【お題】引っかけ問題(締め切り10月27日(日)23時)

例えば、会社を辞める人に花束を渡したら
「あれって結局自己満足じゃん」と、
その善意を批判する人をたまに見かけます。

そういう人は自己満足をどう捉えているのでしょうか?
なにか自己満足にすごい嫌悪感を
持っているように見受けられます、、、。

確かに善意での行ないが、相手にとっては
ただの迷惑だったということはあります。
このケースで言えば相手は花が嫌いだったとか、
持って帰るとき電車の中で目立って嫌だとか。

しかし、それは悪意があったわけではなく誤解というか
こころの行き違いのようなものですよね。

口では「ありがとう」と言っても善意を受取った人の
本心は結局分からないのだから
善意はどこまでいっても自己満足なのではないでしょうか?
というか、この世に他己満足なんて存在するのでしょうか?

それとも「自己満足」を口にする人は、成熟した人格の持ち主で
「満足」の本当の意味を知っている崇高な人たちなのでしょうか?

A 回答 (9件)

#4です。


丁寧なお礼をありがとうございました。

>ただ、実際そのお局さまに合ったことのない私の意見なので
>きっと見当違いだとは思いますが、もしその場に私がいたら
>「お局さまも後悔しているんだ、謝罪の気持ちなんだ。
>もう許してあげよう」と思ったかもしれません。

私、少しもそんな風に思ってなかったので
目からウロコで、感想を聞けてよかったなと想いました。

それと、
>「お局さまも後悔しているんだ、謝罪の気持ちなんだ。
>もう許してあげよう」と思ったかもしれません。

質問者:masumonさんは、こういう風に思われるからこそ、
こういう質問主旨を思いつかれるんだなと
理解できました。

私の方こそ、質問者さまの主旨への理解が足りず、
変な回答を書いていました。その上でですが、

>それとも「自己満足」を口にする人は、成熟した人格の持ち主で
>「満足」の本当の意味を知っている崇高な人たちなのでしょうか?

わたしたちはお局様を「自己満足」と読んでいたのは、
成熟した人格の持ち主でもないですし、
「満足」の本当の意味を知っている崇高な者でもありません。

お局さまの「自己満足」と思ったのは、
本当に相手のことを思えるのなら、最後の最後に花束贈呈ではなく、
新人で仕事ができないのは当たり前なんだから、
一人を徹底的にいびったりしないで、仕事を辞めたいと思わないよう
優しくすることだと思ってたからです。

でも、最後の最後にお局様が、後悔や反省してのことだったから
(お局様の内面は、私たちには見えないので)
それが新人の子に通じなくて、花束を置いて帰ったことへ
怒りくるってたので、お局さんが怒るのが分かるような気がします。
反省や後悔してのことだったら、相手に通じて欲しいですよね。

私たちには、ただ、お局さんが考え付いた花束贈呈を
苛め抜かれて退職する新人さんが「ありがとう」と感謝して、
お局様の功績を讃えて、最後の最後まで、お局様の機嫌をとるよう
強要してるように見えてたんです。

私は、お局様を意地悪にとってました。
お礼を拝見して、ちょっと恥ずかしくなりました。

お局様は自分が意地悪したことを悪く思われたくないから
終わりよければ全て良しにしようと思って、花束を渡したのかな?と

それが、お礼を拝見して、違う視点で考えられて良かったです。

つまり、私たちはmasumonさんより純粋に見れていなくて、
お局さまのことを本末転倒だと思って、シビアにみていました。

masumonさんの純粋な視点すてきだと想います。
何かに染まらず、お大事にされてください。
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この回答へのお礼

いえいえ、とんでもないです。
私も当事者であれば、orange_dayさんと同じ考えだったと思います。
きっと、orange_dayさんの新人さんに対するの愛情が
お局さまへの嫌悪となって表に現れたのだと思います。

お褒めの言葉ありがとうございました。
大げさではなく、生きる力を頂きました。

お礼日時:2007/11/02 10:12

「自己満足したい」の投影だと思いますね


本当は自己満足したいのだけどなかなか出来ない
だから悔しい!
とあいては思っているのではないでしょうか?
あまり気にしないことです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
自分もやりたいけれどやれない。
そんなジレンマの現れかもしれませんね。

人の心は複雑ですね。振り回されないように気をつけます。

お礼日時:2007/11/04 00:46

#6です。


なるほどです。

自己満足しないということは、自己が満足する必要が無いということでしょうか。色々な可能性が考えられますが、崇高であるとするなら、

満足するべき対象の「自己」が存在しない

ということになるかもしれません。存在しないということは無くなったというよりも、「私」という存在から自由になってしまったので、「私」が満足しようがしまいが気にする必要は無く、完全に他人のために行動することができる状態と思われます。
俗に言えば悟り、解脱という状態でしょうか。
しかし普通は人の考えることや感じ方は同じなので、自分がされてうれしいことは他人もうれしいはずと考えて問題ないはずです。つまり、自分の満足(自己満足)で他人の満足度を計ることは理にかなっているとおもいます。
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この回答へのお礼

度重なる回答ありがとうございます。
なるほど、解脱ですか。
もしかすると彼らはその域までたっしているのかもしれないですね。

ありがとうございます。参考になります。

お礼日時:2007/11/04 00:44

話が、『自己満足』の方に流れていますが、『自己満足』はそれほど悪いものではありません


勿論、他人のことを全く考えない、『自己満足』責められてしかるべきですが、

相手の為と本人が思っても、どこかに『自己満足』が在るものです、
逆に言えば、自己満足のない思いやりは、行う人間が疲れてしまい、偽善となってしまいます。

更に、行う側に満足感がない行為を私たちは受け取って嬉しいか?どうかです、
前の回答にも書きましたが、『お互い様』なのです、

「(お互い、関係ないかもしれないけど)あなたが喜んでくれれば、私も嬉しい」もので、
何か(他人の)役に立っているという実感をもって、無償の行為も喜びとして報われるのです。

※私も自己満足としてこの回答を書いていますので(笑)


No.4の回答者様の、「お局さま」のエピソードで、質問者様は、

> 「罪逃れ」なのか「本心の謝罪」なのか
> 人の心は複雑で外からは見えないから、やっかいなものです・・・。

と書かれておりますが、矛盾した言い方ですが(心がわかり難いことを大前提にして…)
本人を観察していれば意外と(心が)わかってしまうこともあるのです(笑)

もし、お局さまの本心から謝罪ならば、これまでの新人に対する仕打ちを反省し
新人だけではなく、次の新人や他の同僚に対する態度も改めるハズです。

誠意とか、謝罪とかと言われるものは、一瞬の出来事で判断は出来ません、
さだまさし の『償い』にも唄われるように、本心からの思いなら、
一瞬で醒めるものではないと思うのです。(ちょっと厳しいかなぁ)
http://www1.tcn-catv.ne.jp/toron/

 ※この詩のゆうちゃんだって、『自己満足』とも解釈が出来ますが…
  心理学って、解釈すること(何を受け取るか)で、解釈した人間の考えや
  歪み具合までわかってしまうことが、怖いところです(汗)

(話を戻して)お局さまは、その後で(他の)新人に対する態度を変えたのでしょうか?
変えなかった場合は、(私の解釈は)退職の花束をあげる行為は、
このお局さまの「罪悪感の補償」ではないかと思うのです。

お局さまは、自分のこの新人への行為に、
心のどこかでは罪悪感や嫌悪感を持っていたものと思われますが、
それを自覚して改めるほどには、満たされた心を持てずに
苦しんでいたのではないかと…
その為、最後の最後に一応の(罪悪感の)補償として、花束を渡したものではないかと…
もしも、花束を渡さなければ、罪悪感だけが取り残されてしまいますからね。

ここでの『自己満足』という要素も考えられないではないのですが
もしも『自己満足』と分析するなら、それまでのお局さまの
いじめ行為との関連性が低いように(私には)思えます。

 ※そもそも『自己満足』が目的でイジメを繰り返すなら別ですが、
  満足という言葉と、イジメという行為が馴染まないのです、何故なら
  人はマイナスを埋めるために、補償行為を繰り返すものです
  『満足』という言葉は、プラスマイナスでいうならプラスの言葉で
  少なくとも『自己満足』で(結果的に傷つけたとしても、)意図して
  人を傷つける行為はないものと思います、もしも傷つけることがあれば
  それは『自己満足』ではなく、『偽善』呼ばれるものだと思うので…

そして、「批判をかわす為」の戦略なら、「なら最初からイジメるなょ」
との声があるように、少なくとも有効な戦略ではありません、
労多くして、効果が少ない、かなり稚拙な方法だと思われます。
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この回答へのお礼

丁寧な回答ありがとうございます。
harrywithersさんは心理学を学ばれている専門の方なんですね。
私は素人なので、とても参考になります。

素人意見で恐縮ですが、
そのお局さまがその後態度を改めたかどうかはわかりませんが
もし改めなかったとしても、花束を渡した時は「本当の謝罪だった」
ということはないのでしょうか?

しかし、花を置いて帰られた為に
もともと細くて心もとない良心に、
再び蓋をしてしまった、と。

つまり「偽りの謝罪」か「本心の謝罪」かは、
関係者全員によって選択されたのではないでしょうか?

まぁそうだとしたら、お局さまの誠意は
それまでのものだったとも言えますが・・・。

償い。いいですね。
私もさださんは好きです。

お礼日時:2007/11/02 11:03

自己満足は悪い意味で使われますが、どうして自分が満足してはいけないのでしょうか。


人にやさしくして、その人が喜ぶ顔をみて自分もやってよかったと満足する。それは悪いことではないと思います。
一般的に自己満足とは、自分が満足するために人に優しくする、などの事に対して言われることで本末転倒ということなのでしょう。

他己満足の無い自己満足は、独りよがりなおせっかいとなるんじゃないでしょうか。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>>人にやさしくして、その人が喜ぶ顔をみて
自分もやってよかったと満足する。それは悪いことではない。


そうなんです。まさにそこなんです。
だからこそ、「自己満足」という言葉に私は興味を持ちました。

私の予想ではshift-2007さんがおっしゃる
『人にやさしくして、その人が喜ぶ顔をみて
自分もやってよかったと満足する。それは悪いことではない。』
という考え方は「自己満足だ」という言葉を使う人も
了解済みだと思うのです。

それを承知の上で「自己満足」という言葉を使っていると仮定すると、
もしかしたら、彼等は私が知らない「崇高な善意」を知っているのかもしれない。と考えるようになったのです。

どうでしょうか?

お礼日時:2007/11/02 10:19

>例えば、会社を辞める人に花束を渡したら


>「あれって結局自己満足じゃん」と、
>その善意を批判する人をたまに見かけます。

職場で、新人の女の子を、酷く苛め抜いたお局さまが
新人の子が体調を崩して退職するときに、
私たちからお金を回収して、
その新人の子に、職場一同として花束を渡したことがあります。

ソレを見て、私は、masumonさんが書いたとおり
「あれって、結局、お局様の自己満足じゃん」と思いました。

イジメ抜いて、新人の子が辞めた、
「その批判を受けにくいよう、花束渡して、罪を逃れた」と
言う同僚もいました。

>口では「ありがとう」と言っても善意を受取った人の
>本心は結局分からないのだから
>善意はどこまでいっても自己満足なのではないでしょうか?
>というか、この世に他己満足なんて存在するのでしょうか?

すごくイジメ抜かれた人から、花束贈呈されても嬉しくないはず。
善意を受け取れと強要する側に配慮がないとも思う。
弊社の場合、苛められた新人の女の子は花束を置いて帰りました。

>それとも「自己満足」を口にする人は、成熟した人格の持ち主で
>「満足」の本当の意味を知っている崇高な人たちなのでしょうか?

私は崇高は人格者でもなんでもありませんが、
弊社の場合、あきらかにお局さまが、ご自分本位に事をされたと
感じたので、「お局様が自己満足のために、花束贈呈した」と
思いました。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!

なるほど!この場合はまさに「自己満足」ですね。
というか、そんなこと出来る人がいるんですねぇ。

ただ、実際そのお局さまに合ったことのない私の意見なので
きっと見当違いだとは思いますが、もしその場に私がいたら
「お局さまも後悔しているんだ、謝罪の気持ちなんだ。
もう許してあげよう」と思ったかもしれません。

「罪逃れ」なのか「本心の謝罪」なのか
人の心は複雑で外からは見えないから、やっかいなものです・・・。

なにも知らない人間が適当なこと言ってすみませんでした。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/11/01 13:41

相当に歪んでいますね、その人…



私もかなり歪んでいますので(汗)余り他人のことは言えないですが…

交流分析(TA)の理論によると、
子どもの時、周りの大人達からまともな愛情(無償の愛)を
十分に与えられないと心の発育が歪んで行きます。

自分が褒められたりしても、(褒めた)大人にいつも何らかの意図や取引が在ったなど
そういう経験を重ねてくると、自分に向けられた無償の行為を、「ありがとう」と
素直に受け取れなくなります。

素直に受け取れなくなるので、無償の行為に対して、理由を考えこじつけます、
本当に無償の場合は、裏の意図や取引見抜けないので、自己満足と理由をこじつけます。
ある意味、自分の感情の「投影」ともいえるかな?

人が人(他人)への無償の行為というものが、
その人の辞書にないので『自己満足』と名付けて嫌悪しているのだと思われます。

勿論、相手のことを思いやって行う行為か、自己満足で行う行為か?
動機はどこにあるのか、外から見分けが付くわけではありません、
しかし、その動機を探ることに意味はあるのでしょうか?

本当に成熟した人格の持ち主なら・・・黙って微笑んでいるかも知れません。
自己満足か、他己満足か、その境界など、どうでも良いことではないでしょうか?
私たちは、素直にお互い喜び合える感性を持っているのですから…

ゲシュタルト・セラピーの創設者、F・パールズは下の詩を好んで示したそうです。

私は私のことをする、お前はお前のことをする
私は何も、お前の気に入るために、この世に生きているわけじゃない
そして、お前も、私の気に入るために、この世に生きているわけじゃない
お前はお前、私は私
もし我々がお互いに出会うなら、それは、素晴らしいことだ
もし出会わなかったら、それは、仕方ないことだ
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この回答へのお礼

とても勉強になります!
こういう方々は
無償の愛を受けて育たなかったために、
無価値観が強いのかもしれませんね。
自分がなにもしていないのに、誰かに優しくされると
理由が分からないから不安になるのかもしれませんね。

回答ありがとうございます。

お礼日時:2007/10/31 23:10

>例えば、会社を辞める人に花束を渡したら


「あれって結局自己満足じゃん」と、
この場合、自己満足を社交辞令と置き換えられると思います。
「あれって結局社交辞令じゃん、心なんてこもってないよ」と、

>そういう人は自己満足をどう捉えているのでしょうか?
その人は、頻繁に人を批評をしていたりしないでしょうか。
「あいつはだめだ」とか特に悪い方向に批判の言葉を口にするような。
また常に文句を言っていませんか。
自己満足それ自体に対しどうこう捉えているわけでなく、人を批難する文句の一つだと思います。
あるいは、その花束をわたすことを計画した者に対し個人的に敵意がある可能性もあります。
またそれが口癖の人もいます。不快ですが。

>善意はどこまでいっても自己満足なのではないでしょうか?
というか、この世に他己満足なんて存在するのでしょうか?
本当に大切な誰かに、善意なるものを与えたとき至福を知ります。
それは究極の自己満足です。
他人が真に満足するとき、それは他人の善意の象徴物質を受け取ったときではなく、他人の善意を知ったとき、その者に感じ取る精神の器が備わっていたときです。

>それとも「自己満足」を口にする人は、成熟した人格の持ち主で
「満足」の本当の意味を知っている崇高な人たちなのでしょうか?
成熟していないからこそそれを口にするのだと思います。
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この回答へのお礼

回答あちがとうございます。

社交辞令の替わりとして使っている人もいるんですねぇ。
そのくらいの軽い感じだとは想像もしていませんでした。

確かに「自己満足」をよく口にする人は批判が多い気がします。
どこかこころに痛みをかかえているのかもしれませんね。

お礼日時:2007/10/31 23:05

●善意を批判する人の自己満足の捉え方


自分にメリットのない行動だなぁ位じゃないでしょうか
●善意はどこまでいっても自己満足なのではないでしょうか?
そうだと思います
●というか、この世に他己満足なんて存在するのでしょうか?
それは存在するでしょう。花を受け取った人が喜んだら他己満足です
●それとも「自己満足」を口にする人は、成熟した人格の持ち主で
「満足」の本当の意味を知っている崇高な人たちなのでしょうか?
これは何とも言えません。「自己満足」と言う言葉を発するだけで、どういう考えの持ち主かを一概に決め付けることは出来ないでしょう。ちょっと感情的な質問のように思われます。

よくわかりませんが、基本的に社会では利己的な行動が求められますので、自分に短期的・直接的にメリットのないことをする人を批判し、自分の正当性を暗に認めてもらいたいということなのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!

●社会では利己的な行動が求められますので、自分に短期的・直接的にメリットのないことをする人を批判し、自分の正当性を暗に認めてもらいたい

批判する人は不安定な毎日を送っているのかもしれませんね。
ありがとうございます。

お礼日時:2007/10/31 23:00

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