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先行質問で竹林氏の論文を紹介してもらいました。
非常に有用な内容と思います。
https://www.bus.nihon-u.ac.jp/wp-content/themes/ …

この中で尾上圭介氏は、
《三上のような「主語」規定では「言語というものを大きくつかむ上で大切なものを落としてしまうことになろう」》と述べ、
《(主語とは)「一つの文が語る事態の中で認識の中核として存在するもの」》
という見解を示しています。
認知言語学のラネカーによる、
《主語とは「描写対象としての事態の解釈において中心的な地位を与えられる要素》
という見解なども非常に興味深く感じました。

一方、三浦としては主語とて補語にすぎないのであり、そのような「特別扱い」をすると「述語一本建て」である日本語の本質に対する誤解につながる、という意図で主語無用論を主張したようです。
たとえば、
「源太が平次に本を貸した。」という文においては、
「源太が」
「平次に」
「本を」
すべて「貸した」という述部を修飾する補語と認識すべきだ、ということ。

しかし、尾上氏の見解にあるように、この文においては、
「この文が語る事態の中で認識の中核として存在するもの」として「源太が」と認定することのほうが《言語というものを大きくつかむ上で大切》だという気がするのですが、みなさんはどう思われますか?
実際、三浦にしても、
《ただし,「主格が動作のイニシアチヴを取る」ことから,「が」格項目が「首席補語」だ》
と述べているわけで、つまり「源太が」という主格補語を「特別扱い」している点に何ら変わりはないわけです。

「首席補語」を主語と言い換えることで、それほど重大な誤謬が日本語理解に生じるとは思えないのですが、みなさんのご見解をご教示くだされたく。

質問者からの補足コメント

  • すみません。

    質問本文内の「三浦」は「三上」の誤りですので、お詫びして訂正します。

      補足日時:2022/01/27 18:41

A 回答 (15件中11~15件)

長いは形容詞なので動詞ではありません。

そこだけ訂正。

述語と直接に結び付いてる部分と主語は対応しません。
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この回答へのお礼

了解です。

お礼日時:2022/01/22 23:52

「鼻が長い」とは言えますが、「象は長い」とは言えません。

だから、「象は 鼻が長い」という構造になっています。つまり、「長い」と直接に結び付いているのは「鼻が」です。「犬が噛んだ」「人が噛まれた」における「犬が」「人が」に対応するのは「鼻が」です。

ところが、あなたの見解によると、「象」が主語になることもある。したがって、動詞と直接に結び付いてる部分と主語は対応しません。「犬が噛んだ」「人が噛まれた」のように、行為の主体かどうかによって、実際の文の形に影響するのだから、文法的に考慮するのは当然であり、それは認めるからといって、主語を認めることにはなりません。そして、「一つの文が語る事態の中で認識の中核として存在するもの」というのが曖昧であることは既に指摘しました。そのような曖昧な基準に土台を置いてしまっては、曖昧な文法論にならざるを得ません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>そして、「一つの文が語る事態の中で認識の中核として存在するもの」というのが曖昧であることは既に指摘しました。

すみません。
《なお、私の投稿ではあなたの主語定義に基づいています。》
とおっしゃっておられましたので、
《(主語とは)一つの文が語る事態の中で認識の中核として存在するもの》(尾上圭介)
という点で一致しているのだと思っていましたが、これは私の勘違いでしたか?
因みに「象は哺乳類だ」という文で「象」は主語になりますか?

>ところが、あなたの見解によると、「象」が主語になることもある。したがって、動詞と直接に結び付いてる部分と主語は対応しません。「犬が噛んだ」「人が噛まれた」のように、行為の主体かどうかによって、実際の文の形に影響するのだから、文法的に考慮するのは当然であり、それは認めるからといって、主語を認めることにはなりません。

いや、申し訳ない。
この記述の意味がよくわかりませんでした。

お礼日時:2022/01/22 23:48

「犬が噛んだ」「人が噛まれた」のように、行為の主体かどうかによって、実際の文の形に影響するのだから、文法的に考慮するのは当然です。



ただ、そのような文法における区別と、「一つの文が語る事態の中で認識の中核として存在するもの」とは違います。「一つの文が語る事態の中で認識の中核として存在するもの」としては、「源太が」が中核にあり、「平次に」の位置付けが低いとは断定できないでしょう。
別の質問で主語の定義についてやかましくおっしゃっていますので、定義はちゃんと厳密に扱いましょう。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>「犬が噛んだ」「人が噛まれた」のように、行為の主体かどうかによって、実際の文の形に影響するのだから、文法的に考慮するのは当然です。
ただ、そのような文法における区別と、「一つの文が語る事態の中で認識の中核として存在するもの」とは違います。

犬や人は「一つの文が語る事態の中で認識の中核として存在するもの」ではない、というご見解だという意味ですか?

>「一つの文が語る事態の中で認識の中核として存在するもの」としては、「源太が」が中核にあり、「平次に」の位置付けが低いとは断定できないでしょう。

はい、そういうご見解があっても一向に構わないと思います。
ただ、三浦は「中核」とまでは言ってないが、「平次に」がヒラの補語であるのに対して「源太が」には首席補語という名称を与えており、明らかに高い位置付けを与えています、ということを申し上げただけです。

>別の質問で主語の定義についてやかましくおっしゃっていますので、定義はちゃんと厳密に扱いましょう。

《なお、私の投稿ではあなたの主語定義に基づいています。》
とおっしゃっておられましたので、
《(主語とは)一つの文が語る事態の中で認識の中核として存在するもの》(尾上圭介)
という点で一致しているのだと思います。

お礼日時:2022/01/22 23:03

>>一方、三浦としては



三上の誤りですね??

尾上の、「【言語というもの】を大きくつかむ上」の【言語というもの】が何であるかが不明で、「つかむ上」というのは話者ではなく聞き手の側の問題で、表現としての言語という言語本質が理解されていません。

ラネカーも同様に、「描写対象としての事態の【解釈】において」と【解釈】、つまり聞き手の側を問題にしています。ラネカーは、
『認知文法論序説 Cognitive Grammar: A Basic Introduction 』(研究社:2011/5/25)
で、「意味は、言語表現によって表された内容を人がどのように解釈しているかという概念化の問題に関与している。」と意味を受け手の側の問題にしています。
(語彙と意味を混同した機能主義言語論の限界
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R2P …
参照)

こうした、機能主義的な発想では全く対象と話者の認識の関係を捉えることができず、主語の問題を扱うことはできません。

三上の修飾、補語というのも機能主義的な解釈に過ぎず、重大な誤謬が日本語理解に生じることになります。

この質問には、
対象→認識→表現の過程的な構造を捉えた言語過程説を「部分的、且つ大雑把にではありますが、素人なりに以下のように解釈しています。」というのが全くの勘違いに過ぎないことが白日の下に晒されていますが、どのように考えられますか????

この程度の理解で、三上や、尾上、ラネカーを判ったつもりというのも笑止と言う他ありませんが???■
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>尾上の、「【言語というもの】を大きくつかむ上」の【言語というもの】が何であるかが不明で、

極めて簡単なことでして、
たとえば、
「源太が平次に本を貸した。」
という文を正しく理解する、といった意味に解釈しましょう。

>「つかむ上」というのは話者ではなく聞き手の側の問題で、表現としての言語という言語本質が理解されていません。

そうですか。
とりあえず現段階では「(表現されたあとの)聞き手の側の問題」でよろしいんじゃないでしょうか。
「源太が」が主語か主格補語かというだけの問題ですから。

>で、「意味は、言語表現によって表された内容を人がどのように解釈しているかという概念化の問題に関与している。」と意味を受け手の側の問題にしています。

そういうことはまた場所を替えてゆっくり教えていただきましょう。

>こうした、機能主義的な発想では全く対象と話者の認識の関係を捉えることができず、主語の問題を扱うことはできません。
>この質問には、
対象→認識→表現の過程的な構造を捉えた言語過程説を「部分的、且つ大雑把にではありますが、素人なりに以下のように解釈しています。」というのが全くの勘違いに過ぎないことが白日の下に晒されていますが、どのように考えられますか????

その論理がよくわかりませんなあ。
「対象と話者の認識の関係を捉えることができず」とは具体的にどういうことを言っているのですか?
「対象→認識→表現の過程的な構造を捉え」てなければ、主語の問題を論ずる場合に、どういった齟齬が生じるのですか?
「源太が平次に本を貸した。」を例に解説してみてください。
それが本物の「回答者」でしょ?

本当に理解しているなら解説できますよね???
できないなら、
「三浦のつまみぐいはしたけど、本当に理解はしていない」というのが君の実態だと解釈せざるを得なくなりますよ?

>この程度の理解で、三上や、尾上、ラネカーを判ったつもりというのも笑止と言う他ありませんが???

《この程度の理解》というのは、おそらく君自身のことなんだろうね?(笑)
本当に理解しているなら、こんな御託を並べている暇に、論理的で明晰な解説を実行しているはずだからね。
それができないからといって八つ当たりするのは勘弁してもらえまいか?(笑)

お礼日時:2022/01/22 22:52

「源太が平次に本を貸した。

」で「源太が」が中核にあるとは思えません。「平次に」の位置付けが低いとは断定できないでしょう。
実際、「源太が本を貸した。」でも、「平次に本を貸した。」でも、文は成立します。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>「源太が平次に本を貸した。」で「源太が」が中核にあるとは思えません。「平次に」の位置付けが低いとは断定できないでしょう。

貴重なご見解をありがとうございます。

当方としては、「貸した」という《述語と二項対立をなす主格項目》であるところの「源太」が主語であるという立場ですが、見解の相違ということになるでしょうね。
因みに、これは日本語の「述語一本建て」を主張する三上にとっても、実は、肯定すべき論理ではないかと思うのですがね。
「貸した」という述語の主格に最重点をおいていることになりますから。
しかし、三上は、そんなの厚かましいわい。せめて「主席補語」で我慢しておけ、というスタンスのようですが、この意味で「平次に」という補語と同等に見ているわけではなさそうです。

お礼日時:2022/01/22 22:18

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