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自己肯定感が高い人は努力できるということを見ましたが、私はそのようには思いません。自己肯定感が高い人は、自分のダメな部分も受け入れてあげることができる人だと私は思っています。そのため、駄目な現状を改善しようという努力をする気力が湧かず、楽な方を選んでしまうように思えます。どのような考え方で、自己肯定感が高いと努力できるとなったのか知りたいです。

A 回答 (7件)

> どのような考え方で、自己肯定感が高いと努力できるとなったのか知りたいです。



原因と結果の、一般的な状況からすれば、何かが自分で出来たりした経験、出来なかったことが出来るようになった経験が、悦びや快感、自尊心、自己効力感になっていくというケースが多いでしょう。
人間の場合、乳児期にはほとんどなにも出来ませんが、親の言葉を理解できるようになり、おもちゃで遊べるようになり、ごはんを自分で食べられるようになり、おしっこを漏らさず自分でトイレにいけるようになり、お着替えや歯磨きができるようになり、イロイロお話ができたり、ご本を読めたり、お片付けができて褒められたり、そのような経験の繰り返しで、毎日が過ぎ、日々に「出来た・嬉しい」を経験し、「出来ない・わからない ⇒ 出来る・わかる ⇒ やれば出来る・やればわかる」という理解に達していくことが、学齢期までに大部分の子の状況でしょう。
親や大人、ほぼ同年齢の子などから、「出来ないの?、まだ出来ないの?」とか、他人からの視点・評価で「まだまだ」「まだ出来ない」「まだダメ」「まだムリ」という言葉も多く言われれば、時間と共に(年齢・経験・能力・努力の繰り返しの結果で)「出来るようになるのが《当たり前》」という知的学習もして学齢期を迎えます。
「ダメなまま」、「出来ない自分のまま」でokのような学習は、一般的には出来ないです。

「自分のダメな部分も受け入れて」となることがあるとしたら、それなりに年齢を重ね、思考力・検討能力が高くなって、これまで学習し身につけてきた思考習慣や感情生起の状況を他人事のように別視点で見直して、自分を改造したり、そのような視点で他人に向けて(偉そうに・上から目線のような気分で・あるいは寛容の精神を高く持って、あるいは治療者教育者専門指導員のようなスタンスに自分がたって)「自分のダメな部分も受け入れて」と説き、あるいは慰め・慰撫し、あるいは強迫・萎縮している状況を融こうとしているのです。
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言葉の使い方、言葉で意味させている内容が、だれでも同じ、いつでも同じとは限りません。


例えば、「背が高い」「元気です」のような言葉でも、イロイロに使うもので、言葉だけを手がかりにして、意味を一意に絞ることは出来ません。
自己肯定感、自尊感情、セルフエスティーム、自己有用感、存在肯定感、自己承認などの言葉でも、どのようなことを述べたいためにどのような状況でだれに向けてどのような機関・組織・人が記述しているのかをみないことには、意味の限定は困難です。

> 自己肯定感が高い人は、自分のダメな部分も受け入れてあげることができる人だと私は思っています。

そのようにいつも思っている人もいるのかもしれませんが、「自己肯定感の高い人は、自分の足りないところをカバーしたり、得意領域を一向上させるように自分が志向し努力していると自己認知して、自己を肯定している」人も多く、そのような状況にある人は、「駄目な現状を改善しようという努力をする気力も持たず楽な生き方を選んでいるように見える人を、自尊感情も持てない人だ」と判じることが多いでしょう。

自己肯定感、自尊感情、セルフエスティーム、自己有用感、存在肯定感、自己承認などの言葉に関連して、自己効力感、セルフエフィカシーという言葉もあります。
これらの言葉を、いつも使い分けている人もいれば、書く文章・読む文章・話をしている相手や状況に応じてダイナミックに使い分けたり適当に入れ替えたりする人もいます。

> どのような考え方で、自己肯定感が高いと努力できるとなったのか知りたいです。

「自己肯定感が高いと努力できるとなった」というのではなく、
次のような状況・経験が自己効力感・自尊心・自己有用感・自己肯定感を育むのだろうと思います。

① 障害や失敗に直面しても、満足が得られなくても、能力不足・体力不足・知識経験不足・カネ不足・地位の低さ・体型の問題・健康や美醜の問題、出自に関する限界感などを感じても、
② 努力を続けたり、工夫を凝らしたり、他人やネットからの情報やアドバイスを参考にしたり、再チャレンジしたり、あるいは 他人に誇れる可能性のある代替的ことを見つけてその方面で力量を上げ見返していこう!、という自分の意思や行為などの結果として、
③ ①のときの状況よりも前進できた、不満度が減った、満足度が上がった、さらにより高次の目標や状況を持ち努力や工夫をしようと思った
このような③の状態になったときに、自分の力や可能性について「"ある"という感覚」が生じるのを、《自己効力感・自尊心・自己有用感・自己肯定感》などという名をつけているのでしょう。

江戸時代までならば、「自己効力感・自尊心・自己有用感・自己肯定感・存在肯定感」という言葉・名称はなかったでしょう。 
でも、江戸時代でも、戦国期でも、鎌倉期でも、平安・奈良・古墳時代でも、①②③のようなことは、多くの人が人生の多くの場面で何度となく経験していたと思います。
狩猟採集で暮らしていても、農耕で生産食糧確保していても、地域の集団間で競いあっていても、土器や布・武器・各種生活用具を製造し、家・住居を建てる、料理をするのであっても、①②③はあり、また人が仲間集団でいれば話もするし、教え合いも説得もあり、方針を提案・説明し協力を得るようなことも頻繁に起きます。 
「自己効力感・自尊心・自己有用感・自己肯定感・存在肯定感、能力・有能・無能・ダメ・スゴイ」などの言葉が当時にはなくても、①②③のような流れは、太古からあったでしょう。

努力などしなくても、また実際に実績功績もなく、知識体力健康もなくても、傍若無人で唯我独尊・我儘勝手な人はいます。 でも、そのような人が「自己肯定感・自尊心」を持っているかは疑問です。 「自己肯定感・自尊心」の用語の定義・意味の内包・外延に関わってきてしまいます。 ネコ、ニワトリ、畑を荒らす鹿や豬も、自分本位?ですが、自己肯定感・自尊心を持っているとは思えません。 一般例で言えば、「人は高齢化に伴い頑固になり独善的傾向も強まります」。 また、「人は高齢化に伴い、ひがみも強まり、無力感・卑小感、諦めも増えます」。 ということは、「人は高齢化に伴い自己肯定感・自尊心も強まります」と単純化は出来ないということです。

また、「駄目な現状を改善しようという努力をする気力が湧かず、楽な方を選んでしまうよう」場合でも、「自分のダメな部分も受け入れる気など、さらさらない」ということも多いです。 むしろ、「駄目な現状を改善しようという努力をする気力が湧かず、楽な方を選んでしまうよう傾向が強い人は、自分のダメな部分を受け入れる気を起こさず、ダメな部分などないように思おうとする傾向が強い」ように思います。
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自己肯定感と努力・改善力は、それぞれ独立していると考えたほうが良いでしょう。



自己肯定感の有無(強弱)×努力・改善力の有無(強弱)で、ヒトを分類しようとすれば4パターンに分類されます。
その4パターンで、より多くのヒトを説明できるでしょう。

※もちろん、ヒトを測る尺度は無限にありますので、あくまでも簡易的な分類と云うかヒトの観方ということになりますので、ご注意ください。ヒトは一人ひとりが全く別人です。
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自己肯定感をどう解釈(定義)するかで、変わりそうですよね。


人は思いたい方に思おうとするので、それに都合の良い理由だけを探して自論を補強します。

あなたの考えは、まだ頑張れば働けるのに、生活保護になって自立する意欲が萎えた人とか、ひきこもりには当てはまりそうですね。

自己肯定感が高いと努力できるというのは、どん底から成功した人とか、アスリートの例ではありそうな気がします。
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努力家だと自己肯定感が高め、と考えたほうがしっくりくるような。


例)がんばってる俺スゲー、と心の中で思う
卵が先か~に近いような気もするけど、どうだろう
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そんなことないと思うよ



コメント⤵のカタ

かなり

ココロ病んでるね
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此処は質問者のあなたの頭の中の世界



あなたが思う事のみが正解の場所

そんな 八百長試合の場で言っても?
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