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戦争は、国と国との争い。
その切っ掛けは領土。
そして、その理由にイデオロギーが持ち込まれる。

領土に「イデオロギー」は関係ないのでは?

請う、ご意見。
質問の欠点、にも。

私、バカだから。

A 回答 (8件)

戦争は、国と国との争い。


その切っ掛けは領土。
  ↑
歴史的には資源と領土ですね。
昔は、30年戦争なんてのがありましたが、
これをきっかけに、戦争は資源と領土
になりました。



そして、その理由にイデオロギーが持ち込まれる。
  ↑
戦争の口実が資源と領土では、人民が
納得しません。
それで、もっともらしい口実を設けるのです。

徳川家康は、鐘に刻まれた文字を理由に
戦争を始めました。

イラク戦争は、ありもしない大量破壊兵器を
口実にしました。

第二次大戦は、ファッシズムから自由を
守る為、なんて口実が作られました。



領土に「イデオロギー」は関係ないのでは?
 ↑
口実ですから何でもあり
なのです。
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この回答へのお礼

回答、有り難うございました。

領土は資源につながる、と云う事に気付きました。

イデオロギーは、正当化の為の“口実”なのですね。

お礼日時:2022/03/23 16:57



https://www.youtube.com/watch?v=AnQwKN1N6J8&list …

これが北方領土の現実。
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★ (№6お礼欄)


イデオロギーは思考の産物ですが、宗教は考えなくても成り立つ様に思います。

☆ 宗教の教典――そこからオシへが出る――も 思考の産物です。

オシへは 思考の以前に神への信仰があると言うとすれば イデオロギーの場合も 思想をつむぐときにその背景に 《無い神》への信仰があります。




また 宗教は オシへを――思考してみるとしても――あまり検証せずにそのまま受け留めるというとすれば イデオロギーにおいても その思想はただしい・科学として間違いがないということで そのまま受け留めます。


いづれにしても オシへや思想について 思い入れや思い込みが生じます。

それは 一般に宗教の特徴ですが イデオロギーにも同じ特徴が生まれると思います。
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№5です。




《考える》は 非主体的に考えるといったことは 無いです。
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この回答へのお礼

イデオロギーは思考の産物ですが、宗教は考えなくても成り立つ様に思います。

お礼日時:2022/03/25 07:02

★ (№4お礼欄) ~~~~~~~~~~


イデオロギーは、宗教のオシエとは違うのではないでしょうか。

宗教と思想が同じ、とは思えません。
宗教のオシエには“主体性”がなくても、思想には、主体性が不可欠ですから。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ 次のように捉えます。


      《信じる》・・・《考える》=⇒入れ込み
_________________________
宗 教  :《有る神》---オシへ――オシへの神格化
イデオロギ:《無い神》---思 想――思想の神格化
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イデオロギーというのは 色眼鏡を掛けずに捉えるならば 思想のことです。

生活態度です。

観念体系と訳しますが 世界観と捉えるならば ふつうに言うところの思想です。

そしてこの思想が オシへに成り得ます。ええ 宗教に言うオシへに。



宗教は 一般に神をかかげていますが オシへと見なされた思想つまりいわゆるイデオロギーの場合は 神のないかたちです。


すなわち 単純にどちらも同じです。

《有る神》派か《無い神》派かに分かれるに過ぎず ともにオシへである思想を――なぜか――神としてあがめ必ず守るという体制を構築したなら もう他人(ひと)の言うことには耳を貸さないタコツボ地獄の宗教となります。




ええ。おっしゃるように 領土関係でもそうなります。

たとえばつまり《あそこに見える島々は もともと――どういう〈もともと〉なのでしょうか であるにもかかわらず そもそもの初めから―― アマテラスオホミカミの知らしめす国であるぞ。言向け和(やは)して上げなさい》という《領土にかんするオシへ》を垂れたもうようになるらしい。




――国境(‐クライナ)のあたり(ウ‐)の国では 昔から同じスラヴ語の聖書を保ちまなんできたハラカラ(同胞)なる人たちであるのに なぜかわれわれロシーアでは専制政治がつづくのに対して あそこは民主主義ではないか。ああ うらやましい。あいつら おれたちを差し置いてたのしそうだ。いっちょういぢめてやるべえーか。・・・

☆ といった動機ではないかという見方もあるようです。(新聞のオピニオンで読んだ記憶・・・)。






以下 余談です。

ウクライナの人びとは ドンパチに対してドンパチで応じました。

オホヤシマの国は 数年にわたる長い外交交渉の末 武器をかざしてタカマノハラから交渉係(タケミカヅチ:建御雷神)がやって来るにおよんで 民主的大統領たるオホクニヌシが 二人の息子に考えを聞いた。

コトシロヌシは非戦論を採った。タケミナカタは 主戦論。

オホクニヌシは 《くにゆづり》策をえらんだ。

オホクニヌシは スサノヲ(じつは アマテラスの実の弟)の子孫ですから そのクニユヅリなる歴史的事件以来 くにいへ(国家)は 《スサノヲ市民の一階 - アマテラス公民のお二階》なるニ階建ての構造を形成するに到りました。とさ。


どちらも 双方が身内関係だったようです。


キッカケは あんがい兄弟どうしだから・・・かも。わたしは 能天気だから そんなふうに考えます。
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この回答へのお礼

イデオロギーは、宗教のオシエとは違うのではないでしょうか。

宗教と思想が同じ、とは思えません。
宗教のオシエには“主体性”がなくても、思想には、主体性が不可欠ですから。

請う、再回答を。

お礼日時:2022/03/24 22:38

鋭い指摘だと思います。



イデオロギー・思想と人間の関係…

人間は思想の為に命を投げ出す場合がある。
イデオロギーの対立は、命がけになる場合がある。

おそらく、イデオロギーは、信仰心そのもの、あるいはそれに近い人間の心情と結びつくのであろうと思う。

宗教戦争の原因は、その人間の心情が刺激されているのは間違いないと思う。
また、宗教とは関係のない戦争は、国家の利益と指導者の野心と、その心情が絡み合っているのだろうと思います。

「その心情」というのが何ものか、まだよくわかりません。
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この回答へのお礼

“その心情”には「正義」が、バックボーンとして有るのではないかと思いました。

回答、有り難うございます。

お礼日時:2022/03/23 20:29

こうした考えは、19世紀から20世紀の半ばくらいまでで、第2次世界大戦の悲惨さを身をもって知った多くの人々は、領土の拡張のために戦争という手段を執らないことにし、そのために様々な条約などを結んできたのだが、ロシアといういかれた国家だけが領土の拡張に固執し続けてきた。


それでもエリツインというのが大統領になったときに、それぞれの連邦国家だった国々の独立を認めたのだが、プーチンというKGBの工作員だったという殺人鬼が、このエリツインの判断を地政学的な悲劇と言って取り返しのつかない間違いだったと言い続けてきた。
そして、多くの馬鹿なロシア人もこのプーチンの考えに賛同してきた。
そして今、プーチンはエリツインの間違いを正そうとして、ウクライナを侵略したのだが、これは世界を敵に回すことになったわけで、明らかな大失敗だ。
これまでも様々な歴史に残る独裁者によって多くの人々が苦しんできたのだが、プーチンが最後となることだろう。
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この回答へのお礼

回答有り難うございました。

習近平に付いての考えも、聞かせていただけませんか。

お礼日時:2022/03/23 16:53

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