人生は限られているのだから、問いを持つ場合はそれを吟味しなければならないと思います。
問うに値する真実の問いを、持てるならば待ったほうが良いと思います。
問いを持つということは、それだけ高尚というか、非常に重要なことの様に思うのですが、他の人の持つ重要な問いを参考に、重要な問いとはどの様なものかを少しでも知っておきたいと思います。
皆様の持つ重要な問いとは何ですか?
よろしくお願いします。
私も今まで問いは持って来ましたが、どれも既出の、いわば使い古された問いしか立ててこなかった様に思います。
真に重要な問いを立てるだけの知性や探究心が顕れてないのだと思います。
急ぎの質問ではないので、お気が向いたときにでもご回答ください。重要な問いの片鱗でも掴めたらと思います。
A 回答 (17件中1~10件)
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No.20
- 回答日時:
> 独自性のあることは私はよいことだと思います。
それを外そうとは思わないという強固な意志ならば、致し方ないことです。
「よいこと」の判断基準も不明確としか私には思えないです。
「独自性のあることは私はよいことだと思います」は、「私は独自性を追い求める」の宣言の別表現形でしかないように、私には感じられます。
もう統合失調であると診断され、自分でもそれを自認する人が、「私は独自性を追い求める」を続行すれば、常軌を逸する・統合失調の悪化を招くという危険性が増すと思います。
> 独自性と言うのは創造の意欲で在り、自己創造の推進力であると思います。
「自己創造」で何をイメージしているのか分かりません。 他人から求められて動くのではなく、自発的に行動し、考えることで、生きている実感を得られるというようなことを思っているのであれば、前後が逆です。 意欲があるので行動に力が生まれ、自分のことが好きになるのです。その結果、ユニークであろうが、そっくりだろうが、自分が感じられるということです。
意欲の元にするのはなんでも良いのですが、《精神が正常に機能して、人生を全う出来れば基本的には、大きな目的としてはそれで良い》と考えるのであれば、独自性・ユニークな自分を求めるのは止めるべきでしょう。
就業など(自分と社会との関係で工夫や努力や運、健康、人間関係など多様な要素が絡んでくること)に関連して自発的に目標を立てることができれば、それに越したことはなさそうに思います。
再三のご回答ありがとうございます。
狂気の世界にも、ある種の法則がありますが、それは私の言うユニークさとは異なります。夢のイメージが解体した様相を見せながらも、無意識において意味を持つ様なことと似ているでしょうか。
一方でユニークさとは、生き方そのものの様に私には思えるのです。雷に打たれた樹木が、また芽吹くような時、その生命力、意志、その様なものは生き方、その様相にユニークさをもたらすのだと思います。ユニークさはその意味で、挫けてもちゃんと自分を発揮できているかどうかの指標に過ぎないのかも知れません。
ともあれ、再三のご忠告も含めたご回答をありがとうございました。
改めて感謝いたします。
No.18
- 回答日時:
> 私も夢想家で統合失調症を患っておりますが、私がユニークさにこだわっているように見えるのは、例に挙げたようなことに似ているのです。
それなら致し方ないのかもしれません。 ただ、統合失調でもいつも失調状態であるのではなく、ほぼ普通の思考ができる期間や状態があるハズです。
金継ぎはユニークさをねらって行う修復行為ではないです。旧に復することを目的に手法として漆と金粉を使っているにすぎません。故意に器を割って金継ぎをすることも可能ですが、割れ方は偶然の結果でしかないです。
> 修復しようと思うならば、その修復方法はどうしても独自性のあるものになります。
修復の着手順や作業の細部には人によって異なることがあるにしても、そのような違いを独自性とは言いません。 ユニークの追求とも関係ないです。修復後に景色を楽しむこともできますが、水石を鑑賞したり、盆栽を楽しむ、生け花をいけるのと、基本的に同じです。
塑像、彫刻、鋳物、絵画であれば、ひたすらユニークを目指す行為も可能ですが、それで美術品として鑑賞できるものができることはほとんどないでしょう。その人の元の美感の具現化が結果として、他人からみればユニークに見えるというのと、ユニークさを求めるのとは、やっていることも目指すものも違います。 奇を衒うのは、ただの自己顕示欲の発症でしかないです。
> 修復後に精神が正常に機能して、人生を全う出来れば基本的には、大きな目的としてはそれで良いでしょう。
「ユニークを追求し続けることで、精神が正常に機能するような方向に向かいやすくなる」ということは期待しにくいです。
単に、常軌を逸する、自己顕示ばかりがひどくなる、統合失調の悪化を招くという危険性が増すと思います。
{精神・思考が、「普通に近い機能になっていく」}ことを大きな目標にするのであれば、薬物療法を続け、その上で、「ルールに基づいてやる作業やスポーツ、遊びを繰り返して、ルール上で達成感を得る」ことに努める、さらに状況が許すのであれば、SSTや心理教育訓練を受ける方がイイです。
ご回答ありがとうございます。
>金継ぎはユニークさをねらって行う修復行為ではないです。
もちろん本意はそうです。しかし、それだけでもないはずです。金を使うと言う事は、痕跡を装飾する目的があるということだと思います。
>修復の着手順や作業の細部には人によって異なることがあるにしても、そのような違いを独自性とは言いません。 ユニークの追求とも関係ないです。
私はそうは思いません。痕跡とは人生の経歴そのものです。器の歴史そのものです。その傷痕が偶然によって生じたのか因縁によって生じたのか必然によって生じたのかは関係ありません。私が病気になったというのも人生の経歴そのものです。事故に遭った、けがをした、大切な誰かを失い心に傷を負った、それらすべてはその人の人生の中では特別な事として記憶に刻まれます。
前回お礼で、”固有の痛みを共有する”と申し上げましたが、それが人間の独自性というものだとも思います。
>奇を衒うのは、ただの自己顕示欲の発症でしかないです。
私は何人かクリエイターを知っていて、友人も居りますが、皆独自性を追求されています。誰かの真似、踏襲、既出のものは作品とはならず習作の一種となります。素晴らしい模刻があったとして、それは美術品にはなるが芸術品には成らないようなものです。
ご回答者様は、少しお考えが行きすぎているのではないかと思います。私の発言に対するイメージが、ご自身の中で勝手に膨らんでいる印象を受けました。私は奇をてらっているとか、奇をてらいたいのではありません。それが過ぎれば狂人になるだけの事です。
私にとってユニークさとは、必然の代償、あるいは困難であるとお伝えしました通りです。
まるで普通のことが難しくなるという現実をお伝えするのは難しいことです。感覚的にも共感していただくことは期待できないかも知れません。
捕捉に続く。
No.17
- 回答日時:
> 今一度、自分自身に問うべきことは、ユニークさを発揮して生きてゆくという諦めに似た決意をなさなければならない、ということだ。
人生、一人一人のものですから、それでもイイのでしょう。
ですが、私にしてみると、それほどまでにユニークさを発揮したいと言う気持が理解できないです。
決意まで、諦めに似た決意までして、ユニークさを求めずとも、そこらの普通の範囲でも、イイとしか、私には思えないです。
> 学生時代が終わり、学問の基礎的な知識を修養した後は、研究という独自性のある学問探究が始まる様な感じです。
あるステージから、別のステージに上がった気分のときには、新たな課題があるように私も感じます。 ですが、多くの場合、既にそのステージの課題は、私が登壇する前から、多くの登壇者にとっても課題であったものと、ほとんど同様のものであって、《独自性》など私の場合にはなかったと自分では思っているし、他のものにとっても同様だろうと思います。
大学で基礎から専門に、大学院に進む、研究所に入所するのでも、たいてい同じです。 「独自性」をアピールする人もいるようですが、実際には先人の研究の検証を続ける中で、チコッと何かを見つけたり、検討できれば、かなり成功の部類です。
> 誰でも、いつでも、どこででも思いつく様な問いは、人生の前半においては重要だとは思うのですが、それらの問いを超えたところでは、また別の問いとその立て方があり、それはユニークなものである、何故ならその人はすでに(普遍的問いを乗り越えたことで)独自の人生を歩んでいるから。
超えるも超えないも、世の中にはいろんな人が実に多様なことを思い、調べ、検討しています。 中には、「問う」ばかりで、「問うた結果で何を得ようとしているか」をすっかり失念していたり、自分でも内容のより不明なフレーズで締め括って自得・悟ったような気分に酔う人もいます。 精神障害や狂信者に近くなってしまう人もいます。 問いと問いの立て方に目が向き、何を得るための問いであるか、その問い立てが、思考や推論をより確実なものにするかの検討の視点を欠いていたら、「問う・問い立てのマスタベーション」に陥ります。
{(普遍的問いを乗り越えたことで)独自の人生を歩んでいる}では、精神障害や狂信者に近いヒトの状態を表現しているのと、大きな変わりがないでしょう。
基本は、先人、先のプレーヤーが、どのような課題にどのように挑み、どのような結果を得ているのかを、少しは見て、それを参考に、自分でリプレイすることです。 その中に、このようなやり方ではないやり方に自分で気付いたり、先人が見逃していると感じた課題を見つけたら、自分なりにそこを掘り下げることです。
夢想家や狂信者になりたいのであれば、方法は、ただイマジネーションを掻き立てれば良いでしょうが、限りある人生だと思っているのであれば、イマジネーションの世界に遊ぶことに残りの人生を費やすよりは、身体・肉体も使う、知的思考力も使う 感性・感覚が喜べることを、《現実世界と切り結ぶ》ことを必須の条件で探した方が、楽しく、充実もできると思います。
ご回答ありがとうございます。
金継ぎと言う陶器などの修復方法をご存じでしょうか?
割れた陶器を継いで修復するのですが、その継いだ痕跡も装飾にするために金色にするのです。すると、割れる前よりも修復後の方が価値が上がったりすることさえあるのです。それが見事に修復されたからです。それは歪さとは認識されない、人間というものの思いやりややさしさに溢れた、美術品を超えたものなのです。
私も夢想家で統合失調症を患っておりますが、私がユニークさにこだわっているように見えるのは、例に挙げたようなことに似ているのです。一度壊れた精神を修復するのは大変です。それは複雑で、しかも大雑把な類型は在るにせよ、その壊れたものや壊れ方に関して研究も最中であり、修復しようと思うならば、その修復方法はどうしても独自性のあるものになります。
つまりユニークさとは私の場合には、必然に現れる代償、困難のようなものです。修復後に精神が正常に機能して、人生を全う出来れば基本的には、大きな目的としてはそれで良いでしょう。
また人は、往々にして、類型や典型はあるにせよ、それぞれに自己を確立していく中で、大なり小なりユニークさを必然に獲得していくはずではないでしょうか。その人なりの人生、その人なりの問い、その人なりの答えがあるはずでしょう。そしてそれは、普遍性と言うのとは少し違う、また広範な共感を呼びえるものであり、人間性ともいうべきものなのだと私は思います。
何故なら人生とは、否応なくも傷つき傷つけながら進むものであり、その傷も癒し癒されながらまた進むものであるからです。
過去の人々も、現在の人々も、未来の人々も、それぞれの”固有の痛みを共に知って”、生きていくものだと思います。
No.16
- 回答日時:
★ (補足コメント) ユニークさ
☆ これは 学問において きわめて稀れだと思います。
答えとしては いざ知らず 問いとしては(主題としてかかげるものは) あたらしいものがほとんど ないのでは?
>答えとしては いざ知らず 問いとしては(主題としてかかげるものは) あたらしいものがほとんど ないのでは?
少なくとも巷で聞くところにはあまりないように感じます。しかし、巷で聞くところのものを正しく聞けているか、その発信者の意図を汲めているかが定かではないので、何とも言えません。
学問界隈については、そこに属していないのでよく分かりませんが、印象としては、どうも世間受けを狙ったような題で本を書かないと売れないと言う事もあるのか、ユニークさはあまり見かけないですね。内実はこれもまた分からないことですが。
大衆本の、ニーチェの解説本とか、嫌われる勇気、みたいなものは、あまりユニークさは感じません。その発言内容は、意外性、というにとどまると思います。
ユニークな問いをお持ちの方は是非教えていただきたいですね。
その着眼点や切り口、深さなど、僅かでも良いので知りたいと思います。
一つ、ユニークさを、まぐれでは無く創出するのに必要なものがあることに気がつきました。
それは、自分の言葉を確立すると言う事です。
勿論それは、他人に通じないと言う意味ではありません。
例えば、大バッハは大バッハの言葉で作曲していると見ます。
そう思って聴くと、バッハらしい珠玉の名曲が、数多く生まれる根拠に、バッハの言葉が在るのがうすら見えてきます。
No.15
- 回答日時:
★ (№14お礼欄)
問いにおける他者との対話が重要で、問いの内容はさほど重要ではないと言うご意見と受け取りました。
☆ いいえ。違います。《問いの内容》についても 《個人的であり個別的に重要性が成り立つ》からです。
☆☆ (№14) ~~~~~~~~~~~~~
《何であっても疑問に思ったことを問えばよい》
とにかく――高尚・低俗に関係なく――問うこと これが 《重要な問い》です。
《重要性は 個人的・個別的である》なのです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ただし確かに 次のようにも言いました。:
☆☆ (№4)
問いの内容は 二の次になります。《高尚で重要な・問うに値する真実な問い》かどうかは 二の次だという意味です。
☆ すなわち 問いとその答えの内容がいかなるものであっても――問おうと思って問うなら―― 《重要な問い》についての大前提をみたしている。
と言っているのであって 重要性がこのような《対話の継続性ということに も・っ・ぱ・ら(他を排除して) 基礎づけられている》とは言っていません。
問いの内容も 《個人的に個別的に》重要性にかかわります。
次の補足要求にもお答えし得たかと思います。
★ するとその対話は、対話と言うコミュニケーションが目的だと言うことでよろしいでしょうか。問いを深めたり解答を出すことが目的ではなく。
☆ 《問いを深めたり解答を出すこと》も 《個人的に個別的に》重要性にかかわります。
ということは おのおの主観真実が鍵をにぎるものと考えます。
ということは――最初の段階でもわたしの回答の中で《ふくみ》を持っていたと言いたいのですが―― 自己の関心を離れて抽象的に《〈重要な問い〉とは何か》を問い求めたとしても さほど意味がない。となります。
すなわち もしいまこのことが あほなさんに分かっていたとするなら やはりすでに《重要な問いとは?》についての答えが出ていた(出ていて 質問している)となるものと思いますから。
ご自分に関心があるなら 答えを知っている。
関心がないなら とにかく疑問に思ったことを問えばよい。ひとまづそのことが 重要な問いと成る。と。
ある種の心強さを感じるお答えをいただけたかなと思います。
先程のお礼では失礼致しました。
ユニークさは対話の中で現出する可能性も高いと思われ、対話の重要性については了解いたしました。
ありがとうございます。
精進したいと思います。
No.14
- 回答日時:
また 戻ってまいりました。
どうぞよろしく。◆ (№13お礼欄)
私自身、なかなか像が掴めないことについて質問しているので(理解がはっきりしていれば質問はしない)、回答者さんが、何を問うてるのかわからなくなるのは無理からぬことだとは思います。
☆ ほんとうにこのようなのでしたら 申し上げます。
と言いましても すでに成した書き込みのままなのですが。
☆☆ (№4) ~~~~~~~~~~~~~~~~
☆☆ (№2)
9.
あらためて言いかえるなら 問いの重要性とは 人間が
社会的動物だと言われるその社会性(双方向性)という
ことが とにもかくにも問答の成り立つための大前提に
なっている。これだと思います。
☆ 問いに対して答え返せばよい という意味です。答えに対して ひとまづ結着とするか・または一たん保留とするかでなければ とにかく互いに応答をつづける。これです。
ですから 問いの内容は 二の次になります。《高尚で重要な・問うに値する真実な問い》かどうかは 二の次だという意味です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
すなわち
☆☆ 問いに対して答え返せばよい
☆ ということは 《何であっても疑問に思ったことを問えばよい》となります。
とにかく――高尚・低俗に関係なく――問うこと これが 《重要な問い》です。
《重要性は 個人的・個別的である》なのです。
この命題が この上なくとうとい智慧のさとりについてひとつの内容を成すものです。
問いにおける他者との対話が重要で、問いの内容はさほど重要ではないと言うご意見と受け取りました。
するとその対話は、対話と言うコミュニケーションが目的だと言うことでよろしいでしょうか。問いを深めたり解答を出すことが目的ではなく。
No.13
- 回答日時:
> 私の以前の思考と探求は、ハイハイする赤ちゃんの様なもので、そこから二足歩行が出来る様になったくらいの成長があったことは個人的には注目すべきことなのですが、それは人間の成長一般から見れば当たり前のことであり、世間から見れば、特段取り立てるほどのことでもない、ということなのです。
> そして、この当たり前の世界においては、問うに値する重要な問いとは一体なんであろう?と言うのがこの設問です。
「問うに値する重要な問い」は、そこら中、かなり頻出します。 トイレはどこにあると緊急かつ重要であるときやら、財布はどこかでも、刺身醤油はあったか?でも、 当たり前の世界でも、重要な問いで、なんとしても明らかに早くしたいことは多いです。 10~20で限定できるほど「問うに値する重要な問い」を絞り込むのは無理です。
高齢が要因であるのか、深酒や多忙、認知症が関係しているのか、脳の機能レベルそのものに原因があるのかも問いの中に含まれるのかもしれませんが、記憶の怪しさで『あれはどこ、あれ何?、あれれ?』という問いは、中高齢の場合、「問うに値する重要な問い」ですが、多くの場合、その原因を追及する問いはさほど重要視されないし、追求しても意味のない/効果の得られない/意義のない問いだとされます。
「問うに値する重要な問い」というのは、切迫性と即時効用が得られる問いです。
> 意味があると思っていたものが、人生の経過の中で、まったく水泡に帰す場合は考えられます。
そのときを過ぎれば、切迫性も、効用性も失われるのですから、「問うに値する重要な問い」が次々と変わっていくのは当然です。 水のあぶくのようなものというのが正しい認識です。
> 真実と思っていたものがそうではなかった、という場合です。その場合、思いの限界というものを吟味して、思いのその不確定さに左右されない問いを見出すべきと私は考えます。人生をフラフラと盲目的に過ごさないためにです。
これまでの人生は、「フラフラと盲目的に過ごしたもの」でしたか。 そうお考えならば、何かの目的を持つのも対策にナルでしょう。 ふらふらと巡り会ったゲームやパズルの難題に半年、1年興じても、金儲けに意を注いでも、古文書解読や海外旅行先23ヵ国を目指しても、なんでもイイです。 自分で選んだものならそれを目的に生きてるつもりでやる気を掻き立てれば、人生をフラフラと盲目的に過ごしたとはならないです。
> これは、他者と共有するための客観性ではなく、思いの限界に影響されないという客観性と言えそうです。
目的や意義の観を他者と共有する必要などないでしょう。 もちろん、誰かと共有していることを重視してもイイです。 主観的な満足で充分でしょう。
《思いの限界に影響されないという客観性》…… なんのことを言っているのか、なにを述べよう、表現しようとされているのか、このフレーズから推定できません。
~~~~~~ ヴィトゲンシュタイン ~~~~~~~~
語りうること以外は,何も語らぬこと。 自然科学の命題以外は
――それゆえ哲学とは関係のないこと以外は――, 何も語らぬこと。
そして,誰か形而上学的なことを語ろうとする人がいれば,
そのたびに あなたは,
その命題のこれこれの記号にいかなる意味も与えていない,と指摘する。
これが,本来の正しい哲学の方法に他ならない。
☆☆ この方法は,その人を満足させないだろう。 ☆☆
――彼は,哲学を教えられている気がしないであろう。――
☆☆ しかしこれこそが,唯一厳格に正しい方法なのである。 ☆☆
世界の意義は世界の外になければならない。
世界の中ではすべてはあるようにあり、すべては起こるように起こる。
世界の中には価値は存在しない。
語りえぬものについては、沈黙せねばならない。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
今の関心事、今の不都合、今の欲求をこそ、思考し、問い、追求すべきことでしょう。 それなくしては、人生などあっても空虚でしかないでしょう。
今の関心ごとや欲求を追求することと、問うに値する重要な事柄、真実の問いとは何かを知ろうとすることは別に矛盾はしていないと思うのですが。
私自身、なかなか像が掴めないことについて質問しているので(理解がはっきりしていれば質問はしない)、回答者さんが、何を問うてるのかわからなくなるのは無理からぬことだとは思います。
No.12
- 回答日時:
穴さんおはようございます。
『説得力を修辞と論理に分けられますか?』https://oshiete.goo.ne.jp/qa/13084402.htmlです。問いは何ですか?と問うのは meta いです。問いに答えようとすることと問いを分かろうとすることがあります。この問いは重要ではないので問いかけるなと言いたい相手があなたにいますか?『人間にとってほんとーに大事なことは神でも仏でもなく「真実」である』https://oshiete.goo.ne.jp/qa/13095033.htmlさんがいます。真実の問いに2つの読みがあります。前者は何が真実か問うことです。真実が名詞です。後者は問いが正しいものであることです。真実が形容詞です。私が回答しているこの質問は重要な問いでしょうか?真実の問いでしょうか?それらはなぜでしょうか?
>後者は問いが正しいものであることです。
ご回答ありがとうございます。
私の問いたいことは、こちらに近いです。ニュアンスとしては、真実とはなにかではなく、正しい問いとは何か?真実が形容詞の方ですね。
整理していただきありがとうございます。
No.11
- 回答日時:
No.8のharu27ですが
人間存在について今哲学界ではどの様な扱いになっているのかが疑問です。
我々が人間である以上人間の事とその存在の事ははっきりさせなくては
人権や世界の諸問題についても足がかりが出来ません
人間がこれまで生きて来たこと、これからどうなっていくのか
人間としても意志しなければなりません。
我々人間が存在する理由も分かってくることでしょう。
足がかりと言うと、地道に積み重ねていく確かな根拠、のようなことかと思いますが、人間存在に関して地道に積み重ねていくとはいったいどのようなことになるのかと、思いました。
人間存在の具体のところに、重要な問いの片鱗があるようにも思います。ただ、通り一遍等のやり方ではその問いは切り取れないようにも感じます。
No.10
- 回答日時:
№9のお礼欄 拝読しました。
やはり一度 ううーんとうなって反応するなら それはあまりにも卑下なさっている となります。
勝手に退化しすぎです。
でも 何か不思議な体験をなさったのかも知れない。と思うと ひとまづは 静観させてもらうよりほかない とは考えました。
このカテにあって 見守るということにさせてもらいます。どうぞ自由に となりました。また機会がありましたら・・・。
卑下しすぎている。それはそうかもしれませんね。しかし、今の私にはこれくらいの自己認識でちょうど良い気もするのです。
お気遣いいただきありがとうございます。
ではまた。
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皆さんのご回答をいただいている間に、重要な問いが持つ特質について、私が思い当たる節が出て参りましたので追加しておきます。
ユニークさ と言うものが、重要な問いにはあるのでないか?
たとえ普遍性を備えていても、ありがちな思考パターンによって導出された問い、
例えば、人生の意味、愛とは何か、宇宙の始まりと終わり、時間とは何か、存在とは何か、如何に生きるべきか、徳とは何か、等
誰でも、いつでも、どこででも思いつく様な問いは、人生の前半においては重要だとは思うのですが、それらの問いを超えたところでは、また別の問いとその立て方があり、それはユニークなものである、何故ならその人はすでに(普遍的問いを乗り越えたことで)独自の人生を歩んでいるから。
例えば学生時代が終わり、学問の基礎的な知識を修養した後は、研究という独自性のある学問探究が始まる様な感じです。
今改めて自分自身に問いたいことが出てまいりましたので、メモも兼ねて一度ご報告しておきたいと思います。
今一度、自分自身に問うべきことは、ユニークさを発揮して生きてゆくという諦めに似た決意をなさなければならない、ということだ。
更にメモを残します
自分の言葉を確立すると言う事は、意志を持つと言うことか
No.18様へ
お礼のつづき
>薬物療法を続け、その上で、「ルールに基づいてやる作業やスポーツ、遊びを繰り返して、ルール上で達成感を得る」ことに努める、さらに状況が許すのであれば、SSTや心理教育訓練を受ける方がイイです。
それは既にやっていたり検討を進めているところですが、独自性と言うのはどうしても視野を出ないですね。その独自の生き方、ルールと言うのが、全く他者に共有できない、共感出来ない類であればそれは独自性でも何でもないですが、独自性と言うのは創造の意欲で在り、自己創造の推進力であると思います。
その推進力を以て、病前よりも良い状態にもなり得ると思います。他者一般と同じになること、社会適応することと、精神の正常な機能を回復すると言う事は、外見的には似ていますが、本質の意味は異なると思います。
独自性のあることは私はよいことだと思います。