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戦で二刀流を使う人はいたのでしょうか?
元々、少ない流派と聞きますし、1体1で使う印象です。

A 回答 (5件)

サーブルなどは、小さな刀を


楯代わりにしていました。


日本刀でも
小さい方の刀を、楯代わりに
使う人はいたんじゃないでしょうか。

ちなみに宮本武蔵も、一対一では
二刀は使っていない、とされています。
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1対1の戦ではなく立合ですよね流派関係なく脇差しの受けはあるとおもうので最初からワザワザ抜いて流派名乗る意味無かっただけでは?


鞘受けも出来ますし
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基本的にはいません、理由は片手で人が切れるほど、刀は切れません!?


基本的に剣道のように両手で、押したり引いたりして切れるものです。

居合斬りで竹などを切りますが、これもまっすぐ当たらず斜めに弾くように切るので、切れているのです。

よほどの手首に力がないと難しいですね。
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実戦で使われた事例は有ります。


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桜田門外の変

1860年3月24日、江戸城桜田門外で水戸藩からの脱藩者17名と薩摩藩士1名が彦根藩の行列を襲撃、大老井伊直弼を暗殺した事件。

彦根藩の行列は総勢60人ばかりだった。彦根藩護衛の供侍たちは雨合羽を羽織り、刀の柄、鞘ともに袋をかけていたので、とっさの迎撃に出難く、それは襲撃側に有利な状況だった。

桜田門外の杵築藩邸の前[注釈 25]に差し掛かり、そこで浪士たちの襲撃を受けた。

先供が松平親良邸に近づくと、まず前衛を任された水戸浪士・森五六郎が駕籠訴を装って行列の供頭に近づいた。彦根藩士・日下部三郎右衛門はこれを制止し取り押さえに出たが、森は即座に斬りかかったため、日下部は面を割られ前のめりに突っ伏した。

森が護衛の注意を前方に引きつけた上で、水戸浪士・黒澤忠三郎(関鉄之介という異説もある)が合図のピストル[注釈 26]を駕籠めがけて発射した[22]。これを合図に浪士本隊による全方向からの駕籠への抜刀襲撃が開始された。

発射された弾丸によって、直弼は腰部から太腿にかけて銃創を負い、修錬した居合を発揮すべくもなく、動けなくなった。

襲撃に驚いた丸腰の駕籠かき、徒歩人足はもちろん、彦根藩士の多くも算を乱して遁走した[注釈 27][24]。

護衛の任にある彦根藩士たちは、雪の水分が柄を湿らせるのを避けるため、両刀に柄袋をかけており、これと鞘袋が邪魔してとっさに抜刀できなかった。

このため、鞘のままで抵抗したり、素手で刀を掴んだりして、指や耳を切り落とされるなどした[22]。

こうした防御者側に不利な形勢の中、彦根藩士も抵抗を行い、結果として襲撃者側も被害が拡大した。

二刀流の使い手として藩外にも知られていた彦根藩一の剣豪の河西忠左衛門は、冷静に合羽を脱ぎ捨てて柄袋を外し、襷をかけて刀を抜き、駕籠脇を守って浪士・稲田重蔵を倒し、さらなる襲撃を防いだ。

同じく駕籠脇の若い剣豪・永田太郎兵衛正備も二刀流で大奮戦し、襲撃者に重傷を負わせた。

しかし、河西が斬られて倒れ、永田も銃創により戦闘不能になる[注釈 28][注釈 29]。乱闘により、襲撃者側で当初戦闘に参加しない予定だった斎藤監物も、途中から戦闘に加わった。

やがて、護る者のいなくなった駕籠に、次々に襲撃者の刀が突き立てられた。まず稲田が刀を真っ直ぐにして一太刀、駕籠の扉に体当たりしながら駕籠を刺し抜いた[27]。続いて広岡、海後が続けざまに駕籠を突き刺した。この間、稲田は河西忠左衛門の反撃で討ち死にし、河西も遂に斃れた。

そして、有村が荒々しく駕籠の扉を開け放ち、虫の息となっていた直弼の髷を掴み駕籠から引きずり出した。直弼は既に血まみれで息も絶え絶えであったが、無意識に地面を這おうとした。有村が発した薬丸自顕流の猿叫(「キャアーッ」という気合い)とともに振り下ろした薩摩刀によって、直弼は斬首された。
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元々、合戦では刀より槍ですし、、


二刀流で有名な宮本武蔵でさえ、一番有名な巌流島の決闘の時、使ってないですし。
ほとんどゼロに近いのでは、
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