14歳の自分に衝撃の事実を告げてください

はじめまして。私は、日本語を勉強している外国のもので、最近ちょっといくつかの表現に困ってるんです。いくら考えていてもなかなか答えが出ないませんでした。それで、ここにいらっしゃる皆様の力を借りたいと思います。どうかわたしをお助けください。よろしくお願いします。

質問は下記のようです。(3問あり)

1、筋肉が勝手に弾んでしまう|といった/という/といったような|感じで、恐ろしく小刻みにはねる。  (村上龍さんのエッセイにより)

私が知りたいのは、「~という感じ」「~といった感じ」「~といったような感じ」この三つの違いなんですが、教えていただけるでしょうか。
これから私なりの考えを書かせていただきたいと思います。ご指摘をくださいましたら幸いです。
→「という感じ」は、前記の感じしか持っていないことを表すのに対して、「といった感じ」は前文に描写された感じのほか、何か別の感じも含んでいることを暗示しようとするのではないか、と私は思います。

しかし、後者の「といったような感じ」のニュアンスがよく分かりません。これは「に似たような感じ」という意味に似ているのでしょうか。つまり、普通には、「といった」によって他の例を暗示する働きはここには感じられないといってもよろしいでしょうか。
また、ここに「ような」をつけるのは、ただ自分の考えを断言したくないため、婉曲な言い方(つまり、言葉の曖昧さ)を選んだのではないか、と私は考えていますが、でも、なんか間違っているような感じがするかしないかと...いろいろ迷ってしまう挙句です(-->あ、ここって言い間違っちゃったかな?)
あとは、
→「筋肉が勝手に弾んでしまうというような感じ」のほうができませんか。
もしかすると、このような表現には、「といった」しか使われないのでは?

すみません、第一問なのに、すでにこんなに書いちゃって...なんか質問は長くなるような......予感がします。

2、「これといったものはないかな?」
という文があるんじゃないですか。
こちらの、「これといった」は定着した表現ですね。つまり、「これというもの」や「このようなもの」に言い変えてはいけませんね。(というより、言い換えられますが、意味的には原文とちょっと違いますね。)

しかし、どうして「といった」しかできないのですか。これは日本語のテンスに繋がるのでしょうか。それとも他の原因があるのでしょうか。
そういえば、過去形って、「物事の結果を言い切る」という働き/感じがありますか。私はテンスに苦手なので、ぜひとも詳しく教えていただきたいです。

3、日本のように四季の変化の大きな国では、春、夏、秋、冬といった季節ごとに衣服は無論、調度も取り換えねばならない。
→こちらの「といった」は「等」という意味を表すことではないようですね。なぜかと言うと、四季の具体的な名称はすでに出てきたからです。
というわけで、「といった」の表現は、例示の働きのほか、考えの厳密性と言葉の余裕を示す働きも考えられるでしょう。
しかし、この「余裕」ってやつ(笑)は、一体どこまで通じるのでしょうか。言い換えれば、どのような場合は、「四季=春、夏、秋、冬」のようにすでに例を全部あげてしまいましたのに、「といった」をつけて考えの厳密性を示すことができるのか、
またどのような場合は、例をあげ切れましたところ、「といった」を決してつけてはいけないのか、 
という質問ですが、具体例でご説明いただけるでしょうか。

詳しく知りたいのは、大体上記の物なのですが。助けていただけましたらとってもとってもありがたく思います。
考えがバラバラのせいで、文は結構長くなってしまいました。
おまけに、おかしい日本語も時々出たりしています。お目に悪いですね。本当にすみません。>_<

では、ご回答のほうを心よりお待ちしております。よろしくお願いいたします。どうか、迷っている私を、皆様の力でお救いくださいっ!日本語をもっともっと勉強したいんです!

A 回答 (5件)

#3です。


#4さんのご回答は大変参考になりました。
#3の内容について少し補足してみたいと思います。

1、
「○○という△」「○○といった△」の「△=感じ」であることが、やや複雑化しているような気もします。

つまり、前回述べたように、
「筋肉が勝手に弾んでしまうといったような感じ」は、(私も何気なく使う表現ではありますが、良く考えてみると)やはり座りの良い表現とは言えないように思われます。
しかし、
「筋肉が勝手に弾んでしまうといったような経験」
「あそこに幽霊が出るとかいったような話」などであれば自然な表現になるでしょう。
これは、
「感じ」自体に曖昧性が含まれているために、「といったような」の曖昧性と重複してしまうためだと思います。

ゆえに、
『>「筋肉が勝手に弾んでしまうというような感じ」のほうができませんか。
もしかすると、このような表現には、「といった」しか使われないのでは?』
というご質問に対しては、
『「○○といったような△」の△が「=感じ」のように曖昧性を含む場合は「といったような」ではなく「といった」のほうが適当だろうと思います。』
とお答えするほうがいいかもしれません。

2、
「これといったもの」に関して、
「これと(過去に多数の人が)言った(ほど目ぼしい)ものはないかな?」
という意味だからではないでしょうか。
と述べましたが、もう少し補足しておいたほうが良いかもしれません。

「(過去に多数の人が)言った」というのは、
「以前から人口に膾炙しているほど値打ちのあるもの」といったような意味です。
「言った」という過去形として使われている意義がそこにあるように推測したわけです。

これに対して、
「これというもの」には、
「現在、自分が(値打ちがあると)言うもの」といったような意図が含まれているようで、主観的なニュアンスを感じます。

そういったわけで、
「これといったものはないかな?」が自然であるのは、
「誰もが認める(言った)ような値打ち品はないかな?」ということで意味は通ります。
しかし、
「これというものはないかな?」は、
「私が値打ち品と認める(言う)ようなものはないかな?」ということで、「値打ち品と認める私の基準」が相手には不明なわけですから、こういった尋ね方は不自然になるだろう、という理屈です。
 
「これといったものは無かった」は、「誰が見ても値打ち品と思えるようなものは無かった」
「これというものは無かった」は、「私にとっての値打ち品は無かった」
というニュアンスになるような気がします。
 
 
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NO1です。

意見が分かれた箇所について。

◆「というような感じ」

ここについては、まず
>→「という感じ」は、前記の感じしか持っていないことを表すのに対して、「といった感じ」は前文に描写された感じのほか、何か別の感じも含んでいることを暗示しようとするのではないか、と私は思います。

の箇所で判断のしかたが、二人で違うことが原因ですね。

わたしもここはすごく迷いました‥‥。
広辞苑を参考にしたのですが、いくら調べても「た」に「何か別の感じも含んでいる」ということが載っていなかったため、
・「という」(ひとつだけ)
・「といった」(別のものを含む)
という区別はしなかったんです。

区別はしませんでしたが、そういうニュアンスがあるのはすごくわかります。
ただ、
「感じ」=感想、印象、雰囲気など、その人がそう思ったということ。
「ような」=~に似ている、とその人が何かに例えたということ。
どちらも書いた(言った)人の主観であり、曖昧なことに変わりはありません。
なので「という感じ」を使うなら、「というような感じ」も使えると思い、わたしは日常でも使用しています。


◆「これというもの」

ここは「という」の解釈の違いが原因です。
「いう」は発言する、~と呼ぶ、などいろいろな意味がありますが、今回は1・2・3すべての場合で

広辞苑より
(2)-(4)(普通、助詞「と」に付いて)提示された事態をとりたてて断定または認定して、下の叙述につなげる。実質的な意味を失い、‥‥の言葉で表示されるものである、‥‥である、などの意を示す形式化した用法。「天地は広しといえど」「そういう状態だ」「眠いといったらない」

の使い方をしていると思います(前回回答では「強調・断定」と書きました)。
「りんごという果物は」などというときには、どういう果物であるか→りんごである、と説明しているのです。
1.で言えば、
「弾んでしまうという感じがある」=どういう感じがあるのか→弾んでしまう感じ
を「という」を使って説明しています。

なので、「これといったもの」も誰が言ったではなく、
「これというもの」=どういうものを探しているのか→これ(がぴったり)なもの
を「という」を使って説明していると考え、「これという」と「これといった」は区別をしませんでした。
「た」で区別をしないのは、前回回答の1.と同じ理由で、この場合の「た」存続は意味をもたないからです。

「これといってすることがない」
のように違うパターンもありますが、わたしは「という」と同じ扱いをしています。
じゃあなんで「た」とか「て」に変わるのかと言えば、よくわかりません‥‥。前後の言葉によって、いろいろ使います。


なお3.についても「という」は説明の語なので、
「春、夏、秋、冬といった季節」=どんな季節か→春、夏、秋、冬である
と考えれば、四季をすべてあげている場合は不自然ではありません。むしろ別のものも含むニュアンスだけ例外、と考えた方がいいかもしれません。

ということを、書きながら思いました。


長くなってしまいましたが、伝わったでしょうか。
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#2です。



>その作者の『「春、夏、秋、冬といった四季」は「ここでは全部例示として使われる」』という結論に賛成しますか。そういった完全例示の感じは本当にあるんだろうか、という点に改めて確認したいんですが...

確かに、全てが「婉曲」の要素に当てはまるとは言えないようで、「全部例示」をする場合もありそうです。
ただ、「春、夏、秋、冬といった季節」という表現は、それ単独では是非を決められないのでしょう。

「春、夏、秋、冬といった季節ごとに衣服は無論、調度も取り換えねばならない。」が自然な表現であるのは、
・春に衣服は無論、調度も取り換えねばならない。
・夏に衣服は無論、調度も取り換えねばならない。
・秋に衣服は無論、調度も取り換えねばならない。
・冬に衣服は無論、調度も取り換えねばならない。
という『「個別の例」を示すことが可能である』ためなのかもしれません。
つまり、「【それぞれの季節で】取り換えねばならない。」という意味で、『「全部例示」の必然性』があるからなのでしょう。

それに対し、
「四季は、春、夏、秋、冬といった季節で構成されている」などの文が不自然になるのは、この必然性(必要性)が無いからでしょう。この場合は、
「四季は、春、夏、秋、冬という季節で構成されている」
と表現されるのが自然です。

また、
「春、夏、秋、冬といった順に季節は巡ってくる」
といった表現は【基本的には】不自然な印象を与えるように思われます。(後に補足があります)
それは、「順」というものに(春、夏、秋、冬が一塊で「順」を構成しているので)「個別」という要素が存在しないからでしょう。
個別の要素が存在しない以上、「全部表示」をする必然性もないので不自然になる、ということではないかと思われます。

◇ 
「といった」は、
a.例示
b.(個別)完全例示
c.婉曲
の3つの【基本的要素】を持っているのかもしれません。
また、これらの要素は複合的に作用する場合も含まれます。

ただ、以上の基本的要素以上に留意する必要があるのは、
『それぞれのシチュエーションによって、上のabcの要素を適用する必然性があるか否か』
ということでしょう。

上の例で言うと、
「春、夏、秋、冬といった順に季節は巡ってくる」といった表現は【基本的には】不自然な印象を与えますが、
お酒を酌み交わしながらの和やかな雰囲気の中では、
「春、夏、秋、冬という順に季節は巡ってくる」
と(正確に)言うよりも、
「春、夏、秋、冬といった順に季節は巡ってくる」
のほうが、その場にふさわしい表現になることもあるように思われます。これは、
「和やかな雰囲気」が、「厳然とした事実として話す」よりも「c婉曲」という要素に合致するからでしょう。
しかし、
小さい子供たちに教えるような場合に、
「春、夏、秋、冬といった順に季節は巡ってくる」
と言うと、不正確な(曖昧な)表現という印象を与えることになります。
 
 
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あくまで素人の一私見にすぎませんので、個人的な感想ということで受け止めてください。



1、
筋肉が勝手に弾んでしまう|といった/という/といったような|感じで、恐ろしく小刻みにはねる。  (村上龍さんのエッセイにより)

a.
「○○という感じ」
→「感じ」の内容について、「○○である」と限定(断定)した表現。

「○○といった感じ」
→「感じ」の内容について、「一応○○である」と限定できるが、「○○以外」の可能性も含んだ表現。

「○○といったような感じ」
→「感じ」の内容について、確信は持てないが「たぶん○○であるだろう」と例示することができる。当然、「○○以外」の可能性も含んだ表現。

b.
>「という感じ」は、前記の感じしか持っていないことを表すのに対して、「といった感じ」は前文に描写された感じのほか、何か別の感じも含んでいることを暗示しようとするのではないか、と私は思います。

というのは同感です。

c.
しかし、後者の「といったような感じ」のニュアンスがよく分かりません。これは「に似たような感じ」という意味に似ているのでしょうか。つまり、普通には、「といった」によって他の例を暗示する働きはここには感じられないといってもよろしいでしょうか。
:
「ような」は a で述べたように、「たぶん○○であるだろう」という「不確かな断定」ですから、
『>「に似たような感じ」という意味に似ている』ということは言えるでしょう。
「といった」よりも確信の度合いが低い、とも言えます。
その分、「>他の例を暗示する働き」は、むしろ「といった」よりも強いでしょう。

d.
>また、ここに「ような」をつけるのは、ただ自分の考えを断言したくないため、婉曲な言い方(つまり、言葉の曖昧さ)を選んだのではないか、と私は考えています

おっしゃるとおりでしょう。
c で述べたように、
「確信の度合いが低い」
『「>他の例を暗示する働き」は、むしろ「といった」よりも強い』
ため、結果として婉曲の作用にもなり得ます。

e.
>「筋肉が勝手に弾んでしまうというような感じ」のほうができませんか。
もしかすると、このような表現には、「といった」しか使われないのでは?

『、「といった」しか使われないのでは?』
とまでは思いませんが、おっしゃるように好ましい表現とは言えないでしょうね。
「○○という」は、「○○である」と限定(断定)した表現ですから、
「○○以外」の可能性も強く含んだ表現と言える、「ような」と混在させると座りの悪い表現になるでしょう。

2、
「これといったもの」と殆ど同義で、
「これというもの」という表現も使われていると思います。

ただ、
「これというものはないかな?」とは確かに言わないでしょうね。やはり、
「これといったものはないかな?」です。
理由は、
「これと(過去に多数の人が)言った(ほど目ぼしい)ものはないかな?」
という意味だからではないでしょうか。

「これというものはなかった」であれば自然でしょう。
「これと(私が)言う(べき)ものは無かった」という意味に捉えることができるからだろうと思われます。
 
3、
言い換えれば、どのような場合は、「四季=春、夏、秋、冬」のようにすでに例を全部あげてしまいましたのに、「といった」をつけて考えの厳密性を示すことができるのか、
またどのような場合は、例をあげ切れましたところ、「といった」を決してつけてはいけないのか、 

「○○といった△△」における○○は基本的には△△の例示でしょうが、
「例示」→「曖昧性」→「婉曲性」
という要素を常に内包していることになるのでしょう。
後半の2つを「余裕」と表現されたのでしょうが、内包している要素だけに、
『「といった」をつけて考えの厳密性を示すこと』は前後の文脈や、相応の知識によって判断するしかないように思われます。

四季を知らない火星人に、
「日本のように四季の変化の大きな国では、春、夏、秋、冬といった季節ごとに衣服は無論、調度も取り換えねばならない。」
と説明した場合、
火星人が、「春、夏、秋、冬以外には、どんな季節があるのか?」と尋ねる可能性はあるでしょう。
かと言って「春、夏、秋、冬といった季節」という表現が間違いというわけではありません。
『この場合の「といった」は、婉曲的な余裕の意味で使ったのだ』
と説明するしか方法はないでしょう。

そうすると、
「×△□」が○○の全ての場合、「×△□といった○○」という表現ができないのは、「婉曲的な余裕」を使うと不自然になるシチュエーションの場合である。
ということが言えるようにも思われます。
 
では、「婉曲的な余裕」を使うと不自然になるシチュエーションとは何か、ということになりますが、各々の主観も混じりますから結構難しいですね。
たとえば、「厳然とした事実」などの場合は案外不自然になりやすいかもしれません。
(ex)
×水は水素と酸素といった元素からできている。
○水は水素と酸素という元素からできている。

ただ、基本的にはシチュエーションによってどちらでも使える、【といったような】考えです。
 
 
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この回答へのお礼

御回答、本当にありがとうございました。質問の長さにもかかわらず熱心に教えてくださったことに涙が出るぐらい感動しちゃいました!本当に言葉を尽くしても感謝の気持ちを申し切れませんっ。
一番収穫として得られたのは、「といったような」に対するご理解ですね。やはり外国人である私の考えにはずれが出たかなと感じられました。やはり日本語の曖昧さを理解するのは、今後の大きな課題となるだろうとしみじみ感じてます。
また、三つ目の「四季=春、夏、秋、冬」のご説明は本当に面白く思います。勉強になりました。「春、夏、秋、冬といった四季」という例文は実は、前一度見かけた論文の中から取り上げたものですが、確かに論文作成者はただ、『「といった」は一部例示と全部例示という用法があるが、ここでは全部例示として使われる』と言った結論でした。ですから、当時私は不意に質問として提出しましたが、その結論と違う意見が出たとは正直、思いませんでした。
追加質問なんですが、hakobuluさんは、その作者の『「春、夏、秋、冬といった四季」は「ここでは全部例示として使われる」』という結論に賛成しますか。そういった完全例示の感じは本当にあるんだろうか、という点に改めて確認したいんですが...よろしくお願いします。

お礼日時:2010/02/26 01:10

日本人もほとんど使い分けていないと思います。

なのでかなり主観の入った、わたしなりの解釈だと思って、読んでください。


1.「という」は「そういう状態である」を少し強調・断定したものです。「感じ」は「感想・印象・雰囲気」。

「といった」の「た」は存続をあらわして、「前からその状態が続いている」ということです。
ただ、「~という(いった)感じ」は例えの表現ですよね。例えの場合は、「今~なった」も「前から~である」もないので、「という感じ」と「といった感じ」は特に区別しません。

また「感じ」がすごく曖昧な表現なので、「という感じ」と「といった感じ」はやはりどちらも「別の似たものを含む」言い方です。

「ような」は「似たような」であっています。どんな感じかの例をあげた訳です。
婉曲という意味もあります。「感じ」も自分の感想であり断定を避ける表現なので、「といったような感じ」は相当、曖昧ですよ!

「というような感じ」も使います。「弾んでしまう(ような)感じ」も言いますね。


2.「これというもの」も「これといったもの」と同じように使います。「これ(がぴったりだ)といったもの」という意味ですね。2つを区別しないのは、1.の存続の説明と同じです。
「このようなもの」は少し意味が違って、これは、ただの「類似品」。

これらの場合の「た」は、過去形というより存続と考えてください。


3.「という」には例示の意味はありません。1.で説明したように、「そういうもの」という断定。
例えば「白という感じの色」は「感じ」があるので白に似たほかの色も含みますが、「白という色」は白だけです。

下の語の説明としてつなげる「〇〇という(いった)△△」を使ってはいけない場面は、思いつきませんね‥‥。

「考えの厳密性」のところは、ちょっとよくわかりませんでした。疑問が解決しなかったら、すみませんがもう一度詳しく疑問点を教えてください。
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この回答へのお礼

テンスをめぐってご説明いただき、本当にありがたく思っております。「存続」の意味は、確かに前思いついてなかったので、なんか急に自分の思考が開くようになったような感じでいます。
Kollagenさんの御回答から見ると、「これといったものはないかな」と「これというものはないかな」とは、どちらも使えそうでしょうね。(どちらも完全に違和感が感じられないんでしょうか。)
また「というような感じ」も使えるとおっしゃったでしょうね。(こちらも完全に違和感が感じられないんでしょうか。それとも言えそうですが、やはりロジックから考えるとちょっと妙な感じがするとか...?)
この点について、上のhakobuluさんとちょっと違う意見が出てしまったので、どなたの意見が正しいか、私はちょっと迷っています。
もしよろしければ、上のhakobuluさんの意見をご覧にになっていただけないでしょうか。そして、どこまで賛成するかということについて詳しくお聞きしたいと思います。決して変な挑発な意味ではないんですよ。ただ研究角度からいろいろと知りたいんです。
では、御回答をお待ちしております。よろしくお願いします。

お礼日時:2010/02/26 01:25

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