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テレビ番組ですが、国立民族学博物館教授とかいう人が、ヤマト王権は戦争なしに各地の勢力の合意によって成立し、それが日本の国家形成の特徴だという発言をしていました。

日本書紀のヤマトタケルノミコトは全国を渡り歩いて戦ってるし、イズモでは国譲りは相撲勝負が行われています。
その後のヤマト、奈良は親子兄弟親戚が血で血を洗う権力闘争の舞台です。

箸墓古墳が各地の技術と文化を取り入れていることを根拠に、日本の最初の統一王権である「ヤマト王権」は各地の権力が平和に協力して作り上げた統一王権であった、と強調することに違和感を持ちました。
これは、今現在の研究結果から、広く認められ、確定している学説でしょうか?

古代史に詳しい方の解説、意見をお聞きしたいです。

A 回答 (7件)

①その時代の文献資料はない。


 したがって発掘物などから探るしかないが、それで解明できる範囲は極めて限られている。

②日本書紀も古事記も、平安以降の天皇家並びに藤原家の支配体制を正当化するために書かれたものである。
現在ではあちこちに架空や虚飾があることが示されている。

したがって、定説ではない。
学問は文芸などのエンターティメントと違い、資料で証明できないものを語ってはならない。
ifなどの憶測は絶対的なタブーである。

ただし資料から読み取れることを最大限に読み取ることは確かな学問の営みである。
件の「平和的に統合された」というのも、資料から導かれる仮説としてなら立派に存在できる。
その仮説は実証という、学問の営みの指針になりエネルギーになる。
立証されれば立派な学説・定説となる。

そのテレビの教授の話も、多分に仮説として語られたのではないだろうか。
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この回答へのお礼

仮説として、
教授はそうだったかもしれません。

思い出してみると、教授の言葉を受けた聞き手の女性が、「それが今の私達にもつながっているんですね」(記憶なので表現は違います)的な発言をしていたのが引っかかったのかもしれません。

まるで日本が平和的調和的統合で歴史をつづってきた国、国民であるようなイメージで話をまとめていて、何言ってるんだろう?と思いました。

せっかくの学術的検証番組が最後に台無しになった気がしました。
教授はうなづいていましたが、学者としてはあくまで仮説、だったかもしれません。
こういう番組に無知なアナウンサーみたいなのに話をまとめさせないでほしいです。

お礼日時:2021/06/27 12:09

ごく一般的に、ヤマト王権の成立時期は、3世紀中葉、3世紀後半、3世紀末、4世紀前葉などの時期と考えられています。

 文献資料はなくとも、考古資料はたくさん見つかっています。 この時期に、近畿周辺で、戦闘の痕跡や防衛的構造物、遺跡などが発見されていません。

親子の争いや一集団社会内での紛争や殺害はあっても、別地域の社会集団と対立し、征服や侵略を恒常的に他地域の集団から攻撃されることを警戒し、対策をしなければならない状況にはなかったと推定するのが、合理的です。

親子兄弟親戚が血で血を洗うのは、特別に珍しいことでもなく、そのようなことがあっても、それは、国家(ではなく、王権とかいうべきものです)の形成が、各地の社会集団間の武力による覇権争いによって生まれたものでなければ、それはそれで、一つの特徴と言えるでしょう。
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戦争は勿論あっただろう。


戦国時代に来日した宣教師たちは、母国よりも武力戦争が少なく、非常に平和な国だと母国に報告している。あの頃でも欧州に比べれば平和だったようだ。

時代を遡ってみよう。
縄文時代にはほとんど戦争の形跡がない。縄文時代は日本列島が後期にほぼ完成期を迎えた時代で、まだ地殻変動の大きな時代であり、縄文海退・縄文海進や地球規模の気象変動もあった。人口も最大で30~40万人程度と人口も少なかったが、人同士で争うよりも自然との闘いで忙しいということもあっただろう。

弥生人が日本列島に進出し始めると、水稲耕作の本格化で人口も増え始め、明らかに戦死した人骨の出土から、縄文人VS弥生人、弥生人同士の戦いが起き始めたことは間違いない。
しかし、天孫族の神話によれば、基本的には婚姻で争うことなく、定着している。戦いと云えば山幸彦・海幸彦の争いと神武東征伝説だ。

神武東征伝説と似たような話が大国主の「国譲り神話」だが、この辺は、「明治維新」という似たような近代の大事件の進行に当てはめることが可能だ。
大国主は天孫族に国を譲ったが、それは明治維新では「江戸城無血開城」に相当する。大国主の子供たちの中には天孫族と争って諏訪まで逃げていき、その地で降参したが、明治維新に当てはめると、降伏を潔しない獏軍の一部は函館まで逃げ、その地で降参している。

神武東征神話も畿内でのナガスネヒコとの戦いは華々しいが、終わってしまえば神武は皇后に大国主系の女性を迎えるなど、再び婚姻政策に戻って、国の安定に努めだしている。

以上のように、戦いがなかったわけではなく、断続的に発生していることは間違いないが、それでも世界的にみれば、国内の小さな小競り合いも含めて、非常に戦争が少なかった国であるといえる。

明治維新後の、激しい内戦から日清日露、そして二度にわたる世界大戦と、わずか70年余りの短期間で大戦争を繰り返したのが例外的な戦争多発時代だった。
そういう近年の例外的な大戦争多発時代を学んでおられるので、古代にもそういうイメージを投影なさるのかもしれないが、その時代は正しく例外的だと思う。

その証拠に太平洋戦争終結後、80年近くが過ぎたが、その間に主要国で国内外の武力戦争を経験していない国家は日本だけしかない。
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記録のない古い時代のことなので良くわかっていないというのも確かでしょう。


弥生時代は一般的に戦国時代のようだったと考えられていますから、隣の国レベルの争いはあったのかもしれません。魏志倭人伝に残された記述からは、いくつかの国がまとまった連合のようなものと、それに対峙する国が存在したことが見て取れます。
ただ遺跡などからは、どこかの武力国家が成立して武力で周りの国々を征服していったなどというような痕跡が見られないというのは、通説となっているようです。なので、合併あるいは連合のような感じで1つの大きなまとまりになったのではないかと考えられている、というのがその主張ですね。
それで、その集まりに参加しなかった勢力を『まつろわぬ人々』と称して征服していったというのが日本神話などに残されている話です。これはヤマト王権成立以降の話という感じでしょうか(よく知らない)。

イズモなんかは国譲りの替わりに社を建てようといって杵築大社(出雲大社)を建てたなどという話になっていますが、あれは勝手に社を建てておいて国譲りの証拠だなどと言ったのではないかと愚考してみたりしていますw
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こんにちは。


様々な説や考えが世の中にはあります。
ですので、私が書くこともひとつの意見として
あまり深く捉えずに見ていただければ幸いです。

最初に時系列が飛びますが、ヤマトの人たちは、
王権が成立したあとに内部で争いを繰り広げたのですね。
つまり、とても自己中心的で好戦的な性質の人たちです。

そういう人たちが自分たちの住んでいる場所に来たとき、
どうすれば人々を守ることができるでしょうか。
それは争いを避けることです。

仕方なくヤマトの人たちを受け入れ、自分たちの
テリトリーに迎えてあげるのです。

ヤマト王権が成立する以前の各地においては、
そういう平和的な人たち(物部氏ですが)が
穏やかに暮らしていたのです。

そして我々に伝わる古代史というものは、
このヤマトの人たちによって紡がれたものなのですよ。
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豪族の連合体としてヤマト王権が成立したとされているので、そのときには戦いはなかっただろうということでしょう。



その後にヤマト王権が拡大していく過程や、内部での勢力争いとしての戦いはありました。
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あなたの、統一王権の理解が浅いんだと思います。



その歴史学者が主張している統一王権というのは、近畿・中国・四国・北九州くらいの地域での事。ある時代までは、ヤマトの地には目立つ遺跡が無く、また古いヤマトの遺跡には、中国や北九州などと共通の特徴が見られます。しかしながら古いヤマトの遺跡からは人が大量に死んだ形跡が見られないのです。

ヤマト王権が成立した後に、蝦夷や熊襲と戦争したというのは、蝦夷や熊襲はヤマト王権の成立時点では含まれていない地域なので、また別の話です。

という事も含めて現時点では仮説の一つですが、明確に否定できるほどの何かは無いので、それなりに整合性のある仮説だと思います。
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