一回も披露したことのない豆知識

1. 《信じている》とは その行為主体たるわれを微分しても 解の出ない特異点のような状態(動態)に成っていることだ。


2. 感性の原野(身)や思考の緑野(心)を超えている非思考の庭(信仰)というのは そういうことであるのではないか?


3. 解の出ない特異点だとした場合 言いかえるとそれは 解が限りなくあり得て ひとが自由にえらべるということだろうか?

A 回答 (5件)

信じるというのは


微分するものではなく、
積み重ねて
信用につなげて未来に生かして現実化していくものです。

信じたら、それを見せる効果が何かないとね。

今はコロナで禁欲の世界。
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この回答へのお礼

そうでしょうか。



ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2021/07/05 13:20

No.3です。



>それに 神についてのやり取りは 一たん保留となっていると承知しています。

・はたして、宗教的立場で云うところの『神』と、哲学的立場で云うところの『神』は一致する必要性もないのではないだろうか??

・貴殿との話の中では、その後『神』については仰る様に進展はないです。


>こちらから催促するかたちで質問をかかげたときもありました。まだなお保留の状態にあると承知していますが
>いつ 互いのあいだで異同がはっきりしたのでしょう。

・これ、、、どの文を指していますか??
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この回答へのお礼

■ ・貴殿との話の中では、その後『神』については仰る様に進展はないです。
☆ はい。峠の茶屋で一服しつつ確認です。


■ ・はたして、宗教的立場で云うところの『神』と、哲学的立場で云うところの『神』は一致する必要性もないのではないだろうか??
☆ 神――さしづめ 超自然かつ超経験なる絶対性――をめぐっての人間の忖度ないし議論は 次のように区分されると見ます。

(あ) 哲学としての神論:なるたけ経験合理性にもとづいた内容たらんとしており それは共有され得て 共同主観を成すことあり

(い) 個人おのおのの神観:《われ神を見たり》とまで言う場合をふくんで 論理の飛躍を容認しつつ――それは 信教・良心の自由に立ち 自己表現の自由を享受するかたちである―― (あ)の神論にあたかもそれぞれ個性を付与したような内容

(う) 一個の主観たる神観をできるだけ理論化し宇宙論や生命論といった体系にまで展開した神学(または 教理):これは しばしばすでに集団を成して宗教として形成されるもの。


☆ これら三つの場合にも (あ)の神論がいちおう基本となっていると言える。

ところが:
■ 宗教的立場
☆ というのは 一般に(う)の神学ないしそのオシへの教理を その宗教集団において唯一絶対のものと見なしている。つまり 排他的である。



☆☆ >こちらから催促するかたちで質問をかかげたときもありました。まだなお保留の状態にあると承知していますが

■ ・これ、、、どの文を指していますか??

☆ 次の質問で問いかけました。:
【Q:ブッダター(仏性)は アートマン(霊我)と同じであり ブラフマンなる神の霊性を言う 】2021/05/02

ただしこれは 回答がつかず消えました。

このお礼欄にはおさまらないので あらためて質問してみます。

お礼日時:2021/07/03 21:57

数学はにがてですよ( ^∀^)(笑)



信じる行為を微分しても信じるてな行為は継続されるから
特異点である

神論に限らず、人が人を信じる行為も似てますもんね

人が人を信じてても、些細な事で信じなくなるのは

人それぞれ相手によって
信じたり、信じなくなったり

信じるって行為も、人と人なら
一概にはかれないですもんね

難しいですね
( ̄~ ̄;)

解はたくさんあるから、信じる行為そのものもたくさんありますもんね
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 数学はにがてですよ( ^∀^)(笑)
☆ わたしもです。タトへですが 間違いがないか 詳しいひとにおそわりたい。


★ 信じる行為を微分しても信じるてな行為は継続されるから
特異点である
☆ ん? わたしの理解では 微分をするのは――生活する姿をその傾き具合いにおいて捉えるのは―― その生活するウゴキについてです。


★ 神論に限らず、人が人を信じる行為も似てますもんね
☆ たぶんそれは タテの関係とヨコの関係とを合わせた全体のことを捉えて言っているのでは?



神     神     神
|タ    |     |
|テ    |     |
われ・・・・われ・・・・われ
   ヨコ


☆ すなわち ヨコの関係は 互いに相対的な存在どうしであるゆえ 次のような実情になります。:
★ ~~~
人が人を信じてても、些細な事で信じなくなるのは

人それぞれ相手によって
信じたり、信じなくなったり

信じるって行為も、人と人なら
一概にはかれないですもんね

難しいですね
( ̄~ ̄;)
~~~



☆ ただし 次のような場合というのは やはり神とわれとのタテの関係にあって 人がおのおのにとっての神論――個別絶対性――やまたその主観的な神観――特殊絶対性――をかたちづくることなのだと思います。

★ 解はたくさんあるから、信じる行為そのものもたくさんありますもんね

☆ 個別絶対性としては (あ) 《有る神》派か (い) 《無い神》派か。そして (あ)なる前者では その神の名が いろいろさまざまにあり得る。

特殊絶対性としては (あ) ① われ神の声を聞けりと言う ② おれは神を見たんだと言う ③ ・・・ (い) ④ 神なぞはおるわけないよと言う



個別絶対性は 一般絶対性――普遍神――に通じているので 共同主観に成り得る一般的な神論に属する。


特殊絶対性は 一般絶対性=すなわち個人ごとの具体的な個別絶対性であるその神論のもとに さらに自由に個人が個性を形成するようなかたちで固有の神観――じっさい飛躍がある――を持つことを言う。


なお 神学というのは 特殊絶対性である神観を〔論理の飛躍をふくみつつ〕理論化し体系にまで高めたものを言う。

神学は ふつう一般には すでに集団を成す宗教において形成される。

お礼日時:2021/07/03 21:28

No.1です。



>むろん 《神を》です。

『神』については、貴殿とは色々と何度も話しをしてきましたが、『宗教』を超えるものではない。
それは、宗教・宗派、あるいは思想・信条によっては『神』の取り扱いが異なるからです。

貴殿は、『神』の事を普遍神と捉えている事は承知しております。
それはそれで良いと思います。
しかし、そうではないととらえている者もいます。
それもそれで良いと思います。

私の所属する創価学会では、『神』を『諸天善神』ととらえて、日々『諸天の加護』を祈っております。もちろん根本は『南無妙法蓮華経』の御本尊でありお題目を主としております。これも貴殿には以前申し上げている事だとは思います。
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この回答へのお礼

ざんねんながら おっしゃっていることは 意味を成しません。

定義がないからです。哲学としてのです むろん。



わたしの理論(仮説)は 幾度もお伝えしてきております。過去のやり取りで確認ねがいます。



それに 神についてのやり取りは 一たん保留となっていると承知しています。



こちらから催促するかたちで質問をかかげたときもありました。まだなお保留の状態にあると承知していますが いつ 互いのあいだで異同がはっきりしたのでしょう。

お礼日時:2021/07/03 12:49

>《信じている》、、、⇒この場合は、何を??

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この回答へのお礼

むろん 《神を》です。


ご回答をありがとうございます。



ですが 《信じる》を《感じる(感性・自然)や考える(思考・経験)》とは別に

それらを超えた意志行為であり状態であるとして規定しているときには 

《超自然・超経験》たる神のほかに考えられません。




ひとを信じているといった表現は あり得ますが 

あくまで《神を信じる》という基本的な語義から派生した用法としてであると考えます。

つまりは 間違いがないという確信の度合いを強調する用法でしょう。

お礼日時:2021/07/03 10:47

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