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ナポレオンは、ワーテルローの戦いで、なぜ敗れたのですか?

A 回答 (4件)

モスクワ遠征と勘違いしている人もいるようなので。



良くまとめられている英語Wikiを紹介します。
https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Waterloo …

それからの抜粋訳です。
<Views on the reasons for Napoleon's defeat
ナポレオン敗北の理由に関する見解
General Antoine-Henri, Baron Jomini,・・・・— Carl von Clausewitz.>


ナポレオンの兵法に関する著名な軍事著述家の一人であるAntoine-Henri
将軍、Jomini男爵、はナポレオンのワーテルローでの敗北の理由に付いて
非常に説得力のある幾つかの説明を与えている。

私の意見では、四つの基本的な要因がこの大惨事へと導いた。
第一番目で、最も影響が大きかったのは、Blücher*の周到に組合された
到着とこの到着を有利にした誤った行動だった**。

訳注)*プロイセン軍団;**前日プロイセン軍を撃退したGrouchyによる
追撃とその失敗。プロイセン軍参謀による計画的戦術的な撤退とされている。

第二番目、上官達の冷静さと自信と結び付いた英国歩兵の賞賛に値する
頑強さ。

第三番目、地面を緩くし攻撃の動きを苦難に満ちたものにした酷い天候で、
早朝に開始されるはずだった(ナポレオン軍の)攻勢を一時まで遅らせて
しまった。

第四番目、第一軍団*のあり得ない隊編成位置で、第一波地上攻撃関して
奥深くに位置し過ぎた。

訳注)*ナポレオン軍の。

Antoine-Henri Jomini.アントニー・ヘンリ・ジョミニ


プロイセンの軍人、歴史家そして理論家のCarl von Clausewitz*は、
ワーテルロー会戦の間プロシャ第III軍団Thielmann(将軍)の参謀長として
仕えており、次の意見を述べている。
訳注)*カール・ホン・クラウゼウィツ「戦争論」の著者

ボナパルトと彼を支持する著述家達は彼に襲い掛かったその大惨事を
描写する事をいつも試みてきた。

彼らは、彼(ナポレオン)の偉大な智恵と桁外れのエネルギーによって
全てのプロジェクトは確固として前進しており、完全な成功が、彼らが
往々にして言う背信、アクシデントまたは運命の力にもよって髪一筋の
差で、全てを破壊したと彼らの読者が信ずるように(説得を)試みている。

彼(ナポレオン)と彼の支持者は大いなる間違い、全くの無謀さと、
とりわけ、現実の可能性の全てを越える過大な野望が真の原因だと
言う事を受け入れない。

カール・ホン・クラウゼウィツ

(・・)訳者による補足

ここに戦史に名高いドイツ参謀本部の前身プロイセン参謀が出てきます。
この戦いは、英雄的将軍から軍事専門家集団である参謀への戦争指導の
移行を画する戦いであったとされています。
ナポレオン支持者に対するクラウゼウィツの醒めた言葉が印象的です。
プロイセン参謀(室)はドイツ参謀本部に引き継がれ、明治初頭の日本
陸軍に大きな影響を与えました。
軍医としてドイツに留学した森鴎外はクラウゼウィツの「Vom Krieg=
戦争論」を日本語に訳したそうです。
原著を読んでみましたが、難解なドイツ語でした。鴎外恐るべしです。
ドイツ語のWikiには、敗因に付いての分析はありませんでした。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。大変勉強になりました。目からウロコが落ちました。

お礼日時:2021/12/25 05:12

その敗因についてはさまざまに分析されている。


私は次の二点に注目したい。
まず第一に、目的の不明確さが挙げられる。
当時、ロシア駐在のフランス大使が、ナポレオンに直言した
「陛下、戦争目的が明確でございません。フランス国民は、
このたびのロシア遠征を、国民的戦争として心から支持
するでしょうか?」と。
 これに対し、ロシア軍には祖国防衛という明確な道義からの
勇気がみなぎっていたといえる。
いずれにせよ、この直言をナポレオンは聞き入れなかった。
柔軟さを欠いた、自身の頭の固さに負けてしまったのである。
彼は自身の頑固さゆえに勝ち進み、その頑固さゆえに最後は
敗れたともいわれる。
 
さらにナポレオン軍は、そのかなりの部分をフランス人
以外の外国人部隊が占めていた。
ここにも士気のあがらぬ要因があり、加えてその待遇に
差別がみられた。
 後日、ナポレオンは遠征の犠牲者に対する弁明として
フランス人の戦死者が外国人と比べて少なかったことを
挙げている。
それでは彼のもとで戦い、死んでいった外国兵士は
なんとも哀れでならない。

また敗因の第二として、戦争遂行にあたって
欠くことのできない″地図″が不備であったことが
あげられる。
 ある将軍は「ナポレオンはこの国のことをろくに
知らなかった。手持ちの地図は、おそまつきわまる
ものであった」と指摘している。
 戦争には正確な地理の認識は不可欠である。
それを粗末な地図をもとにしたために、
狂いが生じていく。いちばんの基本を甘く
見たところから、既に失敗が始まっていた。

更に大きな要因として、ナポレオンの側近や部下たちの多くが
命じられなければ動けない、動かないという、
いわば「指示待ち」の体質になってしまっていたこと

ナポレオン軍の勝敗の帰趨を握った将軍(グルーシー)が、
他人の命令に従うことに慣れ、自分で決断できない
人物だったために、いたずらに命令を待つだけで、
突入する時を逸し、勝てるチャンスを逃してしまった。

肝心の、ナポレオンの″突入せよ″との命令も、
伝令が遅れ、その将軍のもとに届いたときには、
一切が手遅れになっていたというのである。

もしも、その将軍が、ナポレオンと同じ責任感に立って、
決断し、行動しゆく勇気をもっていたなら、
歴史は変わっていたかもしれない

ベリンスキーは、ナポレオンのロシア侵攻に関連して、
次のような言葉を残している。
「一八一二年は、ロシア全土を震撼しんかんさせ、
眠っていた力を呼びさまし、これまで見られなかった新しい
力を発揮させた。民衆の自覚と民族の誇りを呼びさました」と。
 つまり、ナポレオンの侵略という苦難が、ただ苦難であるにとどまらず、かえってロシアの民衆の潜在力を引き出す機会となったというのである。
″苦難が、眠れる力、新しい力を呼びさまし、発揮させるチャンスとなる″ことは、古今東西の歴史に広く見られる

ボロジノの地は、この約百三十年後、第二次世界大戦でも、
独ソ戦の激戦地となり、同じ悲劇を繰り返している
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ワーテルローの戦いでいくつかのターニングポイントがあります


・ウーグモンという戦術拠点を気にしすぎて無駄に兵力を回した
・ナポレオンが全軍を掌握しきれず一部の部隊を配下の将軍に任せたが、その将軍の単独行動で騎兵部隊が大きな被害を被った
・戦の終盤、このままいけばナポレオンの勝利という状況で、フランス軍の右側面からプロシャ軍が現れて突撃してきて対処しきれなかった。

この最後のプロシャ軍の参戦が決定的な敗因です。

ただ、この結果を招いたのが、ワーテルローの戦いの前哨戦で、フランス軍とプロシャ軍の戦闘でフランス軍がプロシャ軍を後退させた後、部下の元帥に3万人以上の兵を与えて敗退したプロシャ軍を追撃させてます。ところがプロシャ軍自身は戦意旺盛。追撃するフランス軍はプロシャ軍の行方を見失って右往左往して、ワーテルローの戦いには参加できませんでした。

だから、ワーテルローの戦いの前、ナポレオンに勝機があったとしたら、
①プロシャ軍が後退した直後に追撃させて、プロシャ軍を戦闘に持ち込んで、ワーテルローの戦いに参戦させなかった。
②プロシャ軍を追撃せず、全軍をワーテルローに終結させていたら、プロシャ軍がワーテルローの戦いに加わる前に、イギリス軍を配送させて勝利していたかも

興味があればシミュレーションゲームでいろいろと戦況の推移を試してみると良いですよ。基本的に二人でプレイするゲームですが、一人で歴史書を片手に、ナポレオンがこう動いていたら戦況がどうなったのかなど、マップ上で駒を動かして試してみることが出来ます
https://www.commandmagazine.jp/com/122/index.html
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冬の大雪の為。

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