接に触れる事はないが、こころにおさめる、いただくことになるわけです。

この事はブラジェさん的な言い方では何になるでしょう。

もし、言葉が仮象ではなく物的質量をもっていれば、それは儚いものとなってしまう。無常のものとなるでしょう。しかし言葉はむしろ、物的質量を持たない事である種の絶対性を保っておるので、それは言葉が指し示すところの形相そのものと言えます。指し示すところは正しく無住心なのでありますが、その形無き無量のものを、形をもって示しているのです。これは言葉の素晴らしさと言えるでしょう。

この場合、表現の違いは、方言の違い程度に収まると思います。或いは、国語の違いの様なものです。実質には法界語の内に収まる。とある赤くて硬くて爽やかに甘い果物の実体を、リンゴと呼ぼうがappleと呼ぼうが、新しく相応しい名前を付けようが、同じ事です。ただ、それを解する人に差異があるだけです。本体には名前がない。ただそれを名付けたに過ぎないとは、よくブラジェさんも仰っていたことの様に思います。

その意味で、表現の違いは実存の違いを示す場合もありえ、また無い時もあると言えるでしょう。

そしてこれらの如何は受け取り手に依存している面が大きい。正しく示されても、間違って受け取られる可能性は常にあるということです。従って、言葉を大切にし、聴くことに優れた人は宝に近い。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ここは できるかぎり――仮象なるものとしてであっても――げんみつに表現したいところです。


《空――シューニャ( empty )・シューニャター( emptiness )――》の主題が このあいだ出ていましたね。

《絶対性・無限――普遍神――》は 人間が好きなように名づけてよいわけで この《からっぽ》という語でもだいじょうぶです。

と同時に――神の名であると同時に―― 概念としても用いることができます。別の用法です。《相対的で有限なるもの――その意味で 実体のないもの・つまり仮象――》という意味の概念です。



色即是空は ヒトについて言えば 身(色)および心(受想行識)が 実体がなく仮りに現象しているものだと言っています。

空即是色は 仮象であるがその――身(感性)や心(認識・思考)としての――現象は実際に起きているのだと。

この言わば思考の往復運動は 絶対性なる空という言葉を――たとえ人によっては ただのまぼろしぢゃん! と言われようとも――持ち得たがゆえに成し得た観想ないし理論だと思います。




したがって ここで大事なことは われわれの表現が 片や普遍神についての自由な名づけにかかわる場合と 片や〔普遍神を得てあたかもその目で有限なる経験世界を認識するためにおこなう〕思考や判断にかかわる問題とで 違ってくることです。

神の名づけは 自由です。

仮象であり仮象としては実際に現象しているところの経験世界についてのけっきょく哲学は:
★ 受け取り手に依存している面
☆ が出てくるがそれを 無くすことができるならば無くしておく必要があるとなります。どう表現しようと同じだということにはならない部分がある。



まとめるならば:
★ 表現の違いは実存の違いを示す場合もありえ、また無い時もあると言えるでしょう。
☆ なのですが 両者はあきらかに領域が違うのです。

後者の場合が 神の命名の自由な領域であり 表現の違いがゆるされます。

前者は 実存の違いを示す場合であり 世界をどう捉えどう表現しているかの問題です。



★ 直接に触れる事はないが、こころにおさめる、いただくことになるわけです。この事はブラジェさん的な言い方では何になるでしょう。
☆ この場合というのは まさにいまの両領域が互いにどうかかわっているかの問題です。

つづく

お礼日時:2021/03/18 04:45

>★ 前史の人を引っ張り上げる


☆ のは 他者がではなく その人みづからが なわけです。あなたがいつも言っているように 互いに善智識になるといったことなんでしょう?

そうです^^ブラジェさんも話が早い。意図的に善知識になることは難しいですが、姿勢としてはそうであると言う事です。

ブラジェさんは、長らく哲学論を構えて話されていますが、やはり姿勢としては、上述の様な、善知識たるべく姿勢でそうされてきたのだと私は見ています。ブラジェさんの哲学は、その上での、あえての哲学と言う位置づけなのでしょうか。

>けっきょく哲学は 説明役であり案内係であり 言葉による表現でしかないのですから 仮象であることに甘んじざるを得ない。

やはりここが壁と言う事になるでしょうか。しかし今、私には、仮象でむしろ良かったのではないか?と言う思いもあります。

直接に触れないことが、むしろ良かったのだと。
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この回答へのお礼

かなり互いに接近したかと思います。


と同時に そういうときには 少しの違いがあざやかに見えてきます。

★ ~~~
・・・
しかし今、私には、仮象でむしろ良かったのではないか?と言う思いもあります。

直接に触れないことが、むしろ良かったのだと。
~~~
☆ ① 言語表現は 仮象になることしかできません。

② 同じことになりますが 《問い求める何ものか》に:
★ 直接に触れ
☆ ることは 人間にはかなわない。わけです。

③ この姿勢とその自覚は 後史に入った者のことばです。

④ つまり 仮象――本体を仮りに言葉で示すシルシ――においてであっても おのおのの哲学は 異なっているかと思われます。

⑤ 表現の問題が 実存のあり方に対応していると見られる部分があります。

お礼日時:2021/03/16 17:58

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